~誰そ彼~
魅上照は頭の良い、そして善悪の区別がつくとても道徳的な子供である。
それは大人達が模範的な子供と称するものであり、そして、とても稀な存在の子供でもある。
何が稀であるかと言えば、道徳心とは往々にして成長に従い磨滅していくものだからである。つまり彼は何時まで経っても社会規範への礼節を忘れない子供だったのである。
それが彼の運命を変える要因だったのかどうかは、誰も知らない ―――
その日、魅上照は少し痛む足を引き摺るようにして家路を辿っていた。部活の最中にぶつけた足が腫れて痛かったのだ。
中学3年になってから彼はテニス部に籍を置き、1・2年の時同様毎日真面目に部活をしている。以前は剣道部に所属していたが、それも今年の冬までだった。少し大きな怪我をして、担任からも部活の顧問からも他の部に移るよう説得されたのだ。
左橈骨の骨折。軽いものではあったが骨折は骨折である。照は暫くの間病院に通いギブスをはめていた。原因は他の部員達によるリンチ。リンチとは言ってもそう大がかりなものではない。いつものからかいが少しばかりエスカレートし、数人で小突き回しているうちに照が倒れ、そこへ運悪く誰かが足を踏み出し照の左腕を踏んでしまったのだ。
照の痛がりように尋常ではないと気付いた一人が慌てて校医を呼びに行った事からしても彼らにそう悪気があった訳ではない。だが、照にとっては人の嫌がる事をする者達はすべからく許されざる者、悪だった。
口を揃えて何もしていないと嘯く部員達に怒り、照ははっきりと彼らに暴力を振るわれたと教師に告げた。悪いのは部活帰りに一年生を脅しコンビニで食べ物を買わせていた彼らが悪いのだ、自分はそれを注意しただけだと照は主張した。
それは確かに『カツアゲ』と言われるものであったが、被害者は一年生部員のおよそ半数だったこともあり、一人当たりの金額はそう大したものではなかった。だから被害にあった生徒達も顧問や教師に訴え事を大きくする事はなかった。大きくして本格的に虐められるのを恐れていたとも言う。
だが、照はそんな妥協を許さなかった。泣き寝入りする事はないのだと、一人息まいてカツアゲしていた上級生に忠告をした。自分が被害者を含めた全部員から煙たがられているとも知らずに。
そうして照への嫌がらせが始まり ――― 彼らは照が自主的に部を辞める事を望んでいたのかもしれない ――― 遂には教師達の知る所となったのである。
いじめは正すより隠蔽する方が簡単である。
下手に表沙汰になる事を恐れた学校側は、照の母親に頼み込み事故として処理してしまった。同時に生徒達にも硬く口止めをした。その後照には今の部を辞めるよう説得した。自分は間違っていないと信じる照は当然その対応に憤ったが周囲はそうではなかった。
怪我をした一週間後、部に顔を出した照へ向けられた部員達の視線は実に冷ややかな物だった。それを敏感に察し、
『こいつらも同じか‥‥』
照はそう思った。
正しい事をなそうとする、間違った事を正そうとする照を邪魔する者はとても多い。しかも、理を尽くしてではなく暴力で ―――
照は第三者から見ればいじめの被害者である。しかし、照自身はそうは思っていない。
幼い頃から照の心の中には常に正しき道があった。それは決して誰にも非難できないものである。事実誰もそれを間違っているとは言わない、言えない。ただ嫌そうに顔を顰めるか唾棄するか、もしくはせせら笑うだけである。
それは彼らに非があると彼ら自身が認めているからに他ならない。従って、照はいじめの被害者ではない。そして彼らはいじめの加害者ではない。照は正義の殉教者であり、彼らはそれを邪魔する悪だった。
そうして、この世の中はそんな悪で満ち溢れている。
学校という極めて閉鎖的な社会にも悪ははびこっている。
それを数年かけて理解した照は、最近、悪は消えてなくなるしかないと思い始めていた。更正など無意味だと、悟り始めていた。
当初照は怪我をさせられても剣道部を辞める気はなかった。正しいのは照であって、間違っているのはその他だったからだ。だが、部に復帰して直ぐに部員達が心を入れ替える事はないと悟った照は、教師達の執拗な説得を受け入れた。始めたからには最後までやるというのが彼の信条だったが、それを貫くのにここは相応しくないと思ったからだ。
そして3年に進級してから照はテニス部に入り直した。
健全なる精神は健全なる肉体に宿る。それを実行するためにも部活動は必要だと照は思っていたから。
中途入部に元からの部員達はあまりいい顔をしなかった。同じ部の同級生が照の他人には厄介な性格を風潮したせいもあり、照は初めから皆に敬遠された。剣道部での事件もいつの間にか皆に知れ渡っていた。どんなに教師達が口止めしようと、人の口に戸は立てられないという良い例だ。
それでも初めのうちは顧問が目を光らせていた事もあり何事も起きなかった。だが、それは長続きせず、5月の中頃から照への嫌がらせがここでも始まった。
皮肉な事にそれを率先して行ったのはクラスメイトであった。1年生の時照がいじめから助け、照が代わりにいじめの対象となる事でそこから救われた少年である。
そして今日の軽い怪我もそのクラスメイトが発端だった。
新人なんだから後片付けは全部お前がしろ、といちゃもんを付けて全てを輝に押し付けた。それだけで飽き足らず大荷物を抱えた彼の足を引っ掛け転ばせた。何もできず盛大に転んだ照を彼は大いに笑った。こんな事をして何が楽しいのか照には一生理解できない出来事だ。
被害者が加害者に。過去の苦しみを忘れ、その苦しみを今度は自分が他人に与えて喜ぶ。
何度も見て来たその姿に照は心底うんざりし、憤慨し、そして何かを酷く罵った。
悪はこの世から消えなければならない。削除しなければならない。
この世に在っていいのは正しい者だけである ―――
照は一人心の中でそう叫んだ。
「そこで何をしている!?」
イライラしていたのだと思う。正しい者が自分以外誰一人としていないこの現実に、ズクズクと痛む足に、流石の照の心も陰鬱に沈んでいたから。
帰り道の公園で先日見つけた野良猫。同じ中学の生徒に苛められていたのを助け、本当は家に連れて帰りたかったが一緒に暮らしている祖母が猫アレルギーだったから叶わず、仕方なく毎日餌を持って様子を見に来ていた。今日もそうしようと思っていたのだが、公園に足を踏み入れいつもの場所に餌を置き猫の泣き真似をしても、いつものように野良猫が来る事はなかった。
嫌な予感がして辺りを探しまわると、広くも狭くもない公園の生い茂った茂みの中に蹲った子供の背中を見つけた。
「何をしているんだ!?」
真っ先に思い浮かんだのは猫をいじめる子供の姿。鞄を放り出し、慌ててその背中を押しやろうとして、その子供が振り返る。
「え?」
そうして眼に入って来たのは、柔らかい地面に掘られた穴と、誰が見ても生きているとはとても思えない無残な野良猫の死体だった。
驚愕から、その子供を怒鳴ろうとした矢先、
「この猫、お兄さんの猫?」
子供の方が先に口を開いた。
傍らに白いガーゼのハンカチを広げそこに赤黒い汚れを纏わりつかせた猫を置き、両手を土に汚した子供は黄昏のほんのり朱暗い空の下でそう囁いた。
それは酷く落ち着いて興奮の欠片もない、それでいて眠りを誘うような暖かさを滲ませていた。
「い、いや‥‥」
思わずそう答えて、照は我知らず振り上げていた手を慌てて下した。日頃あれほど忌み嫌い否定している暴力を振るおうとした自分に聊かショックを受ける。
「じゃぁ、野良なんだ‥‥もしかしてお兄さん、毎日様子を見に来てた?」
「‥‥‥‥」
無暗に口を開閉し何か答えようとするが何の言葉も出て来ない。仕方なく照はコクリと頷く事でそれを肯定した。
それだけで照の心理を理解したとでも言うように、子供はハンカチに包んだ猫の死骸を木の根元に掘った穴にそっと沈めた。
「可哀そうだけど、死んじゃったよ、この子」
改めてそれを指摘され照の体が震える。
「き‥‥君が、やったのか?」
「違う。お兄さんと同じ制服を着た中学生」
「!」
帰って来た答えにその震えが一瞬大きくなる。
「4人いたかな?コンビニに行く途中でここを通りかかった時、何か騒いでいるのを見たよ。帰って来る頃にはもういなかった。気になって公園の中探したら猫が死んでた」
可哀そうに‥‥‥そう呟く声は変声期前の幼い少年のものだ。
その時になって漸く子供が小学生だと意識する。恐らくは高学年、5年生か6年生だろう。
「埋葬‥‥してくれたんだね」
「うん。野晒って、やっぱり可哀そうだからね」
少年がハンカチにくるまれたままの猫にそっと土を掛け、その土と血で汚れた手を合わせ瞑目する姿にジワリと目頭が熱くなる。不意に自分の体から力が抜けて行くのを感じ、照はガクリとその場に膝をついた。制服が汚れる事など念頭にはない。
先ほどの激情が嘘のように、照の心は今静かな悲しみが満ちようとしている。
「懐いて‥‥くれてたんだ‥‥」
「そう」
「苛められてるのを僕が助けて、毎日のように餌をやりにきた‥‥」
「ふ~ん」
「可愛かった‥‥」
一滴零した涙が頬を伝い顎を伝い、少年と同じように合わせた手にポタリと落ちる。
「可哀そうな事をした‥‥」
「お兄さんのせいじゃないと思うよ」
「‥‥そうかもしれない‥‥でも、僕が家に連れ帰っていればこんな事には‥‥」
純粋な悲しみに後悔の念が被さる。その裏で、犯人への怒りがフツフツとこみ上る。そこには憎しみと言う暗い感情も僅かに滲んでいた。
「やった連中の顔覚えてる?」
だからだろうか、意識することなくそんな言葉が照の唇から洩れていた。
「覚えてるけど‥‥何?」
言ってから視線を感じハッとなる。
傍らの同じように蹲る少年のあどけない表情に照は我知らず身が竦むのを感じた。
「ひ、一言注意しようと思って」
「あぁ‥‥」
少年は再び地面に視線を戻し、一~二度猫の死体が埋まった辺りを優しく撫でた。
