FATA MORGANA

~秋霜烈日~

 

 魅上照は自分が周囲から堅物だと思われている事を知っていた。だが、それで構わないと本人は思っている。
 魅上にしてみればまともなのは自分だけで、いい加減に生きている周囲の方が異常だったからだ。
 世の中には悪い人間と良い人間がいる。悪と正義がある。誇りを無くした人間と誇りを忘れない人間がいる。
 全てはその2種類に分類される。
 それが魅上照の人間観だ。
 そして悲しいかな、人は成長するにつれ堕落していく。害悪とまで行かなくとも、不健全な思考と生活態度を繰り返すようになる。そんな人間が社会のモラルを乱すのが、乱れていく社会が、魅上照は大嫌いだ。当然犯罪者は生きるに値しないクズ、この世から削除されるべきだと思っている。
 もちろん、そんな自身の思想を堕落した人間達に事細かに話そうとは思わない。今は亡き母親に話して以来した事がない。そんな事をしても何の意味もないともう知っているからだ。
 それよりは法曹界の人間となり、現実的に犯罪者や害悪となる人間を裁いた方がマシだと考えている。そうして大学の法学部を出て ――― もちろん、大学4年の時に司法試験を受けた。一発合格だった ――― 1年半の司法修習を経て魅上照は晴れて検事となった。
 規則正しい生活を送り他人に迷惑をかけないよう日々慎ましやかに生真面目に生きている魅上に、数少ない友人や職場の同僚は呆れながらも穏やかな眼差しを向ける。彼らは魅上照と言う人間を謹厳実直と称する。時には潔癖症とからかったりする。だが、おおむね好感を抱いていた。
 魅上照は口うるさく面白味に欠ける人間だが、真面目で面倒見が良く決して人を裏切らない頼れる男だ。だから彼らは魅上の説教癖に苦笑しつつも一応聞く振りをしてくれた。
 魅上照の言う事は正論だ。それは彼らも認めている。だが、正論過ぎて実行するにはやや不具合が生じる。世の中奇麗事ばかり通るわけではない。彼らはそれを良く判っていたので何事もホドホドを心掛けているのだ。悪いと判っていてもやってしまう、悪いと判っていても見て見ぬ振りをする。それが生きる知恵だと彼らはしたり顔で言う。
 だからだろうか、その反動のように奇麗事を頑なに守ろうとする魅上を彼らは心の中で応援した。決して悪や権力に折れない魅上を心配した。そんな人間だけが魅上の友人として残っていた。それは魅上にとってとても素晴らしい事だったが、魅上自身は全く気付いていなかった。自分を明から様にバカにする人間の視線ばかりに目が行っていた。実に残念な事である。
 検事になった次の年の忘年会の席で、魅上照は日頃から仲の悪い同僚に恋人はいないのかと尋ねられた。
 魅上は検察の仕事 ――― 犯罪者の処罰 ――― に自分の生まれて来た意味を感じていたので、今は仕事が忙しいから当分恋人を作るつもりはないと答えた。魅上の正直な想いだった。
 だが、それを聞いて酔っ払いの同僚は明から様に魅上をバカにした。
 つまらない男だとか、童貞だろうとか、本当はホモなんじゃないかとか、下品な悪口をさんざん言ってくれた。
 その同僚は、野心は人一倍だが実力が付いていかず常にくすぶっている男だった。欲のない、そして仕事の出来る後輩の魅上に日頃から嫉妬を抱いていた。他の同僚達はそれを知っていたので、上手くフォローして男を魅上の傍から引き離してくれた。
 それでも、堅物で通っている魅上照の恋話には誰もが興味を持ち、好きな女のタイプについて魅上に聞いてきた者がいた。

「さぁ、どうだろう‥‥今まで余り考えた事ないが‥‥」
「彼女いない暦2X年?」
「もしかして勉強一筋だったのか?」
「そうだな、そうだったかもしれないな」
「真面目な魅上さんらしいですね」

 ほろ酔い気分の同僚達は魅上の面白味のない答えに『魅上らしい』と言って笑った。そこに悪意はなかった。それは魅上にも判ったので、彼は気分を害する事無く料理に箸を伸ばした。当然ながら魅上は酒を嗜まない。飲酒は堕落への一歩だからだ。

「でもでも、好きなアイドルの一人や二人いるんでしょ?」

 だが、ここで誤算だったのは酔いが人の理性を緩ませる事だった。真面目でそれなりにイケメンの魅上に好意を抱いている女性職員達がこの話に食い下がってきた。

「いや、芸能方面には疎くて‥‥」
「ほらぁ、やっぱりぃ」
「魅上さん、真面目ぇ」

 堅物ではあるが決して偏屈ではない魅上はそれなりに人付き合いも心得ている。だが、紅い頬に赤い唇でケラケラ笑う彼女達の心理が魅上には全く判らない。

「でも、イメージぐらいあるんでしょ?痩せてる方が好きとか、ポッチャリ系が好きとか」
「ロングとショートだったらどっちが好きですか?」

 ロングとショートと言われ、それが髪の長さだと気付いた魅上は、

「ショート、かな?アクティヴなイメージがあるから」

 と答えた。

「茶髪?黒髪?それとも思い切って真っ赤とか!」
「バカね、真面目な魅上さんが髪を染めてる子を好きになるはずないじゃない」

 自分の周囲で飛び交う酔っ払い達の黄色い声を内心うるさいと思いながら、魅上は律儀にその質問にも答えた。

「いや、特に黒髪には拘らない。職業によっては染めた方が有利に働く場合も有ると思うし。そうだな‥‥案外茶髪の方が柔らかい感じがしていいかも知れないな」
「キャー!あたし、明日髪染めようかしらぁ!」
「そんな事したら上司に睨まれるわよ」
「可愛い系と、奇麗系だとどっちですかぁ?」
「私は外見で人を判断したくない」

