※これはイメージ先行ストーリです。
『あれ?』
面白い事がなくなって黒い死神が久しぶりに自分の故郷へ戻ってみると、そこには一面の荒れた大地が広がっていた。
いや、死神の故郷である死神界は元から殺風景な世界ではあった。だが、それでも多少なりとは景観と言うものが存在した。
にもかかわらず、人間界での面白い遊びが終わり仕方なく戻って来た死神が本来所属する世界は、人間界での夜空を彩る星も月もない真っ暗な空の下に、ただただ堅く乾いた砂の台地を横たえていたのである。
『えぇっと、ここ、何処だぁ?』
死神の本能 ――― そんなものが本当にあるかどうかは知らない ――― に導かれるまま死神界と人間界を繋ぐ天の穴を通りぬけ、長い長い石の階段を登って来た黒い死神は、そこにあるはずの人間界で言う所の廃墟のような岩壁群が何処にもないと知りただただ首を傾げた。
裸足の足の下でシャリッと砂が鳴るたび、大地の罅割れにさらさらと細かい砂粒が落ちて行く。
『おぉ~い、みんなぁ!いないのかぁ?』
記憶とは違う景色を奇妙に思いつつも特にこれと言った感想はない。死神の精神は至って平坦で好奇心や探究心と言ったものにも欠けているからだ。従って、自分の知らない景色に疑問を覚える事も恐怖を思える事もない。
ただ、長らく人間界にいた黒い死神だけは『退屈』を知り、自ら行動する事の有意義さを知り、この世界以外の何処かに死神が感じる以上の激しい『情感』と言うものが存在する事を知っていた。知っていたから、自分のいない間に何かおかしなことでも起きたのだろうか、と言う微かな疑問ぐらいは抱きはした。
『何だ何だぁ?皆してかくれんぼか?それとも俺みたいに人間界にでも行っちまったのか?』
そんな事有り得ないなと思いつつ、では何故誰もいないのかと少しだけ考える。
死神の数は人間とは比べ物にならないほど少ない。だが、黒い死神自身よく知らないが、死神界そのものは人間界より狭く小さいので、人口(?)密度はそれなりに高いらしい。その気になれば全部の死神と顔見知りになる事も可能だと聞いた気がする。それくらい小さな世界だから、ちょいと移動するだけで直ぐに誰か他の死神と出会う事が出来るのに、何故か今日は行けども行けども誰にも会わない。
少し上から見てみようかと思っても、以前と違って視界を遮るものが何一つ無い平坦な荒れ地になってしまったこの世界で、それは意味のない事なんじゃないかと思ったりしてみる。
『うわぁ~、マジで?マジで誰もいないってか?』
テクテク歩きながらキョロキョロ辺りを見回す。出て来た奈落の穴を思わせる人間界への出入り口以外、本当に何もない延々と続くまっ平らな世界。地平線というやつが360度広がるこの世界が、本当に自分の知っている死神界なのかと、漸くにして黒い死神は疑わしく思い出した。
『ラチがあかないな』
フイと空を見上げ肩甲骨の辺りに力を入れる。
そこから突然ニョキリと生えた貧相な黒い翼を広げ、一人ぼっちの黒い死神は上空へと飛び上った。歩いていては見つかるものも見つからないと、空から探す事にしたのだ。
何時もなら全く意識しない死神仲間を。記憶にある風景を。
しかし、やはり行けども飛べども世界はまっ平らに乾いていた。風すらなかった。
空は当然星も月も無く、ただただ黒かった。
『お?』
そうしてようやく見つけたのは歪な丸い物体。
『よし、幸先いいぞ!』
何が良いものか、と内心思いつつそこへ急降下した黒い死神は、降り立った拍子に舞い上がった砂粒に目を細めながら見慣れたそれを改めて眺めまわした。
それは間違いなく、死神界から人間界を観察する覗き穴、展望球だった。
自分の背丈より高いその物体の周りをグルリと回って、反対側に誰もいないことを確認し我知らず溜息をもらす。
溜息は人間界へ行って覚えた黒い死神の特技だ。
『ちぇっ、やっぱり誰もいない』
誰が聞いている訳でもないのに ――― その聞いてくれる誰かを探していた訳なのに ――― そう呟いて、彼は翼をひっこめ展望球にもたれかかった。
『あぁ、つまんねぇ。やっぱこっちより人間界の方が断然オモシロだな』
一人納得し何度も頷いて、人間界での暮らしを回想する。
懐かしかった。
つい先ほどの事なのに、何もかもが懐かしく思えた。
だから死神は体を起こし展望球の覗き穴から、そのずっとずっと下に広がる世界を覗きこんだ。
『月みたいな奴‥‥他にもいないかなぁ‥‥』
それは果たして禁断の名であったのか。
それとも死神にはただの餌の名前の一つであったのか。
けれど、耳まで裂けた黒い死神の口から漏れ出たその名は、何所か甘く優しい響きを含んでいた。
「その醜い顔、もう二度と見たくないと言ったはずですが‥‥」
穴から見えたのはあの白い色彩の、中途半端に猫背の白い子供。部屋いっぱいの玩具に囲まれ床に蹲り常に冷めた目で世界を見ているてんで面白味のない子供。
何故面白くないかと言えば、要するにその白い子供には大胆さがないからだ。
自尊心は計り知れないほど大きい癖に豪胆さからは程遠い、姑息でハイエナのような子供。自ら危険を冒そうとは決して思わない、むしろそれを『愚か』と嘲笑う頭でっかちな子供。それが黒い死神にはとても詰まらなかった。
『俺もそのつもりだったんだがな‥‥退屈で退屈で、我慢できなくなってなぁ』
「くだらない」
『くだらなくないだろ。お前があれを持っている限りは』
死神がそう言ってやると、白い子供はレゴブロックを手にしたまま、さも嫌そうにこちらを振り返った。
『隠してやがったんだな、デスノート』
「切れ端です」
『だが、デスノートには変わりない。名前を書き込めば簡単に人を殺せる』
「殺すのは犯罪者です。誰にも迷惑はかけていません」
『だったら‥‥やってる事はキラと同じじゃないか』
キラが ――― キラの正体は夜神月と言う日本人の青年だった ――― 殺したのも犯罪者だ。殺されて当然の、殺さなければ更に罪を犯したであろう野放しの犯罪者。刑務所に収監されていた犯罪者も殺したが、それはある意味税金を浮かせる行為だったとも言える。
「とんでもない。私はキラのように自分の正義を他人に押し付けるつもりはありません。殺人を裁きと称し見せしめにするつもりもありません」
『キラみたいに新世界の神になるつもりはないと?』
「それこそ下らない」
あぁ、こんな所が面白くないんだ、この子供は。
黒い死神は心中そう呟き足元のレゴブロックで作られた城を少しばかり壊してやった。
『つまり、お前が今やっている裁きは、あくまで自分の利益を追求するためのものなんだな?』
「裁きではないと言ったでしょ」
『じゃぁ、殺人』
「捜査をスムーズに遂行するために必要な処置です」
『昨日殺したのは警察の人間だったぞ?』
「私の捜査の邪魔をするからです」
『ちょっと先走っただけだろ。犯人側だった訳でもなし』
「無能者は何もしないか、私の言う通りにしていればいいのです。それを、功を焦って出しゃばって来るから‥‥‥あの男がいては捜査が進まないばかりか逆に被害が増えます」
『可哀そうにな』
「バカに同情は要りません」
利己的殺人だと隠しもしない子供に、一瞬それはそれで面白いかもしれないと思う。だが、その先には何もない。それでは何の楽しみもない。
また、一方的な力は物事の面白みを半分以下にしてしまう。やはり、ライバルとの駆け引きを見ている方が断然面白い。竜崎こと探偵Lとキラこと夜神月との対決を直ぐ傍で見て来た黒い死神には、一人勝ち状態の子供の行動は如何にも人間らしい身勝手な行為の一つでしかなかった。こんな人間ならウンザリするほど見て来た。
『あぁ‥‥やっぱりつまらない』
そう言ってこれ見よがしに肩を落とした死神は、『どうせ来たのならノートを1冊くれませんか?』と図々しく言って来た子供に自分のデスノートの切れ端を渡してやった。
「次来た時には林檎を用意しておきましょう」
『俺が林檎好きだって知ってたのか?』
「キラを撃った日本の刑事がそう言っていました」
『あぁ、マッツーか‥‥何考えてんだ?あいつ』
リンゴで買収される俺も俺か ――― そう笑って死神は白い子供の元から飛び立った。
再び長い石段を上がり死神界に戻ってみると、やはり其処には乾いた大地しかなかった。
何度覗いても、展望球から見えるのが白い子供だけだと悟った黒い死神は、その大地に翼を広げ仲間探しを再開した。
『おぉ~い!本当に誰もいないのかぁ~!?』
眼下に虚しく広がる砂の大地。ひび割れはあれども山も丘も谷もなく、身を隠す場所も寝屋とする穴倉もない。
『おっ?二つ目発見!』
暫くして何もなかった大地に丸い物体を発見した死神は翼休めも兼ねてその場所に降り立った。
『またあのくそ生意気で面白味のないガキだったらやだなぁ‥‥』
余りに変化のない己が世界に飽き飽きしていた死神は、何も考えないまま新しい展望球を覗きこんだ。
見えるのは人間界。死神にとっては餌が住む世界 ―――
「そうさ、俺が今のLだ」
大都会のど真ん中、とあるビルの最上階を占有する金髪の子供は不意に姿を現した黒い死神に気付くなり、ニヤリと唇を歪め残酷で乾いた笑い声を上げた。
『お前、死んだんじゃなかったのか?』
その顔の左半分に刻まれた傷跡には見覚えがあった。
金髪の子供の名はメロ。あの白い子供ニアと同じLの後継者の一人だ。
「死んだ?バカ言うなよ。だったら今ここにいる俺は幽霊か?」
『え~?何でだ?俺は清美にデスノートで殺されたって聞いたぞ』
「キヨミ?あぁ、高田清美、キラの女か」
フンと鼻で笑った子供は ――― 子供とはいっても、細い体つきに動作が荒っぽいせいでそう感じるだけで、実際には二十歳を過ぎているし頭の方は並の大人より狡賢い ――― 豪華な革張りのソファにふんぞり返るや手にした板チョコに白い歯を立てた。
「そいつは俺が流した偽の情報だ」
『うほっ?』
「あの女が隠し持っていたデスノートの切れ端を取り上げて、キラに嘘の連絡をさせたんだ。予定通りデスノートに俺の裁きを書きこんだってな」
『マジかよ!』
「その後、ちょっと目を離した隙に女が焼身自殺しちまって、まぁ、仕方ないかってそれにかこつけ俺も死んだことにしたのさ」
あれはキラの仕業だな、と嘯くメロの話に死神は不気味なギョロ目にあからさまな好奇心を浮かべた。
「後は、日本の刑事達を見張っているだけでよかった」
アメリカからずっと後を付けていたから、奴らが何処に潜伏しているかは知っていた。
そうしてニアとキラ、二代目Lの秘密会合を知り、隠れてこっそり様子を窺った。
『全然気付かなかったぞ!』
久々に聞く面白話に黒い死神は小躍りするほど喜びメロを促した。
「お前がキラを殺していなくなった後で、俺が倉庫にいた連中を全員殺した」
『どうやって?』
「手榴弾の2~3個も放り込んでやればイチコロさ」