「僕はまた、その連中に報復するのかと思っちゃった。猫の代わりに‥‥」
「!」
その不穏な言葉は年端もいかない子供に似つかわしくないものだった。
仕返しではなく、報復。
「そ、そんな事はしないよ。でも、悪い事をしたんだからちゃんとそれは指摘してやらないと‥‥でなけりゃ、連中は絶対に自分のしたことを反省しない。後悔もしないからね」
命を粗末にするもんじゃない。どんな小さなものの命もたった一つの命には変わりないのだから。
そう付け足した照に少年がコトリと首を傾げ『そうだね』と呟く。
「反省なくして人は進歩しない。反省がなければ人はまた繰り返す」
「え?」
「でも、あの4人、言って判るような連中には見えなかったけど?」
「そ、そんな事はないよ。人間話し合えば判り合えるんだから」
余りに懐疑的なその言葉に照はあわててそう言った。
「それって、お兄さんの経験談?」
唐突に聞かれて照は直ぐに答える事が出来なかった。
分別の付いていない子供が思わず振るう暴力とは違う、暴力が相手に与える恐怖を理解したうえで、その行為を相手を従わせる手段に用いる。人間は成長と共にそれを知る。それを悪用する事を覚える。平気で行う。
そんな輩が世の中どれほど多いか、照は齢14にしてもう十分に知っていた。己が身をもって納得していた。その手の連中に言って聞かせる言葉はない事も。
「手、洗おうか」
照は自分が表情をなくしたことにも気付かず、自分の代わりに可哀そうな命を慰めてくれた少年の手を取り立ち上がった。
互いに見ず知らずの二人は公園の片隅にある水飲み場で手を洗った。照は少年の自分より小さな手を流れ落ちる水の下に持って来て、爪の間に入った泥やこびり付いた猫の血を丁寧に擦って落とした。
そうして奇麗になった少年の手は、名もない命を埋葬するに値する清らかな手だった。土を搔く事で出来たであろう小さな傷すら清く美しい。
「ありがとうね」
思わず吐いて出た言葉は照の本心だ。
「ううん。当然の事だもの」
そうして、帰ってきた言葉に一人胸を熱くする。
照はズボンのポケットからハンカチを取り出し濡れた少年の手を拭いてやった。
「君は、こも近くに住んでるの?」
こんな良い子に看取られた猫はきっと天国に行けるだろう。
「うん」
「‥‥あまり見かけないけど‥‥」
「最近引っ越して来たんだ」
「そうだったんだ」
穏やかな会話も照の暗く落ち込んだ気持ちを慰めてくれる。
五つ六つ下だろうか。同じ学校に通う事はなさそうだけれど、こんな子となら友達になりたい ――― 中学に進学してから一人また一人と友達のいなくなった照はそんな事をぼんやりと思った。
かつて友達だった者達は暴力に負け照を裏切った。暴力に屈し、その暴力の奴隷となり、そのうちの何人かは自らが暴力を振るう側に堕ちた。
暴力の理不尽さを、恐怖と苦痛を知っていながら、それを自分以外の人間に振るう事を選んだ彼らを今の照は軽蔑している。話し合って、励まし合って、元の友達に戻りたいと思った時期はとうに過ぎてしまった。
話し合えば判りあえるなんて嘘っぱちだ。人は直ぐに安易な道に走る。
言葉による相互理解の難しさ、自分の欲望を我慢する事の煩わしさ、相手の気持ちを慮る面倒臭さから目を逸らし、自分が有利に立つために力に訴える。そして、大切な言葉は恐喝にしか使わない。
「お兄さん。足、怪我してるの?」
「え?」
「大丈夫?」
「あ、あぁ。ちょっとぶつけただけだから」
それは間違いないだろう。以前のように骨が折れたとか、罅が入ったとか、そこまで酷い怪我はしていない。血も出ていない。けれど、打ち身で腫れあがった個所は熱を持ち照の足取りを重くしている。鈍い痛みがなかなか引かず、明日には不気味な青痣になるだろう。
見えない場所だから教師達がそれを見咎める事はなく、加害者も反省する事はなく、照の胸の内だけに暗い思いを募らせていくのだろう。
「お兄さんも、あの猫と同じ?」
湿ったハンカチをポケットに戻そうとして照は思わず動きを止めた。
「誰かに苛められた?」
目の前に何をするでもなく佇む少年の、夕暮れに沈むシルエット。
その色彩は判りにくいが、あどけないと感じた容貌は未だ何とか認める事が出来る。
「やめてくれって言った?抵抗した?咎めた?諭した?それとも、黙ってやられた?」
人形のように可愛らしい少年にじっと見つめられ、そして、その清らかさを先ほど感じたばかりの照はその並々ならぬ視線の強さに意識を奪われた。
社会の理不尽さに、人間の愚かしさに辟易し始めていた照に注がれる視線は、何時でも何処でも不快なものでしかなかった。だから今、純真無垢とも思えるあどけない少年の眼差しがとてつもなく優しいものに感じられる。
「い、言ったとも!どうしてこんな事をするんだって、こんな事をして何になるんだって!こんな事をしていいと思っているのか、悪い事をしたとは思わないのかって、何度も言ったさ!!」
「でも、誰もお兄さんの言葉を聞いてくれなかったんだね」
「あいつらは腐ってる!あいつらにはもう何を言ったって無駄なんだ!!」
先程とは正反対の言葉を叫び、照は自分の足元を睨んだ。
天を仰げないのは何所にも希望がないからだ。この理不尽で腐った社会を正す道が見つからないから。自分の力の無さに挫けそうだから。
「大丈夫。お兄さんは間違ってないよ」
「!?」
「お兄さんは正しい。でも、お兄さんの言う通り、世の中にはどうしようもない人間が多すぎて、お兄さんの正しい道を邪魔しようとする。でも、それに負けるようなお兄さんじゃないよね?」
「‥‥僕は‥‥」
少年はゆっくりと照に近付くと、握りしめた照の拳をそっと撫でた。
「お兄さんに力がないのは仕方ないよ。だってまだ子供なんだから。でも、今の気持ちを忘れないまま大人になれば、きっとお兄さんは強い力を持つようになってると思うよ」
だって、そのための努力をお兄さんは厭わないでしょ?
そう言って微笑んだ少年は少女のように可愛らしく、やはり清らかだった。
「気をつけてね」
小さく手を振って公園を去っていく少年を照はその場に立ち尽くしたまま見送った。
暮れゆく黄昏、闇に沈む人影。
陽が落ちきっても、照はその場を動く事が出来なかった。
「おかえりなさい、照」
見ず知らずの少年との心に残る出会いの後、幾分軽やかな足取りで家に帰った照は、珍しく早く帰っていた母親の受けたくもない出迎えを受けた。
「‥‥ただいま」
微笑んでいながらも何所か不安げな母親の少し疲れの見える顔に一瞬眉をしかめ、照は一言そう呟いてうっそりと家に上がった。とたんに体が重く感じられ、怪我をした足が再び痛みを訴え出す。
「夕飯、出来てるわよ。早く着替えていらっしゃい」
「‥‥はい」
本当は返事なんかしたくないけれど、挨拶は人としての礼儀と思っている彼は不承不承母親の言葉に返事を返す。
実のところ、照と母親の仲は最近とても悪い。それは照からの一方的な拒絶として表れている。
女手一つで自分を育ててくれた母親を以前の照はとても尊敬し信頼していた。だが、ある事を切っ掛けに今では冷たい態度をとるようになった。思春期特有の女親を鬱陶しがるのとは違い、彼女を一人の人間として軽蔑していた。そんな一人息子を彼女はただ只管に心配していたが、それは照に少しも通じていなかった。
「照‥‥」
学校の鞄を下げ俯き加減に廊下を歩く息子を彼女はまさしく母親の目で見守る。だからこそ、照の些細な変化にも彼女はいち早く気付いた。
「?照‥‥足、どうかした?怪我したの?」
「別に‥‥」
だが、返って来た照の返事はそっけないものだった。春先からずっとこんな調子である。その原因を彼女はよく知っていた。
「まさか、また誰かに苛められて‥‥」
「関係ない!」
そう叫ぶや、怪我なんかしてないとでも言うように階段を駆け上がって行く照。だが、何度か体が傾ぎ壁に手を付いた事で、それがただの強がりだという事を彼女に晒してしまう。
「照!待ちなさい、照!」
バタッ、バタッと、少し不規則な足音を残し2階の自室に引き籠ってしまった照、息子に、彼女は溜息をつくしかなかった。
「‥‥あれ程見て見ぬ振りをしなさいと言ったのに‥‥また余計な加勢をしたのかしら‥‥」
彼女の息子は誰が見ても良く出来た手の掛からない子供である。素直だし勤勉だし、何より人を思いやる事の出来る優しい子だ。彼女はそれを誇りに思っているし誰よりも息子を愛している。たとえ勉強が出来なくても悪ガキでもそれは変わらない。自分が腹を痛めて生んだのだから当然だろう。
そして、平凡な母親らしく一番に願うのは息子の穏やかな日常である。その願いどおり多少のトラブルはあったものの、息子は友達にも恵まれ健やかに真っ直ぐに育ってくれた。
けれど、それは照が中学に上がった頃から崩れ出した。原因は彼女が誇りに思っていた息子の気質にある。照は曲った事が、間違った事が大嫌いなのだ。人一番強い正義感からそれを正さないではおけない。
そんな彼を同年代の子供達が素直に受け止めてくれたのは小学校までだった。思春期になるにつれ彼らは照の正義感を煙たがり、しまいには排除にかかった。非は当然向こうにある。彼女は息子の正しさを疑っていない。
けれど、世の中と言うものは必ずしも正しさだけが罷り通るものではない。大人の彼女はそれを良く知っていた。だから、息子が嫌がるのを承知で彼女は諭した。
『世の中の誰もが照と同じ考えだとは限らないの。すべてが自分の思い通りに行くとは限らなの‥‥だからね、照。無理をして貴方が割を食う必要はないのよ。だから‥‥だからもう、やめなさい』
クラスで苛められている友人を庇った事で逆にイジメの対象になってしまった息子を彼女は心配したのだ。だから遠回しに見て見ぬ振りをしろと、息子が最も嫌うであろう事を敢えて口にした。
こんな事を言えば息子に嫌われるのは目に見えていた。加えて、これくらいで息子の性格が変わるとも思わなかった。変わるようならはなから無報酬な人助けはしないだろう。息子はそんな子だと、彼女はちゃんと知っていた。