 それは型通りの言葉だったが、誰もが魅上照らしい答えだと思った。それどころか、それ以外の答えを魅上がするとは決して考えなかった。真面目で公平な魅上照が人の容姿に左右されないのは当たり前だったからだ。

「そうですよねぇ、人間中身ですよねぇ」
「でも、逆に魅上はその中身にいちいち文句言いそうだよな」
「あ、それ言えるかもぉ。魅上さん、知的な人が好みでしょ」
「どうだろう。余り娯楽に時間を裂く方ではないから、享楽的な女性より知的な女性の方が気が合うかもしれない‥‥」

 享楽的だって~~、と騒ぐ女性職員達はかなり酒が進んでいるようだ。

「スポーツウーマンは?」
「健康ならそれでいい‥‥」
「お喋りと無口だと?」
「どっちもどっちだな。出来れば大声を上げる女性は遠慮したい」
「ズバリ!大和撫子!」
「余り奥ゆかし過ぎるのもどうかと」

 女性職員に加え男の同僚も何人か加わり魅上の好みのタイプを聞いていく。それに閉口し始めた頃、

「魅上、お前高望みしすぎだそ」

 一番仲の良い同僚が呆れたようにそう言った。

「ほんと。思った通り、魅上さんって好みがうるさいんですね」

 女子職員にまでそう言われ、魅上は首を傾げた。
 自分はそんなに無理な事を言っただろうか。

「だって、お前。いくら外見に拘らないって言ったってなぁ。健康で活動的、それでいて慎ましやか。知識が豊富で会話も知的、控えめだが自分の意見をしっかり持っていて、家事万能、良妻賢母な女なんか今時いるか?」
「よっぽどの深窓の令嬢でないとなぁ。無理なんじゃないかぁ?」
「そうか?私は特に変わった事は言ってないと思うが」

 真面目な魅上らしいと笑い声が上がる。

「魅上は何事も自分が基準なんだよな。仕事も恋人選びも」
「ほんと、ほんと。それ、なかなか難しいぞぉ。理想のタイプはさしずめ女版魅上?」
「顔や体で選んだ方が未だ可能性あるよな」
「魅上さんカッコイイから、女の方で放っておかないですよぉ」
「無駄無駄。どんなにいい女が言い寄って来ても魅上の食指は動かないって」

 ドッと笑い声が上がり同僚達の興味は急速に魅上から離れていった。

「魅上の理想はキラ様だろ?姿形の見えないキラ様なら、幾らでも自分好みに想像できるもんな」
「私は‥‥」
「キラ様が女だったらいいな」

 一言そう言って仲の良い同僚は気のある女性職員の隣へと移動して行った。
 一人残された魅上は、自分はごく当然の事を言っただけなのに、と思いながら黙々と目の前の料理を片付けて行った。

 

 

 


 検事となって漸く仕事にも慣れた頃、担当事件の調査で魅上照は東京へ出張する事となった。
 新幹線で東京駅に着くや一度東京地方検察庁に顔を出し、それから警視庁へ出向いて関連事件の捜査を担当した刑事と会った。それから明日の予定を取り決め、今日はもう遅いからと予約したホテルに向かうべく乗った地下鉄で、魅上は運悪く帰宅ラッシュに遭遇した。
 吊革に掴まることも出来ず黒革の鞄を抱えて立ち尽くす。そう長い時間でもないからと魅上は特に文句も言わず我慢していた。
 だが、不意にその眉が曇った。ガタンと車体が大きく揺れた瞬間人垣の間に今にも泣きそうな女性の顔が見えたからだ。とっさに痴漢だと思った。よくよく観察すればその女性を挟んで若い大学生らしき二人の男がニヤニヤ厭らしい笑いを零している。女性の姿は直ぐに見えなくなったが、今も酷い目に合っているのは間違いない。
 直ぐに助けるべく魅上は動いた。だが、女性と魅上の間には3人ばかり人がいて彼が動いたとたん、周囲から文句の声が上がった。
 それに一瞬躊躇したその時、

「キャッ」
「何しやがる!」

 女性の悲鳴と痴漢らしき若い男の荒っぽい声が聞こえ、人が強引に動いた余波が魅上の元にまで届いた。
 あちこちから上がる文句の声を無視してその波は動き扉の前で止まったようだ。そうして電車が駅のホームに滑り込むや、他の降車客に紛れ被害者女性も一緒に電車を降りたのが判った。
 首を捻りそれを目で追った魅上は、柱の影で仕切りと頭を下げ礼を言っているらしい女性の姿を確認した。
 自分の他にも許しがたい卑劣な行為に気付いた者がいて、その人物が女性を助けたのだと知り、魅上はホッと全身の力を抜いた。そしていったいどんな人物が女性を助けたのか知りたくて、再び動き出した電車の中から首を伸ばしホームの様子を眺め続けた。
 けれど、見えたのは女性の横顔と今まさに立ち去ろうとする人物の後姿だけだった。
 背の高さ、肩幅の広さからして恐らくは若い男性だろう。癖のない短い茶髪と決して華美ではない爽やかな印象を受けるファッションしか魅上には判らなかった。
 それでも、不快な満員電車も気にならないくらい何だかとてもいい気分になった魅上だった。
 そんな幸先のいい初日を切ったお陰か、魅上の仕事は順調に捗り明日は京都に帰る日となった。これで被疑者を有罪に持ち込むことが出来ると確信した魅上は、協力してくれた刑事達に感謝の言葉を述べた。
 あんたの執念深さには負けたよと苦笑いを零す壮年の刑事と、魅上とそう年の変わらない刑事はそんな魅上の健闘を誉めてくれた。そして、お祝いがてら一杯飲みに行かないかと誘ってきた。明日の朝一番の新幹線に乗らなければならない魅上は、既に時計の針が夜の10時を回っていた事もあり、その誘いを丁寧に断り一人ホテルへと戻った。
 その途中通った繁華街で、魅上はまたも不愉快な場面に出くわした。
 酔っ払った中年男性に絡む如何にも柄の悪い若者達の集団だ。まるで連れのように馴れ馴れしく話しかけ両脇から男性を支えているが、背広姿の何処からどう見てもサラリーマンな男性と着崩した格好の二十歳前後の若者達では全く共通点がない。恐らく酔っ払っているのをいいことに、人気のないところに連れ込んで金品を奪うつもりなのだろう。
 魅上はクルリと踵を返し彼らの後を追った。
 予想通り寂れた路地に入り込んだ若者達は、暗がりにサラリーマンを転がすとその懐を探り始めた。