出入り口のシャッターは下りていた。唯一開いていた扉は手榴弾を放り込むと同時に俺が閉めた。逃げる暇は与えなかった。手榴弾を外に投げ返す余裕も勿論与えなかった。爆発で死ななかった奴には俺がとどめを刺した。
口の中のチョコレートのほろ苦さを堪能しながら、唯一生き残った子供は勝ち誇ったように笑った。
「俺はニアに勝った」
『けど、キラを捕まえたのはあのガキだぜ?』
「だが、死んでしまえば負け組だ。生き残った者が勝利者だ」
その後メロはアメリカ政府に連絡を入れた。キラは追い詰められて自殺、アメリカ政府が欲しがったノートはキラの死と共に消滅、そう伝えた。キラの裁きはもう行われない、世界はキラの死の恐怖から脱したのだ、と。
勿論、それをアメリカ政府が全面的に信じた訳ではない。だが、実際キラの裁きはピタリと止まり、半年後にはICPOがキラの脅威が去った事を世界に発表した。
それ以降、メロはLを名乗るようになった。
「ものは相談だが、俺にもデスノートをくれないか?」
ノートはキラの死を確認したニアがその場で火を付け処分してしまった。あっという間の事だった。死のノートは永遠に失われた。それだけが心残りだとメロは笑う。
『生憎だが、俺は今自分の分のノートしか持ってないんだ。死神が人間にノートをやるにはあらかじめ二冊持ってないといけない、ってのが掟なんでな』
悪いな、と謝りながら自分の他に死神が見当たらないのに掟を守る必要があるのか?と一瞬考える。
だったら切れ端で良い、としつこく強請るメロに仕方なく何ページか切り取って与える。
『何に使うんだ?』
「そんなの、気に入らない奴を殺すために決まってるだろ」
世の中にはまだまだ俺の手が届かないいけ好かない連中がウジャウジャ居やがるからな ――― そう言ってデスノートの切れ端を大事にしまい込むメロの無邪気な残酷さに、まだ高校生だった頃の夜神月を思い出す。
月も時々子供っぽい行動を見せたけれど、どんなに黒い言葉を吐いても彼自身は真っ白に見えたのは何故だろう、と死神はぼんやりと思う。
「人間なんてのは所詮利己的な生き物なのさ。偽善者ぶったキラだって同じだ」
『キラは偽善者なのか?』
「だから表の自分を殺さなかったんだろ?仲間の刑事達を殺して雲隠れしちまえばニアに負ける事なんてなかったんだ。それをしなかったのは表の顔に未練があったから‥‥キラに、新世界の神になりたかったんなら、徹底的にやれってんだ」
これだから苦労知らずのお坊ちゃまは‥‥‥
その後、ワタリことロジャーから連絡が入り、メロはあっさりと死神からもキラからも興味を失った。
こいつの傍にいるのは結構オモシロかもしれないと思い始めていた死神は、メロがキラを嫌っている事にちょっとばかし腹が立ち何も言わずその場から飛び去った。
『月はお前達みたいに自分の嫌いな奴をデスノートで殺そうなんてしなかったぞ』
どんより曇った都会の空を飛びながら、そんな愚痴を零してみる。
だが、舞い戻った死神界にはやはりそれを聞いてくれる仲間はおらず、黒い死神はまた虚しい捜索を始めた。
三つ目の展望球は意外に早く見つかった。
『あれ?でも、最初に見た時ニアは生きてたぞ?』
そうして覗き込んだ三つ目の穴に映像が映り込む前に、死神は唐突に浮かんだ疑問を口にしてみる。
『あれ?あれ?』
俺は月と違って考えるのは苦手なんだ ――― 浮かんだ疑問は直ぐに消え、死神は三度目の人間界を食い入るように見降ろした。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――‥‥‥‥!!」
床一面、壁一面に衝撃吸収材が貼り付けられた白い部屋に、あの白い子供はいた。
服に太い革ベルトがついた白い服を着て、そのベルトで両手両足を戒められて、時おり床に歯を立てたり壁に頭をぶつけたりしながら狂ったように叫び続けている。
「本当に狂ってしまったんだ、ニアは‥‥」
その異常な光景を目撃した後、黒い死神は知り合いの刑事を探し出しニアの置かれた状況に説明を求めた。
「実は‥‥月君が死んだ後も、キラの裁きが止まらなくてな‥‥」
『は?』
某警備会社で警備員をしていた元刑事の相沢を捕まえ、仕事が終わるのを待って彼の一人暮らしのアパートへ同行する。言いにくそうに語る話に耳を傾ければ、キラ事件の後彼は警察を止め離婚したのだという。何故?と首を傾げる死神に、相沢はただ疲労の滲む溜息を漏らすだけだった。
「高田清美か魅上が書き溜めしておいた裁きだろうと、俺達も初めのうちは深く考えなかったんだが‥‥死んでしまった彼等では絶対知る事の出来ない新たな犯罪者まで裁かれるようになっては、もう疑わざるを得なくなってな‥‥ミサミサには事件の後も模木が監視に付いていた。彼女がキラである可能性は全くなかった。ならば‥‥」
ならば、夜神月は無実だったのではないかと ――――
そんな事を実に神妙な顔で口にした相沢に死神はますます首を傾げるばかり。
「それで、どっちなんだ?その‥‥月君は本当に‥‥」
『俺はただの傍観者だ。デスノートの持ち主に取り憑く死神‥‥夜神月がキラだと決めたのはお前達だろ?俺じゃぁない』
だが、死神は夜神月が真実キラであったことを告げようとは思わなかった。それは何故か死神自身にも判らない。ただ、その言葉に目の前の男の顔がますます青褪めて行くのが面白いとだけ思った。
「で、では、一応聞くが、月君が死んだ後の裁きをお前がやっていた、なんてことは‥‥」
『は?俺?どうして俺が?』
「いや、一応聞いてみただけだ‥‥」
『別に俺はキラの味方じゃないぞ。もちろん、お前達の味方でもない。死神が人間界に余計な手出しをするのは掟で禁じられてるんでな』
「デスノートを持ちこんだのは手出しにならないのか?」
『元は俺の、死神界のノートでも、人間界に落っことしちまったらもう人間界のノートだからな』
何だそれは、と相沢がさも嫌そうに顔を顰める。
「まぁいい。もう過去の事だ。とにかく、死神のお前は誰の味方でもない。それは確かなんだな?月君に未練がある訳でもないんだな?」
『ミレンって何だ?』
「もういい」
渋面を更に渋く忌々しげに歪め、疲れた中年男は疲れた溜息を吐く。
「とにかく、キラだったはずの月君が死んでも裁きが止まらなかったのは事実だ。裁きが続いているという事は、キラが何処かにいるということ。勿論キラは二人いた、とも考えたが、それだと月君のあの時の告白と矛盾する。月君のあれはどう聞いても単独犯の台詞だった‥‥」
それにニアも夜神月が主犯だと言った。他のキラは偽物、一時凌ぎでしかないと。
では何故、裁きは止まらない?
「俺達は‥‥SPKの連中も含めて、功を焦ったニアが月君をキラに仕立てるために、デスノートに月君の名前を書いたと結論付けるしかなかった。死の前の行動もノートに書き込んだ、と」
そう来たか!と、黒い死神は内心ワクワクしながら如何にも疲れた様子の相沢の次の言葉を待った。
「ニアはあの時、ジョバンニのお陰で本物のデスノートを手にしていたからな。誰も見ていない所で、あの日の倉庫での一幕をデスノートに書きこんだのだろう。月君の名前と共に‥‥」
『俺も月の名前をノートに書いたぜ?』
「それさえもニアの筋書きだったのだろう。演出だ。追い詰められ死神に助けを求めた月君を死神が見捨てる‥‥お前が月君の名前を書いた40秒後に心臓麻痺で死ぬ、とでも書いたのだろうさ。お前が月君の名をデスノートに書くよう持って行くくらいニアには訳なかっただろうからな」
そうだったのだろうか、と死神は心の中で首を傾げた。
2冊のデスノートに同じ人間の名前を書いた場合、先に名前を書いた方が優先される。だが、リュークはそこまでニアや相沢達に話していない。このルールを知っていたのは月だけだ。だが、そんなルールなど知らなくともノートに名前を書く事は出来る。死ぬ前の行動を詳しく書くことも。
「ニアは直ぐにキラの処刑を各国政府に通達した。そして正統二代目Lを名乗った。だが、キラの裁きは止まらなかった。半年経っても一年経ってもそれは続いた‥‥ニアは新たなキラが出現したのだと言った。俺達も初めはそうかもしれないと思ったが、犯行声明は全て偽物だった。そのうち松田が‥‥」
『マッツーが?』
「‥‥あいつが、俺達はニアに騙されたんだと言い出して‥‥」
『それで月は無実って話になったのか』
「もちろん、それだけじゃない。ただ、俺達は確信が欲しかった。俺達のしたことは間違っていなかった、という確信が‥‥」
思わずポロリと出た相沢の本音に死神は内心密かに眉を顰める。
結局自分の身が可愛かっただけなのかと。
「それで俺達は密かにSPKの連中と連絡を取りニアの身辺を探った‥‥そうして、見つけてしまったんだ‥‥」
『デスノートの切れ端?』
「‥‥あぁ」
最早意外とも思わないその内容にあのくそ生意気なガキらしいと黒い死神は可笑しそうに笑った。
「こっちにしてみたら笑い事じゃ済まされん。そこには確かに、キラに裁かれた犯罪者の名前が幾つかあったんだからな。他にも犯罪者以外の名前まで‥‥」
犯罪者は心臓麻痺、それ以外の人間は死の状況を書く事で心臓麻痺以外で死ぬように名前が書かれてあった。白紙の切れ端はまだ何枚かあり、レスター達は問答無用でそれを処分したと言う。
「その証拠を突きつけてもニアは自分がキラである事を否定した。奴の言い分通り以前はキラでなくとも今現在キラである事は間違いない。その確固たる証拠がある」
夜神月君がキラであるという証拠が、デスノートで操られていたかもしれない魅上の行動と、同じように操られていたかもしれない月君の告白だけ、というのとは大違いである。
「ニアはキラだ。いや、それ以上の人殺しだ‥‥キラという救世主の陰で、自分に都合の良い殺人を繰り返していたのだからな。だから俺達はアメリカ政府にニアの拘束を要請した。ニアはSPKによって捉えられ特殊刑務所に投獄された。SPKの連中も身分を剥奪された。ニアに騙されていたのか、それとも知ってて協力していたのか追及され‥‥今は何処でどうしているのか判らない。そうして、ニアが監禁された半月後にキラの裁きが止まった‥‥」
キラが完全にいなくなって一年が経った。もう疑う余地はない。
「月君はキラじゃなかった‥‥俺達はニアに騙され、無実の青年を死なせてしまったんだ‥‥‥」
そこまで言ってガクリと項垂れた中年男は惨めそのものだった。
「だから俺は警察を辞めたよ。模木も伊出も辞めた‥‥そして松田は‥‥」
『マッツーは?』
「‥‥夜神家の墓の前で自殺した」
当然だと、黒い死神は思った。
あの男はキラを支持するような事を口にしながら一時の感情に任せて月を撃ったのだ。しかも何発も。
『自殺するくらいなら、月を撃つなよ。最後まで信じてればよかったんだ』