それでも彼女は言わずにおれなかった。その他大勢の母親同様、彼女も大切なのは我が子だけだったからだ。言葉による暴力も怖いが直接的な暴力も怖い。息子の目に見える怪我は彼女の寿命を縮めるに十分な効果を持っていた。
そうして案の定彼女は息子に嫌われた。
あれ以来息子の自分を見る目は変わってしまった。そこにあるのが軽蔑だと彼女には直ぐ判った。彼女は息子の冷たい態度に泣きたくなった。そして、どうして親の気持ちが判らないのかと腹立たしく思った。けれど、それよりも不安の方が大きく、彼女はどんなに息子に嫌われようと言い続けた。
それしか出来なかった。学校も、いじめの加害者の親も知らぬ存ぜぬだったからだ。
「照‥‥」
唯一の救いは息子が家庭内暴力に走らない事だけ。けれど、こちらにあたってくれた方がましだったかもしれないと最近では思ってしまう。
息子の内にたまった鬱積を思うと、将来がとても不安になるのだった。
最近の我が家の食卓はお通夜のようだと照は思う。
学校でままならない事があるからといって自室に引きこもるとか、家の中で暴力を振るうとか、そんな無意味な事をするつもりはない。だからといって和気あいあいと母親と話をするつもりもない。
従って、母一人子一人でありながら照と母親の意思疎通は甚だ上手くいかなくなっていた。
それは母親の『長いものには巻かれろ』的な、『自分さえ良ければいい』という身勝手な考え方を知って以来の事だ。それまではそれなりに上手く行っていたと思う ―――
照の家は母子家庭だ。5歳の時両親が離婚、それからは女手一つで育てられた。幸い母方の祖母が日中照の面倒を見てくれたので、母親が外へ働きに出ても彼は寂しい思いをする事がなかった。
離婚後直ぐに保険の外交員として働き始めた母親はこの手の仕事が性に合っていたのか、男親と変わらぬ額を毎月稼ぎずっとトップセールスを誇っている。贅沢は出来ないが世話になった祖母を引き取り、照を塾に行かせるくらいは優に稼いだ。勉強が得意な照を大学に行かせるのが夢だと、その学費も既に貯めたと自慢げに話してもいた。
もちろん、それに見合った労力と時間を母親は仕事に割いた。平日触れ合えない分、久々の休日には母親は過ぎるくらい照を構った。
愛されているのだと、そう思っていた。事実そうなのだろうと、思いもする。
それでも照には母親の言葉が許せなかった。自分可愛さのその考えが嫌でたまらなかった。
『間違っている。正しくない』
『こいつは正義を踏みにじっている』
『自分は間違っていない、自分が正しい。正しいのは自分だ』
『こんな親は親ではない‥‥こんな奴が自分の親であるはずがない』
テーブルを挟んで座り人として間違った道を説く女を照は俯き加減に睨んだ。
以来、母親は尊敬の対象から軽蔑の対象に変わった。
かつて、愛人を作り出て行った父親を口数少なく、それでも厳しく非難し『お前だけはあんな不実な男になってくれるな、常に誠実な人間であれ』と説いた照の大好きな母親はもう何所にもいないのだと、彼は確信した。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま。あの‥‥照?」
母親の用意した朝食は暖かかったが、それを美味しいと照は最早感じなくなってきていた。味覚障害な訳ではない。他で食べればちゃんと味を感じる。ただ、学校と家庭が照にとって安らげる場所ではないという事だ。はたから見れば十分なストレス症状だったが、照本人はそうと認識していない。
「何?もう学校に行くんだけど」
食事が終わり歯を磨きに行こうとして、照は母親から掛けられた声に振り替えることなく答えた。
「‥‥今日も部活?」
「部活だよ。部活は毎日だって、母さんも知ってるだろ?」
本当は『母』などと呼びたくもなかったが、取り敢えずそう口にする。
「それは判ってるけど‥‥その‥‥部活、辞められないの?」
「無理だよ。生徒は全員どこかの部に所属しないといけないから」
「じゃぁ、運動部じゃなくて文化部に変われない?」
「どうして?」
「どうしてって‥‥だって照、貴方‥‥昨日も顔に痣を作って帰って来るし。その前は足を引き摺ってたし‥‥」
仕事が忙しい母ではあるが、決して子供を顧みない母ではない。特に照がいじめに合いだしてからは彼の事を良く見ている。けれど、今の照にはそれが偽善としか映らなかった。
「部活で‥‥苛められてるんでしょ?」
「だったら何?僕は悪い事はしてない。悪いのは向こうだ。僕が部を辞める理由は何所にもない」
あれは『いじめ』という名の悪なのだ。
「でもね、照‥‥」
照は話を切り上げサッサと洗面所へ向かった。背後で母親が溜息を洩らしたようだったが彼はそれを無視した。
照が家を出た後、母親が仕事にも行かずリビングのソファに座りこみ泣いていたのを彼は知らない。それを祖母が一生懸命慰めていたのを知らない。
そんなふうにその日は朝から不愉快な事ばかり続いた。
学校では毎日何が楽しいのかクラスメイトが照に絡み意味もなく暴力を振るった。部活では全部員に無視された。下らない奴らばかりだと照は思った。
その下らない奴らにラケットを壊され ――― ちょっと目を離した隙にガットをズタズタに切られてしまった ――― 修理に幾ら掛かるだろうかと少し憂鬱になりながら照は下校した。
嫌な事ばかりの毎日だが、照は決してそこから逃げようとは思わない。正しい自分に逃げる理由はない、というのが理由だ。負けてなるものか、という気持ちもあったかもしれない。
けれど、そう思う心の裏側で日々募って行くのは『悪など滅びてしまえ。悪は消えて当然』という暗い勧善懲悪の思いだった。もちろん、誰もそんな照の心の奥底に気付かない。クラスメイトや教師達は照を全くの変人扱いしているし、母親はただ心配するだけで照の気持ちを理解しようとしてくれない。
自分はこの世でただ一人、正しいのは自分一人 ――― そんな思いに徐々に蝕まれた照が『善とは何と孤独なのか』と思うようになるのはある意味必然だった。
「あ‥‥」
照にとって家は既に安らぎの場とは言い難かったけれど、そこへ帰るしかない照は何時ものように重い足取りで家路を辿っていた。
そうして通りかかったのは例の公園。
あの猫はもういないのだと、急に思い出され足を止める。
人間に苛められ人間を警戒して当然の猫が、助けた照にだけは何故か直ぐに懐いて、それがとても嬉しくて毎日様子を見に来た。獣ですら恩を忘れないのに霊長類と己を誉めそやす人間が、それを蔑にして平気なのが忌々しくてならない。堕落した今の世の中を無意識に嘆き憤る。
その状態を人は『厭世感に苛まれる』と称するのだが、前向きをモットーとする照にその自覚はない。
住宅街の中の木々に囲まれた広くもなく狭くもない児童公園。数少ない遊具と古びたベンチが夕暮れ前の静けさに暗い影を落としている。反対側の出入り口から何人かの子供達が走り出て行くのをボンヤリと眺めながら、そういえば先日の子は何処の家の子だったのだろうと考える。
もう一度会いたいと思う自分に、あんな小さい子に何故?と考える。
猫を憐れみ弔ってくれた心優しい少年。あの子はきっと正しい子だ。きっと自分の考えに賛同してくれる。そう思いながらも、小学生と中学生の差は大きいとも感じる。自分の言葉が小学生のあの子に何所まで理解してもらえるか照は甚だ疑問だった。
それでもやはり会いたい ――― そう思った矢先、先ほど子供達が出て行った出入り口の前を、その件の少年が横切って行くのが見えた。
「!待って‥‥!」
思わずそう叫び照は公園内を突っ走った。反対側の道に出て少年が向かった先に視線をやれば、先日と同じシルエットが、今日はもっとはっきりとした色彩を伴って照を見つめ返していた。
「あぁ、この前のお兄さん」
覚えていてくれた ――― 言葉にならない感動がジワリと照の胸を満たす。
「どうしたの?口許、少し青いね。痣?それに、今日はメガネしてないし‥‥割れちゃった?」
「!」
「また苛められたんだね。猫はもういないから気をつけてねって言ったのに」
悲しそうにそう言われ照はまじまじと少年を見つめた。
そうして、まだ十分に明るい日の下で改めて見た少年の容貌に軽く目を見張る。
あの時は暗くてよく判らなかったが、少年はとても整った顔をしている。天使のような、という例えはこの少年にこそ相応しいのかもしれない。
丸みを帯びた上品な輪郭は子供特有の柔らかさを湛え、その瑞々しい肌にかかる濃い栗色の髪が更なる和やかさを添えている。形良い鼻梁と子供ながらに艶やかな唇は腕の良い人形師が丹精込めて彫り上げたかのように愛らしい。
照も子供の頃はよく『可愛らしい子だ』と大人達に言われたが ――― 長じるにつれ外見よりも、礼儀正しい子だとか真面目な子だとか性格の方を優先的に言われるようになった ――― 目の前の少年なら老若男女問わず『可愛らしい』と断じるだろう。
それはいわば普遍的な美しさに通じるもの、転じて個性的ではないと指摘もできる。だが、彼に関してだけはそれはあり得ないと照の心は無意識に叫んでいた。
彼は特別だ。特別な存在だ。
そしてこれは自分のための特別な出逢いだ、と。
照は目の前の、自分より年下の少年を呆然と見つめ続けた。
「‥‥君は‥‥」
見つめ返す双眸の強く真摯な光。その光に自分の全てが暴かれるようだと照は思った。
フラフラと吸い寄せられるように近づけば、少年の瞳が澄んだ琥珀の輝きに溢れている事を知る。凛としたな音さえ聞こえて来そうなその美しさに、手を伸ばして触れる事が躊躇われてしまう。
自分を含め、この清らかさに触れていい人間は果たして何人いるのだろうかと、本気で悩んでしまう。
「き、君は‥‥この近くに住んでるの?」
「それ、この前も聞かれたよ」
「あ‥‥」
「フフッ‥‥面白いお兄さん」
不意に向けられた屈託のない笑顔。その無垢なあどけなさに照の頬がうっすら赤く染まる。
