DEATH CALVADOS

 「ちくしょう‥‥」

 そんな言葉を残してキラこと夜神月は死んだ。
 死神に、死を操るノートに名前を書かれ呆気なく死んだ。
 暗く薄汚れた倉庫の床に惨めな躯を晒して死んだ。
 それは紛れもないキラの敗北だった。

 

 


   1

 

 『あ~ぁ、これで面白い事ともおさらばか』

 犯罪者とはいえ人一人の死をそう表現した異形の存在、黒き死神の言葉に眉を顰めたのは誰か。それは死神とは対照的な白を身に纏ったニア以外全員だったかもしれない。
 人類史上まれに見る大量殺人犯。それがキラを法的に称した場合の名称だろうか。その名称通り、たった一人で戦争並みの犠牲者数を出したキラの犯行は ――― 今はもう『犯行』でしかない ――― 人知を超えた力のなせる技だった。
 DEATH NOTE ――― 人の死を操る事の出来るそのアイテムは、人外の存在、死神が人間界に齎した物だ。
 死神、DEATH。
 人が死を恐れる生き物である限り、いずれの文明、宗教にも死を司る神は存在した。しかし、科学が発達するにつれその恐るべき神もまた、他の神同様空想の産物へとカテゴリー分けされるようになった。
 人が真に恐れるべきは病気であり、戦争であり、人の悪意なのだ。
 だから思いもしなかった。まさか、本当に『死神』が存在するなど。そして、死神の『死を司る力』を人間も使えるなどと。
 しかし、確かに死神は存在した。いや、している。人間が知らなかっただけで遥か昔から。
 そして、キラはその死神と出会いデスノートを手に入れた数少ない人間の一人だった。
 人の運命を操る術を手に入れ人の道を踏み外した男、それがキラ。
 愚かな事だ。たった一人の力で世界を変えられると本気で信じるとは‥‥‥
 大事の前の小事、理想実現のための些細な犠牲、そうとでも思ったのだろうか。どうせ犯罪者じゃないかと、軽く見たのだろうか。
 いずれにしろノートに名前を書くだけで人を殺せるとあっては、罪の意識を抱きにくかったのだろう。キラの裁き、殺人に躊躇いはなかった。
 そうしてキラの犯行は過激の一途を辿り恐怖で世界を支配するまでに至った。
 キラが夢見たであろう、犯罪の無い世界。
 しかし、それは成功一歩手前まで瓦解した。キラに唯一対抗した男、探偵Lの正式な後継者ニアによって阻止されたのだ。
 正体を暴かれ証拠を握られ、追い詰められた挙げ句、キラは命を落とした。
 呆気ない最期だった。自業自得の死だった。
 憎んでも憎み切れない犯罪者に相応しい最期だったけれど、その死を笑う異形の存在を人の理性は許容できなかった。見方を変えれば、キラもまたこの異形の存在の犠牲者とも言えたから ―――

「では、とっとと死神界とやらへ帰ってください」
『そうするさ。お前に憑いてても面白い事は何にもなさそうだからな』
「本当に‥‥貴方の気紛れでこちらはとんだ迷惑です」

 横浜Y埠頭。ニアがキラの最期の場所と定めた所。
 そこに集まった正義の徒らは、キラの存在を『とんだ迷惑』の一言で軽く済ませるニアに酷く疲れた顔をした。怒っていいのか賛同して良いのか判断がつかなかった。事件解決に喜べる心境でもなかった。これでもうキラの脅威に怯える心配はなくなり一抹の安堵も覚えたが、キラの殺人の力そのものが消滅した訳ではなかったからだ。
 それはキラ本来の力ではなく、死神という異形の存在が只人に与えた力だったから。
 死神がその気になれば第二第三のキラは何時でも何処でも生まれる。
 その事実に気付いた彼らに本当の意味での安息は訪れない。
 死神リュークの説明でノートを処分しても何の心配もないと知ったニアは、ジェバンニに命じて即座にノートに火を付けさせた。
 一瞬でメラメラと燃え上がり、黒い灰となって倉庫の床に舞い散ったデスノート。その灰もまた直ぐに視認できなくなってしまった。後には何も残らなかった。何も ―――
 死神は消え、ただキラの死体だけが残った。

「キラの死体はA国政府に引き渡す事になっています。その後どうするかは、FBIかCIA辺りが決めるでしょう」

 当初ニアにキラ捜索の活動資金と人材を提供したのはA国だった。その縁で、もしもキラを生きて捕まえる事が出来たならA国に引き渡す、との約束がなされていたらしい。勿論死体でもその約束は適用される。
 数時間後、サイラス大統領就任後キラへの恭順を示していたA国政府から事件処理の人手が派遣されて来た。大統領が恐怖に屈したからと言って、A国政府の要人全てもそうだとは限らない。キラに屈したふりをして裏ではニア、探偵Lに力を貸し、キラを逮捕、あわよくばキラの力の源であるデスノートを手に入れる、そう目論んでいたとしても不思議ではなかったという事だ。日本政府、日本警察はツンボ桟敷である。
 それに相沢辺りは不満を漏らしたが、犯人が日本人、しかも現役の警察官だった事実を公表されても良いのか、と脅され口を噤んだ。
 キラこと夜神月を撃ち、その逃亡を阻止した松田は、時間が経つにつれ怒りで頭に上った血が治まるや脱力状態に陥り、我に帰った時には全てが終わった後だった。
 キラの死体は日本警察の手の届かぬ所に持ち去られてしまった。

「月君‥‥!そんな‥‥これはニアの横暴だ‥‥!」
「どの道、月君がキラだったと公表する事は出来ない。デスノートや死神に至っては尚更だ」
「じゃぁ、月君の事はどう説明を‥‥」
「殉職って事になるんだろうな‥‥遺体は見つからずじまい。そう家族に説明するしかないだろう」
「そんな‥‥」

 日本の刑事達が頭を突き合わせ無い知恵を絞ったのは更に数日後のことだった。だが、彼らが策を弄さずともニアから連絡を受けていた日本警察の上部が全てを終わらせていた。
 彼らの予想通り、夜神月の死は殉職扱いとなった。遺体は見つからないまま葬儀が行われ、家族も友人達も、そして世間も真実を知らないまま、キラ事件は終結した。
 キラは死んだ。ICPOからただそうとだけ発表された。
 事実、それ以降キラの裁きは行われなかった。
 人々はゆっくりとキラの死を受け入れ、世界はキラの居なかった頃に戻って行った。
 通常勤務に戻った相沢を初めとする刑事達は、だから知らなかった。
 A国政府から派遣された部隊がキラの死体を本国に運ぶ途中、その死体を何者かに奪われたという事実を。
 キラの空白の時間 ――― それはキラ信者の間では、あって当然の事象として認識されていた。

 

 


 「死神だ!リュークがまた人間界に来たんだ!」

 連日世間を騒がせる『キラ復活』のニュースを国家公安委員会の一室で見ていた松田が、恐怖とも歓喜ともつかぬ妙に甲高い声でそう叫んだ。

「落ちつけ松田」
「これが落ち着いてられますか!キラが復活したんですよ!伊出さんは平気なんですか!?」
「それは‥‥」

 その一室に集まっているのはかつて夜神月と共にキラを追っていた、彼に騙され裏切られ、最後にはニアによって真実を知らされた刑事達だ。
 松田桃太、伊出英基、模木完造、相沢周一の4人。
 彼らはキラ事件解決の功を秘かに認められ昇進していた。夜神月がキラだった事実を口外しないと宣誓させられての、いわば見返りのようなものだ。相沢に至っては正式に二代目Lとなったニアとの連絡係として国家公安委員会に引き抜かれた。大出世だ。
 そして今日、彼らは相沢に呼ばれ彼の執務室に集まった。用件が『キラ復活』についてなのは明確だ。

「今日集まって貰ったのは他でもない‥‥お前たちももう知っていると思うが‥‥キラが復活した、ようだ」
「ようだ、じゃなくて復活した、でしょ?はっきり言ったらどうなんですか?」
「松田‥‥」

 何故認めないのかと、声と目で責める松田に相沢が軽く唇を噛む。

「あぁ‥‥認めよう。キラが、この場合は第五のキラか?いずれにせよ、キラが復活した」

 夜神月が死神によってデスノートに名を書かれ命を落としてから一年が経とうとしていた。彼の死後キラの裁きは収まった。それが再び始まったのは彼の死から10ケ月程経ってからだろうか。
 A国で起きた無差別発砲事件の犯人が籠城したハイスクール内で死んだ。自殺ではないし、警察の狙撃でもない。心臓麻痺だ。
 それが始まりだった。
 以来、心臓麻痺で死ぬ犯罪者がポツポツと現れ、その現象は世界中に広まり、年が明ける頃には人々の口に上るまでになった。
 キラ復活に怯える者、喜ぶ者、世界は俄然騒がしくなる。それと同時に、なりを潜めていた『キラ信者』の動きが活発化した。
 夜神月が死ぬ寸前、世界には幾つものキラ信奉団体があったのだ。キラの代弁者となった高田清美が籍を置いていた団体もその一つである。

「リュークが‥‥いや、他の死神かもしれない。とにかく、死神がまたやって来て誰かにデスノートを渡したのは確かだ。しかも、目の取引をした」
「それは‥‥」
「例の、キラ復活の最初の裁き、あの犯人の籠城の様子はニュースでライブ中継された。犯人の身元はその時点で判明していなかった。にもかかわらず犯人は死んだ。心臓麻痺で」
「つまり、今度のキラは死神の眼を持っている。その目で犯人の顔を見たから、報道前に名前を知った‥‥」
「そう言う事だ」