「松田は次長を尊敬していた。その次長を死に追いやったキラを憎んでいた。だから月君が‥‥次長の実の息子である月君がキラだと知らされ、自分の感情を止める事が出来なかった。あの時俺達が止めなかったら、松田は本当に月君を殺していたかもしれない」
もっとも、その後すぐに死神に殺されたのだから同じ事だったかもしれないが‥‥‥
『けど、マッツーは月の事も尊敬してたんじゃないのか?』
「だからさ。だから余計に月君がキラである事が許せなかったんだ。人は信じていた者に裏切られるのを一番嫌う‥‥」
判らないなぁ、と唸る死神に相沢はただ苦い笑いを浮かべた。
「だが、その信頼を最初に裏切っていたのは俺達だった。ニアに騙され月君がキラではないかと疑った‥‥その結果が‥‥」
夜神月の死に責任を感じて松田桃太は自殺した。自殺する勇気のなかった男達は辞職の道を選んだ。相沢が職だけでなく家族も失ってしまったのは当然の結果だった。
あとに残ったのは苦い後悔と、終身刑を言い渡されたニアだけ ――― そのニアは世間から隔離された特殊刑務所で己が無実とキラ、夜神月への憎しみを叫び続け、ある日とうとう狂ってしまった。
ニアの周辺から遂にデスノートは発見されなかったが、以来キラの裁きは行われず、世界はキラの消滅を発表した。
『面白くねぇの』
「面白がられてはいい迷惑だ」
二度と人間界には来るな! ――― そんな相沢の罵声に見送られ黒い死神は今は見慣れてしまった何もない死神界へと戻った。
『あれ?あれあれ?何であいつ等が生きてるんだ?ニアが生きてるんだ?メロの奴が嘘ついたのか?』
振り返ってもう一度穴を覗きこめば、真っ白な部屋で狂ったニアが芋虫のように蠢く姿が確かに見える。代わりにどんなに探してもメロの姿は見つからない。
『あれれ?何でだぁ?』
訳が判らないと頻りに首をひねった死神は、暫くして考える事を止め真っ黒な空へと舞い上がった。
4つ目の展望球も案外早く見つかった。
「死神ぃぃぃぃ‥‥‥!!」
黒い死神が姿を現すやいなや、その男は狂ったような雄叫びを上げ飛びかかって来た。
「何所へやった!私の神を何所へやったぁぁ‥‥っ!?」
『はぁ?』
魅上照。かつてXキラとして夜神月の代わりに裁きを行なっていた男。
キラを神と崇め、悪を、犯罪を、不道徳を最も嫌っていた男。
「神、神、神神神っ!私の神を返せ‥‥‥!!」
『うほっ?』
潔癖症故に常に身奇麗にしていた男は今や見る影もなく薄汚れ、その全身からは饐えた臭いがする。死神にしがみ付く手もまた泥だらけで長く伸びた爪は真黒。白かったワイシャツの襟は黄色を通り越し茶色に汚れ、高かっただろう背広とコートは埃だらけ引っ掻き傷だらけである。
そして、垢と泥に汚れた顔にははっきりとした狂気が浮かんでいる。
『落ち着けって、照。落ち着いて、何があったか俺に話してみろ。つ~か、お前、ニアに捕まって独房に入れられ狂って死んじまったんじゃなかったのか?』
「神神‥‥神っ!うぁぁぁぁ‥‥‥!!黙れぇっ!この、裏切り者がぁぁ!!」
『裏切り者はお前の方だろ。土壇場で月を切り捨てやがったくせに』
「そんな事、私はしてないぃぃっ!!」
死神の言葉に更に怒り狂った魅上は不死身である死神に爪を立て歯を立て、その首を絞めようと手を伸ばして来た。その間も『私の神を返せ!』と、訳の判らない事を叫び続け、その血走った目は怖いもの知らずの死神さえも肝を冷やす危うさに満ちている。
仕方ないので軽く殴りつけて気絶させ、弛緩した体を脇に抱え別の場所へと移動する。人通りの少ない裏通りとはいえ、こんなに大声で騒がれたのでは誰か来るかもしれない。一応魅上はキラなのだから手配書の一つも出回っているだろうと、ない知恵を絞った死神の英断である。
そうしてやって来たのは何所にでもあるオフィスビルの屋上。既に深夜に近いこの時間、ビル内には誰も残っていない。
『で?何があったんだ?輝』
頬を叩いて覚醒させた照が再び暴れ出す寸前、その鼻先にちょいと失敬して来たハンバーガーを突きだしてやる。案の定腹が減っていたらしい魅上はそれを視界にいれるや野生の動物さながらの素早さで奪い取り、死神に背を向けガツガツと食べ始めた。
腹が膨れれば人間少しは落ち着きを取り戻す。魅上が先ほどよりは大人しくなったのを確かめ、黒い死神は何故彼が生きているのか聞こうとした。
「あの時‥‥私は‥‥‥」
魅上照の告白は正にオモシロだった。
SPKによってまんまとデスノートを摩り替えられた照は、自分の失態を棚に上げキラを罵しりキラを切り捨てた。
このままでは捕まって死刑になる ――― そう考えた照は必死に生き残る術を模索し、突然刑事の一人がキラに発砲しだしたドサクサに紛れ倉庫の外へ飛び出したのである。そして保険のつもりで隠し持っていたデスノートの切れ端に日本の刑事達とSPK、ニアの名前を書きなぐった。そこに夜神月の名を加えなかったのはまだ残っていた忠誠心故か、信仰ゆえか、それとも紙が足りなかっただけか‥‥‥
あの時は無我夢中だったのだと、どう見ても浮浪者にしか見えない元エリート検事はポツリと漏らした。
いきなり突き付けられた死が怖くて怖くて仕方がなかったのだと。
それから何分経っただろう。倉庫の中がやけに静かなのに気付いた照は、誰も自分を追いかけて来ない事を不審に思い、次にデスノートの効力が発揮されたのだと悟りホッと安堵の溜息を洩らした。
これで自分はもう安全だと思ったとたん、虫のいい事にキラ様はどうなったのかと心配になった。自分が犯した失態も、神とまで崇めたキラを口汚く罵った事も忘れ、慌てて倉庫の中に駆け込んだ。
だが、そこにキラの姿はなかった。
あるのは、心臓麻痺で事切れた刑事達とSPK、そして白い子供、ニアの骸だけだった。デスノートもどんなに探しても見つからなかった。
「キラ様を‥‥私の神を何所へやった‥‥」
『俺が知るかよ。一人で逃げたんじゃないのか?』
「撃たれたのに?逃げたとしたら血の跡が残るはずだ。だが、何所にもそんなものは見当たらなかった。お前がキラ様を抱いて空を移動したとしか思えない!」
こんな所は落ちぶれても元検事だと黒い死神は他人事のように思う。
「返せ‥‥私のキラ様を返せ!私は‥‥私達にはまだやらなければならない事がある!悪をこの世から一掃し、新世界を創らねば‥‥‥!!」
『おっと』
いきなり形相を変え飛びかかって来た照を、体を透過させることでかわした死神は、直後に聞こえて来た悲鳴に思わず後ろを振り返ったのだった。
『あ?』
そこに照の姿はなかった。
『うほっ?もしかして、落っこっちまったとか?』
そう言えば自分は屋上の端っこに立っていたっけか ――― などと、やはり他人事のように呟き、恐る恐る、そして何所かワクワクと下の道路を見下ろす。
『あっちゃ~。破裂してやがる』
死神の目に夜の闇は関係ない。全てが鮮やかに、血の色は生々しく赤く輝いて見える。
四肢をあらぬ方に曲げ俯せに道路に倒れ伏す照の、壊れた人形のような死に様に特にこれといった感想は浮かばない。ただ、血だまりとはよく言ったものだと思うだけだ。徐々に広がる血の池はアスファルトに吸収されることなく広がって行くばかり。
『月が生きてるんなら、俺だって行き先を知りたいぞ』
人気の少ないオフィス街。照の死体が発見されるのは朝になってからだろう。
明日の朝のニュースに一人の浮浪者の死が付け加えられる。
ただそれだけなのだと、死神は口の中で繰り返し呟いた。
『月を逃がすなら‥‥死神界ってのも面白かもな』
そうすれば、この寂しい荒れ地も少しは美しく見えるかもしれない。
『何せ月は顔だけはすこぶる良かったからな。あ、頭も良かったか』
一頻り笑って、それから疲れたように息を吐きだし、死神は新たな展望球を求めて飛び立った。
「待ってたわ、死神」
誰もいないはずの夜神家の月の部屋に海砂は白いドレス姿で佇んでいた。
きっちり化粧し着飾った、いつも通りの綺麗で可愛い海砂。
だが、どこか違和感を感じるのは何故なのか。
『うほっ?俺を待ってたって?』
「そうよ」
『どうしてだ?』
「そんなの、ニアを殺してもらうために決まってるじゃない」
ふと、その笑顔があの照の憎悪に歪んだ顔に似ているのだと気付き、黒い死神は背筋がブルッと震えるのを感じた。
『海砂‥‥?』
「海砂ね、どうしても許せないの。ニアが一人だけ生き残ってLを名乗っているのが、許せないの」
よく見れば海砂が着ているのはミニのウエディングドレスだ。月との結婚が決まり熱心にカタログを見ていたのを覚えている。
『お前、デスノートの事を思い出したのか?』
死神がそう聞くと、海砂は首を横に振った。
「でも、知ってる。月と海砂がキラだったこと。そしてキラの裁きが死神のデスノートで行われていたこと‥‥竜崎さんがLで、その後継者に月が殺された事も‥‥」
『何でだ?』
正確には月を殺したのは黒い死神だったが、敢えてそれは口にしない。
「デスノートの所有権を捨てたら全てを忘れてしまう。海砂は一度それをやった。だから、もう嫌だったの。海砂と月を繋ぐ大切な絆を忘れてしまう事‥‥」
知っていた、気付いていた。月が海砂を、海砂と同じ気持ちで愛していてくれた訳ではない事ぐらい‥‥‥
そう言って海砂は少し哀しそうに、それでも愛しそうに微笑んだ。
「でも、月は優しかった。ホントだよ‥‥キラな月は海砂を同士か都合のいい駒としか思ってなかったけど、それで良いって言ったのは海砂だったけど、キラじゃない月は海砂の事を一人ぼっちになった可哀そうな女の子って思ってくれた。もう悲しい思いはさせたくないって言ってくれた‥‥!優しかった。とっても優しかった。海砂を抱く時も本当に優しく抱いてくれた‥‥死神だって知ってるでしょ?」
確かに海砂の言うとおりだった。
月がキラである事を忘れるのはそうある事ではなかったが、そんな時には本当に優しい笑顔を海砂に向けていた。
「月の愛情が粧裕ちゃんに向けるのと同じ家族愛だったとしても、海砂にはそれで充分だったの。だって、他の女にはそんな感情すら向けないって知ってたから」
だから、高田清美が現れた時はキラの記憶がなかったせいで本気で焦ってしまった、と可愛らしく告白した。
「海砂ね、アメリカに発つ前に、それまでの事を全部書いた手帳とデスノートの切れ端をタイムカプセルに入れて大事にしまっておいたの」
『タイムカプセル?』
「そう。大切な物をその中に入れて思い出の場所に埋めておくカプセル。何十年か経って掘り返して昔を懐かしむためにね。そんなカプセルが売ってるんだよ。その中にね、今言った物を入れて夜神家の庭にこっそり埋めておいたの」
『うほっ?』
「勿論それだけだったら所有権を捨てた時にカプセルの事も忘れちゃうと思ったから、海砂の大切な愛の記念品も一緒に入れておいたの。月から初めて貰った大切な大切な誕生日プレゼントをね」
これだったら絶対忘れないと思ったんだ。そしたらね、やっぱりちゃんと覚えていた。けっこう海砂もやるでしょ?