性の目覚めとは全く無縁だった照にそれが意味する所は判らない。いや、彼がそれに自ら気付く事はないだろう。照は肉欲とは無縁の子供だ。むしろ、毛嫌いしている節がある。今はただ、ささくれ立った心に沁み入る少年の笑顔が照の全てだ。
「か、買物の途中?」
「うん。妹がプリンを食べたいって言ったから、そこのコンビニにね」
言われて視線を落とせば、少年が左手に持っているのは確かにコンビニの袋だ。余りに俗物的すぎて少年には似合わないと思う。そう思う照自身が俗なのだと、彼は気付かない。
「‥‥あ、その‥‥」
こうして再会したはいいが、どう話を進めていいのか、何を話したいのかちっとも判らず、照はただ顔を赤らめ視線を彷徨わせるばかり。そんな照を見つめる少年は、それでもバカにしたような態度は示さずじっと次の言葉を待っている。
「お兄さん、友達はいる?」
「え?」
だが、いっこうに口を開かない照にとうとう焦れたのか、少年がさりげない口調でそう尋ねて来た。
「猫の友達もいいけど、人間の友達もそう悪くないと思うよ」
「そんな事‥‥!」
我知らず眉を顰める照の顔をじっと見上げ、少年は柔らかに微笑んだ。
「お兄さんは真っ直ぐだね」
「え?」
「お兄さんはその方がいいのかもしれない」
微笑みの中の強い光。それは強烈な吸引力で照の意識を引き付ける。少年の非凡にして無個性な美しいだけの容貌に、忘れがたい離れがたい印象を与える双眸の輝き。
それはまさに少年の魅力であり力だ。
十歳になるかならないかの少年が持ち得るには分不相応な、しかしこの少年なら持っていて当たり前のその力に照はただただ魅入られた。
「お兄さんは間違った事が嫌いなんだね」
魅入られたまま照はコクリと頷いた。
「お兄さんは、人は常に正しくあらねばならないと思ってるんだね」
二度目も迷わず頷く。
「お兄さんは、自分の周りにいる人間が余りに愚かで腐りきっているのが悔しいんだね、怒ってるんだね」
「お兄さんは、悪は滅びるべきだと、滅びて当然だと思ってるんだね」
「お兄さんは、誰も何もしようとしないのなら自分がすべきだと、誰に何を言われようと自分が正義を遂行するのだと思ってるんだね」
「お兄さんは、自分こそが正しいと、そう思ってるんだね」
全てに頷いて、照は‥‥‥あぁ、やはり彼なら自分を判ってくれる、彼なら何も言わなくとも自分の全てを理解してくれる、自分に賛同してくれる‥‥‥そう思い、そう感じ、そう信じた。
「その為だったら、どんな妨害にも挫けない、どんな試練にも耐えられる、ありとあらゆる努力を惜しまない、そんな人間になりたいと、それこそが正しい人間の在り方だと、そう思ってるんだね」
周囲の無責任と悪意と堕落し離れて行った友人の態度に、知らず知らず孤独と絶望と怒りの渦に沈んでいた照は、あの日尊敬し信頼していた母からもらった裏切りの言葉と正反対の言葉の数々に、やはりこれは特別な出会いだったのだと確信した。
「お兄さんは、それで良いと思うよ」
「!」
「この世に一人ぐらいお兄さんみたいな人がいてもいいんじゃないかなぁ。ううん、いなければいけない。だって、この世の中にはあの猫みたいな存在が余りに多いから‥‥」
真正面を向き、頭を上げ、優しい微笑みを湛え少年は力に満ちた言葉を紡ぐ。
誰よりも強く清らな眼差しを照に注いで、少年は照の迷いを断ち切った。
「お兄さんはこのまま自分の信じる道を進んでね。でも、無暗に体を傷つけるのはいただけないかな。五体満足でなけりゃぁ、信念は貫けないよ。心は体に引き摺られるからね。あぁ、そう、体を鍛えるのも悪くないかもしれない。空手や柔道なんかを覚えるのも一つの手かな」
何度も頷いて照は少年の言葉を享受する。
それは既に盲目的な信仰に近かった。
それを当然とばかりに少年は微笑み、照が心奪われた瞳に更に力を込め、諭すかのように言い含めるかのように静かに言葉を、照にとっては天啓を与え続けた。
「それと、妥協しろとは言わない。無理して味方にする必要もない。だが、降りかかる災難は極力回避するべきだ。暴力ではなく、言葉でもって。人は言葉一つで動かされる事があると覚えなければならない。常に正しさを説き続けるのは逆効果だと知らなければならない。人を誘導する術を身につけなければならない。人は弱い生き物だ。常に迷いそして直ぐに欲望に負け堕落する。正しい言葉であればある程、己の愚かさを突き付けられているように感じ反発する、僻む。たとえ遠回りでも時間がかかっても婉曲的でも、最終的にそこへ持っていけばお前の勝ちだ」
肉体を貫き魂にまで突き刺さる力ある視線。耳を溶かし思考を奪う力ある言葉。何故人が自分の言葉に耳を傾けないのか、照は漸く判ったような気がした。
「悪は裁かれなければならない、削除されなければならない。それはお前のように正しき道を知る者によってなされるべきだ‥‥そうだろう?魅上照」
自分の言葉は綺麗で正しいけれど、ただそれだけでしかなかった。こんなふうに人の心を揺り動かすだけの力を持っていなかった。だから誰もが聞き流し唾を吐いた。
『飴と鞭』と言う言葉がある。正しき言葉は、真に大事な事は、ここぞという時に示してこそ力を発揮するのだ。
「だからね、お兄さん」
愛くるしい笑顔がくるりと回る。
少年が軽やかな足取りで照から一歩離れた事に彼は唐突に気付いた。
「何時までも真っ直ぐでいてね」
勿論だとも‥‥!そう心の内で叫んで、照はグッと拳を握りしめた。
「お兄さんならきっと出来るよ」
やり遂げて見せるとも‥‥!微笑みながら遠ざかって行く少年に、照はそう誓った。
落ちて来る茜の空、辺りを包む黄昏。
日は沈めどもまた昇る。
闇に閉ざされていた照の道は今明けた。
「あぁ‥‥名前を聞くのを忘れた」
いや、あの少年はきっと人間ではない。もしかしたら天が自分のために遣わした存在かもしれない。
そんな夢でしかない事を本気で考えながら、だったら名前など初めからないのかもしれない、だからあの少年は最初から最後まで名前を名乗らなかったのだと、口元をだらしなく緩めて照は思う。
通り過ぎる人々の奇異の眼差しに全く気付くことなく、道の真ん中に立ち尽くしたまま先日と同じように陽がとっぷり暮れるまで、照は見えなくなった少年の姿を瞼の奥で追い続けていた。
「お帰りな‥‥照!?」
あれから照が家に帰り着いたのは夜の7時を過ぎてからだった。その日も早く帰宅していた母が笑顔で出迎えてくれたが、照の顔を見るなりその笑顔は凍りついた。
「照、貴方眼鏡はどうしたの?それに‥‥やだ、こんな所に傷が‥‥!」
「何でもない」
「何でもないって、そんなはずないでしょ!」
裸足で玄関に飛び降りた彼女は息子の顔を両手で撫で摩り、ちょうど眼鏡のつるが当たる肌の上に赤く擦れた痕とひっかき傷を見つけ小さく息を呑んだ。
「眼鏡、割れたの?壊されたの?」
「落ちて壊れたんだ」
正確には落とされて壊されたのだが、母を信用できなくなっていた照は言葉を選んだ。
「照!」
「夕飯は要らない。直ぐ宿題するから」
「照‥‥!」
「‥‥後でちゃんと食べるよ」
自分の左手を鷲掴む母親の少し冷えた手を振りほどき、照は2階の自分の部屋へ駆け上がった。
少年との奇跡にして必然である出会いを。照の未来が、照の進むべき道が漸く見えて来たこの瞬間を、照は他の誰にも邪魔されたくなかった。
「照!待ちなさい、照‥‥!!」
階下の今にも泣きそうな母親の声など今の照には全く聞こえていない。
その事実に打ちのめされたのは他ならぬ照の母親である。
「照‥‥どうして‥‥どうしてもっと自分を大事にしてくれないの‥‥」
ポタリと落ちた涙が使い古したエプロンの胸元を濡らす。
「こんなにお母さんが心配してるのに、どうして‥‥」
それが息子だと、それが息子の気質だと、それでこそ息子なのだと知ってはいても、彼女の不安の種が尽きる事はない。
いったい何がいけなかったのだろうかと思う。優しい子に育てたつもりだ。実際優しい子だ。
けれど、あの過ぎるほどの正義感には母親である自分も戸惑ってしまう。
言っている事やっている事がなまじっか正しいだけに否定する事も出来ない。
けれど、そのせいでいじめに合うのなら、苦言を呈するしかない。
自分の身を自分で守れないうちは妥協する事も時には必要なのだと。
「公園で野良猫の面倒を見ていたらしいよ」
「え?」
いったいどうすれば息子が判ってくれるのかと、ソファーに座り込み思い悩んでいた時、同居している母 ――― 照にとっては祖母 ――― がそう言いながらリビングへと入って来た。以前は近所に兄夫婦と同居していて、照が小学校の時はよく面倒を見てもらっていた。けれど、兄嫁と折り合いが悪く、2年ほど前から自分達と住むようになった。
その母が言うには、照は公園で同級生に苛められていた猫を助けたのだそうだ。そして、しばらく公園内で餌をやったりして面倒を見ていたらしい。
「あたしが猫アレルギーじゃなかったら、連れ帰ってたんだろうけどねぇ」
その猫がつい先日、死んでしまったという。
「同じ子達が、照の見ていない所で殺しちまったんだよ」
「そんな‥‥!」
「酷い事をする子がいたもんだ。しかも、照と同じクラスの子も混じってたって言うじゃないか」
母の言葉に恐ろしい想像が頭の中を駆け巡る。
「そういった事をする子はストレスが溜まってるんだってね。初めは小さな動物をいじめて、それがだんだんエスカレートして行って、もっと大きな動物を‥‥そのうち人にまで危害を加えるようになっちまうんだってねぇ」
やめて!と、彼女は心の内で叫んだ。
「だから心配してたんだよ。もしかしたら、うちの照がそのいじめに合いはしないかって」
照が学校でいじめにあっている事は、母には内緒にしていた。家族なのに、と詰られそうだが、年老いた母を心配させたくなかったのだ。だが、薄々気付いていたのだろう。
それはそうだ。こうしょっちゅう照が怪我をしてきたり、勉強道具を壊されたりしていたら、気付かない方がおかしい。