 伊出の言葉に重々しく頷く相沢。

「間違いなく、キラは復活した。そのカラクリを世界は知らない。だが、例の団体は知っている」
「え?」
「例の団体とは?」
「Angel′s Mercy――― 『天使の慈悲』だ」
「‥‥それって確か、高田清美が入会していた?」
「AM、通称『アム』。前身はA国の犯罪被害者支援団体だ。早くからキラを支持し、多くの著名人が名を連ねていた。キラの死が発表されてからは表だった活動は休止していたが、半年ほど前からホームページで『キラは復活する』と噂を流し始め‥‥そして、本当にキラは復活した」
「え、でも、他の団体だってそれくらい言ってるでしょ?」

 キラの死が発表されてからも、キラ復活の噂は根強く残っていた。表だって噂されない分、ネット上は賑やかな事この上なかった。

「まぁな。だが、AMはその中でも特別だ。なにせ高田清美が入会していた団体だからな」

 相沢の言葉に顔を見合わせる刑事達。

「キラの裁きが再開されて、今まで鳴りを潜めていた信者が俄かに動き出した。活動を休止していたキラ信奉団体も活動を再開させた。それだけじゃない、新しい団体だって毎日のように生まれている」
「昨日新宿で演説してる連中を見たぞ。全員『キラ様復活』と書いた襷をしていた」
「私は駅でいきなり『貴方はキラ様を信じますか?』と、声を掛けられた」
「新手の勧誘ですか?」
「アンケートだと言っていたが、どうみても宗教団体の勧誘だったな」
「キラ本人が復活宣言をする前に、何処の団体も信者を増やそうと躍起になってるのさ」

 伊達の言葉に松田が首を傾げる。

「キラのスポークスマンに指名されれば、デカイ顔が出来るだろ?高田清美みたいに」
「!高様の再来!!」

 それはまさに『虎の威を借る狐』である。だが、高田清美を擁したAMは彼女がキラのスポークスマンに選ばれて以来急激に大きくなり、権力者との繋がりが増える一方、資産の方も世界中からの寄付で小さな国の国家予算並みに膨れ上がったとの噂だった。

「連中は第二の高田清美、第二のAMを狙っているのさ」
「そのために信者数を増やそうと‥‥」
「有名人の入会があればそいつを看板に、なければ数で勝負。そんな所か」

 伊達の苦い一言に松田は酷く嫌そうに顔を歪めた。

「それって、AMも同じなんですよね?」
「キラ復活を謳いだしたのは半年前からだが、解散しなかったという事は、内々では信じていたんだろうな、キラの復活を」
「今度のキラも、AMを指名すると?」
「それはどうかな」
「その事だが‥‥」

 伊達の疑念に新たな一石を投じたのは、彼らを呼んだ相沢だった。

「これを見てくれ」
「何ですか?」

 相沢がノートパソコンを操作すると、彼の背後の液晶モニターにある画像が映し出された。

「数時間前、A国AM本部の大集会で行われた演説だ。奴らはそれを外部信者向けにweb公開した」

 苦虫を噛み潰したような顔のままキーを叩く相沢。他の三人の視線がモニターに集中する。

「こ、これは‥‥!」
「どういう事だ?」
「まさか‥‥?」

 それは、AMの布教活動の一環である講演会の様子を録画したものだった。多くの信者と信者予備軍を前にして恰幅の良い男が説教を垂れている。内容は英語だが、翻訳テロップが添えられているので彼らにも容易に内容を知る事が出来た。

『世界は病んでいる』
『法は限界に達し、不正の横行を許している』
『世界は既に神に見放されたのだ。その神の遣いたるキラ様だけが未だ我ら人の未来を信じて下さっている。しかし、人がこのまま愚かである限り、いずれキラ様にも見放されるだろう。今の世界は悪徳に満ち不浄の地と化している。悪徳は断罪されなければならない、成敗されなければならない。我ら人自身の手で。それが出来ないのなら、我ら人はキラ様の聖なる浄化を頭を垂れて受け入れなければならない』

 キラ信奉団体お決まりの文句だ。
 だが、演説はこの後も延々と続いた。

『我らAMはキラ様の実存を知っている。何故なら、我らの元に当のキラ様がいらっしゃるからだ』

「おいおい、冗談だろ?」
「キラの代弁者じゃなくてキラ本人?」

『今キラ様は我らAMの守りの元、一時の眠りについておられる。今生のうつし身を華の褥に横たえ、清らかな乙女の祈りを子守歌に、愚かなる者達との問答の疲れを癒しておられる。その間、裁きは我らAMに委ねられた。悪徳を払い、背徳を諌め、人を惑わす強欲をうち払う!それがキラ様から我らAMに課せられた大いなる使命である!悪徳を厭う者達よ、背徳を許さぬ者達よ、我らと共にこの世を浄化しようではないか!未来の子供達のために穏やかにして暖かな、健やかにして清らかな世界を創ろうではないか!キラ様の復活は近い!我らがキラ様に栄光あれ!!』

「‥‥‥」

 それは堂々と、今現在の裁きを行っているのが自分達AMであると宣言する内容だった。『殺し』という表現そのものは使っていないが『裁きイコール殺人』と認識する者は大勢いる筈だ。それは、今までのキラ信奉団体では決してなされない宣言だった。
 キラ信奉団体はキラの『裁き』を容認しキラの目的を『世界の浄化』と呼んだ。そして、キラを信じキラに帰依した者だけが浄化後の美しく穏やかな世界に生きる権利があるのだと説いた。
 そう、裁きはキラだけの力であり、信者はあくまで神の子羊でしかなかった。だから、キラの代弁者と騙る者は数多あれど、自分にもキラと同じ裁きの力があると嘯く者はほとんどいなかったのである。
 だいいち、キラは己の邪魔をする者にも容赦がない。下手にキラと同じ力があるなどと言って、キラの不興を買い殺されては堪らない。それがキラ信奉者達の本音だ。
 そんな自分勝手な論調をキラが否定しなかった事で彼らは図に乗った。キラのお墨付きを与えられる事こそなかったが ――― それを与えられたのは『さくらTV』のディレクター出目川と、その後釜に座った高田清美だけである ――― 活動に文句を言われる事はなかった。従って彼らは勝手に布教活動をし、お布施を集め、世に蔓延って行った。
 そんなキラ信奉団体の一つが、『Angel′s Mercy』が宣言したのだ。自分達はキラの裁きの代行者であると。
 キラの意思を受け継ぎ従い、そしてキラが持つ『裁きの力』を使う事を許されたのは、自分達だけであると。

「‥‥大胆、ですね‥‥」

 映像が終わりユルユルと息を吐きだした松田が苦い笑いを零す。笑って済ませられる問題ではないが、今の彼にはそうする事しか出来なかった。

「他の団体は此処まで宣言してないだろ。せいぜいで、代弁者がいるってくらいだ」
「『裁きの力』という、明確な判断基準があるからな。裁きが行われた後で、これは自分達がやったのだと言う事は誰にでも出来る。だが、これから誰それを裁く、と宣言する事はデスノートを持っている者にしか出来ない」
「だが、AMは宣言した。自分達には『裁きの力』がある、とな」
「‥‥‥‥」

 相沢の言葉に刑事達は沈黙した。

「という事は‥‥AMは‥‥デスノートを持っている?」
「今のところそれは判っていない」
「裁きの予告は‥‥?」
「それも未だない。だが、裁きは毎日行われている」
「じゃぁ、やっぱりAMが‥‥」
「それだけでは、当然ながらAMがデスノートを持っていると言う証拠にはならない」

 重々しい空気が室内に充満する。
 キラの力が『デスノート』と呼ばれる1冊の黒いノートにあると判ったのはもう随分と前だ。そして、それは探偵Lの次期後継者候補だったメロとニアという二人の子供達によって世界に証明された。
 だが、肝心のデスノートはこの地上にはもはや存在しない。キラが持っていたノートはニアにより燃やされ、ノートを人間界に齎した死神はキラこと、夜神月の死と同時に死神界へ帰ってしまったからだ。
 故に、正式な二代目Lとなったニアによってキラ事件の詳細は世界の首脳陣に報告されはしたが、広く一般公開される事はなかった。
 残ったのが夜神月の死体だけだったからである。それ以外の物的証拠は何一つ残っていない。当然、映像もだ。
 死神の姿絵を止め置く事が出来なかったニアは、結局口頭で『キラは死んだ。もうキラの裁きは起きない』と報告する事しか出来なかった。
 人知を超えた死の力、デスノート。
 そんな物は存在してはならない。
 いささか人間性に問題ありなニアにも、それは判っていたようだ。
 物的証拠が何一つないのは、デスノートを残してはまた新たな争いが起きると簡単に予想出来たが故の、云わば弊害だと言えた。
 ニアの報告から三ヶ月、キラの裁きは一度も起きなかった。その事実をもって世界はキラの死を認めた。世界はキラの恐怖支配から解放されたと、ICPOと国連が発表した。キラに恭順を示した国々も静かに元に戻り始めた。
 こうして『キラ事件』は収束したが、何一つ解決はしなかった。
 それがキラ事件の全貌である。
 しかし、夜神月が惨めに死んだ10ヵ月後、再び犯罪者が裁かれた。しかも、その映像は世界中に報道された。
 それから1カ月、日に日に被害者の数は増えて行っている。