「何をしている!」

 駆けつけた魅上がそう叫ぶや、若者達が一斉に振り返る。人数は男三人に女が一人。喧嘩になれば魅上に分はなかったが、そうと判っていても放っておけないのが魅上照だった。

「その人に何をするつもりだ?」
「あぁぁん?誰だよ、オッサン」
「関係ない奴は引っ込んでろ」
「それとも何か?あんたが代わりに俺達に小遣いくれるってのか?」
「あいつもやっちゃいなよ」

 若者達も酔っているのだろう。足元が多少おぼつかない。ならば魅上にも勝てる見込みはあるだろう。

「君達、未成年か?」
「それがどうしたよ」

 酒で気が大きくなっているのだろうか。実にふてぶてしい態度だ。酔いのせいとは言え、自分がしている事を少しも悪いと思っていないその態度に腹が立って仕方がない。未成年だからといって赦してやるつもりは魅上には全くなかった。

「その年から強盗を働くとは、更正の余地はなさそうだな」

 魅上は暗いながらも四人の顔の特徴をしっかりと記憶し、帰ったら警察のデータベースに記録がないか確認しようと思った。

「このヤロウ!何無視してやがんだよ!」
「すかしやがって、気にいらねぇ!」

 その僅かな沈黙をどう取ったのか若者達は簡単に切れ、目標をサラリーマンから魅上に移し一斉に襲い掛かって来た。
 魅上は毎週スポーツジムに通っている。健全なる魂は健全なる肉体に宿る、が彼の信条の一つだからだ。従って腕力にはそれなりに自信がある。また、トレーニングの一環としてボクシングも齧っていたので喧嘩に弱いつもりもない。それに、魅上は生粋の平和主義者という訳ではなかった。もちろん無駄な争いは嫌いだが、悪を退治するためなら力に訴える事を躊躇うような臆病者ではなかった。

「ぶっ殺してやる!」

 口汚く罵りながら何も考えずに襲い掛かって来る街のクズども。
 酔っ払いでなくとも相手が二人までなら魅上も勝つ自信があった。だが三人、女も入れて四人となると流石に自信がない。
 案の定、一人目をボディブローで沈めることは簡単に出来たものの、女が投げ付けて来たビール缶に気を取られた一瞬、二人目の男にタックルされ大きくバランスを崩してしまった。そこを逃さず三人目が蹴りを入れ、後は殴る蹴るのお決まりの暴行が始まる。
 赦さん、赦さん、赦さん‥‥‥!
 殴られ蹴られながら魅上の心の中は悪への激しい怒りと憎しみで一杯になる。
 必ず素性をつき止め刑務所にぶち込んでやる!

「このヤロー!汚ねぇ手で触んじゃねぇ!」
「死んじゃえ!死んじゃえ!」
「さっさとやっちまえよ!」

 腹に食い込んだ足にしがみ付いた魅上の頭を女がピンヒールの先で蹴る。もう一人の男は背中だ。
 ヤバイかもしれないと思った直後、女が甲高い悲鳴を上げた。

「て、てめぇ‥‥!」
「何だ何だぁ!?」

 続いてグェッと言う拉げた声がして、魅上の背中を蹴っていた男が汚いアスファルトに転がったのが振動で判った。そして足を抱えた男の体がクタリと崩折れたのも。

「もう離していいですよ」

 暫くしてそんな声が聞こえ、優しい手が腹這いに蹲っていた魅上の体にそっと触れた。

「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫‥‥たいした事は‥‥」
「急に動かないで。貴方は腹を蹴られています。頭も‥‥見た目以上に怪我をしているかもしれません」

 声は若い男のものだ。その声の主は一頻り魅上の体を調べた後、彼をゆっくり助け起こし飲み屋の裏手に置かれたビール瓶ケースに座らせた。それから携帯電話を取り出し救急車を呼んだ。

「‥‥連中は‥‥」

 全身の痛みに崩れ落ちそうになる体を壁に凭れ掛けさせる事で何とか堪え、魅上はうっすらと目を開いた。
 両脇の建物から漏れる明かりにシルエットが一つ。彼を助けてくれた男だろう。男はアスファルトに転がったままだった魅上の鞄を拾い膝の上に乗せた後、最初の被害者である酔っ払いサラリーマンを介抱し始めた。
 例の四人組はアスファルトに力なく横たわっている。どうやら当身でもされて気を失っているようだ。という事は、男は何らかの武術の心得があるのだろうか。