そう言ってキラキラとした笑顔を振りまく海砂の左手の薬指には、綺麗な紫色をしたアメジストのリングが輝いている。
「これはね、月が小学校の時から貯めてたお小遣いをはたいて海砂に買ってくれた物なの。大学もあるのにLとキラもやってたから、月、バイトが出来なくて‥‥Lの資金で買うのは違うと思うからって、安物だけどこれで我慢して欲しいって、海砂の誕生日に二人っきりの時に、海砂の指に直接はめてくれたの」
その輝きをうっとりと見つめる海砂は本当に綺麗だった。海砂にとってそれは紛れもなく結婚指輪なのだ。
「そうしてね、思い出しはしなかったけど、海砂は全部知ったの。月ね、粧裕ちゃんを誘拐した犯人は死んだLの関係者じゃないかって疑ってた。その事も手帳に書いてあって‥‥だからね、直ぐに気付いたの。月はキラに殺されたんじゃなく、Lに殺されたんだって。そしてたぶん、マッツー達も月を裏切ったんだって」
女の勘は鋭い、そして女は怖い。とてもじゃないが真実は口に出来ない。
「だから海砂はこの指輪に誓ったの。月の仇を討つって‥‥お父さんやお母さん達が殺された時の悔しさはもう二度と味わいたくなかったから‥‥判るでしょ?海砂、頑張ったのよ。好きでもないマッツーを好きになったふりをして、月の死の真相を、ニア達の情報を聞き出したの」
二年もかかってしまった、と海砂は苦笑しながら語る。
松田ごときでニアまで辿り着く事は流石に出来なかったけれど、SPKの三人の本名と顔は知る事が出来た。キラ事件解決の折こっそり記念撮影をしたのだと、松田がご丁寧にも写メの画像メモリーを見せてくれた。そこまでくれば彼らの名前を聞きだすのは訳ない事だった。
「知って、直ぐに名前を書いた。SPKと松田さん達の名前を、迷わず書いた。七人同じ日、同じ時間に心臓麻痺で死ぬように‥‥!」
『けど、それだと直ぐにニアにばれるんじゃないか?』
「判ってる。だから、残りの切れ端にも書いたの」
『何を?』
「海砂の名前」
そうして死神の目の前に突き出されたのはデスノートの1ページだった。
そこには確かに海砂の名前が書かれていた。
弥海砂
ニアが七人の死を知った後、その追求の手が自身に及ぶ前に死神と再会し願い事を叶えてもらう。
夜神月の妻である幸せを噛みしめながら死亡。
「本当は夜神海砂って書きたかったんだけど、それじゃぁ無効になるかもしれないから妻ってだけで満足しておいたの」
『俺がここに来たのはデスノートの力かよ』
「そうよ。デスノートの力は絶対だもん」
いや、いろいろ条件があったはずなんだが‥‥‥と、思ったりしてみる死神だったが、事実死神は海砂の目の前にいて、彼女は未だニアに捕まっていない。
『ってことは、俺が海砂の願い事を叶えてやるのはもう確定してるんだな?』
「そうよ」
にっこり笑った海砂はベッドの上から可愛らしいブーケを取り上げた。
『で?願い事ってのは?さっきのでいいのか?』
ブーケはピンクの薔薇の花束。そこに顔を埋め、頷きながらゆっくりと目を開く海砂。
「ニアを殺して」
美しき死の花嫁に迷いはない。
「竜崎も月も死んだのに、あいつだけ生きてるなんて絶対いや!でも、海砂にはもうどうする事も出来ない‥‥だから死神が殺して!死神なら、ニアの本名が判るでしょ!?」
『‥‥あぁ』
「だったら殺して!」
『あぁ』
黒い死神にも迷いはなかった。あの時同様、何の淀みもなくデスノートを取り出し、黒い死神は最後のページにニアの名を書きこんだ。
『ニアの本名を知りたいか?』
「ううん。海砂は月の名前だけ知っていればいいの」
『俺が本当に書いたか確かめなくていいのか?』
「デスノートの力は絶対だもの。だから海砂は信じてる」
信じてるよ、――――
それは懐かしい黒い死神の名前だった。もう誰もその名を呼ばなくなって久しい名前。
『あ‥‥‥』
「今行くよ、月‥‥」
ゆっくりとベッドに倒れて行く海砂は本当に幸せそうだった。
『海砂‥‥』
最後にその薄紅色の頬に干からびた指を這わせ、死神は別れを惜しんだ。
『俺のノートにあんなガキの名前を残しておくのはヤだな‥‥』
ニアの名を記したページを毟り取り、夜神家を出た所で目についたゴミ収集場所のポリ袋の中にそれをクシャクシャにして突っ込む。それの末路に興味はない。何所かで死に果てたニアの骸の末路にも興味はない。
『幸せになれよ、海砂‥‥』
現世で幸せになれなかった恋人達は来世での幸せを信じて共に死を選ぶという。
デスノートを使った者の行き先は天国でも地獄でもないけれど、月と海砂は同じデスノートを使った者同士、きっと同じ世界に行き着き互いに手を取り合っているだろう。今度はキラとしてではなく、ただの男と女として。
『こんな事考えるなんて‥‥俺も人間にすっかり感化されちまったかな‥‥』
一抹の淋しさと仄かな暖かさ。
何も感じないはずの胸にそれを感じ、人間に感化されるのも悪くないと黒い死神は思う。
そして、自分一人の死神界に感じるのは侘しさのみ。
『誰か‥‥誰かいないのか‥‥?』
「へぇ、お前が死神かぁ」
「貴方が死神ですか」
美しい庭園の入り口で見つけた金銀二人の子供は、資料通り醜い姿だなと少し的外れな感想を口にしながら無遠慮に黒い死神を見つめて来た。
『お前ら何で生きてんだ?』
「はぁ?何寝ぼけた事言ってやがる」
「見た目通り頭悪いんですね、貴方」
『お前らメロとニアだろ?Lの後継者の』
「あぁ」
「そうです」
『メロは死んじまって、ニアも死んじまったんじゃなかったのか?あっと、ニアは狂っちまったんだっけか?』
「ギャハハハハ!狂っちまったてさ、ニア!傑作だなぁ、おい!!」
「死神‥‥貴方、死にたいんですか」
『いや、俺は死なないっての』
明るい光に満ち溢れた庭園は甘いバラの香りに包まれ空気までもが清らかに美しい。そこに紛れ込んだ子供二人の特異さが気にならないくらいその美しさは圧倒的で、そしてただ黒い異形の者だけを異物として目立たせている。
『えぇっと、お前ら二人が生きてるって事は‥‥いったいどうなってんだ?やっぱりキラが負けたのか?』
黒い死神が小首を傾げながら子供二人にそう問いかけると、メロとニアは強い意思を感じさせる、けれどお世辞にも目つきが良いとは言えない視線を交わしあった。
「その通りです。キラは負けました」
「俺達二人が手を組めば出来ない事はない、ってな」
『お前らが?手を組んだ?仲悪かったんじゃないのか?』
「‥‥確かに、決して良くはありませんでしたね。それは今も同じでしょうか」
「けど、そうも言ってられなかったからな‥‥Lだけじゃなくワタリまで殺されて、俺達もこのままじゃヤバイって思ったのさ」
「キラを捕まえるまでは、という事で手を組んだんです。その後も私達の同盟が続いているのは、まぁ、成り行きというやつですね」
「ニア、お前が自分でちっとも動かないからだろうが!この、安楽椅子探偵!」
「どうせ私は引き籠りですよ」
「自慢げに言うな!っての」
『ふ~ん』
さも嫌そうに互いから視線を逸らす二人の子供を眺めながら死神は『人間は良く判らない』と思った。
「なぁ、お前、死神‥‥」
『何だ?』
その子供の内の一人、金髪の背の高い方の子供メロが、とんでもなく凶悪な形相で死神に声をかける。
「お前は‥‥知ってるんだろ?」
『何を?』
「とぼけるな!Lと、キラの事だよ。昔、あの二人の間に何があったのか、お前、知ってんだろ?全部見てたんだろ?!」
苛立ちがはっきりと判るその口調には、怒りも含まれていただろうか。
「Lは一時期キラと‥‥キラの記憶を失った夜神月と共闘していたと聞きます。その間の二人の様子を私達は知りたいんです。貴方なら知ってるんじゃありませんか?」
一方の銀髪、と言うより白髪に近い小柄なニアは、死神に目を合わせる事なく静かな口調でそう尋ねた。だが、そこには同じように苛立ちと嫌悪の情が滲み出ている。
『‥‥何で知りたいんだ?』
「何でって‥‥!」
『もうキラ事件は終わったんだろ?』
「俺達は‥‥!」
「あんなふ抜けになったLを見せられて、気にするなと言う方がおかしい」
『は?』
「目覚めてからLはずっと変なんだ!いや、キラが‥‥夜神月が俺達に正体を見破られ死んだと聞かされてから‥‥!ずっと、それこそ隠者みたいにこの別荘に閉じこもって、俺達にすら会おうとしない‥‥!そんなのどう考えたって変だろ!!」
メロの爆発的な感情の高まりに死神は丸い目を更に丸くする。
「おめでとうございます、と、俺達の健闘を讃えたその口で、それでも一人の人間として私は貴方達を恨みます、なんて言われて俺達が平気でいられるか?!俺達にあっさりLを譲って、自分はもうLには戻らないって、あの年で何もかも捨てて、世間にすら背を向けて‥‥キラとの思い出に耽る毎日を送るだなんて‥‥そんな事‥‥そんな事認められるもんか!!」
「メロ‥‥」
ヒステリックに叫んだ子供の目にはうっすらと涙が滲んでいた。それを困ったように見つめる死神だったが、長年一緒にいたキラこと夜神月ならいざ知らず、そんな死神のちょっとした心の機微を判ってくれる人間などもはや何所にもいないのである。それを死神はほんの少し残念に思った。
「私達はLを尊敬していました。いつの日かLを越えたいと思いつつ、Lに認められたい、Lと共に仕事をしたいという夢も持っていました。それが、キラ事件でLとワタリが無念にも死んだと聞かされ‥‥結局二人の遺体は引き取る事もできませんでしたね‥‥日本で無縁仏として火葬にされ、遺灰だけは引き取る事が出来ましたが‥‥だからこそ、私とメロはLの仇討ちのつもりでキラに挑みました。その私達の願いは叶い、私達はキラを見つけ出した‥‥」
「結局死んだのはワタリだけで、Lは植物状態でずっと入院してたから俺達に連絡出来なかっただけだって、後から判ったんだけどな」
『は?Lがしょ、しょ、植物状態?‥‥それって、ずっと寝っぱなしってやつか?』
「そうです、Lは心拍停止状態にまで追い込まれましたが、何故だか死ぬまでには至らなかったようです」
『嘘っ!!マジで!?あいつ、デスノートに名前書かれたんだぞ!?それで死なないって、あのカエル探偵、本当に人間だったのかぁ!?』
「カエルって何だ!?カエルって!!」
「メロ、突っ込むのはそこじゃないでしょ」
死神の素っ頓狂な声と如何にも驚いているというジェスチャーに、死神の表情などちっとも読めないながらも、二人は目の前の死神が嘘を吐いていない事だけははっきりと理解した。どうやら死神の認識では、先代Lはデスノートに名前を書かれ死んだことになっているらしい。
「Lがデスノートで殺された、というのはキラから聞いたのですか?」
『あ、あぁ。月がそう言ってた。罠にはめて、レムにLの名前をデスノートに書かせたってな』
「レム?それは確かヨツバキラの元にいた白い死神の事ですね?」
「相沢が言ってた、何時の間にかいなくなった死神か!」
本当はレムは掟を破った事により砂となって死んでしまったのだが、そこまで言う義理はないと黒い死神は仲間の最後を口にはしなかった。
「罠に嵌めた、というのは?」
『俺も詳しくは知らないが、レムが自分から進んでLの名前をデスノートに書きたくなるよう、月が仕向けたんだとさ』
「どうやって?」
『どうやってって‥‥何かよく判んなかったけどさ、Lがデスノートの検証をするとか何とか云いだして、そんな事されたら海砂がキラだって疑われるって焦ったレムが慌ててLとジジィの名前をデスノートに書いたんだ。レムは海砂が好きだったからな』
「はぁ?何だそりゃぁ!死神のくせに人間に惚れたってか?」
『いやぁ、お前らの言う恋愛とは違うと思うぞ。どっちかって~と、家族愛ってやつに近かったと思うな、俺は』
「いずれにしろ、そういう状況にキラが持って行った、という事ですね」
「なんて姑息な奴だ!」