「もし、本当にAMがデスノートを持っていたら‥‥」

 伊出の苦渋に満ちた声が室内に響く。

「それを恐れてキラへの服従を言いだす国が出て来るかもしれんな」
「キラの死を信じてない一般人も大勢いるし‥‥」
「世間の風潮が、またキラ容認に傾かないって保証はない」
「そ、そんな‥‥」

 驚き故か恐怖故か、松田の目は頻りと宙を彷徨い定まらない。

「A国は?こんな宣言をしたAMを放っておくつもりなのか?」
「既にFBIが動いていると言う話だ。それに伴い、こちらも動く事になった」
「と言うと?」
「AM日本支部の動向を探る」
「踏み込まないのか?」
「証拠は何もない」
「それはまぁ‥‥」
「もし本当にAMがデスノートを持っていたとしても、それが日本にあるとは思えんしな」
「‥‥キラの故郷だから?」

 伊出の言葉に相沢が苦虫を噛み潰したような顔をする。

「それで言ったら、キラの故郷だからこそ、日本支部にデスノートがあるのかもしれませんよ」
「だとすれば、AMは月君がキラだったと知っている事になるぞ、松田」
「あ、そうか‥‥」

 キラの正体は極秘である。それは日本のメンツを保つためだけでなく、速やかにキラの影響を世界から拭い去る為でもある。
 キラの実像が如実になれば、マスコミは躍起になって夜神月の事を調べようとするだろう。その生い立ちや人となりを調べ様々な表現媒体で彼の事を話題とするだろう。そうなれば世間は野次馬精神を発揮し大騒ぎするに違いない。中にはキラの転生や復活を信じる者がいるかもしれない。それだけ、神の偶像には力があるのだ。騒ぎは何時かは治まるだろうが、禍根は残したくない。それが世界や日本の思惑である。
 だから世界の首脳陣は世間からキラの『偶像』を奪った。祈りの対象を消した。
 ただ名前だけの存在では人の執着は薄れて行く。現にAMを初めとするキラ信奉団体は鳴りを潜め、マスコミも各国政府の圧力もあって直ぐにキラ事件を取り扱わなくなった。キラの事を何時までも記事にするには情報が少なすぎたのだ。ただ、裏の噂、ネット上の取り締まりだけは出来なかったが。

「AMは‥‥月君の事を知ってるんでしょうか‥‥」
「判らん。今の所、AMから『夜神月』の名が出た事はない」

 そうですか、と小さな声で呟いた松田は何処かガッカリしているように見えた。その姿をさも面白くなさそうに見やった相沢は、厳しい視線を伊出の方に向けた。

「伊出、潜入捜査が許可された」
「‥‥そうか」
「捜査員は公安の方から選抜する。お前は連絡係についてくれ」
「!潜入なら僕が‥‥!」
「お前はダメだ、松田。もしAMが月君の事を知っているとしたら、俺達の事も知っていて不思議じゃない。危険だ」
「危険なんて‥‥!」
「そうだぞ、松田。AMの連中にしてみたら、俺達やニア、それにレスター達はキラを死に追いやった悪党という事になるんだからな」
「!!」
「そんな連中の中へのこのこ出て行ってみろ、後ろからグサッ、だぞ」

 キラを、夜神月を追い詰め殺した者はキラ信者の敵 ――― その事実を思い知らされ、松田が色を無くす。
 キラが憎いと言いつつ、キラの思想に惹かれるものがある、とも口にした松田にはそれは痛い事実だった。ましてや彼は激情のあまりキラだった夜神月を撃ちはしたが、その後でそれを酷く後悔したのだから。もっと穏便に彼からキラの力を取り上げる事は出来なかったかと、何度も嘆き己自身を責めた。
 そんな彼を、キラの正体や自分達の事を知られていなくとも、AMに送り込む事は出来ない。ミイラ取りがミイラにならないとも限らない。
 そこまで松田を信用していない訳ではないが、用心に越した事はなかった。

「デスノートがあるとしたら、A国のAM本部というのが、各国上層部の一致した意見だ。だが、デスノートは顔と名前さえ判っていれば何処にいてもターゲットを殺せる便利、且つ最悪なアイテムだ。デスノートに場所も距離も関係ない。従って、デスノートがA国本部以外にあっても不思議ではない。裏をかいて、AM支部の無い国にノートを隠している場合も有り得る」
「そうだな。ネット環境さえ整っていれば南の島に居ても、北極に居ても、裁きは可能だ」
「では、裏の裏をかいて日本にデスノートがある可能性も?」

 模木の言葉に相沢は苦々しい表情を作った。

「日本はキラとは切っても切れない国だからな‥‥デスノートを置くなら日本に、と信者の誰かが考えるかもしれん‥‥」

 Lが『キラは日本にいる』と宣言した事に始まり、さくらTVの出目川しかり、高田清美しかり、キラの代弁者は二人とも日本人だった。そのせいか、AMだけでなく、キラ信者全般から日本は半ば聖地扱いされている。

「AMの日本支部には、本部から幹部、奴らは導師と呼んでるらしいな。そいつらが何人か送り込まれているって噂だ」
「そういう情報は確かに有るな」
「聖地巡礼みたいな感覚で、幹部連中は一度は日本支部に赴任するらしい。日本支部勤務は一番の出世コースってことだ」
「金に余裕のある信者も一度は日本支部に来て黙祷を捧げるって話ですね」
「誰に向かって?キリスト教みたいに十字架でもあるのか?それとも仏様の像でも置いてあるのか?」
「暗い中で蝋燭灯して、みんなで円になって祈るって話なら聞いた事あります」

 松田の言葉は、彼がそれなりにAMに関心があると言うことの表れだった。

「日本支部は特別か‥‥」
「そんな所への潜入は、ある意味、本部への潜入より難しいかもしれんな」

 その潜入捜査員に誰を選べばいいのか。頭の痛いところである。

「取り敢えずは情報収集だ。AMが本当にキラ‥‥デスノートの事を知っているのか、知っていたとして日本支部は何処まで関わっているのか、それを探る」

 表向きAMは只のボランティア団体だ。日々社会貢献に勤しむ他の団体とそう変わりない。ただ、時々『犯罪撲滅活動』なる集会を開き、その演説にキラの裁きを取り上げるのが宗教団体っぽい処といえる、表向きは。
 今のところ騒乱罪に当たる暴行も脅迫も行ってはいないので警察の介入は難しかった。たった今見た演説の内容が脅迫に値するかどうかも微妙なところだ。
 AMはキラに代わって裁きを行うと宣言した。それが世の中の話題となり世論を煽ると言う意味では騒乱罪の適用も出来なくはない。だが、これは信念の問題だと言い逃れされる可能性の方が高いだろう。
 実際AMは具体的な脅迫は一言も言っていない。過去を想起させ人々の良心に訴えているだけとも言える。それに、裁きをすると宣言したが具体的に対象者の名前を発表した訳でもない。裁きの宣言は殺人予告と同等だが、実際殺人が行われても、デスノートを押収する以外その罪を立証する事は出来ないのだ。
 仮に、本当にAMがデスノートを所有していたとしても、果たして黙ってデスノートを押収されるだろうか。デスノートが裁きの肝である限り、それは有り得ない話だ。
 デスノートも死神と契約した者も巧妙に隠され発見する事は難しいだろう。
 それに、無事デスノートを押収できたとして、国はそれをどうするつもりなのだろうか。A国しかり日本しかり。それを想像するとどうしても暗くならざるを得なかった。

 

 


 年明けの賑わいもようやく落ち着いた頃、松田は一人その場所に来ていた。
 本当なら来てはいけない、近付いてはいけないと判っていたのだが、どうしても来ずにはおれなかった。

「入会希望の方ですか?」
「いえ、あの‥‥」
「見学のご希望ですか?」
「えっと‥‥」
「構いませんよ。見学だけの方も、ただ話を聞きたいだけの方も 当会は歓迎しております」

 教会とは違う、どちらかと言えば小さな公会堂のようなその建物は数年前に建てられたAMジャパン東京本部である。日本に幾つかあるAM支部の云わば総本山だ。この建物が初めて建てられた時は、ただの新興宗教団体の住み家として近隣住民から煙たがられていたが、キラが世間に認められる風潮が強くなるにつれ出入りする人間が増えすっかり周囲に溶け込んでしまった。高田清美が籍を置いていたのもここである。
 キラの死が発表され、一時その門は硬く閉ざされ出入りする人間も極端に減ったが、AM本部の『キラ復活宣言』以来、再び門は開かれるようになった。ぼちぼち人の出入りも増えているらしい。
 古風なレンガ造りの塀に囲まれた敷地内には緑が多く ――― 都心でこれだけの敷地を確保するには相当資金が必要だ ――― 今はそうでもないが夏になれば生い茂る葉で建物の大半が隠れて見えない。正面ゲートにはガードマンの詰め所があり『Angel′s Mercy』の文字が入ったアーチ型の門扉は夜間はしっかり閉じられてしまう。それはアンチキラ派への警戒のためだろう。だが、門扉の開いている日中は来る者拒まずである。
 身体検査、持ち物検査等、特に厳しいチェックは何もなく ――― 玄関ホールに赤外センサーと監視カメラらしき物はあったが ――― すんなり中へと入る事の出来た松田は、ホールでうろうろしている所を案内係らしき女性に呼び止められ一瞬身構えた。
 けれど、案内係はいたって穏やかな笑みを湛え、まるでホテルのコンシェルジュのように松田を案内してくれた。
 そうして通されたのは教会の礼拝堂のような一室だった。おそらく、そこが1階のメインルームなのだろう。ただし、礼拝堂と違って偶像の類はなく、ベンチ式の椅子が整然と並んでいるだけだ。入り口正面壁際の一段高い場所には説教台があり、その背後の壁に大きな円形の絵が描かれている。それだけだ。他に目を引くものはない。
 案内係の女性が静かにドアを閉め立ち去った後、松田は先に来ていた数人の会員あるいは見学者に混ざって一番後ろのベンチに腰を下ろした。室内に静かに流れている説教は録音で僧侶の類はいない。どうやら気のすむまで此処にいて好きなだけ話を聞け、という事らしい。飽きたのなら帰って良し、入会の無理強いはしない、そう言う姿勢なのだろう。
 思っていたより良心的なのか? ――― そうぼんやり考えていた松田は、見るともなしに見ていた壁の円が只の模様ではない事に気付いた。