「た‥‥助けて頂いて‥‥ありがとうございます」

 魅上は血の味のする口を動かし礼を言った。

「いえ、大した事はしてません。彼ら、酔っていたようで‥‥動きが鈍かったですから」

 それに返って来た言葉はとても遠慮深い物だった。

「何処か特に痛いところはありませんか?」
「‥‥だ、大丈夫です‥‥貴方が仰ったとおり、連中、酔っ払ってて‥‥力が‥‥えぇ、たいして力が入らなかったようで‥‥」
「でも、血が‥‥」

 近付いて来る気配があった。重い瞼を必死に開きその姿を捕えようと試みる。
 唇に何か触れた。

「救急車が来るまでもう暫く待っていてください」

 それは清潔な白いハンカチだった。弱々しいネオンのせいで白には見えなかったけれど、きっと白に違いないと魅上は思った。
 目線を上げればボンヤリと人の顔が見えた。思った通り若い男だ。魅上は弱々しく目を瞬いた。

「目、痛いんですか?」
「え?‥‥いえ」
「耳は?耳鳴りはしませんか?」
「‥‥大丈夫です」
「吐き気は?」
「腹は痛いですが‥‥そこまでは」
「もしかして、体、鍛えてらっしゃるんですか?」
「少し‥‥」
「そんな感じがしました。腹筋で蹴りに耐えていたように見えましたから」

 耳に心地良い穏やかな声だ。話し方も奇麗で感じが良い。次第にはっきりして来た視界に見えて来たのは静かに微笑む人形のように整った顔だった。

「?どうかしましたか?」
「い、いえ‥‥」

 思わずポカンと見惚れた魅上を、その若者は困ったように見返した。
 アーモンド形の奇麗な眸に見つめられ、自分の頬が熱くなるのを感じる。額に当てられた手を意識したとたん、体まで熱くなる。
 女のように奇麗な顔、というのは男である彼に失礼だろう。だが、そうと判っていても魅上にはそれしか言い表す言葉が思いつかなかった。

「災難でしたね」
「あ、えぇ‥‥」
「あの人を助けようとしたんですね」

 彼の視線の先に目をやれば、例のサラリーマンが高鼾を掻いて眠り込んでいた。

「こんなになってまで‥‥なかなか出来ることじゃありません。尊敬します」
「い、いえ‥‥人として当然の事をしたまでです」
「それがなかなか出来ないのが、今の世の中です」

 その言葉に魅上はハッと彼を振り仰いだ。
 それは憂いに満ちた横顔だった。
 美しく気高く、そして慈愛に満ちた眼差し。優美な眉を悲しげに顰め、街のクズどもを見つめる様子は嘆きのマリアのようだ。
 キラ‥‥‥
 不意にその名が頭に浮かんだ。
 魅上が神と崇めるキラ ――― もしキラが人の姿をしてこの地上に降り立ったなら、きっと今目の前にいる若者のような姿を、憂いの表情をしているに違いない。
 悪しき存在をこの世から抹殺する孤高の人。天秤に心臓を乗せ罪を量る地獄の裁判官の如く、罪人の心臓を触れずして止めてしまうキラ。それはまさに神の裁き。
 悪い事をすれば報いがある、天罰は下る。下らなくてはならない。
 そして天罰が下らない者がいれば、誰かが天に代わって罰を与えなくてはならない。
 悪を裁くことこそが正義。それを為す者が正義。

「貴方も‥‥悪が嫌いなんですね」

 思わず魅上がそう言うと、目の前に立つ若者はゆっくりと視線をこちらに向けた。

「そうですね。好きではありませんね」
「憎んでいる?」
「憎まない人はいないと思いますよ」

 仄かに口許は笑みを作りながらも、若者の眸は笑っていなかった。
 決して鋭いわけではない、ただ真摯に魅上を見つめているだけだ。それは魅上が今まで見てきたどんな瞳よりも美しい。

「私は‥‥」

 魅上はその瞳に見つめられ、己が生きて来た人生の全てを裁定されているような錯覚に陥り、慌てて視線を外した。
 その先に転がる街のダニともいえる低級な輩。

「あんな連中‥‥生きていても何の役にも立たない‥‥」
「悲しい事は言わないでください。僕達の知らない所で彼らもまた誰かに必要とされているかもしれないのですから」

 優しく情け深い言葉だった。
 彼の形の良い唇から零れ出た言葉でなかったら、魅上は即座に否定していた事だろう。

「‥‥そうで、しょうか‥‥」

 恐る恐る問い掛けると、若者は口許に微笑みを浮かべながらそのダニどもの介抱まで始めた。男三人を店の壁に寄りかかるようにして座らせ、残った少女もその隣に座らせる。捲れ上がったミニスカートの裾を直してやり、頬の汚れも拭いてやる。

「幾ら初夏とはいえ、アスファルトに腹を付けて寝るのは体に悪いですからね」

 その言葉から、若者の気配りの深さを感じる。決して付け焼刃ではない労わりは、彼の人となりを物語るに充分だった。

「優しいのですね‥‥でも、明日になればまた、あいつらは同じ事を繰り返すに違いない‥‥」
「そうかもしれませんね」
「!そうと判っていて、助けるんですか?‥‥あんな、堕落した人間達を、赦すというのですか?」
「赦すだなんて‥‥」

 魅上の傍へ戻って来た若者は少し困ったように微笑み、彼の乱れた髪をそっと直してくれた。

「無防備な者に鞭打つほど、狭い心でいたくないだけです」

 自分の我儘なのだと、かの人は言う。その奥ゆかしさと心の余裕に魅上はハッと胸を突かれた。
 正直この頃の魅上に心のゆとりはなかった。見た目はどうあれその心中はいつも何かに苛つき飢えていた。魅上の心の目は野獣の目のようにギラついていたのだ。
 悪を裁くことこそが正義。それを為す者が正義。だから自分は検事になった。それこそが天職。
 苦労してこの職に就き、様々な困難にぶつかりながらも一つ一つ地道に悪を裁いて来た。だが、この世には裁かなければならない悪は星の数ほどいる。むしろ、清らかな者の数の方が少ない。
 何と下らない、何と汚れきった世の中なのか。
 自分が二人いれば‥‥‥いや、十人、百人いればもっと多くの悪を裁けるのに‥‥‥!
 無意識にそんな思いが募り焦った結果が今夜のこのざまだと思う。