メロのその言葉に黒い死神は不快そうに唇を歪めたが、やはり二人の子供には全くもって気付かれる事はなかった。
「その姑息な奴が植物状態に陥ったLを密かに保護し、長年にわたって面倒を見て来たのです。その点だけは感謝しないといけません、かね?」
「バカか、お前は!感謝なんかしてたまるかっ!」
「本気にしないでください、メロ」
目の前で口喧嘩を始めた子供に、黒い死神は訳が判らないと唇を歪めたまま首を傾げる。
『なぁ、何でもいいけどさぁ‥‥結局Lは死んだのか死んでないのか、どっちなんだ?』
「だから死んでないって言ってんだろ!」
『でも、植‥‥寝てんだろ?』
「いいえ、私達がキラ事件を解決した半年後に意識を取り戻しました。今は‥‥ここで余生を過ごしています」
「余生ってなんだよ、余生って!Lは未だ30だろう!隠居って年じゃねぇよ!!」
『ウホッ?ここにいるのか?』
そうと聞いて黒い死神が背筋と首を伸ばし辺りをキョロキョロ見やる。
「死神。Lに姿を見せる事は許しませんよ。ただでさえ過去に捉われ自分を見失っているというのに、貴方なんか見たらますますキラの事を思い出してしまうじゃないですか」
『はぁ?』
「Lはキラを忘れてないんだよ!とっくに死んじまったってのに、未だに奴を‥‥!」
視線を戻せば、悔しそうに表情を歪める二人の子供がいる。
『あぁ‥‥あぁ、そういうことね。奴のキラへの執着は並大抵じゃなかったからな。月がキラの記憶をなくした時も、手錠に繋いで自分の傍から決して離そうとしなかったくらいだもんな』
「‥‥キラの記憶を、なくした?」
「何だそりゃぁ?どういう事だよ?」
『は?前にも説明してやっただろ?デスノートの所有者は所有権を放棄するとデスノートに関する記憶を全部なくしちまうんだよ』
「何ですか?それ。なんて不可解な‥‥」
「ってか、前も何も、俺たちお前に会ったのは今が初めてだし!」
『初めて?何言ってんだよ。会って話もしただろうが。特にそっちの白いチビにはノートのルールとかも話してやったぞ』
「そうなのかよ、ニア?」
「まさか。こんな醜い化け物、何処かで会ってたら絶対忘れませんよ」
『化け物で悪かったな。こんなんでも月は見慣れれば愛嬌があるって言ってくれたぞ。いや、そうじゃなくって、前に一度会ってるだろ』
「何時です?」
『キラが死んだ時に!倉庫で!むしろ俺がキラを、月を殺してやったんじゃないか!』
思わずそう叫んでから、黒い死神は何だか胸の辺りがチクリと痛んだような気がした。
一応死神にも痛覚はある。恐竜並に鈍く、ほんの少し眉を顰める程度の軽い痛みしか感じとれないけれど。だが、こんな痛みは今まで感じた事はなかったと、そう黒い死神は思った。
「倉庫とは何処の倉庫のことですか?というか、キラを貴方が殺した?おかしな事を云わないでください。キラを殺したのは、Xキラこと魅上照ですよ」
『はぁぁ?照がぁ!?あのキラバカが月を殺したってぇ!冗談にしちゃぁちょいと無理がありすぎないか?』
「冗談でも何でもねぇ。そのキラバカが度を越して、『死して神となる!』とか何とか訳判んない事言って、自分と夜神月の名前をデスノートに書いて自殺しちまったんだよ。しかも、SPKと日本の刑事達も道連れにな」
「生き残ったのは魅上に一度も姿を見られなかった私達二人だけです」
『うわぁぁ!有り得そうで怖ぇぇぇ~~!』
死して神となる ――― 人間とは何と面白い事を考える生き物だろうかと黒い死神は思う。
夜神月も生きながら新世界の神になると言って憚らなかったが、それは言葉の綾であって、つまりは世界の支配者になるという意味だと死神にもちゃんと理解する事が出来た。
だが、『死して神になる』だなんて、そんな理由で自殺する人間の心理はどう頑張っても理解できそうにない。他人を神と崇める以上に不可解な心理である。
「ふむ‥‥どうやらこの死神と私達との間には大きな認識のズレがあるようですね。これではまるで‥‥」
「!おい、ニア。パラレルだとか、何とか、そんな非科学的な話を持ち出したりするんじゃねぇそ。俺は信じないからな」
「相変わらず鋭いですね。というか、メロ。死神やデスノートなどという非科学的な存在は信じても並行世界は信じないのですか?貴方、意外に頭が固かったんですねぇ、メロ」
「これ以上非科学的な事が起きてたまるか!」
『何だぁ、その、へ、へ‥‥‥』
「並行世界。パラレルワールドですよ」
「死神界も言ってみりゃぁ、人間界の並行世界だろ」
「少し違う気もしますが」
「とにかく、世界は一つだけとは限らないって事だ、死神。似てるけど何処かが違う世界が幾つも並んで存在してんだよ」
「そして、貴方が夜神月にデスノートを与えた人間界は、私達がいるこの世界ではない、という事です」
『ますます判らん‥‥』
「見た目まんま、バカなのな。死神って」
メロの如何にもバカにしたような言い方に怒った死神は実体化し殴りかかろうとしたが奇麗に避けられてしまった。
「もし本当に平行世界が存在し、貴方が違う世界から来た死神ならば‥‥私は貴方が出会ったニアではありませんし、私達が追い詰めたキラも貴方が知る夜神月ではないという事です。当然、ここにいるLも。あぁ、それで言うと、もしかしたらキラが勝ってキラが新世界の神になった世界も何処かにあるのかもしれませんね」
「うわぁぁっ!そんな世界、いらねぇ!」
『月が‥‥神に?それって、月が、生きてるってことか?』
そして、ニアの言葉に不意を突かれ呆然となる。
「えぇ。しかし、それはこの世界でも、貴方のいた世界でもありません」
『‥‥‥』
「期待しない方がいいですよ、死神。たとえ、その世界に辿り着けたとしても、貴方にキラの前に姿を現す資格はありません。そこには別の貴方がいるはずですからね‥‥貴方のキラは死んでしまったのです。貴方が言ったように?貴方の手で、殺されたんです」
それは真実だった。痛い痛い真実だった。
「ところで、貴方のデスノートはその腰にぶら下がっているやつですか?」
『う‥‥あ、あぁ‥‥』
死神は自分の腰にぶら下がったポーチにしっかりと納められた黒いノートを慌てて手で隠した。その様子を見とがめたニアが『別にデスノートなんかいりませんよ』と溜息と共に呟く。
「そうですか、本当にキラの名前を貴方自身が書いたのですか‥‥どうやら貴方はキラの味方ではなかったようですね。相沢達が言っていた通り、本当にただの傍観者だった‥‥」
『し、仕方ないだろ?死神がしていいのは人間を殺す事だけで、それ以外の事には干渉しちゃいけないって掟があるんだよ』
「おや、そうでしたか」
「ハハハ、苦しいいい訳だな」
『な、何だよ?』
死神は無力のはずの人間二人を恐れるかのように一~二歩後退した。
「正直に言っちまえ。お前、キラに絆されたんだろ?俺達にキラが捕まるのを見てられなくて思わず殺しちまったんだろ?」
『!』
「五~六年も一緒にいたら、そりゃあ情が湧くよな。俺だったら、こんな化け物との同居は断固拒否させて貰うぜ」
心臓が ――― 言葉の綾だ ――― 止まるかと思った。
今こいつは何と言った?死神の俺を掴まえて、このガキは何て言いやがった?
ケラケラと笑うメロを食い入るように見つめながら、黒い死神はたった今耳にした信じられない言葉を混乱する頭の中で何度も反芻した。
情が湧く‥‥‥
それはいったいどういう意味だろう。
死神は確かにキラの傍にいた。人間界の時間にして七年近く。それは不死身に近い死神からしてみれば、瞬きするほど短い時間だ。余りに退屈で、人間界で少しばかり遊ぼうと、そんな軽い気持ちでデスノートを落として、思いがけず面白い存在に出会い ―――
そして、そうして‥‥‥‥!
「!?死神?」
「ま、待てっ!化け物!!」
次の瞬間、黒い死神は黒い翼を広げ宙に舞い上がっていた。
『いた‥‥っ!』
そして、離れた場所に建つ東屋に懐かしい、だが、不快極まりない男の姿を認め一目散に飛んだ。
「Lに何かしてみろ!ただじゃおかねえぞ!!」
「やめなさい、死神!!」
追い縋ろうとする怒りの声など無視して、死神はバルコニーのベンチに両足を上げて座る男の前に降り立った。
『よォ‥‥生きてやがったんだな?L』
手入れの悪いざんばら髪。眼の下の濃い隈。矯正不可能と思える猫背。裸足の足。それから肉付きの薄い節くれだった指。間違いなくLだ。
『‥‥あぁ、お前が触ったのはレムのノートだけだったか』
目の前にいるというのに視線一つ動かさない男の様子にそうと気付いた死神は、躊躇うことなく自分のデスノートを取り出し、メロとニアにもそうしたようにそれで男の頭を軽く叩いた。
そうすればゆるゆると首を動かし視線を上げる顔色の悪い男。
「‥‥死‥‥神?」
『おぉよ』
やはり亀のようなのろさで男は光の無い目を瞠り、じっと死神を見つめた。
「貴方が‥‥月君に‥‥」
『あぁ、月にデスノートをやったのは俺だ』
「‥‥何故‥‥何故月君を‥‥」
何故夜神月を選んだのか ――― まん丸に近い男の病んだような目がそう詰っている。
『さぁ、何故だろうな‥‥』
正確には黒い死神が落としたノートを拾ったのが夜神月だったにすぎない。けれど今となっては、それは偶然だったのか必然だったのか、しがない死神でしかないその存在には判りかねる事だった。
「‥‥ぜ‥‥して‥‥‥‥‥!」
そして、何故夜神月を見捨てたのかと、哀れに歪んだ男の表情が死神を責める。お前が先に魅上を殺していれば、月は死なずに済んだのに、と。
それは俺じゃぁない。俺ではない別の俺がやった事だ‥‥‥
そう言おうとして叶わず、死神は涙もなく慟哭する男の、瞬き一つしない黒い目を同じようにじっと見つめ返した。
「‥‥を‥‥‥‥せ‥‥」
『お前‥‥』
Lはキラの夢を邪魔する敵だった。キラはLの獲物だった。
そんな二人が手錠に繋がれて過ごした一夏を、黒い死神は時折死神界から見ていた。
疑っている事を隠そうともしないLと、そんな男から視線を逸らさなかったキラ、夜神月。時には反発し、時には一卵性双生児のように同調し、24時間常に一緒にいた二人。その二人の間にどんな心の交流があったのか、黒い死神には想像も出来なかった。
だが、死神は知っている。
Lの死を嘲っていたキラを。思い出話にその名が出ても薄笑いしか浮かべなかったキラを。そして、戦利品だと言ってあの手錠をこっそり隠し持っていたキラを‥‥‥
涙など見たことなかった。Lを誉める言葉を聞いた事はなかった。ましてや、Lの死を悼んだり懐かしむ素振りなど‥‥‥
『あぁ、殺してやるよ、L』
人間は本当に面白い。そして、とても不可思議だ。
「やめろー!」
「L!逃げて‥‥!」
逃げる?死神から?デスノートから?
それは無理な話だ。
それくらいとっくに判っているだろうにそんな事を叫ぶ二人の子供を無視して、黒い死神は脱け殻のように残りの生を費やすだけだった男の名前を手にしたノートに書き込んだ。
『もっと早くに‥‥こうしていれば‥‥』
程無くして男は胸を搔き毟り、口から泡を吹きながら絶命した。ベンチから転げ落ちた体は鯱ほこばった恰好のままピクリとも動かない。当り前だ。死んでしまったのだから。
「L!!」
「このっ‥‥化け物めぇ!!」
漸く駆けつけた二人の子供の罵声など無視して雲一つない晴れ渡った空へと舞い上がる。
覚えていろだとか、殺してやるだとか、意味をなさない言葉を喚き続ける子供と、今はただ骸となり果てた男を眼下に見下ろし、死神は人間の真似をして眩しそうに目を細める。
『良いじゃんかよ、これくらい‥‥月はあんな暗い寒々とした倉庫で死んじまったんだからよ‥‥』
それに比べてこんな明るい空の下、花に囲まれて死ねたLは幸せではないか。しかも、愛する者達に惜しまれて ―――
『あぁ‥‥そうだな‥‥殺したのは俺だった』
そうして、月の死を惜しんだのも俺‥‥‥‥俺だけ‥‥‥‥!