「‥‥鳩?」

 それは羽を広げた白い鳥が何羽も連なって円を描いている図だった。それは騙し絵で有名な某画家の絵なのだが、美術に造詣の深くない松田には与り知らぬ事だった。ただ、白い鳥から平和の象徴である鳩を連想し、犯罪の無い社会を目指すキラには相応しい図かもしれないと思っただけだった。


  人は罪を犯す為に生れて来るのではない。
  人は悩み苦しむ為だけに生まれて来るのではない。
  喜びもまた、人の生に与えられたものである。
  苦しみを厭い、喜びのみを求めても人は幸せになれない。
  喜びを忘れ、苦しみのみに縛られても人は幸せになれない。
  己一人の幸せを追求しても、それは本当の幸せにはならない。
  この世に多くの人々が生きている限り、本当の幸せは他人と分かち合ってこそ生まれるものである。
  人は誰もが幸せに生きる権利がある。
  けれどそれは、他人の幸せになる権利を奪ってまで遂行されるものではない。
  罪を犯す前に己の在りようを振り返ろう。
  他人を傷つける前に相手の気持ちを考えよう。
  話し合う事は大切である。
  それは時には困難な事ではあるけれど、幸い人にはその能力が与えられている。
  その能力を自ら捨てる事は悲しい事であり、愚かな事である。


 そんな、有りがちな説教が落ち着いた深みのある中年男性の声で流れている。その声に、今は亡き上司を思い出し少し鼻白む松田。だが、その説教にも飽きて、彼は5列ほど前に座る三十代と思われる男女が席を立ったのを皮切りに自分も腰を上げた。
 廊下へ出ると、先程の男女が案内係の女性と何やら話しこんでいた。どうやら入会を決め、その手続きをするつもりらしい。微かに聞こえて来る会話の内容から悪質な飲酒運転で子供二人を一度に亡くした夫婦だと判った。
 犯人は憎い、殺してやりたいほどに憎い。けれど、殺したところで子供達は還って来ない。それは判っている、だけど憎い。憎いけれど、憎み続けたところでやはりどうにもならない。
 どうして、どうしてどうしてどうして!どうして私達の子が‥‥!
 犯人なんか死ねばいい。キラ様に裁かれてしまえばいい。そうすればこの苦しみから解放されるだろう。
 だからと言って、本当に裁かれれば、それはそれで恐ろしい。恐ろしいと、怖気づく自分に苦しみが増す。犯人の死を望まない事が犯人を見逃すようで、幼くして死んだ我が子に申し訳なく思ってしまう。
 この苦しみから一日も早く解放されたいと思う事が、子供達の死を忘れるようで、それがまた苦しい。
 犯人を見逃しても、許しても苦しい。犯人が死んでも苦しい。
 苦しくて苦しくて、そして恐ろしくて、もう気が狂いそうだ‥‥
 そんな事を口走りさめざめと泣く妻の肩を抱きしめる夫もまた、苦痛に表情を歪めている。

「犯人の死を望んでいる訳ではないんです‥‥」
「えぇ、判っています」
「キラ様の裁きを望んでいない訳でもないんです‥‥」
「それも判っています」
「私達はただ、このどうにもできない苦しみに‥‥早く終止符を打ちたいだけなんです。それがキラ様の裁きによるものなら、私達は全てを受け入れられる気がするのです‥‥」

 それは、自分ではどうにもできない苦しみを、他者に頼る事で忘れようと言う自分勝手な願いだった。その願う相手が超越者であればある程、他人の死を願う事の後ろめたさを感じなくて済むと言う、都合の良い願いだった。
 けれど案内係の女性は、それもまた弱き人の素直な思いなのだと二人を慰めた。そうやって命が失われる事におののける貴方がたなら命の尊さも判る筈です、と光を投げかけた。

「キラ様が裁きの鉄槌を下されるのは、命の尊さを理解しない愚か者に対してだけです」

 それは夫婦の子供を殺した相手を裁くと約束した言葉ではなかった。
 けれど松田は、その犯人の死をぼんやりと想像していた。
 一つの犯罪が生み出した悲しみ、苦しみ。それは裁判で決着がつこうとも永遠に続く。苦しみを乗り越え新たな幸せを見出したとしても、思い出すたび、その苦しみは胸に去来する。
 何と辛く悲しい事なのだろう。
 愛する者との永遠の別れに悲しみは付きものだけれど、犯罪はそれに加えてなお一層の苦しみを与える。ただ悲しいだけで終わらない、もっと複雑な感情の鬩ぎ合いをもたらす。
 それを初めて目の当たりにしたような気がして松田は呆然となった。
 刑事になってもう10年になるけれど、警察庁勤務の松田が現場に出て直接事件の捜査をする事はなかった。キラ事件が最初と言っても過言ではない。だが、その時も生々しい殺人現場を目撃した訳ではなく、被害者遺族に事情聴取をした訳でもない。全ては間接的目撃であり、資料を読んで頭で理解しただけだった。むしろ、キラに殺させるかもしれないと怯えつつ捜査する自分こそが被害者だった。
 それは恐怖であって、苦しみでも悲しみでもない。だが、今の今まで松田はそれに気付く事はなかった。
 ともに捜査をした竜崎ことLが死んだ時、悲しみより恐怖が勝ったのがそのいい例ではなかろうか。ヨツバキラだった火口が死んだ時は尚更だ。何処かにキラがいるかもしれないという恐怖に震える余り、死者への憐憫は微塵も感じなかった。Lの時は落ち着いてから悲しみに泣きはしたが、状況がその悲しみを忘れさせた。
 結局、松田が凄惨な事件現場を経験するのはその数年後の事である。メロの姦計によりデスノートを奪われ、A国に渡って行なったメロのアジトへの強襲が実質初めての現場経験と言えた。
 それは理不尽に犯罪に巻き込まれた被害者達とかなり様相は異なるけれど、迫りくる死の恐怖は同質だったはずだ。
 今思うと、あの時メロの手下達を迷わず撃っていたら尊敬する上司は死ななかったかもしれない。いや、あの時は例のデスノートのルールを信じていたから、いずれ上司も死ぬと思っていた。それでももっと穏やかな死を迎えられた筈なのだ ――― 例えばデスノートに安楽死と上司の名を書くとか。あぁ、今更後悔してもどうにもならない。
 ただ、あの時感じた苦しみと悲しみが夜神月の死に繋がったのだと、松田は改めて自覚した。
 犯人を殺してやりたい ――― 被害者遺族なら誰もが抱くその思いを、自分も持っていたのだと。
 あの運命のYB倉庫。あそこで流血騒ぎになったのは頭に血の昇った自分のせいだった。色々綺麗事を叫んだけれど、結局あれは只の復讐心だったのではないか?尊敬する上司を殺された、信じていた人に裏切られた怒り故の復讐、殺人未遂。
 もしそうなら、自分は只の加害者なのではないか?そんな不純な動機で銃を撃った自分にキラを否定する権利はあるのか?
 罪への報復を法律ではなく私的感情で行う事は、結局キラの裁きと同じではないのか?
 そんな思いが今更ながら胸中に溢れ、松田は知らず知らず顔を青褪めさせた。
 あの日のように、取り返しのつかない事をしてしまった、と激しい後悔が沸き起こる。
 もっと穏便に彼からキラの力を取り上げる事は出来なかったのか ――― あんな言葉は只の言い訳にしかならない!
 犯人の死を望みながらそう望む事を恐ろしいと告白した夫婦の姿にいたたまれず、松田は震える拳をきつく握りしめた。
 死ね、死んでしまえ! ――― その言葉を口に出すという事は、心の中でその相手を殺したも同然。ただ法律に裁かれないだけで、罪は罪。
 ましてや自分は‥‥‥
 胸の奥底からじわじわ沸いて出るのは後悔だろうか、恐怖だろうか。
 取り返しのつかない間違いを、罪を犯したという思いに心が占領されそうになった時、松田の脳裏を恋に殉じた女性の面影がよぎった。