「私だって‥‥!私だってキラ様がこの世にずっといてくださったなら、こんな事を言ったりしません!あの方が消えてしまわれたから、私は‥‥私は‥‥!」
「貴方はキラ信者ですか?」
「信者だなんて!そんな軽薄な言葉は使わないでください!」

 吐き捨てるようにそう言った魅上に、若者は静かな視線を注ぐだけで何も答えなかった。

「!‥‥す、すみません。助けていただいた方に、私は何て失礼な事を‥‥」
「いいえ。貴方のお気持ちは‥‥僕にも少し判るつもりです」

 魅上は再び顔を上げ、何かを深く考え込む若者の研ぎ澄まされた怜悧な美しさに思わず息を呑んだ。

「キラを、信じているんですね?」

 見上げながら、小さくコクリと頷き、魅上は今まで誰にも言った事のない想いを口にした。

「キラ様が‥‥キラ、と呼ばれた存在が人知を超えた力で犯罪者を裁いていたのは一年余りの短い期間‥‥そして、ぱったり姿を消してもう一年半が経ってしまった‥‥キラ様のお陰で一時減少した犯罪件数は前以上に増えて苦しむ人もさらに増えた。キラ様さえ‥‥!キラ様さえいてくだされば、こんな事にはならないのに‥‥こんな‥‥!」
「悪が大手を振って歩く世の中ですか?」
「そうだ!」
「心の優しい、力のない人が苦しむ世の中‥‥」
「そんな事があっていいはずがない!そんな理不尽な事があっていいものか!」

 最後の叫びは高ぶる感情のままに掠れていた。

「そうですね‥‥そんな事、あっていいはずがありませんよね」

 魅上に合わせるだけの言葉でないことぐらい彼にも判った。その声は重く深く憂いと決意に満ち、彼もまた自分と同じように思っているのだと魅上の心に伝わった。

「キラが犯罪の抑止力になる事で、そんな人達が安心して暮らせる世の中になるのなら、それもまた時代の流れと言うものなのかもしれません」
「‥‥‥‥」

 一瞬遠くを見つめた瞳が夜空の星のように輝いて見えたのは魅上の気のせいではない。

「けれど、そんな人任せではきっと長続きしません」
「!」
「そうは思いませんか?」

 振り返ったかの人の悲しそうな瞳に魅上は何も言い返せなかった。

「貴方のように、赤の他人の苦境に心痛める人達が、皆それぞれ自分にできる事を尽くし、時には手を取り合って世の中を変えていかなければ、それは本当にはならないと思います。確かにキラの行為は即効性の薬のように世の中を浄化してくれるでしょう。けれど、強い薬は副作用が怖い。そして直ぐに慣れて効かなくなってしまう」
「‥‥それは‥‥‥」
「他力本願と言う言葉があるでしょう?本来は阿弥陀如来の力によって人はこの世に生きる事を赦されているという意味ですが、今では他人の力に頼ると言う意味に使われています。力ない人達が自分の力で悪と戦うことを忘れキラに頼ってしまったら、その人達も貴方が嫌う堕落した人間になってしまうかもしれませんよ。それでもいいのですか?」
「そんな事には‥‥」
「先程の貴方の言葉、キラに頼り切った言葉に聞こえました。本当の貴方はそうではないでしょう?少なくとも、あのサラリーマンを助けた時の貴方はそうではなかったはずです」

 夜の街の薄汚れた路地裏の光の射さない暗がりで聞くには余りに奇麗過ぎる言葉だった。その言葉を口にする人もまた、この場に相応しくない美しさに満ちている。
 美しく、優しく、暖かく、悲しみを強い意志で隠している人 ―――

「貴方の、言っている事は‥‥き、奇麗事だ‥‥力のない者は、やはりキラ様に頼るしか‥‥」
「奇麗事でも、貴方があのサラリーマンを助けようとしたのは事実です。ご自分の姿をご覧になってください。泥に汚れ血に汚れ怪我をして、それは奇麗事ですか?言葉では奇麗事に聞こえても、実際にやってみるとちっとも綺麗じゃない事は、この世の中一杯あります。そうでしょう?そして、その奇麗事に貴方は真剣に立ち向かえる人だ」

 両肩に暖かい手が置かれた。
 それはとても奇麗な手だった。

「自分の力のなさにうち拉がれるたび、誰かにに頼りたいと思うのは人として当然だと思います。でも、キラは絶対ではありません。キラが最後の最後まで、その奇麗な思想を維持し続けていられる保障は何処にもありません。キラを頼るのもいい。けれど、最後に信じられるのは自分です。もっと自分の力を信じて‥‥」

 形の良い、傷一つない手が、魅上の左胸に誇り高く輝く秋霜烈日章を優しく撫でる。

「頑張って、検事さん」

 聞こえて来た救急車のサイレンに、若者は身を起こし表通りへと歩いて行った。
 暗闇とネオンが交差する街。その街中に消えて行く人を呆然と見送った魅上は後で深く深く後悔することとなる。
 ただその時の魅上は泣きたいくらい嬉しくて仕方がなかった。後を追う事も、名前を聞く事も忘れてしまうくらい感動していた。
 自分が今までしてきた事は間違っていなかった。これからも間違っていないのだと、そう言ってもらえたような気がして胸の内が熱かった。
 もしかしたら今の若者と、先日地下鉄で痴漢に会った女性を助けた若者は同一人物かもしれない。
もしそうなら、これはとてもステキな事だ。
 もしも‥‥もしもこの世に神という存在がいるのなら、これは神が与えてくださった最高の幸せだ!
 そう魅上は思った。
 この世には、自分が求めて止まない奇麗な心を持った人が未だ未だいる ――― それを確信した魅上は病院へと搬送される救急車の中で幸福な眠りへと落ちていった。


 それは奇しくも、魅上照、25回目の誕生日の夜の事だった。

 

 

                                         終?   