「一度、学校に相談した方がいいんじゃないかい?」
そんな事はもうとっくにしている! ――― そう叫びたいのを我慢して彼女は両の手を強く握りしめた。
「お母さん‥‥猫を殺した子達の中に、照のクラスメイトがいたって話、本当なの?」
「あぁ。ほら、隣町の高宮さん知ってるだろ?あたしのペタンク仲間の。あそこ、今東京から孫が遊びに来ててね。その子が教えてくれたんだよ。偶然見たって言って」
「そう‥‥高宮さんの所の‥‥」
それを聞くなり、彼女は勢いよく立ち上がっていた。
「お母さん、私ちょっと出かけて来るから‥‥照がご飯を食べたいと言ったら用意してやって」
「それは判ったけど、今からかい?」
「すぐ戻るから」
そう言って取るものも取り敢えず飛び出して行った彼女を祖母はポカンとした顔で見送った。
自分がどれほど母親を心配させているか、不安がらせているか全く気付かないまま、部屋に引きこもった照は夢心地のまま自分の将来について思いを巡らせていた。
そして、その数日後にはその母との永遠の別れが来ようとは、考えてもいない照だった
プォォ ―――。
少し甲高い、けれど何所か間延びした音が周囲に響き、その場に佇んでいた人々は惜別の涙にくれながら黒い霊柩車がゆっくりと走り去るのを見送った。
町の小さな集会場。親戚はあまりいないけれど、親しい近所の人達に見送って欲しいという祖母の希望で、照の母の葬儀はそこで行われた。
仕事に追われていたけれど近所付き合いは悪くなく、仕事仲間も多かった母の葬儀には意外なほど多くの弔問客が集まった。
その一人一人に喪主である祖母は涙にくれながら感謝の言葉を述べ、その祖母の隣で蒼い顔をした照は無言でお辞儀を繰り返していた。そんな残された家族の姿に、母子家庭ながらしっかり一家を支えていた故人を偲び涙する人々。
「こんな早くに亡くなるなんてねぇ」
「息子さん、まだ中学生なんでしょ?」
「そう言えば別れた旦那さん、来てらっしゃらなかったわね」
「お祖母ちゃんの話だと、向こうも少し前に再婚した奥さんを亡くされたとかで、流石に来ずらかったらしいわよ」
「あらまぁ、不幸続きね」
「だったら、照君はお父さんの所へ行くのかしら。継母がいなくなったのなら親子水入らずだし。向こうはお子さん、いないんでしょ?」
「でも、お祖母ちゃんが離さないでしょ。あそこ、お嫁さんと折り合い悪いから。このまま照君と一緒に暮らすつもりだって言ってたわよ。幸いマンション買ってるし」
「そうなのよね。魅上さん、あれ一人で買ったんですって。中古だし離婚した時の慰謝料もあったらしいけど、女手一つで子供を育ててマンションも買うだなんて、なかなか出来ないわよねぇ」
「あの人凄い遣り手の外交員だったから」
「稼いでたんですってねぇ」
交通事故に巻き込まれ突然この世を去った故人。その葬儀が終わってみれば、人々の関心は残された家族への同情から軽薄な好奇心へと移っていた。
祖母も息子も、それから親戚も火葬場へ行ってしまった。散り散りに去っていく人々は重い雰囲気から解放され無責任な噂話に花を咲かす。
「何でもお兄さん夫婦が照君を引き取りたいって言ってるらしいわよ」
「あらぁ、それは無理でしょ。お祖母ちゃんが反対するのに決まってるじゃない」
「あそこのお嫁さんキツイんですってねぇ」
「そのお嫁さんが遺産目当てに照君を引き取れって、旦那さんの尻を引っ叩いてるらしいわよ。うちの旦那がそう聞いたって」
「やぁだぁ」
「それよりもぉ、運転してた子、照君の同級生だったんですって?」
「酷い話よねぇ。他にも友達が乗ってたんでしょ?」
「そぉなのよ。うちの子が言ってたんだけど、主犯の子は卒業生なんですって。中学時代から相当の悪だったらしいわよ。何度も警察の厄介になってたって」
「やぁねぇ」
「その子にいつも脅されてたって、運転してた子のお母さんが泣きながら言ってたらしいわ」
「他の子達のとこも今日がお葬式なんでしょ?」
「でも、ほら、無免許だし、車盗んでるし。おまけに信号無視で事故ったあげく、人一人巻き込んで死なせてるし。大っぴらにお葬式なんか出せないんじゃない?」
「自分達が死んだのは自坊自得だけど、残された親は可哀そうよねぇ」
「あらぁ、もっと可哀そうなのは照君とお祖母ちゃんよ」
なにせ巻き込まれただけなんだから ―――
そう言って面白おかしく噂話に花を咲かせた後、思い出したように故人を忍んで再び涙した近所の主婦達の事など、母の遺体と共に火葬場へ向かった照が知る術はない。
すべからく、世の中とはそんなふうに皮肉に出来ているものだ。
照の母の死は突然だった。
交通事故 ――― 未成年の少年達が数人車を盗み無免許で乗り回したあげく、スピード違反と信号無視のすえ道路脇の塀に激突。その途中数人の通行人をはね、そのうちの一人が死亡。それが、照の母親だった。
その知らせを学校で受け取った照は迎えに来た祖母と共に母が収容された病院に駆けつけ、そこで母の死と加害者である少年達の身元を知った。そして、それが自分の正義をさんざん邪魔してくれた同級生とその仲間であった事実に、これは奇跡、いや、当然の結果だと思った。
『悪は裁かれなければならない、削除されなければならない』
その瞬間、少年のあの言葉が照の思考を埋め尽くし、彼の身と心は喜びと不安、そして過ぎるほどの決意でうち震えた。
周囲は全く口を利かないだけでなく時折無言で涙を流す照に、母親を失って ――― しかも同級生のせいで ――― ショックを受けているのだろうと同情してくれた。
だが、事実はそうではなかった。照はこの当然の結果から、ある一つの結論に行き着こうとしていたのである。
悪がこの世から削除された。自分が否定した悪が裁かれた。
死をもっての裁きは恐ろしいが、この削除によって喜ぶ者は確実にいるはずだ。
少なくとも、いじめの被害者であった子は絶対に喜んでいる ――― 死んだ4人によるいじめを受けていたのは照だけではなかった ――― いや、その子だけでなくクラスのほぼ全員が、学年の全員が心の何所かで喜んでいるに違いない。
そう思う事こそが、照がいじめの被害者であったという証拠なのだが、照自身は頑なにそれを認めようとしなかった。それどころか、正しい者だけが生きるに値するのだと、間違っている者は生きるに値しないのだと、そんな極論を己の内で正当化していた。
それは友人の死を、母の死を喜ぶ自分を恥じ入る心が為した無意識の自己防衛だったのかもしれない。
自分を助けてくれなかったクラスメイトや教師、離れて行った友達、ひいては信じていたはずの母への恨みつらみ、だったのかもしれない。
いずれにしろ、挫折の一歩手前にあった照が ――― 本人にその自覚はない ――― 再び希望を手にする切っ掛けとなった事に違いはなかった。
そして、そんな照を後押しする一つの事実が彼の目の前に横たわる。
平穏なる教室、清々しい笑顔 ――― 数日後登校した照が見たものは、同級生の死などなかったかのようにいつも通りの時間を潰す少年少女達の姿だった。まるで悪が削除されてすっきりした、とでも言いたげなその穏やかな時間に、照はますます自分の考えを深くする。
『悪い事をすれば報いがある。それでいい、そうあるべきだ』
照の正義を邪魔する者がいなくなった中で、かつて離れて行った友人達と再び穏やかな会話を楽しみながら、照は決意を新たにする。
大人になったら司法の道に進もう。
警察官でもいい、裁判官でも検事でもいい。とにかく悪を摘発し裁きを与える存在になろう。
「悪は削除されればいい‥‥」
それは出来れば自分の手で。
そんな事を本気で考えている照の胸の内を知る者は当然ながら誰もいない。
だが、長い黄昏時から脱出できた照には、味方も理解者もいてくれなくてもちっとも構わなかった。
何故なら、照にはあの少年がいるからだ。
『お兄さんならきっと出来るよ』
あの言葉が胸の内にある限り、もう二度と挫けまいと思う照だった。
「あぁ、お母さん。魅上さんとこのお祖母ちゃん、元気だった?」
「なんとかね。お孫さんが毎日元気づけてくれるんですって。良い子よねぇ、照君」
「そうね‥‥お父さんだけでなくお母さんまで亡くして‥‥本当は泣きたいでしょうに」
「あら、お父さんは死んでないわよ。離婚したの。大阪の方にいるらしいわ。でも、向こうに照君を渡す気はないって、魅上さん言ってたわねぇ。照君もお父さんと暮らしたくないって言ってるらしいわ」
「まぁ、そうなの」
「今でも父親の浮気が許せないのかしら」
そんな会話が聞こえるキッチンを後にして、月は妹が昼寝をしている二階へ向かおうとした。
「あ、月。おやつ持っていきなさい。粧裕が起きたら二人で食べるのよ」
「うん、判った」
呼び止められてキッチンに戻り、パックジュースと半生ケーキの箱を持って再び階段を上がる。
「食べたら粧裕に歯を磨かせてね」
「判ってる」
うちの月も良い子よねぇ。
お母さんったら‥‥‥
呑気な笑い声を後にして、月は妹が眠る部屋のドアをそっと開けた。
昨日、せっかくだから観光しておいで、と言ってくれた祖母に見送られ某遊園地へ遊びに行った疲れがまだ残っていたのだろう。小学生にもなって昼寝をするなんて可愛いものだと思いながら、月はこの部屋の本当の主である従兄の勉強机の上におやつを置いた。
夜神月と妹の粧裕、それから母の幸子は一ヶ月ほど前から関西の母の実家に来ている。
理由はうっかり転んで足を骨折した祖母の看護。同居している母の兄、月と粧裕の伯父が妻と子を連れ海外赴任中のため、東京にいる母の幸子が一人で日本に残った祖母の面倒を見に来たのだ。
何故祖母だけが一人日本に残ったかと言えば、生まれ育った家から離れたくないという実に簡単な理由からだ。元々気丈だし頑固だし、近所付き合いも盛んだから一年くらいは大丈夫だろう、いざとなったら東京にいる娘を呼べばいい ――― そのような話が家族間でなされ、伯父夫婦は親子三人だけで旅立った。