「ミサミサ‥‥君も、苦しかったの‥‥?」

 自分も弱い立場 ――― つまりはいじめられっ子 ――― だったからキラの存在を願う人々の気持ちが判る、キラの犯罪の無い世界を創りたいと言う気持ちが判る、と口にした自身の過去に潰されそうだ。
 そして、今になってキラに傾倒した弥海砂の気持ちをもっと慮るべきだったのだと後悔する。
 彼女もまた犯罪被害者の遺族だったという事実はあの目まぐるしい日々に埋もれ何時しか忘れ去っていた。
 家族を殺され恋人を殺され ――― 彼女は自分がキラだった記憶を失っていた ――― キラの裁きという道をも失った彼女の絶望は如何程のものだったのだろう。愛する人の死を二度乗り越える事が出来なかった事実から、それは思いやられる。

「ミサ‥‥」

 夜神月の死後、僅か半月ほどで自殺した弥海砂の事を思い出し、松田はキュッと唇を噛みしめた。
 彼女の監視を任されていたのは自分だった。その自分がちょっと目を離したすきに彼女は首吊り自殺をはかった。バスルームのシャワーホースを首に巻き自らの手で自らの首を絞めたのだ。酸欠で意識を失いそのままバスタブに溜めた水の中に沈んだ。検視結果は溺死だった。ものの10分とかからない行動。松田の人工呼吸は彼女の息を吹き返す事はなかった。
 死に際して彼女は恋人が誉めてくれたというステージ衣装を身に着けていた。発作的だったのか、計画的だったのか。松田にはどちらでも同じだった。苦しんだ筈なのにこちらの胸が苦しくなるほど穏やかな死に顔が忘れられない。
 彼女の死を止められなかった罪を誰に謝罪すればいいのか。彼女の両親は既に亡く、恋人も死んだ。謝る相手がいない事は楽なのか苦なのか。
 激しく後悔し『辞職する』とまで思いつめた松田に『お前のせいではない』と伊出と模木は言葉をかけてくれたが、相沢は苦虫を噛み潰したような顔をするだけで何も言わなかった。けれどその目は、いらぬ問題を増やしやがって、と責めていた。
 そこに、共にキラを追っていた頃の仲間意識はなかったと思う。仕方ないだろう。YB倉庫を出て警察庁に連絡した時点で彼らの立場は微妙に変化していたのだから。いや、元に戻ったと言ったほうが正しいかもしれない。準キャリアで警部補の松田とキャリアで警視の相沢では立場も責任も違うのだ。特に次長と実質リーダーだった夜神月を失い、全ての責任は相沢の上にのしかかっていた。相沢の立場は松田以上に微妙だったのだ。
 相沢にしてみれば、部下の不始末は自分の失態も同じ。それに、松田自身が上層部のお歴々の前で報告したのは一度しかなかったが、相沢は何度も呼び出されたと聞く。そのたびに松田の事で色々言われている筈だ。松田に怒って当然だった。
 しかもあの当時、日本の現役警察官が ――― たとえ技官でも ――― 『キラ』だったという衝撃の事実から、警察上層部と政府は混乱の極みにあった。キラの遺体も証拠も何もかもニアに持って行かれた日本警察は、体面を保つためにも『第二のキラ』の保護監察を至上命令としていた。にもかかわらず弥海砂は自殺した。それは日本警察の体面を二度潰すような出来事だった。
 松田は知らないが『自殺したと言うのは本当か?偽装ではないのか?』と各国の追求は相当激しいものだった。相沢も責任を取らされ松田ともども左遷されるはずだった。それが有耶無耶になったのは正式にLの後継者となったニアのお陰だ。

『第二のキラは出来の悪いコピーキャット、ノートが無ければただの頭の悪い小娘です』

 結局、ニアの肝入りという形で彼らの残留は認められた。相沢達に責任を押し付けるには事が重大すぎたせいもある。キラに関する情報は全て極秘とされ、真実を隠すために昇給扱いとなった相沢は公安に移動となり、新しく『L』となったニアの専属連絡係となった。部長として公安に一室を与えられたが、島流しも同然なのは上層部暗黙の了解である。
 そこまで上層部の事情に詳しくない松田でも、あれ以来相沢から連絡が無かった事を考えると ――― それ以前から連絡は伊出か模木経由だった ――― 彼の信頼を失ったと言う自覚はあった。キラを追っていた当時から愚直な所を買われていたのであって、頼りにされていた訳ではないと薄々気付いていた事もあり、弥海砂の件で相沢の中の自分の信用は地に落ちたと思った。
 それに関して言い訳するつもりはない。また、言い訳した所で相沢は決して許さないだろう。
 松田は夜神月が好きだった。彼が警察庁に入庁する前から、キラ事件で共に捜査をするようになった時からずっと好きだった。いや、もしかしたら上司の家で初めて出会った時、既に特別な好意を抱いていたのかもしれない。
 彼の人目を引く整った顔立ちは、彼が男だと言う事を忘れそうになるくらい松田の好みだった。その上、父親譲りの公明正大にして真面目、意思堅固にして誰にでも親切で優しい性格は松田の心を暖かくしてくれた。好きにならない訳がなかった。
 優しくされる事が大好きで ――― 甘やかされて育ったと言う自覚はある ――― 語学以外たいして能の無い自分でも立ててくれる彼が、松田には理想的な人間に見えた。事実、彼は誰からも好かれ、誰からも理想的だと言われていた。彼の妹に惹かれているような素振りで自分も周囲も誤魔化していたが、間違いなく自分は彼が、夜神月が好きだったのだ。いや、今でも好きだ。
 そんな疾しい感情は気付かれなくとも、誰より、上司より彼を信頼し頼っていた自分に周囲は気付いていた筈だ。
 相沢にしてみれば、部下が先輩であり警視である自分より技官となった夜神月に傾倒していくのは、傍で見ていて決して面白いものではなかっただろう。ただ、当時は上司である総一郎も健在だったし、相沢自身の夜神月への信頼も厚かった。仲間内で替えの利かない無二の存在でありながら、常に控えめで先輩を立てる夜神月に文句のつけようがなかったのだ。
 だが、その夜神月がキラだと判明した今は違う。相沢は自分から彼の事を話す事はしなくなった。何時も思い出したくもない、というような態度を取った。彼を本当に嫌っているのか、松田同様裏切られたと憤っているのか。いずれにしろ相沢の内に彼への不信、不平不満が密かにあった事は確かだろう。
 そうでなければあんなにあっさりニアの言葉を信じた筈がない。口では確かめたいだけだと言いつつ、半分以上信じていたに違いない。あの積極的すぎるニアへの協力がいい例だ。
 一番のきっかけが松田同様夜神総一郎の死だったとしても、相沢には彼を、夜神月を、キラだからという理由以上に消してしまいたいと言う思いが何処かにあったのかもしれない。
 そんな不穏な考えが自分の内にフツリフツリと沸き上がっているのにも気付かず、松田は無言で廊下に立ちつくしていた。既に先程の夫婦は別室に移動し近くには誰もいない。ホールから微かに説教が聞こえているが、松田の耳には入っていない。

「‥‥‥‥」

 キラは、本当に悪だったのだろうか ――― 心を過るそんな思いに重なるのは、先程の二人であり、自殺した弥海砂であり。
 そして、綺麗な思い出なのか残酷な思い出なのか判らない夜神月‥‥‥
 ガチャリと、ドアの開く音がした。

「!‥‥僕は、何を‥‥」

 ハッと振り返れば、ホールから数人の男女が出て来るところだった。どうやら説教のテープが終わったらしい。彼らは誰もが無言でいささか俯き加減に歩を進めている。
 そのうちの何人かは立ち止まり、何処か物足らなさそうに振り返ってはまた俯き、結局は何も言わず帰って行った。恐らく入会するにはもう一つ決心がつかなかったのだろう。だが、それだけで彼らが只の冷やかしではなかったと判る。
 あぁ‥‥‥此処に未だ、キラの裁きを必要としている人がいる。
 そんな思いに胸が苦しくなる。
 何故、自分は刑事なのだろう。何も出来ないのに、どうして刑事なんかやっているのだろう。あの日から後悔と不甲斐なさと、焦燥感と虚脱感ばかりが募る毎日なのに。
 失ったものが大きすぎたのだろうか。上司、同僚、時間、熱意、信頼、希望‥‥‥そして、夜神月。

「‥‥月君‥‥」

 彼とともに捜査していた日々が懐かしい。あの緊張感と充実感をもう一度取り戻したい。

「やはり、キラを殺すべきではなかったんだ‥‥」

 無意識に口を突いて出た言葉に松田は気付かなかった。

「何かお悩みごとですか?」

 不意に声を掛けられ松田の全身がビクリと震える。
 その震えを刑事のプライドで必死に抑え声のした方に視線をやれば、スーツ姿の中年男性が少し離れた場所からこちらを見ていた。

「あ、え‥‥」

 さも人の良さそうな穏やかな笑みを湛えたその男性はどうやらAM会員のようだ。先程の案内係の女性同様、胸のネームプレートには名前とAMのシンボルマークが小さく印刷されている。
 そのシンボルマークが先程のホールの壁に描かれていた鳩の円と同じであると漸く気付いた松田は、自分の観察力の無さを少しばかり情けないと思った。

「突然申し訳ありません」
「い、いえ」
「貴方がともて難しいお顔を‥‥苦しそうなお顔をなさっていたので、つい、声を掛けてしまいました。お許しください」
「と、とんでもないです」

 難しい顔、苦しそうな顔をしていたと言われ、松田は思わず自分の顔に手を当てていた。そして、自分は何て不謹慎な事を考えていたのかと秘かにあわてた。刑事にあるまじき思考だと、酷く狼狽する。