始めてそうと気付いて、死神はクシャリと表情を歪めた。醜い顔を更に醜くし、けれどそれに気付く者は誰もいない。
人間で唯一気付いたであろう者は既に何所にも存在せず、仲間の死神すら見当たらない。
『俺は‥‥一人なのか‥‥?』
舞い戻った死神界の、荒涼とした大地に黒い死神は佇む。
人間誰しもが恐れる『孤独』を今初めて実感しながら。
『月‥‥いるのか?』
何時何処でどのようにして自分が生まれて来たのか黒い死神は知らなかった。他の仲間達も同じだろう。気付いた時には殺風景で変化のない死神界に存在し、手には黒いノートを1冊持っていた。そして、誰に教えられるでもなく展望球から人間界を見渡し、目についた人間の名前をノートに書き込んでいた。
仲間との出会いは更に味気ないものだった。互いに自己紹介をする必要はない。相手の名前は見えていた。だからだろうか、同じ死神仲間に興味をひかれる事はなかった。ただそこに居るから居させていた。相手も同じだ。究極の個人主義。
生に執着する事も死に恐怖する事もない、ただ存在するだけの存在。
『何所か別の世界なら‥‥お前は‥‥生きているのか?』
楽しかったのだと、今なら誰に遠慮することなく言える。
夜神月といた数年間が、今まで存在してきた長い長い年月の中で一番充実していたのだと。
『月‥‥!』
大地に点在するもの言わぬ展望球。
そこから見える人間界はどれも命で溢れている。
けれど、その何所にも黒い死神が探し求める命は存在しない。
何故なら ―――
「おや、まだ死神が残っていたとは‥‥」
不意に聞こえて来た覚えのある声に驚いて振り返れば、そこにはやはり見覚えのある男が一人ポツンと立っていた。
『お前‥‥!』
「お目にかかるのは初めてですね。月君の死神‥‥」
『竜崎!』
それは死んだはずの、レムに殺されたはずの竜崎ことLだった。
『お、お前、死んだはずじゃ‥‥』
「えぇ、死にました。見事キラに嵌められてね。まさか死神を使うとは思ってもいませんでした。流石は私の月君」
『誰がお前のだ!ってか、本物?』
「本物です」
『死んで‥‥』
「死んでます」
『幽霊?』
「残留思念というやつですね」
『‥‥ざ?』
「つまりは幽霊です」
『やっぱり幽霊なんじゃないか!』
「だからそう言ってるでしょ」
かみ合わない会話に、月の奴よくこんなのと24時間一緒にいられたな、と改めて感心する。
「もう『キラ』はいいのですか?」
『は?』
「新しいキラを生み出さなくていいのですか?」
『あ、あぁ‥‥それはもういいんだ‥‥月ほど面白い奴には早々出会えないと判ったからな』
「私もそう思います。貴方、初めに一番良いのを引き当てましたね。月君の後じゃ、他は全部霞んで見えるでしょ」
『まぁな‥‥』
何でこんなノンビリと会話をしているのだろう ――― そう思い改めてLを見てみると、彼は生前と全く同じ格好をしていた。白いシャツにジーンズ。ざんばら髪に隈が目立つ顔。矯正不可能と思える猫背に裸足。何と言っても全てを見透かすような遠慮会釈の無い視線が以前とちっとも変らない。
『お前、幽霊なら幽霊らしく人間界にいろよ。でなかったら天国か地獄に行っちまえ』
「私もそうしたかったのですが、どうやら未練がありすぎたようでダメでした」
『未練‥‥って、まさか‥‥』
「はい、キラに‥‥月君に会いたくて‥‥」
『死んでもストーカーかよ!』
大いに呆れながらそう云い捨てた時、死神はLの背後に展望球が一つある事に気付いた。
『人間界を覗いてたのか?』
「はい」
『俺にも‥‥』
「貴方には見せません」
『何でだよ!?こいつはお前のか?』
「貴方が覗いたら穢れます。それに、これは私の月君の物です」
『はぁぁっ!?』
それは少し変わった展望球のようだった。
外見が、ではなくその虚ろな穴から垣間見える何かが‥‥‥
「此処から見える世界に死神は必要ありません。死神の干渉は許しません」
『何だよ、それ』
「もっとも、死神は最早貴方一人のようですが」
『‥‥‥』
漏れ出でるのは暖かそうな光。ほのかに赤く、僅かに金色に、そして爽やかに青く。
踊る光が縺れ合い一つの真白き光へと昇華する。
『他の連中は‥‥何処へ行ったか知ってるのか?』
「知りません」
『だったら、どうして俺が一人だと‥‥』
「見たからです」
『‥‥何を?』
「死神達が消えて行く様を」
『!?』
今こいつは何と言った? ――― 黒い死神はジーンズのポケットに両手を突っ込んだ猫背の男をマジマジと見つめ、言うべき言葉を探した。
『それは‥‥』
「文字通り消えたんです。花の香りに誘われた蝶のように次から次へとと彼の元へ集まり、そして彼に触れたとたん灰も塵も残さず消えてしまいました」
『彼‥‥?』
男の言う彼が誰なのか、聞かずとも判るような気がした。
「キラです」
あぁ‥‥やはり、と黒い死神は胸の内で納得する。
『月がここに‥‥死神界にいるのか?』
「いますね」
『どうして?』
「人間だった私に判るはずないでしょ」
『だな』
月、月、月 ――― 魅上照のようにその存在だけを呼び続ける、求め続ける。
死神の自分も、人間のこの男も。
理由は判らない。自分にも他の誰にも。
ただ一緒にいたい、それだけだ。
「私がここにいるのは、月君がここにいるからです。私の探偵としての勘が、ここだと私に教えました。そして私という魂は、意識は、いつの間にか此処にいた‥‥」
『魂だけなら、人間界と死神界を隔てる見えない壁も突破できたか‥‥』
「そのようです。あぁ、ほら‥‥噂をすれば影‥‥月君、キラが来ました」
『!?』
男の視線が上を向く。
それにつられ背後の上空を振り仰いだ死神は、何もない真っ黒な空に緩やかに舞い落ちる白い雪を見た気がした。
『あれは‥‥』
「いったい何処を回って来たのでしょうね。何処を回って何を見て来たのでしょう」
『キラ‥‥?』
ちらちらと、綺羅綺羅と、雫のような光が見える。それは舞うように舞い落ちるように真っ直ぐここを目指している。
太陽の心騒がす眩しい光でもなく、月の胸の奥に沁み入るような密やかな光でもなく、ただそこに在るが故に色鮮やかな。決して目を離す事の出来ない瞬き。
「それでも最後には此処へやって来る。此処から見える世界を見守るために‥‥」
『キラ‥‥?月‥‥?』
その姿がはっきりと見えるようになっても、死神にはそれがキラなのか月なのか判らなかった。
『何だ?あの恰好‥‥あんな恰好の月なんて見たことないぞ』
そして、彼の見た事もない服装にほんの少し首を傾げる。
「たぶん、私の妄想のせいです」
『は?』
「私の月君のイメージが反映されているようなんです」
『えぇっと‥‥』
「初めは人型の光にしか見えませんでした。けれど、一目見てそれが月君だと私には判った‥‥だから、見かけるたび心の中で何度も『月君』と呼びかけ続けたんです‥‥そうしたら、だんだんと姿が定まって来て‥‥」
『月の姿になった?』
「はい」
何だか癪に障る話だった。
「月君にはやはり白が似合うと思うのですよ。もちろんシルクの白です」
白いロングシャツに白いパンツ、装飾品は何一つない。そんなものなくても月は相変わらず綺麗だと死神は思った。袖口足元、腰回りもゆったりとした衣装は月の好みではなかったが、降下する気流に煽られひらひらはためきながら月の体に纏わりつく様が何とも妖艶である。首や腕に絡みついた長いスカーフがまるで翼のようだ。
「シナの天女のようだと思いませんか?」
『何だそりゃぁ?』
「天使ですよ、東洋の。翼の無い天使」
『知らないな、俺は死神だからな』
何所か仄かに微笑んだキラの、月の顔は白い。血が通っているようには見えない。だが、死人のそれでもない。
死んでしまったキラ。俺が殺してしまった月。
その存在がここにいる。魂となって俺の故郷に、まるで鳥を思わせる姿で‥‥‥
『ラ‥‥‥』
「しっ」
大地に優雅に降り立ったキラは、月は裸足だった。それがLみたいで死神は嫌だなと思った。おまけに声を掛けようとした所をLに咎められ、思わずムッとしてしまう。
足音もなく彼が歩くたび乾ききった大地がさらさら崩れて行く。砂となり、結晶となり、風に舞い散る。それは心安らぐ光景といえた。堅い大地をほぐす白い素足。
あぁ、その足に触れたい‥‥‥
「彼に触れれば貴方も消えてしまいますよ」
『!?』
向き直れば、猫背の男が展望球の前に移動していた。そこから零れる光のせいで男の顔が更に薄気味悪く見える。
「死神は人間の命をいとも容易く奪っていきます。そして、人間の未来という力を糧に存在し続ける。それはいったい何のために?」
近づいて来るキラ。微笑む月。
けれど、その澄んだ眼差しは誰も見ていない。黒い死神も、猫背の探偵も。清廉な琥珀の輝きを孕んだ瞳は彼らの姿を全くと言っていいほど映していない。
「この荒涼とした、終末世界にも似た死神界で貴方達死神は何をしていたのですか?何を思って存在し続けたのですか?」
『俺達は‥‥』
「私達人間は貴方達死神に比べればとても儚くもろい存在です。空を飛ぶことも海に潜る事も出来ない。ポッと生まれてあっという間に死んで行く‥‥それが余りに虚しくて、私達人間は常に足掻きながら生きています。死ねば何も残らないから、生きている間に何かを残したくて行動するのです。形有るものでも無いものでも何でも構いません。財産でも、偉業でも、子供でも構わない‥‥いっそのこと、思い出だけでも‥‥」
『‥‥思い出‥‥』
「誰かの中に記憶となって残ることです」
彼が展望球に触れる。苦労知らずの白い指が、愛おしそうにその外周をなぞる。
「貴方達死神はただ壊し奪うだけですが、私達人間は何かを生み出す事に意味を見出します。何かを創り出す事こそが人として生きる意味だと‥‥」
『創る‥‥』
「そう、例えば‥‥新たな世界を‥‥」
淡い光が零れる展望球。そこから見える人間界はどんな世界なのか。
「月君‥‥貴方は心優しい人が、弱いながらも必死に生きていこうとする人達が、理不尽な犯罪で苦しむ姿に我慢できなかったのですね」
割れた卵のようなその穴の前に両膝をつき、そっと身を乗り出し遙か彼方にあるだろう世界を見下ろす白い存在。
その柔和な輪郭を浮かび上がらせる光は、今まで見て来たどの展望球の光とも違っている。血が通っていない人形のように見えていた彼の面を、暖かい血の通った存在に戻して行くそれは間違いなく命の光だ。
口元を飾るのは喜びの笑み。
涼やかな目元を更に柔らかに見せるのは希望。
穴の縁に手を置き、今にも落ちそうなほど身を乗り出して、彼は本当に嬉しそうに眼下の世界を眺めている。
「デスノートで出来る事などたかが知れています。人を殺すだけの力で叶えられる幸せなど、いつ崩れてもおかしくない。それが判らない貴方ではなかった」
そんなキラ、月の後ろからそっと近付き彼と一緒に穴の底を見下ろす男の言葉に、黒い死神はじっと耳を傾けた。
「それでも貴方は行動を起こした。それを愚行と呼ぶか、英断と呼ぶか、決めるのは遙か未来の人間達であって私ではない。勿論、ニアでもありません」
共に展望球に手を掛け、共に優しく微笑み、混沌に浮かぶ一つの愛すべき世界を見守る二つの魂。
一人はキラとして多くの犯罪者を殺し、一人は己が知的興味を満たすためだけに犯罪に関わった身勝手な男。どちらが正義で、どちらが悪なのか。
「キラはデスノートで多くの人間の命を奪いました。まるで貴方達死神のように。いえ、それ以上に」
『あ、あぁ‥‥』
漸く死神の口から漏れ出た声は酷く掠れていた。