そうして、一年目の春にそのいざという時が訪れたという訳だ。
当初、ここへ来るのは母の幸子だけのはずだった。新学期が始まったばかりだからという理由で。
だが、刑事である父総一郎の仕事が急に忙しくなり ――― 事件は夜神家の事情など考慮してくれない ――― ほとんど家に帰って来れなくなったため、月と粧裕も一緒にと言う事になった。それを聞いて祖母が大喜びしたのは言うまでもない。
『困ったわね、どうしましょ‥‥粧裕だけ連れて行ってもいいんだけど、そうなると月一人でお留守番する事になるのよね。昼間はともかく流石に夜が心配だわ。お父さん、毎日は帰って来れそうにないし‥‥それに、月一人にお父さんの世話をさせるのも‥‥』
『僕はお父さんの面倒を見るくらい平気だよ』
『でしょうね』
『だったら粧裕も残るぅ!』
『ダメよ、いくら何でもお兄ちゃん一人でお父さんと粧裕の面倒は見れないわ』
『やだぁ~!お兄ちゃんと一緒が良い~!』
『だったら三人でお祖母ちゃんの所へ行こうよ。お父さんも洗濯物をクリーニングに出すくらいは出来るし、家の掃除は帰って来てから僕とお母さんですればいいんだから』
『でも、勉強がねぇ‥‥月はいいのよ、月は。授業に出なくても付いて行けるでしょうから。でも粧裕はねぇ‥‥三年は算数が急に難しくなるし』
『大丈夫だよ、お母さん。粧裕の勉強は僕が見るから』
『粧裕もお兄ちゃんが良い!お兄ちゃんに教えてもらった方が先生より判るもん』
『それを言っちゃったら、先生の面目丸つぶれよ、粧裕』
『だって本当だもん』
そんな会話が夜神家でもなされ、月達母子三人は父一人を残して祖母の家へと来たのである。
この一ヶ月の間、月と妹の粧裕は学校へも行かずずっと祖母と一緒だった。もちろん時には外へ遊びに出たりしたが、月はともかくまだ三年生の粧裕は人見知りして近所の子と仲良くなる事が出来なかった。必然的に兄妹は家の中で時間を過ごす事が多くなった。
その祖母の家には、ご近所さんが毎日のように遊びに来た。足の怪我で外へ出られない祖母が退屈しているのではないかと気を利かせてやって来るのだ。そんな如何にも人の良さそうな老女や好々爺に、両親に礼儀正しく育てられた月はいつも笑顔で応待した。
『まぁまぁ、月君。大きくなったわねぇ』
『相変わらず可愛い、賢そうな顔して。お祖母ちゃんが自慢するだけあるわね。勉強もよ~く出来るんですって?』
小さな頃から少なくとも年に一度は祖母の家を訪れていた月は近所に住む人達の事をよく覚えていた。その中の何人かの家には祖母に連れられ、もしくは一つ年下の従兄と一緒に訪れた事がある。だから、おしゃべり好きな老女達の茶うけ話にも付きあったし、時には買物に出かけた母に代わってお茶やお菓子の用意もした。何時でも何処でも、文句のつけようのない『良い子』を、月はここでも披露した。
それは、魅上照とは少し違う『良い子の見本』だった。
『うちの照も本当によく出来た子だけど、月くんも小さいのに偉いわね』
何が偉いのか聞いてみたい気はしたが、そう言ってニコニコと笑う新顔の老女に月もまたニッコリと笑う。
ある日祖母を訪ねて来た老女は初めて見る顔だった。それもそのはず、彼女は2年前隣町に引っ越して来たのだそうだ。公園の向こうの、大通りに面したマンションに娘と孫の三人で暮らしているのだと、彼女は少し疲れたような笑顔でそう言った。
何故彼女がそんな顔をするのか疑問に思った月は、程無くしてその理由を知った。
『どうやらうちの照が学校でいじめにあってるらしいの‥‥』
月と粧裕が席を外した後で、元教師の祖母にそんな事を相談し始めた老女に、月は純粋にそれは心配だろうと思った。
『うちの照は本当にまじめな子なの。間違った事が大嫌いで、間違った事が見逃せなくて、だからついついクラスの不良達のする事に口出しして、逆に暴力を振るわれているらしいの‥‥』
と同時に、なんて直情バカなんだと呆れた。
魅上照 ――― 頭は良いけれど堅物な正義のヒーロー候補。
それが、彼の祖母を通して知った魅上照に対する月の第一印象だった。
それからも何度か彼女は祖母の元を訪れ、相談ならぬ愚痴を零して行った。
『母親が‥‥あたしの娘なんだけどね、女手一つで孫を育てて‥‥そりゃあもういい子に育てたんだよ‥‥でも、少し融通が利かない子で‥‥娘が心配して‥‥何度も学校に掛けあったらしいんだけど、全然ダメで‥‥あたしには心配させまいと何にも相談してくれなくて‥‥でも、あたしだって孫が心配なんだよ‥‥』
そう、月は知っていたのだ、魅上照を。本人の知らない所で、本人以上に彼の事を、彼の内面を知っていた。
「粧裕?粧裕?‥‥こりゃぁ当分起きそうにないな」
一つきりのベッドを占領する妹の平和そうな寝顔に笑みを零し月は椅子に腰を下した。
「あ、こら。だめだってば。それは粧裕の好きなお菓子なんだから」
それから唐突に背後を振り返り、信じられない事に宙に浮かび上がっているお菓子の箱をハッシと掴んだ。
「そうだよ。粧裕はこれが好きなの。この小さな三角チョコケーキがね‥‥え?本物のケーキじゃないのかって?違うよ。これはお菓子、ケーキもお菓子だけど、あれはスィーツ?って言うの」
それはなんとも不可思議な、そして気味の悪い現象だった。お菓子の箱が糸も支えもないのに宙に浮くなんて有り得ない事である。もし有り得るとしたら超常現象や幽霊の類を疑って当然だろう。
しかし、当の体験者である月は何でもない事のようにそれを無視した。それどころか誰もいない空間に向かって独り言を呟き始めたではないか。
「判ったよ。人間の食べ物に興味あるんだね?この前もお祖母ちゃんのお煎餅食べちゃっただろ。気付かれなかったからいいけど、僕以外の人間の前でそれは絶対やめてよね」
そう言ってお菓子の箱を開けた月は、仲良く並んだ三角形のお菓子を三つ、両の掌に載せてやはり誰もいない空中に差し出した。
「ほら、僕の分。食べていいよ」
すると不思議な事にそのお菓子は次々と宙に浮かび上がり、ふっとかき消すように消滅してしまった。
「美味しい?‥‥ん?お煎餅の方が美味しかったって?うわぁ、やっぱりキングって年寄なんだ」
コロコロと、年相応の愛くるしさで笑う月はとても無邪気に見える。だが、そんな単純な子供ではない事を月自身が自覚していた。
「うふふ‥‥え?何?さっきの話?あぁ、あの魅上っていう眼鏡のお兄さんの事?気になる?」
デスクに置いたトレイから紙パックのジュースを取り上げストローを刺す。
「えぇ~?違うよォ。別に僕はそう大したこと言ってないし‥‥誑かした?酷いなぁ。お兄さんが言って欲しそうな言葉を並べて上げただけなのに。あの眼鏡のお兄さん、これからどうしたらいいかちょっと迷ってたみたいだからね。だから、僕もちょっとだけ『こんな道もあるよ』って、教えてあげたの」
いけなかった?と可愛く小首を傾げる月を見ている者は誰もいない。だが、確かに月の視線の先には、その言葉の先には誰かがいるようだ。それは月の一人遊びとは思えないリアルな仕草だった。
椅子に座る月の視線の先は高い。恐らく立ち上がってもその視線は上を向くだろう。だが、間違いなくその視線の先には何も、誰もいない。
ただ‥‥‥ただほんの少しだけ、周囲の空気が冷たく感じられるのは何故だろう。
「あのお兄さんが気に入ったの?うふふ‥‥そうだね、あのお兄さんの方がキングの願いを叶えてくれそうだもんね。今からでも遅くないからあっちに乗り換える?今ならもう僕の記憶を消せるよ。だって、僕もノートに名前書いちゃったから」
そう言って胸元から取り出した紐の先には小さな鍵が付いていて、それを首から外した月はそれでデスクの一番上の抽斗のカギを開けた。もちろんこの勉強机は従兄の物だ。そして、その抽斗に鍵を掛けたのも従兄。だが、ここへ来て必要に迫られた月は隠してあった鍵を見つけ、それからはそのカギ付き抽斗は月の物となった。
「でも、このノートって凄いよね。本当に名前を書いただけで人を殺せちゃうんだもん。便利な食料調達機だよね」
そこから取り出した1冊の黒いノート。
何の変哲もないそのノートを無造作に広げた月は、そこに書かれた数人の名前を蠱惑的に細めた瞳でじっと見つめた。
酷く乱れた筆跡で書かれた名前。それは間違いなく、先日の交通事故で死んだ中学生と高校生4人の名前だ。
そして、その名前の下には整然とした字で死の状況が詳しく書きこまれている。
月はクスリと笑い、一つ前のページをめくった。そこにもやはり名前が書かれている。先ほどと違い緊張に震えてはいるがそう乱れてもいない筆跡で。
「この名前の女性、あのお兄さんのお父さんの浮気相手だったんだね。あの人、息子の事ばっかり言ってたからそんな感じしなかったけど、本当は随分と恨んでたんだね。今更殺すなんてさ。そんなに憎いんなら離婚してやらなければ良かったのに」
それから、この男の人は会社の上司らしいよ。何をして恨まれたんだろうねぇ。怖い、怖い ――― そう言ってさも可笑しそうに笑う月の髪が何もないのにクシャリと乱れる。
「ん?どうして自分で使わないのかって?」
まるで誰かに髪を掻き回されてでもいるかのようにクシャクシャになる髪を月は笑いながら直して行く。だが、直す傍から髪は乱れ、終いには諦めの笑みが月の口元を飾った。
「だって、これって結局は人の命を奪うだけの道具だからね。自由度が低すぎて余り使い道がない。人間の僕には不便だよ」
面白くない、と答えて小さく肩をすくめる。
「‥‥うん、それは判るよ。そういう使い方も有りだと思う。って言うか、それしかない感じ?」
そして、広げたままのノートをデスクの上に置き、窓の外に視線を移す。
世紀末だよねぇ。最近じゃぁ、日本も物騒になっちゃったし‥‥‥
その独り言に月の髪が静かに元に戻る。
「だから言ったじゃない。今からでも遅くないからあの眼鏡のお兄さんに乗り換えたらって。あのお兄さんなら、キングの思った以上に人間を殺してくれるよ。それも悪人ばっかり。フフッ‥‥そうなれば人間界は綺麗になるし、キングは死神界を維持するだけのエネルギーを確保できる。一石二鳥だね」