「もし何か悩み事がおありなら、如何でしょう。私に話してみては?私、これでも臨床心理士の資格を持っておりますので」
「臨床心理士‥‥」
「いわゆる、心理カウンセラーです」

 あぁ、と心の内で頷いて、松田はAMが元々は犯罪被害者支援団体だった事を思い出した。PTSDなどで苦しむ被害者やその遺族の話を聞きアドバイスをする、そんな団体が母体ならキラ擁護を掲げてからもその活動を続けていてもおかしくない。実際AMの活動は布教より慈善事業、ボランティアがメインだ。

「いえ、僕は‥‥」
「あぁ、えぇ、もちろんこれは強制ではありません。貴方の気が向いた時に、えぇ、何時でもどうぞ」
「‥‥はぁ」

 男はそう言って松田に軽く挨拶すると、新しく入って来た見学者の方へと行ってしまった。

「もしかして僕‥‥勧誘された?」

 そうと気付いて松田は逃げるようにその場を去ったのだった。

「あれが‥‥」
「そうだ」
「何処にでもいる気の弱そうな男に見えますが‥‥」
「そう言う奴ほど、切れると怖いと言うだろう?」
「確かに‥‥」

 だから彼は気付かなかった。2階の窓から自分を見ている者達に。

「如何いたしましょう」
「放っておけ、とのお言葉だ。どうせ何も出来やせん」
「判りました。では、別口の方は?」
「そちらもだ」
「しかし、それではキラ様に危険が及ぶのでは?」
「それも計算の内だそうだ」
「‥‥判りました」

 門扉を潜り街中へと消えて行った刑事を見送った者達は、静かにカーテンを閉ざし姿を消す。
 聞こえるのは録音された説教の声。


   病める世界にキラ様の裁きを―――
   失われた道徳をもう一度―――


 キラの復活を望む声は確かに存在する。

 


※原作における弥海砂の没年は2011年ですが、
この話では2010年としています。

 

 

 


   2

 

 その部屋は閉ざされた部屋だった。と言っても牢獄と言う訳ではない。大きなドアには常に鍵が掛かっていたが、部屋の主に許された者に限ってなら出入りは自由だった。部屋の主も当然自由だ。
 しかし、部屋の主自身が外に興味を持っていなかったため、そこは閉ざされた部屋であった。

「報告は?」
「かんばしい物はありません」
「使えませんね」
「!捜査員も必死にやってるんです」
「本人がどれだけそのつもりでも結果が伴わなければ意味がありません」
「‥‥‥ニア、そこまで言わなくても‥‥」

 部屋の主の名はニア、稀代の殺人鬼『キラ』を追い詰め死に追いやった探偵だ。世界の切り札と称された正体不明の名探偵『L』の後継者として教育を受け、先代Lが無念にもキラに殺された後その遺志を継いでキラ捜査を行った少年である。年は既に二十歳近いが ――― その事実を知る者はごく僅かだ ――― 先天的なものかそれとも運動不足がたたってか、5フィートあるかないかの小柄な体格故に見た目だけは少年でまかり通るだろう。
 だが、その中身は外見に似合わずなかなかにアクが強い。
 自分の好きな事には多大なる興味を示し時間と能力を傾けるが、それ以外には実にそっけない態度を取る。特に人間にはほぼ無関心を貫き、本心かどうか定かではないが人の生き死にすら興味がないかのように振舞う。
 能力主義らしく自分が要求した仕事を満足にこなせない捜査員は無能と平気でこき下ろし ――― 言葉数は少なめだが、相手がそれに気付く前に次の指示を出し反論を封じる事が多い ――― 自分の推理について来られない者には『考えるだけ無駄、ただ言われた事だけすればいい』と言い切る相当な自信家。
 謎解きが好きなのか犯人を追いつめるのが好きなのか、はたまた『Lの後継者教育』が行き届きすぎたのか、犯罪者に情けは無用とばかりに手段を選ばない、法の逸脱も厭わない ――― その点は先代Lも同様だった ――― 捜査を平気で行う。それは時には捜査員達を不快にさせるが、結果で全てを黙らせる厚い面の皮の持ち主だ。
 つまり一言で言えば、仕事でしか付き合いたくないタイプの人間筆頭と言う事である。プライベートで付き合うには余りに毒が強い、それがニアと言う人間である。

「AMに潜入し裁きの証拠を押さえる、ただそれだけの仕事がどうして出来ないのですか」

 掃除の行き届いた床に敷かれた白い毛皮の敷物。その上に腹這いに寝そべったニアもまた白い。癖の強い巻き毛はくすんだ灰色、身に纏ったどう贔屓目に見てもパジャマにしか見えない衣服は白。ニアが大好きなジグゾーパズルもやはり真っ白で、周囲に散らばるレゴブロックのカラーに違和感を覚えるくらいだ。

「デスノートは裁きのキモです。必要不可欠な、そして決して失う事の出来ない重要アイテム。恐らくノートの存在を知るのは幹部中の幹部だけ、隠し場所も本部とは限らないのでは?」

 そんな白の中のニアを眇めた目で見下ろし、元CIA捜査官ハル・リドナーが今更な言葉を発する。

「バカですか」

 当然、ニアの反応は冷めた物だ。彼女もそれは予想していたのであからさまな侮蔑の言葉を瞬き一つで無視した。

「誰もノートを探し出して奪って来いとは言ってません。AM本部にノートがあるとも考えてません。私はただ、被害者予定リストを探し出せと言っているだけです」

 デスノートでの裁きには殺す相手の顔と名前が必要である。殺す相手の顔を頭の中に思い浮かべながらその本名 ――― 戸籍上の名前、戸籍がない場合は最初に付けられた名前か? ――― をノートに書く。ただそれだけでターゲットを殺す事が出来る。距離も時間もターゲットが置かれた環境も関係ない。まさにチートすぎる殺しの手段、アイテム、それがデスノートである。
 何故なら、デスノートは人間が作り出した物ではないから。死神という人外の存在がこの世に齎した恐るべき凶器だから。

「ノートに名前を書く人間は誰でもいいんです。狂信的なキラ信者でもアンチキラ派でも、年端の行かない子供でも耄碌した老人でも。目が見えて字さえ書ければ誰でもいいんです。そこに犯罪者を裁こうという意思は必要ありません。金の為に書くのでもかまわない、遊びで書くのでも。極端な話、毎回書く人間が違ってもかまわないんです」
「それは‥‥」
「ノートがあって、死神と契約をした人間がいて、情報収集能力にたけ、世界中何時でも何処でもターゲットの情報を伝達する設備があればそれでいいんです」
「契約者と書いている人間が別‥‥」

 震える声でそうポツリと呟いたのは、キラ事件解決後もニアの元に残り彼の『L』としての活動に協力するようになった3人の内で、最も年嵩なアンソニー・レスターだった。
 有り得ない話ではない。ノートを使うのに特別な才能はいらないのだから。だが、それ故に恐ろしさは増す。

「AMが裁きのターゲットを決定していた、しているという証拠があればいいのです。AMの誰かがターゲットの資料を何処かへ転送し、その後、キラの裁きが行われた。もしくはこれから裁こうとしている、そんな証拠が出ればベストです。後は幾らでも捏造できます」
「相変わらずの無茶ぶり‥‥」
「キラの殺しを止めるにはそれくらいして当然です。こんな時に使わなくて何が権力ですか」

 レスター、リドナー、そしてステファン・ジェバンニの3人は共にA国の政府機関に所属していた。ニアがA国の協力の元立ち上げた対キラ組織『SPK』に配属されキラ逮捕に燃えていたが、志半ばで捜査員の大半はデスノートの犠牲となり命を落とした。その一件で機動力は失ったが運良く生き延びた彼らには未だ莫大な資金とニアが残っていた。その後彼らはニアの能力を頼みとし捜査を続け、遂にキラを追い詰める事に成功した。1年前の事である。
 大いなる悪は倒された。死の独裁から人間は救われた ――― そんな思いに安堵した3人はニアを伴い早々にA国へ戻った。キラの死体、事後処理、日本政府との折衝はA国政府から派遣された別の特別捜査官達が行った。一応民間人のニアの出る幕ではなかった。また、それが当初のA国との取引条件でもあった。
 ニアと元SPKの手を離れたキラ事件。連絡を受けやって来た特別捜査官達にキラの死体を引き渡す時、心なしかニアが名残惜しそうな顔をしていたのは気のせいだろうか。

『貴方は私が責任を持って誰の目も声も届かない所に死ぬまで閉じ込めます』

 あの言葉にどんな意味があったのか3人には想像もつかない。キラに死ぬまで懺悔させ続けるつもりだったのか、クレイジーな殺人鬼を危険と思ったのか。それともただ単に自分の勝利の証として飾っておきたかっただけなのか。
 いずれにしろA国との密約があった以上、それが実行される事はなかった。ニアがキラの、夜神月の替え玉でも用意しない限りは。
 後にジェバンニは、夜神月が生きていたら案外ニアはそうしたのではないか、とこっそり口にした。魅上照をキラと偽り ――― 嘘ではない ――― A国に引き渡し、夜神月は秘かに自分のものにしたのではないかと。
 それに反論したのはレスターだけで、ハルは『有り得ない話じゃないわね』と苦い笑いを零した。
 夜神月の存在を初めて知った時以来彼をキラと決めつけ ――― 結果的にニアの推理は当たっていた――― 最後まで微塵も疑わず追い続けたニアの執念には恐れ入る、むしろ怖気が走る。あの時は命懸けの捜査でそこまで考える余裕はなかったが、夜神月以外の容疑者を想定しないニアの推理は今思うと非常に危険なものだった。
 夜神月がキラだったから良かったものの、もし違っていたら?
 流石にレスターもその意見は否定しなかった。