 

※この話では、「FATA MORGANA」は男を堕落させる妖精、男を破滅させる女の意味で捕らえています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 運命とは皮肉なもの。
 魅上照の幸福は25歳の誕生日に訪れ、彼に美しい希望を与えた。
 夜の街で出会った一人の若者。名前すら聞くのを忘れた命の恩人。
 だが、その清らかで気高く慈愛に満ちた姿は今もはっきり脳裏に焼き付いている。
 次に会う時、その穢れなき眼差しに応えられるよう、己が使命を力の限り果たそうと魅上は心に誓った。
 そしてその誓いは、思わぬ形で果たされる事となる。

「リューク、いい目を貰った」

 ある日突然目の前に落ちてきた1冊の黒いノート。
 それを手にしたとたん見えた異形のもの、死神。
 聞かずともノートを開いて魅上は直ぐに悟った。
 これこそが、キラの力の源だと。

「リューク、キラ様は今どうしていらっしゃるんだ?まさか、Lに殺されたのか?」
『いいや。死んじゃいない。生きてるよ』
「では何故、裁きをなさらない?」
『まぁ、いろいろあってな。今は出来ないでいるんだ。だからこうしてお前を代理人に選び、ノートを託したのさ』

 魅上より一回りも二周りも大きい黒ずくめの死神は、黄色い濁った目をギョロリと動かし林檎をねだった。

「‥‥キラ様は‥‥どんなお方だ?」
『んん?まぁ、賢かったな。たぶん照より賢いと思うぞ。そんでもって、まぁ、一応美人の部類に入るかな?』
「外見はどうでもいい。要は中味だ」
『ククク‥‥人間ってのはみんな初めはそう言うんだよな。けど、外見も大事なんだぜ。誰だってブスより美人の方がいいに決まってるからな。あぁ、そう、キラは中味も大したもんだった。本気で世の中を変えようとしていた。真面目で心の優しい人間だけの世界を作るんだと、張り切ってた。新世界の神になるってのが、キラの口癖だったな』
「新世界の神‥‥!」

 素晴らしいと呟きながら、魅上はその日の分の裁きをノートに書き連ねていく。

「何時か神にお会いする時に、私の働きを誉めてもらえるよう頑張らねば」
『ククク‥‥大丈夫。お前なら立派に役目を果たせるさ。他の二人に比べたら、ダントツに出来がいいからな』
「他の二人?例のさくらTVにビデオを送って来たキラの他にもキラがいたのか?」
『いたぜ。お前の前にもう一人代役がいた。つまり、キラと呼ばれる存在はお前で数えて四人目ってことだ』

 自分の前にもう一人代役がいたと聞かされ魅上の手が止まる。

『二番目のキラは自分からキラの仲間になった奴で、まぁ、面白い奴だったが、お世辞にも出来が良いとは言い難かったな。それどころか最初のキラの足を引っ張って窮地に追い込んじまった。だから仕方なくキラは自分の代役を立てたんだ。そいつが三番目のキラだ。選んだのはキラじゃなくて俺と同じ死神だったんだがな。そいつも頭の悪い奴でさぁ、裁きの裏で私利私欲?に走った殺しをやって、結局キラに処分されちまった』

 以来裁きはストップしたのだと、死神は林檎の芯を飲み込みながらそう言った。

「では、最初のキラ、本物の神は今何処でどうして‥‥」
『ククク‥‥』

 だが、死神はそれには答えてくれなかった。

『キラは今、世界で1番安全な所にいる。そこで力を蓄え時が来るのを待っている』

 そんな曖昧な答えで魅上の顔色を探り、ノートに書き込まれた無数の名を覗きこんだ。

『キラを復活させるのはお前だ、魅上照』
「‥‥私が‥‥キラ様を‥‥」

 極端に明かりを落とした寝室に暗く圧し掛かる死神の影。その黄色い人ならざる目ばかりが光って見え、魅上は意識が針のように細く、そして痺れたようになって行くのを感じた。

『キラに会えば、お前は自分が選ばれた事を今以上に幸せに思うだろうよ』
「それは‥‥」
『お前はキラを絶対気に入る。キラにひれ伏す。キラはそれに値する奴だ』

 クククと笑う死神の確信に満ちた、そして予言めいた言葉に魅上は次第に酔いしれて行く。
 紅く輝く魅上の死神の目。
 その目に神の姿を映す日をうっとりと夢見る。
 神は清く気高く美しくあらねばならない。思慮深い賢者であらねばならない。慈悲深く、そして厳しくあらねばならない。

『ククク、クク‥‥安心しろ。キラはその全てを兼ね備えている』

 そうでなければあのLが夢中になったりしないからな ―――
 死神の最後の言葉は愚かしくも賢い魅上の耳には届いていなかった。

「あぁ、神‥‥私のキラ様‥‥必ず、必ず私が貴方様をお救い致します。貴方様を捜し出し、復活をお助けします‥‥!」

 死神の不吉な笑い声が静かに響く中、夢見る表情で犯罪者を裁く魅上照。
 甘く幸せな一時が数多の犯罪者の犠牲に成り立っている事を、本人は全く自覚していない。
 秋霜烈日に誓ったはずの崇高なる思いは、神と名乗る黒い人外の存在により簡単に地に堕ちたのだった。