振り返った月の長い年月を感じさせる琥珀色の瞳が、光の加減でルビーのように赤く光る。
「そうだね、あのお兄さんじゃぁ長続きしないかもね‥‥うん。本人にその気はあるよ。十分すぎるくらい。でも、彼は罪も人も憎んでるから、目につく悪人を片っ端から削除しちゃうだろうね。クラスメイトだろうが担任だろうが‥‥ご近所さんもニュースで見ただけの外国の犯罪者も。誰彼関係なく、彼の中で悪と決まった者を次から次へとね‥‥」
そうなればあっという間にノートは悪人の名前で埋まるだろう‥‥‥‥
「嬉しい?キング」
サクランボを思わせる愛らしくもこまっしゃくれた唇が薄笑いを形作る。下からねぶるように見上げた先にはいったい何がいるのか。
「フフフ‥‥でも、そう、長続きはしない‥‥誰もが直ぐに気付く。彼の周囲で、彼に危害を加えた者が次々死んでいくと‥‥そうして誰もが疑い始める」
風もないのにめくれ上がるノート。
「この、人の仕業とは到底思えぬ殺人の犯人が、彼、魅上照なのではないかとね」
声もなく笑い、月は鮮明にその未来を思い描いた。
誰か一人が疑えばそれはあっという間に十人、百人へと広まっていく。疑いは直ぐに確信へと変わっていく。いや、確信ではなく思い込みだ。不安を払しょくしたいがためだけに生贄を探し出し吊るし上げるのだ。姿形のない犯人よりも、顔と名前が判明した犯人の方がずっと安心できるから。
証拠などいらない、必要ない。
隣の奴もそう言っている。あいつが犯人だと。だからあいつが犯人だ、あいつしかいない ―――
「下手をすればリンチかな?クラスメイトに囲まれて苛められて、それが行き過ぎて事故死?あぁ、その前に噂を聞きつつけたマスコミが押し掛けて来るかもしれない」
追い詰められたら自分がやったって言いそうだよね、彼。自分は正しい事をしたんだって‥‥‥
独りでにパタリと閉じたノートを再び手に取り、月は黒いノートの表紙をゆっくりと撫でた。
「違うよ、煽った訳じゃない。すかしてもいない。言ったでしょ?あれは彼が望んでいた言葉だって。彼が欲しかった言葉‥‥それを僕は彼に与えただけ」
さして重くないノートは死を運ぶノート。
不思議ではあるが、そうなのだ。
「僕はしないよ。今はね‥‥だって、僕にはまだやりたい事がいっぱいあるから」
それを膝の上に置き直して、笑みをひっこめた月が再び視線を斜め上に向ける。
「僕はまだ11年しか生きていない。僕の知らない事がこの世の中にはまだまだいっぱいある。僕はもっと友達と遊びたい、もっと勉強したい、もっといろんな所へ行きたい、いろんな人に会いたい。だから僕にはキングの思惑に乗っかってやる暇はないんだ」
それに、と月は続ける。
「僕は未だそんなに絶望してないからね」
人間だって、そこそこいけると思うよ。
そう思わなくちゃ寂しいもの。
だって、これから僕が生きて行く世界なんだから‥‥‥
「だからね、キング」
月は膝の上のノートを取り上げほっと溜息を洩らした。
「このノートは返すよ。僕を選んでくれたのは嬉しけど、今の僕には必ずしも必要だと思えないないから」
できれば、ずっと無用の長物であって欲しいけどね‥‥‥
そう言って宙に差し出した黒いノートがゆっくりと月の手から離れて行く。
「うん。バイバイだね、キング‥‥ううん、死神大王」
月のつぶらな瞳に一瞬暗い影が映り込む。
それは丸い形をした不可思議な存在、人ならざるもの。
「僕は‥‥デスノートを捨てる」
その球体の中心に浮きあがった髑髏の、真っ黒な洞の眼窩が不気味に光る。
「あれ?」
その瞬間、月の瞳に映っていた影が黒いノートともども煙のように消えた。
あとに残ったのはあどけない瞳の輝きだけだった。
夜神月が魅上照の母親と会ったのは本当に偶然だった。
祖母のリハビリに付いて行った病院で、入院中の祖母の友人をついでに見舞った時のこと。ふと通りかかった休憩所の一角で、彼女は一人の患者と話し込んでいた。
『高い掛け金払って来たのに、どうして希望通りの額が下りないんだ?話が違うだろ!この前あんたの上司だという男が判子をつけと五月蠅く言ってきたが、あんな額で判子なんかつけるか!あんたに言われて入った保険なんだ、あんたが何とかしろ!』
どうやら、彼女の上司が先回りして保険金を渋ったらしい
『こんな不当な額、私だって納得できません!貴方には正当な金額を受け取る権利があります。私が何とかしますからもう少し待って下さい!』
消費者センターに訴えてやる!と息まく患者をそう言って宥めた彼女の横顔は子供の月の目から見ても真剣そのものだった。本気で上司の仕打ちを怒っていたのだろう。
それを偶然目撃した月は、なんてお人好しな人なんだろうと思った。
けれど、そんなのも悪くない、とも。
我知らず口元に浮かんだ笑みを自覚して、月は何だか嬉しくなった。
次に彼女に会ったのは祖母の家でだった。
『お祖母ちゃん、今散歩がてら橋本さん家に行ってるんです。すぐ戻って来ると思いますから、上がって待っていて下さい』
祖母の怪我に降りる保険の事でやって来た彼女を、一人留守番していた月は笑顔で迎え入れた。
そんな行儀のよい月に彼女は少し疲れたような笑みを零した。自分の真面目すぎる息子の事を思い出しでもしたのだろう。
『月君、だっけ?おばさん、月君の事少しは知ってるのよ。高宮さんのご自慢のお孫さんなんですってね』
慣れた手つきでお茶の用意をする月にしきりと感心し、家事の手伝いをするのか?という話から会話が弾み、僅かな時間の間に彼女は随分と月に打ち解けた。子供相手だから深刻になる必要はないと気を緩めていたのかもしれない。
『小母さんには中学生の息子がいてね‥‥とても真面目ないい子なのよ。正義感が強くて‥‥』
何所か遠い目をしてそんな話をし出した彼女に、自分の父は警察官なのだと月は言った。いじめを許さないなんて勇気があるんですね、僕もおばさんの息子さんを見習わなくちゃと、月は照れたようにそう言った。
『勇気ねぇ‥‥でも、それで自分が怪我をしてたんじゃ‥‥』
心配なんですね?
心配よ、母親なんだから‥‥
でも、おばさんの息子さんは、おばさんの気持ちを判ってくれないんですね?
『この前も怪我をして帰って来て‥‥!2年の終わりには骨折まで‥‥!』
また同じような事が起きたらどうしようかと‥‥‥!
そして遂には彼女の目に涙が浮かびだし、これはかなり切羽詰まっているなと、月は感じた。
『クラスメイトなのに‥‥!友達なのに‥‥!その友達をいじめて喜ぶなんて‥‥!』
あいつ等がいなくなればうちの照は怪我をしなくて済む、友達だって戻って来るのに‥‥‥‥!!
だから、そう言って項垂れた彼女に月は囁いた。
『ねぇ、おばさん。僕、いいもの拾ったんです‥‥』
『これを使うも使わないもおばさんの気持ち一つです。それに本物だとは限らないし‥‥』
『騙されたと思って使ってみますか?』
差し出された1冊の黒いノートに、月の説明に、彼女は苦笑しながら『ありがとう。おばさんを慰めてくれるのね』と答えた。
『そうね‥‥これに名前を書いただけで人を殺せるんだったら、世の中の悪い人をみんな退治できるかもしれないわね‥‥』
つまりは、魅上照の強すぎる正義感はこの母の資質を受け継いだものだったのだろう。
そうして彼女は冗談半分で月の差し出したノートを開き、その1ページ目に彼女の悩みの一つである上司の名前を書いた。冗談ではあったけれど、殺人の意思を持って名前を書く行為にその手は少々震えていた。
その次の日、月は一人で外へ出た所を彼女に待ち伏せされた。
『あれは‥‥あのノートは‥‥本物だったのね‥‥!!』
酷く青ざめた顔で彼女は月に詰め寄り、あの公園の片隅でどうしてくれるんだと月を責めた。
『人を‥‥人を殺してしまった‥‥!』
自分の手で直接殺した訳ではない。それでも殺人の意思は確かに彼女の中にあった。死ねばいいと、その瞬間まるでゲームのように軽く考えた。そして、その通りになった。
その事実を会社に立ち寄って知った彼女は一晩悶々としたあげく、真相を確かめようと月の元へやって来たのだ。だから月はあのノートは拾っただけだと、その後で持ち主である死神からノートの使い方を教わったのだと正直に話した。
ノートに触った者には見えるはずの死神の姿が何故か彼女には見えず、それが死神の不機嫌ゆえだと月は直感した。どうやら死神は月にノートを使って欲しかったらしい。
月の話を聞き終えた彼女はその場にしゃがみこみ、どうしようどうしようと、ただそればかりを繰り返した。
こんな事が世間にばれたら息子は一体どうなるのか ――― 結局、彼女の行き着く先はそこだった ――― 彼女はそう言ってさめざめと泣いた。
『だいじょうぶ。誰にもばれっこないですよ、おばさん。だって、証拠なんて何所にもないんですから。だいいち、死因は心臓麻痺なんですよ』
それを聞いて少し安心したのか、それから暫くして『誰にも言わないでね』と言い置いて彼女は帰って行った。不安は拭い切れなかったようだが、殺人の手口が死神のノートだなんて、そんな奇妙な話誰も信じないと彼女自身理解したようだった。
その数日後、再び彼女の待ち伏せを受けた月は、『もう一度ノートを貸してちょうだい』という申し出に思わず大きく目を見張ってしまった。
『どうしても‥‥どうしても許せない奴がいるの‥‥』
聞けば、息子の現状を別れた夫に電話で相談したのだという。その最中に夫を奪った女 ――― 今は元夫の正式な妻 ――― が電話にしゃしゃり出て来て、『あんたの息子なんかのためにどうしてうちの人が苦労しなくちゃいけないのよ!もう二度と掛けて来ないで!!』と言って電話を切ってしまったのだという。
『あの後で、夫からも電話はないし‥‥きっと、あの女が邪魔をしてるのよ!』
あんな女のために照は父親を失って、それが今また‥‥!!