『夜神は美人よね。女にも男にもモテモテだったみたいだし』
『ハル、いやらしい想像はするな』
『あら、どうして?先代Lがキラに負けたのはキラの美貌に目が眩んだせいかもしれない、って言ったのはニア自身よ』
『それは‥‥』
『Lの後継者として育てられたニアが先代と同じ趣味でも、私、ちっとも驚かないわ』
『ハル!』

 反面、ハルの下世話な発想は断固否定した。ジェバンニは秘かに『有り得ない話じゃないな』と思わなくもなかった。
 とにかく、平穏になって目に付くのはニアの欠点ばかり。ニアの社会への無関心、他人への無関心、心ない言葉。一探偵という立場を逸脱した権力の行使、それを悪いとも仕方ないとも思わない言動。それらニア自身の行動が過去の絆をも浸食しようとしていた。
 キラ逮捕時のニアの夜神月を否定する言葉、正義に満ちた言葉、殺人鬼を厭う言葉。
 あれは本心から出た言葉だったのか?ニアの己自身への絶対的信頼にはある意味、自分が正義であり神であると言い切ったキラに通じるもがあるのではないか?
 何時しかそう考えるようになった3人は、けれど、もはやニアから離れられない立場にあった。
 当初3人は、事件が無事解決した暁にはそれぞれ元いた政府機関に復帰する予定だった。しかし、帰りの機上でその予定はあっさり変更された。
 引き続きニアの元に留まり彼に協力しろ ――― 上からの命令だった。ニアが本当にデスノートを全て処分したのかどうか疑っていたA国の当然と言えば当然な対処策だった。
 その事をニア本人はどう思っているのか ――― 本人はとっくに気付いているのだろうが、歯牙にもかけていないようだ ――― 判らないが、頭脳労働一辺倒で飛行機どころかバスやタクシーといった公共機関にさえ乗れない、買い物もろくに出来ない、家事全てに疎いニアには捜査以外でも使える人間が必要だった。だからか、ニアが3人の残留を拒む事はなかった。
 ニアが育った孤児院の院長ロジャー・ラヴィーは信用出来る人間だったが、いかんせん高齢ゆえ圧倒的に行動力がなく、かつ知的能力も低かった。彼にはせいぜい連絡係しか出来なかったのである。
 そうして3人は表向き『L』の専任捜査員、裏ではニアの監視を行っている。
 残念ながら最早そこに信頼は存在しない。だが、社会性の乏しいニアには新たな『ワタリ』を探し出す能力がなかった。心当たりもなかった。それに、正真正銘デスノートは全て処分していたので3人のスパイは痛くも痒くもなかった。
 レスターはそんなニアを信頼している貴重な存在だ。彼の性格には難があると内心思っていても、本当には正義など信じていないと薄々気づいていても、世間や他人に関心がない分、夜神月のような人間にはならないという逆説的な確信があった。
 表向き社会の毒にも薬にもならない人間、だが、使い方次第ではいくらでも有用な働きをする人間。ニアが知ったら目くじら立てて嫌味を連発しそうな感想を、レスターはニアに抱いていた。そこがジェバンニやハルとは違う点である。二人は理性ではニアを認めていても感情では嫌悪するようになっていた。

「例の演説の後、キラの裁きは?」
「変わりなく続いています」
「AMが予告殺人をした、という動きは?」
「残念ながらまだ」
「キラに裁きを任された、と言いながら予告はなし?」
「裁き後の声明もありません」
「けれど愚かな大衆は、今の裁きはAMが行っていると信じるかもしれませんね。言った者勝ちですか、くだらない」
「他の幾つかの教団もAMを真似て『裁きの肩代わり』宣言をしています。結局、そちらも証拠がないので今は様子見です」

 宣言だけなら誰でもできる。

「予告殺人、その殺人が実行されれば、予告をした者が正統なキラの後継者という事になるんだが‥‥」
「流石にAMもそれはしませんね」
「すれば警察が乗り込んで来るのは間違いないし、それに‥‥」
「殺人は必ず心臓麻痺でなければならない。しかも、何の痕跡も残らない完全無欠の心臓麻痺でなければね」

 薬の痕跡があってはならない。鈍器による胸部強打や電気ショック等は問題外。誰がどんなに調べても、心臓がただ停止したから死んだ、としか言い切れない殺しでなければならない。
 デスノートを使う以外そんな殺しは不可能だろう。

「本当にデスノートがAMの元に‥‥?」
「当然だろう。きっと新しい死神に貰ったんだ」
「じゃぁ、夜神の事は?」

 死神が再び人間界へ降りて来たのは間違いない。それが前と同じ『リューク』なのかどうかは判らない。リュークならキラが夜神月だったと、ノートを渡した人間に喋っているかもしれないが、別の死神だったらどうなのか。死神同士の親密度や情報網など人間には知りようがないのだ。

「高田清美から‥‥夜神の事がAMに知られていた、という可能性は?」
「それはないでしょう。女というものは秘密が大好きですからね」
「恋人との秘密は二人だけの秘密って?そうね、私も彼女がキラの正体を誰かに話したとは思えないわ」
「必然的にノートの秘密をAMの誰かに話したとも考えられません」

 ニアの言葉にハルが小さく笑う。

「では、やはり死神が‥‥」
「それしかないだろうな」
「キラに関わったAMの手にデスノートが‥‥それってただの偶然かしら」

 偶然でなかったら何だと言うのか。誰かの作為だとでも?死神の?
 いずれにしろ、今現在デスノートを持っている人間は相当なキラ信者である事は間違いない。キラの理念に基づき裁きを行っているのだから。それが第四のキラ、魅上照とは違う点だろうか。あの男は実際に犯した罪だけでなく、堕落した考えやモラル違反そのものも裁こうとした。非常にタチの悪い潔癖主義者だった。今のキラがそうでないのは幸いだが、キラの恐怖が再来しているのは確かなのだ。

「とにかく、今のところ手がかりはAMしかありません。ターゲット選定、決定の証拠が出なくてもかまいません。死神やノートに繋がる何か、もしくは夜神月に繋がる何かが出てくれば、AMの有罪は確定です」

 何とも強引なやり方だった。だが、三人にはどうする事も出来なかった。ニアの言う方法しか彼らも思いつかなかったからだ。

「キラ‥‥夜神月‥‥」

 三人の部下、いや、監視者達がそれぞれの仕事に戻った後、ニアは一人白いジグゾーパズルに没頭した。

「死んでもなお、この私に挑んで来るとは‥‥」

 その白いキャンパスに思い描くのは一人の男の顔。
 キラと呼ばれ、神になろうとした愚かな男、夜神月。

「無駄な足掻きだと、今度も思い知らせてあげます。そして、今度こそ‥‥」

 誰の目も声も届かない所に死ぬまで閉じ込めてあげます ――― 逃がしはしない、と声の無い笑いの下でニアは思う。網に掛かった熱帯魚か、クモの巣に引っ掛かった蝶を連想しながら。
 綺麗な顔でLを誑かし殺す事に成功したからといって、この私まで欺けると思わない事です。
 ブツブツと呟かれるその言葉を耳にした者はいない。
 本人すら聞こえていないその言葉を。
 人外の存在以外誰に聞けたと言うのだろう。

 

 


 女は焦っていた。
 キラ復活 ――― 世間はその話題で騒がしい。女が今いる場所でもそれは変わらない。違うのは誰もがそれを歓迎していると言う事か。熱狂的に騒ぐ事はない代わりに、ただ只管『キラ様復活』を信じ、キラ様が作る新世界の到来を待ち望んでいる。その静かな熱気が女を不安にさせた。
 Angel′s Mercy ――― 天使の慈悲。犯罪者に死を齎す救世主『キラ』を信じ崇める団体の一つ。女は今そこにいる。そこで暮らしている。女の本意ではない。已むに已まれぬ事情があったのだ。
 キラは死んだと、国連だったかICPOだったか、はたまたFBIだったか忘れたが、とにかくキラは死んだ、裁きはもう起きない、と偉い連中が言った。それを聞いて残念がる人間もいれば喜んだ人間もいた。
 女はどちらでもなかった。どちらでもなかったが、キラみたいな存在がいても良いかもしれない、とは思っていた。小市民とは皆そんなものではないだろうか。
 だが、今は違う。今はキラの復活が恐ろしくて仕方がない。
 女はかつて娼婦だった。そして、マフィアの情婦だった。運が良かったのはマフィアの男が女衒ではなかったという事ぐらいか。麻薬漬けにされなかった代わりに詐欺の手口を教えこまれた。美貌で男を騙し金を奪う仕事、美人局、結婚詐欺だ。そのうち、どうしてかパソコンに詳しくなった。必要にかられて、というのは確かだが、単に女の性格に合っていたのだろう。学の無い女はスキャンダルが大好きだった。
 詐欺を働くに当たり騙す相手の情報収集は必須。そして、現代社会の情報収集にパソコンは欠かせない。女はターゲットの弱みを掴むため時々携帯のメールを盗み見るという行為を働いた。更には夜のお楽しみ後、ターゲットが寝入っている間に寝室のパソコンを覗く荒業もやった。だが、それには知識が必要だった。だから女は必要にかられパソコン教室に通った。
 『好きこそものの上手なれ』とはよく言ったもので、女はみるみるパソコンに詳しくなった。今ではいっぱしのハッカーだ。情夫のマフィアが彼女の技術に目を付け、結婚詐欺の他に仕事をさせるようになったのは言うまでもない。
 それが行き過ぎて男は殺された。他のマフィアの情報を盗み、敵対するマフィアに売った事がばれたのだ。女は自分も殺されるのではないかと恐怖し逃げた。逃げた先でFBIに捕まった。だから保護を求めた。知っている情報を全て教えるから、と。
 女は証人保護法に乗っ取り新しい戸籍を手に入れた。そうして新しい人生を始めようとした矢先、待ったがかかった。
 潜入捜査を持ち掛けられたのだ。潜入先は『Angel′s Mercy』。あのキラを神と崇める団体だ。
 女は冗談ではない、と思った。
 自慢ではないが、女はいっぱしの犯罪者なのだ。勿論、キラが裁きまくった凶悪犯罪者ではないが ――― 人殺しはしていない、薬も売っていない ――― だが、女のせいで破産した人間が何人もいた。中には自殺した人間も。大々的にニュースになった訳ではないが、誰にどれだけ恨まれているとも限らない。みすみすキラに殺されに、そんな所へ潜入したくはなかった。