 

 

 


 PCに映し出された数多くの犯罪者の名をいつもの無感動な目で見つめながら、世界の切り札と呼ばれる探偵Lは久しく忘れていた癖を復活させていた。

「竜崎。そんなに噛んだら血が出るぞ」

 不意に背後から聞こえて来た声に慌ててPCの画面を変え、何事も無かったかのように振り返る。

「月君‥‥」
「ケーキ焼いたんだけど、食べる?」
「もちろんです」

 時計を見れば針は午後の3時を指そうとしている。毎日の午後のお茶の時間だ。

「パウンドケーキですか」

 テーブルに並べられた二人分のケーキ皿。一つは大き目の皿で形良く切り分けられたパウンドケーキが5切れも乗っている。もう一つの小さい皿には2切れ。しかもかなり薄い。

「お代わりもあるけど、程ほどにね」

 香り良い紅茶に目を細め、Lはそれらを用意してくれた青年の隣に座った。

「向かいに座れよ。何のために椅子が2脚もあるんだ」
「私はここがいいんです」
「しょうがない奴」

 ほとんどくっ付くようにして座って、先ずは紅茶のカップを取り上げる。ローズヒップの香りを暫し堪能し一口口に含む。
 いつも思うのだけれど、どうして彼はその時々の自分の気持ちをこうも的確に察する事が出来るのだろう。どんな種類の紅茶が飲みたいか、どれだけの甘さで飲みたいと思っているか、長年仕えてくれたワタリですらそれが判るようになるまで何年も掛かったというのに、今自分の隣で優雅にお茶を嗜んでいる彼は一年に満たない月日でしっかり把握してしまった。当然の事ながらポーカーフェイスで通っている自分の表情も彼はズバリ読んでしまう。

『だって、竜崎の感情なんてダダ漏れだもの』

 一度不思議に思って聞いてみたら、無邪気な笑顔と共にそんな答えが返ってきた。
 本当はコーヒーの方が好きなのに、自分と一緒に飲む時は決してコーヒーを口にしない彼。
 紅茶の香りにコーヒーの香りが混ざるなんて許せないだろ?そう言って笑った彼はやはり無邪気だった。
 許せないのは彼ではなく自分で。自分は自分の好みを曲げる事は死んでも出来ないけれど、彼は他人のためにいとも容易く変えることができて、彼はそれを苦痛だとはちっとも思わない。

「美味しい?」
「はい」
「そう‥‥」

 自分が表情に出さなくとも黙ってこの時間を堪能するだけで、彼は満足そうに微笑む。
 ねぇ、月君。貴方の見えている世界はどれ程の広さがありますか?そこには私しかいませんか?
 貴方のその細くしなやかな、それでいて暖かく力強い手は、いったい何処まで広がるのですか?貴方の手はいったい何本あるのでしょう。貴方が生まれた国の仏のように千本もあったら、私はいったいどうすればよいのでしょう。

「これ、もしかして‥‥パンプキンですか?」
「フフフ‥‥そうだよ。判った?」
「判りますよ、それくらい」

 けれど、少なくとも今は自分の傍にいてくれている。それだけで満足しなければ‥‥‥

「ダメ?食べられない?」
「まさか。月君が作ってくれた物で私が食べられない物はありません」
「フフフ、そういう事にしといてやるよ」
「美味しいですよ。パンプキンって甘いんですね。一緒に入っているドライフルーツも私好みに甘くなってて‥‥漬け直したんですか?」
「胡桃とどっちが好き?」
「どっちも好きです」

 時々自分の質問を笑ってはぐらかすのは子供っぽい彼のちょっとした悪戯、そして照れ隠し。

「この前作ってくれた紫色のミルクレープ。あれも美味しかったです。あれは確か‥‥」
「あぁ、この前って、東京に行った時に作ったやつだね。あれは紫芋だよ」
「芋‥‥ですか」
「抹茶より好きだろ?」
「はい」
「今度、薩摩芋の白玉を作ってやるよ。冷たく冷やしてフルーツソースを掛けるんだ。甘くて美味しいよ」
「白玉って、zenzaiとかいうスィーツに入っていたマシュマロみたいに白い奴ですね。あれはとても美味しかった。聞いただけで涎が出そうです」
「葛餅も美味しいよ。もっと暑くなったら吉野葛を取り寄せて作ってやろうか。黒蜜や黄粉は体に良いから偏食の竜崎にはちょうど良いな」
「黄粉ですか。砂糖とまぶすと意外に美味しかったです」

 すっと伸ばされた手が、何も言わずともLのお菓子で汚れた口許を拭いてくれる。まるで母親のように至れり尽くせりの彼に、Lは無言で空になったケーキ皿を差し出した。

「あんまり食べると夕飯が食べられなくなるぞ」
「大丈夫です。月君の作ったものならどんなに腹が膨れていても食べられます」
「バカ」

 そう言いながら立ち上がった彼の頬がほんのり薔薇色に染まっていたのをLは見逃さなかった。

「月君‥‥」

 我儘で何時までも子供の彼を捕まえておくのはとても大変だ。
 だから何時までも手の掛かるダメな男でいる。それが自分に出来る精一杯の事。

「貴方は誰にも渡しません」

 振り返ったPCのディスプレイを彩る美しい熱帯魚の映像。ひとたび触れば新しいキラによって殺された犯罪者の名前が大量に出て来る。
 あの日、冷たい風が吹きすさぶビルの屋上で、彼は悲しげな瞳で世界を見下ろしていた。