「死神がノートで人間を殺せばその残りの寿命は死神の命となる。そうでしたね?」
コクリと頷く動きも酷くぎくしゃくしている。
「では、キラが殺した人間達の残りの寿命は?未来を創ったであろうエネルギーは?」
『それは‥‥』
「その答えが今の死神界の姿です。そして、この暖かな光です」
展望球に身を持たせかけたLは、今やしっかりと座り込み穏やかな表情で光の世界を眺めているキラに、月にそっと手を伸ばした。
だが、その爪の先が彼の神に触れる寸前、Lは寂しそうに自分の手を引き戻した。
「私が今月君に触ったら、私の未練は満たされ、私の魂は癒されてしまうでしょう」
『L?』
「未練こそがカルマ‥‥そして、人を動かす想い‥‥癒された私の魂は、たちまち輪廻の道とやらへ呑みこまれてしまうでしょうねぇ‥‥」
『それはお前が人間だからか?』
こちらを振り返った男は今まで見た中で一番柔らかな表情をしていた。
「貴方達死神にはどうやら魂はないようです。貴方達はエネルギーの塊が個別の意識を持った状態なのでしょう。だから、数多の人間を殺し今やとてつもなく大きなエネルギーの塊となったキラに適うはずもない。死神達は皆、甘い餌の臭いに誘われキラに近付き、不用意に触れて彼に吸収されてしまいました」
『!』
だから、この世界は更に終末世界の様相を示すようになったのだと、男は語った。
創造性の欠片もなかった死神達の無意識によって形作られていた死神界。その死神達がいなくなったことで世界は形を失った。
残されたのは未来というエネルギーを抱えたキラの残留思念、未練。
それは、誰もが幸せになる権利を持ち、そして平等にその権利を行使できる世界を創りたいという想い。
それ故に何もない大地に幾つかの展望球だけが復活した。
夜神月の夢見た世界。それが何処かに存在しているのではないかと、彼の残された想いは探し求めた。
「彼は裸足の足でこの乾ききった大地を歩き、時には空を駈け、展望球から展望球へと渡り探し続けた。私はその後を必死に追いかけることしかできませんでした。残念ながら私の声は月君に届かなかったので‥‥」
もしかしたら、今の彼に夜神月の記憶はもう残っていないのかもしれません。
そうポツリと呟いた男は本当に悲しそうだった。
「そうして漸く見つけたのが此処です。此処から見える人間界です」
まだ生まれたばかりなのだと、男は優しい声で教えてくれた。
「けれど、此処を見つけてからも月君は展望球を見て回っています」
『どうしてだ?もうそんな必要はないはずだろ?』
「恐らく、他の人間界が気になるのでしょうね‥‥どんなに堕落した世界でも月君には見捨てられないのですよ」
だからこそキラは生まれたのだと、男は言う。
「退屈だったから、と月は言ってたぞ」
「それも有るでしょうが、それだけだったら月君もヨツバキラのようになっていたはずです。私利私欲でデスノートを使っていた。そうならなかったのは、月君の根本に人間を愛する気持ちと憂う気持ちがあったからです」
『そうなのか?』
「そう言うのを博愛というのですよ。私には欠片もなかった感情です」
死神の貴方には死んでも判らないでしょうね。
その言葉に黒い死神は頷く事しか出来なかった。
愛、なんて感情は判らない。ましてやその他大勢を同じように愛するなんて気持ちは逆立ちしたって判らない。死神に判るのはせいぜいが好き嫌いの程度だ。自分が林檎を好きなように月が人間を好きだったとは思えないので、どうしたって何をしたって判る日は来ないだろうと思う。
『お前も見たんだよな?そこから見える世界‥‥』
「えぇ」
『どんなだった?』
「綺麗で愛おしい世界でしたよ。けれど何時汚れてもおかしくない、未だ未だ不安定な世界でもありました。私には、まぁ、少々つまらない世界ですけどね」
『ふ~ん‥‥』
「けれど、月君には大切な世界のようです。だから月君はあぁして力を注いでいる‥‥」
ふと耳に触れた音に黒い死神は首を傾げた。それは鳥が鳴くような音、声だった。
『‥‥歌?』
「子守歌のようですね。日本語ですから、月君がお母さんに歌ってもらっていた曲なのでしょう」
判らないと、死神がますます首を傾げれば猫背の男が困ったように唇を歪ませる。
「私も‥‥月君の心境には早々辿り着けそうにありません。私は男ですし、無条件で愛してくれる親はいませんでしたし、友人にも恵まれなかった。それに、私が生きていたのは正に弱肉強食の世界。私が知っていたのはそんな世界とそこで勝ち残ろうとする人間ばかりでした‥‥ましてや今の私は、あの時点で終わってしまった存在です」
これ以上前へは進めない。それでも、彼の歌声が緩やかに降り注ぐたび穴の奥底の光が喜びに震えているのだけは感じます ――― そう言った男に死神はやはり判らないと反対側に首を傾げる。
歌声は風のようだ。天の泪のようだ、全てを等しく包む雪のようだ。いずれにしろ暖かい。
男も死神もこれはきっと良い事なのだろうと思うし、むしろ羨ましい事だと思う。逆に、それを自分だけのものにしようとは思わない。
まだ生々しい肉体を持ち、あの世知辛い世界でせせこましく生きている時だったら違ったかもしれないが。
そう、男は自嘲的に笑う。
「彼は未だにこの世界を彷徨っています。点在する覗き穴から見える人間界を覗いています。覗くたびに怒ったり悲しんだり、とても忙しい。これ以上、彼に傷付いて欲しくないのですが‥‥私には彼を追いかけるだけの力はありませんし、彼を慰める術も力づける術もない」
子供というのはちょっと目を離した隙に取り返しのつかない事になっていたりするのでとても心配です。
『子供?』
「えぇ、彼は子供なんですよ、やっぱり‥‥子供だから単純に理想を追いかけられるんです。大人だったら何所かで妥協してしまいますからね」
『お前も子供だろ、負けず嫌いの子供』
「さぁ‥‥どうだったのでしょう。案外、私は自分で思っていたより子供ではなくなっていたのかもしれません。成長して大人になった、とも思いませんが‥‥けれど、子供だったとは言い切れませんね。子供ならもっと単純に欲しがるでしょうから‥‥」
『あ、あぁ‥‥そうかもな。あんな回りくどい遣り方で月を自分のものにしようだなんて、子供ならきっと考えつかないよな』
微笑を湛え遙か眼下の世界に歌声を届ける存在をただ一心に見つめ続ける男を、死神はやるせない視線で窺った。
白い存在は世界を見守り、男はそんな存在を見守り ――― そのベクトルが向き合う日は果たして来るのかと、情を知らぬはずの死神を悲しませる。
Lとキラは敵同士だった。それでも、竜崎と月は魅かれあっていた。
今なら死神にもそれが判る。
「死神‥‥私はこれでも貴方に感謝しているのですよ」
『う、ほ‥‥?』
いきなりそんな事を云われ黒い死神が大きな目を更に大きく見開く。
「貴方という存在がいなければ月君がキラになる事はありませんでした。そして、キラが生まれなければ私が月君に出会う事はなかった。私達二人の出会いを導いてくれた貴方に、私は感謝しています」
『う‥‥あ‥‥』
キラの裁きはただの人殺しじゃないのか?と聞き返しそうになり死神はグッと歯を噛みしめる。
「もちろん、お父さんの後を継いで刑事を目指していた月君のことですから、何事もなければきっと優秀な、日本警察の中枢を担う刑事になっていた事でしょう。そうなれば、探偵Lと共に仕事をする機会が巡っていたかもしれない。けれど月君の性格なら、決して自分の身を危険に晒そうとしないLを好きになる事はありません。Lの方も月君を偽善者と侮り興味を持つ事はないでしょう。いえ、そもそも月君ほど優秀なら、日本で起きた事件がLの所に回って来ること自体ないかもしれません」
そうなったら、出逢いそのものがなくなってしまう。
「だから、やはり私は貴方に感謝します。ありがとう、死神」
まさかLからそんな言葉を聞く日が来るとは思っていなかった死神は、返す言葉もなくただ目を白黒させるばかり。
「それで?これから貴方はどうするつもりですか?たった一人残った死神さん?」
『うぁっ?く‥‥』
思い出したその事実に黒い死神はとたんに表情を歪めた。
失われた仲間達が懐かしい訳ではない、一人きりが寂しい訳ではない。だからと言って、この状態に我慢できるのかと問われれば、それは無理だと答えるしかない。
『人間界に戻っても面白い事はなさそうだしな‥‥かといってここに残っても‥‥』
責めて月が振り返ってくれれば何かが変わるかもしれない。けれど月はLにさえ気付かないのだ。そんな月が自分に気付くとはとても思えなかった。
『あ‥‥?』
何時しか途切れ途切れになっていた歌声が夜を迎え萎んでいく華のように消えていた。
人間界を眺める事に満足したのだろう。彼は穏やかに息を吐き出すと、さり気無い動きで顔を上げた。
その眼差しが、ふと一人の男を捉える。
「月君‥‥!」
ほんの一瞬だけ、微笑みが男に向けられたようだった。
Lが感極まっている間に彼は音もなく立ち上がり展望球を背に歩き出す。その歩みは堅く乾いた大地を歩いているとはとても思えないほどすべらかで、水面を進む水鳥にも似ている。
『なぁ‥‥』
「何でしょう」
それっきり振り返ることなく歩き去る彼の後ろ姿を見つめながら、幽霊となってしまった男と最後の死神が会話を交わす。
『お前は一緒に行かないのか?』
「行きたいのはやまやまですが、追い付けないのでは行っても仕方がありません」
『幽霊なんだろ?空、飛べるんじゃないのか?』
「それが何故か飛べないんですよ。腹も減りませんし眠くもならないのですが、それ以外は人間だった時と全く一緒で、私の移動手段はこの二本の足だけなんです」
とても仲が良いとは思えないその会話は酷く単調で何所にも熱を感じない。彼らにとって興味があるのは、お互いではなく、去り行く存在だけなのだ。
『何所が幽霊?』
「だから、残留思念だと言っているでしょ。むしろ、此処を知って地縛霊になってしまったのかもしれませんね」
『なんだ?そりゃぁ?』
「一つの場所から動けない幽霊の事です」
『まんま、今のお前だな。L』
「だからそうだと言ってるでしょ」
その間にも白い姿は遙か水平線の彼方へと消えてしまった。
『俺は‥‥月に付いて行く。お前といても退屈だろうからな』
「貴方だけ行く気ですか?恨みますよ?」
『好きにしろ』
「えぇ、好きにします」
死神は黒い翼を広げると一度大きく羽ばたかせ、ふわりと宙に浮き上った。
「さようなら、死神。私達の愚かなカササギ」
『は?』
別れの言葉に振り返れば、男は展望球の前に座り込み全くやる気のない顔で穴を覗きこんでいた。
「いえ‥‥巡り巡って再び月君が此処へ戻って来るのを待っている私は‥‥とても健気だと思いましてね」
『健気?お前が?』
「まるで、一年に一度しか出会えない牽牛と織姫のようではないかと‥‥そうなると、私達の出会いのきっかけを作った死神の貴方は‥‥その黒い姿とも相まって、さしずめ天の川に橋をかけるカササギのようだと、そう思ったのですよ」
『‥‥判かんねぇ』
「バカに言っても無駄でした」
バカと言われ怒ったのか、黒い死神は『あばよ』と一言だけ言い捨て、遙か上空へと舞い上がった。
「えぇ‥‥さよなら、死神」
『いた‥‥月だ』
それは幾つ目の展望球だったろうか。
その身に巻きつく白く光沢のある布をなびかせ空を歩くように渡る彼が舞い降りた場所は、その他多くの展望球と何所が違うかなど全く判らない、同じ風景の中に同じようにぽつりとそこにあった。
『月‥‥キラ‥‥』
ただ違うのは、その穴の中を覗き込む彼の表情がとても悲しそうであること‥‥‥