その鬼気迫る表情に、人は簡単に憎しみに染まるのだと、月は知った。
そして、貸し出したノートに彼女は憎い女の名前を書いた。
最初の殺人の恐怖はそこにはなかった。彼女はとても満足して帰って行った。
母親とは何と強い生き物だろう。月は改めてそう思った。
『照が‥‥照が‥‥!あの子が殺される‥‥!!』
三度目の切っ掛けもやはり息子絡みだった。
照が眼鏡を壊されて帰って来た日の夜だ。それを十分予想していた月はノートを持ち家の近くで彼女が来るのを待っていた。案の定彼女は来た。
その姿は子を求めて荒れ狂う鬼子母神さながらだった。
毎日のように怪我をして帰って来る息子に心配のあまり仕事を休みがちになっていた彼女は、精神的にかなり追いつめられていたのだろう。公園で息子が世話をしていた野良猫が息子をいじめていた同級生達に殺されたという話を聞き、次は息子が殺されると思い込んでしまったようだ。
『あいつらをどうにかしないと‥‥私がどうにかしないと‥‥!』
殺される前に殺してやる!!
そう言って般若のような顔を晒す彼女に月はノートを差し出した。
『あぁ、でも‥‥下手に殺して照が疑われたら‥‥あいつらに一番苛められてたのは照だから‥‥』
そして、いざ名前を書く段になってその可能性に気付いた彼女は別の恐怖に震えペンを取り落とした。
『実はね、死の状況を書きこむ事も出来るんですよ、おばさん』
そんな彼女に代わって、誰も疑う事のない死の理由を月がノートに書きこんだ。
『後は、殺したい人間の名前をおばさんが書くだけです』
彼らの命運を握っているのはおばさんです。
月の言葉にしばし考え込んだ彼女だったが、結局は四人の名前をノートに書いた。
その酷く震える書体に、彼女の決意と恐怖、それから不安が見て取れた。
被害者の死の宣告日が当日ではなく三日後だったのは意図したものではない。
けれど、そうして出来た空白の数日間で、もともと不安定だった彼女の精神は更に危なくなった。
『どうしよう、どうしましょう‥‥酷い奴らだったとはいえ照のクラスメイトを‥‥私があいつらを殺したと照が知ったら‥‥あの正義感の強い照が知ったら、きっと私を許さない‥‥!』
そうなったら私はどうすればいいの?今でも照に嫌われているのに、これ以上嫌われたら生きていけない‥‥‥!!
世間に知られる事よりも息子に知られる事を恐れた彼女は ――― 知らず知らずのうちに殺人の罪の意識が彼女の中に降り積もっていたのだろう ――― 四人の死の予定を変えて欲しいと月に訴えた。
それは無理だというと、お前のせいだ、お前に唆されたから私はあんな恐ろしい事をしてしまったんだ!と月を責め立てた。
きっかけは確かに月だったが、最終的にノートに名前を書いたのは彼女の意思だ。殺しの意思を持って彼女が被害者の名前を書いた。
警察に行った所でどうにもならないよ。誰かに訴えたって、おばさんが僕を殺したってどうにもならない。過去は消せないし未来も変えられない。だって、これは人の力の及ばない次元の事なんだから。
そう月が言ってやると、彼女は絶望の悲鳴を上げ夢遊病者のように覚束無い足取りで帰っていった。
あぁ、彼女はもうダメだ。
そう思った月は祖母の家に戻るなり、隠してあったノートを取り出し迷うことなく彼女の名前を書いた。
本当にノートに書いた通りになるのかと心配の余り、自ら事故予定現場に赴き事故を確認。その瞬間罪の意識から衝動的な自殺願望を覚え、回避行動を取ることなく事故車に巻き込まれて死亡、と。
『彼女が警察に自首するんじゃないかって?それはないよ。だって、彼女は残された息子の事をとても心配しているからね。警察が取り合ってくれなくても、そんな彼女の行動は直ぐ噂になって彼女の息子の耳にも届く。そうなったら、あの息子が信じる信じないは別にして、母親の彼女を今以上に軽蔑し嫌うのは目に見えてるもの。それを彼女はとても恐れてるんだ。だから彼女は自首はしない、誰にも事実を言わない。じゃぁ、どうするかって?そんなの、道は一つしかない。自殺だよ。彼女はきっとノートに自分の名前を書く。それも息子の名前と一緒に。そう、親子無理心中さ。だって、いじめられてる息子を残して彼女が一人で死ねるはずないもの。あぁ、もしかしたら息子の死因は安楽死、とぐらいは書くかもね。そうだよ、キング。母親ってのはそういう生き物なんだ』
不思議そうに ――― 丸い球体の胴体に髑髏の顔を持った死神大王に表情と言うものがあるとは思えないが ――― 自分の行動の理由を問うてきた死神にスラスラとそう答えたのは、無邪気な中にも酷く冷静なものを秘めた夜神月だった。
『もっとも、僕がノートを貸さなければ名前は書けないけどね。そうなったらそうなったで、自力で自殺しようとするだろうけど‥‥苦しい死に方になるだろうねぇ。死ぬ勇気もノートに名前を書く以上にいるだろうし‥‥え?僕を恨んで死ぬ前に殺しに来るかもしれないって?うん、有り得そうで怖いね』
ノートを再び隠した月の表情に怯えの色はなかった。
『保身のためって言われたら否定しきれないかな‥‥僕だってこんな年で死にたくないし』
無垢な笑顔は残酷で。そして何より美しい。
『何がいけなかったんだろうね‥‥人を甚振って悦にいってる下らない連中?正義を貫こうとする一途な少年?息子のためなら人殺しも辞さない母親?それとも、ノートの事を教えた僕?』
だって、良い人だったんだよ。他人のために本気で怒る事の出来る良い人だったんだ。
その彼女が苦しんでるのを黙って見ていられなかったんだ‥‥‥
『そうだねぇ‥‥彼女にはもう苦しんで欲しくない、と思うよ‥‥罪の意識と息子への思いに潰されて、苦しんで欲しくない‥‥息子を殺したら、あの世に行っても彼女は苦しむだろうからね。息子の未来を奪ってしまったのは自分だって‥‥』
だから、彼女には可哀そうだけど一人で死んでもらう事にしたんだ。
ごめんね、ごめんね‥‥ごめんなさい。
でも、これできっと貴女の息子は踏みとどまれるよ、前へ進めるよ。これからは自分の身を守る事も覚えると思うよ。
そして、きっと人のために何かをしたいと思う人間になると思う。人の役に立つ人間になると思う。
だって、貴女の息子だもの。貴方が一生懸命育てた自慢の息子だもの。
『ごめんね、おばさん』
それが、事の真相だと知る者は最早人間界に一人もいない。
ノートを使った二人の人間のうち一人は既に死亡、もう一人はデスノートの所有権を放棄してしまったからだ。
デスノートの所有権を放棄すると、その者はノートの存在も死神の存在も忘れてしまう。再びノートを手にすれば記憶は戻るが、死神大王のノートだけは別だという事を夜神月は知らされていなかった。
死神という人外の存在が齎した一冊の黒いノート。
それによって運命を変えられた人間は果たして何人いたのか。
その結果が判るのはもう少し先の話である。
「ほら、粧裕。お祖母ちゃんにさよならを言いなさい」
「お祖母ちゃん、さよなら。でも、夏休みになったらまた遊びに来るね」
「はいはい、楽しみに待ってるよ。月もね」
「さよなら、お祖母ちゃん」
その日、順調に回復した祖母からもう世話は要らないと言い渡された夜神母子は、何とか事件が解決し有給休暇をとりこちらに来ていた父と共に母の実家を後にした。
「飛行機に乗るの?それとも新幹線?」
「新幹線だよ、粧裕」
「えぇっ?粧裕、飛行機が良かったな。だって、まだ一度も乗ったことないんだもん」
「それはまた今度な」
ハイヤーの窓を開け見えなくなるまで祖母に手を振っていた粧裕は、急な別れに寂しさを覚えたのか父親にべったりと甘え月と母の幸子の笑みを誘った。
「帰ったら即学校だぞ、粧裕。判ってるのか?」
「やだぁ~、お兄ちゃん、思い出させないでよ~」
「そうよ、粧裕。テストで変な点数とったらお母さん許さないからね」
「そうなったら、月がちゃんと粧裕の面倒を見てなかった、って事になるな」
「お父さん!‥‥粧裕、帰ったら直ぐに復習だからな!」
「お兄ちゃんのイジワル~~!」
ハイヤーの中でそんな会話を繰り広げる夜神親子に運転手も思わず顔を綻ばせる。
紳士然とした父親に平凡だが身綺麗な母親。可愛らしい兄と妹はとても仲が良く、それは正に幸せを絵に描いたような一家だった。
住宅街を夜神一家を乗せたハイヤーが安全運転で走り抜ける。
広くもなく狭くもない公園を通り過ぎ、大通りに出た所で車のスピードがグッと上がる。
すれ違った眼鏡の少年に気付く者は誰もいない。
そしてその日が、魅上照の一五歳の誕生日だった事にも。
黄昏の出逢いは永遠に秘められたまま‥‥‥‥
終