『海砂は見逃せ‥‥もう彼女に関わるな‥‥そうしなければレムはお前を殺す。お前だけじゃない。父さんも松田さん達も、そしてワタリも殺す。誰一人として助からない』

 彼の手には厳重に保管されていたはずのデスノートが握られていた。PCに強い彼のこと、金庫を開けるくらい分けない筈。いや、もしかしたらあの白い死神に盗らせたのかもしれない。壁抜けの出来る死神なら赤子の手を捻るより簡単だろう。

『僕だけで我慢しろ、エル』

 その響きに特別なものを感じたLは何も言えずただ彼を見守った。その場には彼と自分以外誰もいなかった。他の捜査員達も、ワタリも気付かなかった。ただLだけが気付いた。
 それは幸運だったのか、それとも不幸だったのか ――― 今は父なる神が与えたもうた一生に一度の幸運だったと信じている。

『さよなら、エル‥‥‥』

 黒いノート。死を操る死神のノート。ライターの火が燃え移ったとたんあっと言う間に燃え尽き、その灰は強い風に吹き飛ばされてしまった。
 その時の彼の、夜神月の今にも泣き出しそうな顔が忘れられない。絶望と諦めに満ちた、そして幸せそうな瞳。
 その奇麗な瞳に映っていた世界がどれだけ汚れて腐っているか、一番知っているのは他ならぬ自分だ。

『月君‥‥キラ‥‥‥‥』

 素早く駆け寄ったLの両腕に崩折れた愚かで可愛い子供。
 その未だ完成しきらぬ痩躯を抱き締め、Lは初めてキラの焦燥と苦しみと、悲しいまでの決意に思い至った。
 眼下に広がる世界の薄汚れた空気。そこにひしめく数多な人々の勝手な叫び。
 彼はここから世界を見ていた。飛び降りるためではなく、ただ見ていた。
 自分が変えようとして変えられなかった愛しい世界を、キラは最後とばかりにその鳶色の瞳に納めていた。

「貴方はキラとして世界を変えるのではなく、Lの片腕として世界を変える道を選んでくれた。私はその貴方の決意を、決して無駄にはしません」

 死神の気紛れで生まれたキラは、キラ自身の意思で消えた。
 もうキラは生まれないはずだった。

「レムの仕業か、それとも他の死神か‥‥」

 そう言ったものの、レムではないだろうとLは考えている。あの白い死神は人間の弥海砂に親子のような情を抱いていた。夜神月のこともそれなりに気に入っていた。
 嫌な所も多々あったが、本気で人間の将来を心配していた ――― そのキラの選んだ事なら間違いない。お前は海砂に手を出さないと信じている。夜神が信じたお前を私も信じる。
 そう言い残し姿を消した白い死神。
 その死神とは違う別の死神が地上に降りて来たのだ。そして誰か、キラの思想に傾倒した者にノートを与えた。それとも、火口のように欲望に負けた醜い大人だろうか。
 どちらにしても、Lは負けるつもりはない。
 今や引退したワタリに代わって公私共にLのパートナーである夜神月をこの新たなキラ事件に関与させない事は難しいけれど、必ずや死神からも新たなキラからも守りきって見せる。そうLは誓う。
 それが、自ら使命を捨てたキラへの手向けであり、こんな人間として不完全な自分を理解してくれる大切な人への恩返しだ。
 夜神月は夜神月として守る。
 それが自分自身の幸せに繋がると、Lは充分すぎるくらい知っていた。

 

 世界は神の気紛れでどんな色にでも染まる―――

 

 

 


 

 

 

 

 後記

最後の「終」に「?」が付いているのを不思議に思われた方。
はい、そうです。こちらが本当の結末です。
照誕と言いながら、結局はL月かよ!ってな終わりでした。
だって、タイトルがタイトルですから。
ファタ・モルガーナ。男を破滅に導く妖精(月ちゃんは人間で男ですけど)ですから。
あの暗い路地裏で幸せと遭遇した照は、実は破滅への道の第1歩を踏み出していたんですね。
退屈していたリュークに目を付けられちゃって、可哀そうに。
でも、天使様(もちろん、月のこと)に再会する日を夢見て照はこれから削除に励むのです。
そう、照の中でキラの姿は不良連中から助けてくれた人の姿をしています。照、それで合ってるよ。
そしてこれからLvs照の戦いが始まります。
Lは日本に新キラがいると目星を付け、新しいワタリとなった月と共に日本に来ます。
パパ達と再会するかは判りませんが、照と戦い照を追い詰め、そして遂に照は月と遭遇!
あぁ!貴方はあの夜の天使様!!
そんなこんなで月はうっかり照のノートに触ってしまい、キラの記憶を取り戻してしまう!
Lと月の運命や如何に!!―――
ってな具合になるんでしょう、たぶん。
え?続きですか?書きませんよ。だって今ここで書いちゃったから。
そんな先が判ってしまった話、書いても楽しくないし、読んでも面白くないと思います。
自分、やっぱり白月大好きです。ピュア月好きだ~~~!
もちろん黒月様も好きですが、白月を書いてると自分がホノボノします。ハァ~~幸せ。
そして、Lも白月が大好きです。白月のためならキラを諦めるなんて屁の河童です!
L!竜崎!照の魔の手から白月を守ってくれ!!お前だけが頼りだ!!
あ、ちなみにタイトルは余り深く意味を考えないでください。
それなりに意味はありますが、どちらかと言うと英語タイトルにしたかったという理由が強いです。
サブタイトルの方がメインかもしれません。
                               

NWS    2007.6.8