『何か嫌な事があったのか?嫌なものを‥‥見ちまったのか?』
月の泣き顔なんて、父親の総一郎が死んだ時しか見た事がなかった。死の間際ですら、彼は泣かなかったというのに。
『すまん‥‥すまん‥‥俺がお前を殺しちまった。俺がお前の夢を壊しちまった‥‥』
胸の奥がチクチクする。
これは『痛み』というやつだ。心の痛み。
『月、月‥‥すまねぇ、月‥‥‥』
失って初めて、自分にとって何が大切だったか判るという。
人間はそんな大切な真理を正しく導きだしていながら、何度でも愚かな選択をする。
それは死神も同じだったらしい。
『俺はバカだ‥‥あの時の俺は、自分が何故お前の傍にいたのか、その理由を考えてなかった‥‥』
ニアに負けた月ではもう面白い物は見られないと思った。だから殺した。見捨てた。
また退屈な死神界へ戻るのかと憂鬱に思いながらも、何とかして二冊目のノートを手に入れ直ぐまた戻って来ようと思っていた。
大バカ者である。
最早月以外の人間に興味など持てなくなっていたというのに。
月といた数年間が、とても楽しかったというのに‥‥‥
『よく考えりゃぁ、判る事だよな‥‥お前がLをやっていた間、ニアとメロが出て来るまで手応えのある敵は一人も現れなかった。お前とLとの戦いのように興奮するほど面白い事は何一つ起きなかった。むしろ退屈だった‥‥それなのに俺はお前を殺して、他の奴にデスノートを渡そうとか、考えもしなかった‥‥』
俺はお前自身が気に入っていたんだな、月‥‥‥
『月‥‥‥』
いいとこのボンボンで、箱入り息子で、苦労知らずで。高慢ちきでワンマンで、直ぐ人の事をバカにして。そのくせ外面は人一倍良いから誰もがお前を『良い人だ』と言った。誰からも好かれ、慕われ、期待され、お前はそのどれにも見事応えて、決して失望させなかった。
優しかった。強かった。暖かかった。
奇麗だった。醜かった。触らせてもくれなかった。
嘘つきだった。賢かった。愚かだった。
『月‥‥!』
ただ一心に夢を見て、その夢に溺れた愚かな子供、可哀そうな子供。
『お前が一度でも金儲けや悪戯目的でノートを使っていたら‥‥俺はお前に興味を失っていたかもしれない‥‥』
誰よりも非情だったキラ。
困ったほどお人好しだった月。
『そんな矛盾だらけでもちゃんと日常生活が送れたんだから凄いよな。あのLじゃぁ、逆立ちしたって出来ない』
だからこそ傍から離れられなかった。
『お前は俺が出会った中で一番面白い人間だったよ』
創造とは無縁の死神に、もしも創造の機会が与えられるとしたら、今こそがその時なのかもしれない。
『泣くなよ、月。俺が手伝ってやるから‥‥‥』
雛を撫でる気分で伸ばした手が黒く長い爪の先から幻のように消えて行く。
痛みはない。苦しみもない。悲しみも。
あるのは彼と一つになれるという喜びだけ。
リューク‥‥‥と呼ぶ月の声が、ただ一度だけ聞こえたような気がした。
「さよなら、死神」
それが本当に最後の別れの言葉になるだろう事をLは確信していた。
あの死神もまた、彼に呑まれてしまうだろうと、そう思った。
呑まれて消えて、彼の一部となる。
それを羨ましいと思う反面、それでは彼を抱きしめられないから嫌だなぁと思う。
「いい加減私も、強欲ですねぇ‥‥」
堅い大地に尻を突き、抱え込んだ両膝に顎を置き遙か地平線の彼方を見やる。
「今の私を支えているのは、あの一夏の記憶です。二十数年生きて来た中で、最も私を苛立たせた日々の記憶‥‥」
24時間他人とつかず離れず、体温や息遣いまで感じられる距離でプライベートもビジネスも一緒に過ごすなんて、初めての経験だった。
しかも相手は敵、謎を解明し、罪を暴くべき獲物。そして、いつ寝首を掻かれてもおかしくない殺人鬼。
「私は何時も貴方を見張っていた‥‥素知らぬ振りをして、片時も貴方から目を離さなかった‥‥貴方を疑っていると、言葉にさえした」
実際にはそうではなかったと、今は知っている。そんな存在ではなかったと‥‥‥
「貴方はそんな私から目を逸らしませんでしたね‥‥月君」
キラの記憶を失った彼は敵どころか心強い味方だった。
得難い友だった。友となれるはずの存在だった。
「負けず嫌いの貴方は自力で疑いを晴らそうと頑張りました‥‥そして、私に協力しながらも、私に期待することはしなかった‥‥」
受け入れなかったのはどちらなのか。
「たぶん、私のせいなのが‥‥80%でしょう」
互いに互いの気持ちが一番理解できる存在であるにもかかわらず ――― 似た者同士だから ――― 何か切っ掛けがなければ ――― 余りに育った環境が違いすぎて ――― 心を許しあえる存在にはなれなかった。
何故なら、二人の間には決定的に足りないものがあったからだ。
「私達は最後の最後まで、互いを信頼し合う事が出来ませんでした」
信用はしていた。お互いの能力については認めあっていた。まさに阿吽の呼吸で仕事をこなす事が出来るくらい最高最強のパートナーだった。
「折れなかったのは‥‥私ですね‥‥」
結局、仕事に徹し切れなかった彼は片割れにいらぬ心を砕き自ら傷を負った。生活習慣のなっていない男に我慢できず手を出し、何かに付けて幼い頃の妹に接するように世話を焼いた。それは彼にとっては当然の事だったのだろう。他人を心配する事は、息をするのと同じくらい自然の事だったのだ。
だが、男にとってそれは理解の範疇を超えていた。そんな人間がいる事は知っていたが、認められる存在ではなかった。
世の中はギブ・アンド・テイク、見返りを求めない愛情ほど胡散臭いものはない。結局は自己満足に過ぎない。従って、彼の行動には必ずや裏があるのだと、男は思った。プライベートを乱して情報を探る気かとますます疑いを強くした。
純粋な親切心など、マザー・テレサだけで十分だ。
それが男の持論だった。
『懐柔しようとしても無駄ですよ』
他の捜査員達のいないプライベート空間で、そう冷たく言い放った男に彼は困ったような笑顔を返した。
『お前らしい反応だな、竜崎』
そう言って笑いながらシーツが濡れるからとタオルで男の髪を拭いてくれたのは、未だ二十歳にもならない青年だった。まだ一度も社会の波にもまれた事のない、被保護者だった。
『僕がやりたいからやってるんだ。お前に僕を止める権利はない。僕だってストレスは堪るんだからな。お前は毎日甘い物を食べていればそれなりに満足できるかもしれないけど、僕は何所にもストレスの捌け口がないんだ』
『私は月君のストレスの捌け口ですか?痛いくらい髪を引っ張るのが?』
『非合法な監禁に付き合ってやってるんだ、それくらい我慢しろ』
『放漫ですね』
『お前ほどじゃぁないよ』
何度となくそんな会話が繰り返され、男は彼の世話焼きを黙認する事にした。口で言い負かせない相手は初めてで、その会話が楽しかったからだと気付いたのは何時だったか‥‥‥
触れて来る指の圧迫、体温。乱暴にされても、優しくされても、どちらも心地良いと思ったのは‥‥‥
「貴方がキラであろうとなかろうと、あの一夏がとても楽しい時間だったと‥‥せめて口にする事が出来ていたなら、私達の関係は変わっていたでしょうか」
彼は言ってくれたのだ。
『これをしている限り、死ぬ時は一緒じゃないのか?』
あれは彼の本心だった。自分は竜崎の味方なのだという、彼の勢一杯のアピールだった。
それをいらないと突っぱねたのは自分だ。
「私と貴方が手を組めば‥‥もしかしたらデスノートなんかなくとも、少しは世の中を良い方向へ変える事が出来たかもしれない‥‥この私でさえそう思ったのですから、貴方も同じ事を考えてくれましたよね?月君」
秘められた謎を暴きたい一心で、夜神月の想いを無碍にしたのは自分だ。
例え記憶を取り戻しても、再びキラの道を歩む事を思い留まらせられたかもしれない一瞬を、冷たく無視したのは探偵L ―――
「あの時私は、Lとしてではなく、一人の人間として貴方に応えなければならなかった‥‥そうですよね?貴方も、それを望んでいたんですよね?」
そうして夜神月は本当にキラになってしまった。
まだ社会的地位も力も持たなかった一人の子供に出来る事は限られていたから。じっくり待つだけの我慢がきかない子供だったから。
そんな子供を導いてやるのが大人の有るべき姿だというのに ―――
「あぁ‥‥結局は私も子供だったということですか‥‥」
男の、竜崎の口から失笑が漏れる。
全ては遅い、もう戻れない、帰れない。
「私はね、月君。正義なんてどうでもよかったんです。人々を救うだとか、世の中を良くするだとか、そんな面倒臭いこと、やりたい奴がやればいいと、そう思っていたんです。実際そう思っている人間はそれなりにいて、貴方のお父さんもそうでしたね‥‥皆それなりに頑張っていましたから、私の出る幕はないと思っていました。私は私のやるべき事をやる、私のやりたい事をやる。それで誰かが助かったと思うなら、一石二鳥ではないか、とね」
けれど ―――
「どんな言葉も、多くの知識も、たった一つの実体験には遠く及ばない‥‥」
彼に出会い、自分の中の何かが変わってしまったのかもしれない。
それに気付く前に死んでしまった事を、竜崎は心の底から悔しいと思った。
「今も本心では、人間なんてどうでもいいと思っています、けれど‥‥貴方がそうしたいのなら、手伝ってもいいかと、思うのですよ」
生きている間に出来なかった事を、例え貴方が私を忘れてしまったとしても、私は今貴方にしてあげたい ―――
「貴方が泣いて帰って来たら慰めてあげます。怒りがなら帰ってきたら、宥めてあげます。私は貴方より大人なんですから」
堅いゴツゴツした展望球にもたれかかり竜崎は星も月も無い真っ黒な空を見上げた。
今頃彼は何所にいるのだろう。どんな世界を覗いているのだろう。
できる事なら、もう失望だけはして欲しくない。
自分は一人なのだと、思って欲しくない。
冷たく突き放したあの時、夜神月が感じた事はまさしくそれなのだから‥‥‥
二人の存在を繋ぐのはこの真っ暗な何もない空。
カササギは役目を終えて翼を失い、もう二度とその空を飛ぶことはない。
二人を繋ぐのは儚い光。
互いの望みは遠く離れてしまったけれど、微かな一条の光が残っている限り諦める必要はない、と言い聞かせてみる。
そして何時か、想いを注いだ世界に生まれ変わり再び一人の人間として出会えたなら、今度こそ間違わないと誓う。
『会いたかったです』
そう笑って言って、
『僕もだよ』
と、笑って答えて欲しい。
『今度は二人で一緒にやりましょう』
『何を?』
『何でもいいです。貴方と一緒なら』
『僕は我儘だよ』
『私もですから気にしません』
『そうだな、今さらか』
きっと毎日が喧嘩だろう。
自分の方が大人だからと怒った彼のご機嫌を取れば、困った大人の世話を焼くのは自分の役目だからと喧嘩中もクルクル動き回るだろう彼。
そんな何でもない日常をあの一夏の延長に夢見て、男は静かに目を閉じた。
終
後記
七夕合わせで書いた話なのですが、何処が七夕なのか‥‥
無理矢理『カササギ』を出してこじつけただけの気がします。
L月のつもりで書いていたのですが、気分はリュ月。まぁ、ラストはちゃんとL月になりました。
仕上がってみれば小ネタ満載の話、それぞれのネタで話を書けばそれなりの数の話になったのでは?
そんな事よりも、書いた本人驚いたのが、Lが月に指一本触っていないこと。
キスどころかただ見てるだけですよ、おい。エロの欠片どころじゃない。
ますますエロから遠いサイトになって行く‥‥
2008.7.13(初出) NWS