『息子がいるそうだな』

 だが、連れて行かれた先で会った男達は情け容赦なかった。

『あの子をどうするつもり!?』
『さあな。それはお前の出方次第だ』

 マフィアの情婦になる前に生んだ息子がFBIに、いや、CIAに人質に取られた。誰も知らない、マフィアすら知らないはずだったのに。養子に貰われた先で幸せに暮らしていると聞いて安心していたのに。

『Angel′s Mercyに入会し、キラの情報を探れ。パソコンの情報もな』
『どうして私なのよ!?ハッキングぐらいあんた達で出来るでしょ!!』
『セキュリティが厳しくてな。パスワードが必要だ』
『それぐらい信者の誰かをとっ捕まえて拷問でもすればいいじゃない!』
『AMの幹部には常にボディガードが付いている。おまけに連中は尋常じゃなくてな。俗に言う狂信者というやつだ』

 外部会員では意味がない。AMの宿舎で暮らす内部会員に探りを入れるしかパスワードを手に入れる術はない。男達はそう言った。

『だったら、あんた達の誰かが潜り込めばいいじゃない!どうして私なのよ!?』

 そう叫ぶ女に男達は偽名が使えないのだと言った。だから、CIAにもFBIにも関係しない素人の力が必要だのだと。どういう意味かと問う女に男達は実しやかに囁いた。
 キラの目は嘘を暴く ――― 神と呼ばれるに相応しいその情報に女は畏れおののいた。
 そんな女に男達は『本名を名乗れば疑われる事はない』のだと軽く言ってのけた。他人事なのだろう、彼らには。
 AMへの出入りは誰でも自由だ。基本的に『来るもの拒まず』の方針である。だが、本格的に入会するとなると話は違ってくる。入会審査なるものがあるのだ。
 入会希望者はプロフィールの全てをAMに告げなければならない。そこに虚偽があれば当然入会は断られる。初回は騙せても、その後ばれれば同じ事だ。そうやって潜入した捜査員が既に何人も音信不通となっているらしい。今何処にいるのか、生きているのか死んでいるのかも判らないと言う。
 そんな恐ろしい所へ素人の自分が潜入する?冗談じゃない!死にに行くようなものではないか!!
 だが、女に逃げ道はなかった。
 マフィアの情夫が殺された後、己の罪が恐ろしくなってキラ様に罪を懺悔しようと『Angel′s Mercy』を訪れた ――― そう言う設定で女はAMの門を叩いた。ほとんど事実だ。ただ、FBIに保護された、という事実が消されただけだ。
 女の入会は直ぐに認められた。実際AMには罪悪感に苛まれ教会の懺悔宜しくやって来る犯罪者が少なくなかったからだ。そこで女は己の罪を告白した。嘘はつかなかった。ついてもばれるとCIAに言われていたからだ。告白を聞いた導師 ――― AMの上級会員 ――― とやらに責められるかと思ったがそれ程でもなかった。

『己の罪に気付いた貴女をキラ様は決して責めたりなさいません』
『償いの道は厳しいでしょうが、私達もお手伝いします。頑張りましょう』

 犯罪の自白を見過ごしていいのか?と思わなくもなかったが、女は泣いて喜んだ振りをした。詐欺師としての女は一流だったので誰も疑わなかった。
 それ以来女はAMの『宿坊』と呼ばれる所で暮らすようになった。そこはいわば俗世を捨てた会員の為の生活の場だった。
 女は最初、刑務所か辛気臭い修道院のような生活をさせられるのかと内心うんざりしていたが、そこでの生活は思ったほど禁欲的ではなかった。テレビもあったし雑誌もあった。小さなシアターもあって好きな時に映画を見る事が出来た。ただし、暴力的な物や過度に性的な物は一切禁止されていた。当然だろう。
 規則正しい生活、自炊、生涯学習、ボランティア活動。まるでハイスクール時代に戻ったかのようだった。いや、子供時代のサマーキャンプに近いかもしれない。これはこれで楽しいかもしれない、と思えなくもない。その程度には楽な生活だった。異性との接触は禁じられていなかったし、SEXも禁止されていなかったからだ。勿論、合意の上のSEXが大前提だったが。
 一つ不満があるとすれば個人でお金を持てない事だろうか。手に出来るのはボランティアに参加した後に貰える労賃だけだった。子供の小遣い程度の額で何が買えるというのか。生活そのものに不便はなかったが、ファッションに金を、特に化粧に金を掛けられないのが女には痛かった。
 そうして女がAMに潜入してから2ヶ月程経った頃、キラの裁きが再開された。
 女は愕然となった。CIAはこれを予測していたのだろうかと。
 薄れていた恐怖が再燃した。だが、何処へも逃げる事は出来なかった。逃げれば愛する息子の身に何が起こるか判らない。CIAから逃げられるとも思えないし、AMからもそれは同じだ。
 そうして気付いたのは、AMがこの日の為にじっと息を潜めていた、という事実だった。キラ復活のニュースが世間で騒がれるようになっても、宿坊の会員達は大人しいものだった。皆、当然と言うような顔でTVを見ていた。満足そうに頷く導師達の姿もしばしば見受けられた。彼らは実しやかに『これで世界は新しく生まれ変わる』と大層喜んでいた。それは背筋が凍るような光景だった。
 その時、女はやっと理解した。
 犯罪に大小はない。どんな罪も、罪は罪。自分のせいで不幸になった人がいる。そんな人達を自分は嘲笑い踏みつけにした。一人、強欲を貪った。それはどんなに謝罪してもしきれない事実なのだ。たとえキラ様に裁かれなくとも、それで許された訳では決してない。
 キラ様が提唱する『穏やかにして暖か、健やかにして清らかな世界』に自分は生きる資格がない。
 何より自分は、愛しい我が子に胸を張って生みの母だと言えない‥‥!
 ずっと見て見ない振りをしていたその事実に女は立ち上がれないほど打ちのめされた。
 どうしたらどうしたらどうしたら‥‥‥!
 私の赤ちゃん私の赤ちゃん、可愛いBABY‥‥‥!!
 会いたい会いたい会いたい会いたい、会って抱き締めてキスをして、愛していると何度でも言いたい!
 生まれたばかりの息子を抱きしめ、その小さな口に初めて自分の乳を含ませた時の喜びが昨日の事のように思い出される。田舎から都会に出て来て男に騙され友達に裏切られ、孤独に狂いそうになる中生んだたった一人の家族。
 出来る事なら自分の手で育てたかった。けれど、定職にも就いていなかった未だ10代の小娘にそれは無理な話だった。
 息子の幸せを考えるなら ――― そう思うだけの理性がまだ残っていた女は、意地を張って一人で育て、結局育てきれず最悪の事態を引き起こすくらいなら、と泣く泣く子供を手放した。養子先を知ったのはマフィアの情婦になった後だ。ハッキング技術が思わぬところで役立った。
 何がいけなかったのだろう。養父が交通事故を起こし失業したと知り、匿名で金を送った ――― あわよくば息子と対面できるかも、と思わなくもなかった ――― せいだろうか。あれでCIAにばれたのなら、AMにもばれるかもしれない。
 詐欺師でスパイで子供を捨てた女。そんな女にキラは何処まで寛大であれるのか。
 女はネットにも流された演説を恐怖の中で聞いていた。
 キラ様復活 ――― AM会員、信者達はその日を信じて疑ってもいない。そして、導師達の言葉はますます熱を帯び、まるでキラ様自身からお言葉を賜ったかのように他の信者達に言葉を伝えた。

『堕落した世界は一度滅びなければならない』

 それが何を意味するのか女には判らなかった。ただ、今の政府が崩壊するだろう事だけは理解できた。そうなったら、そんな連中に捕まっている息子はどうなるのか?腹いせに殺されはしまいか?
 女は恐怖で眠れぬ夜を過ごした。不安で気が狂いそうだった。
 いっそ何もかも暴露しようかとも思ったが、かつてキラがFBI捜査官を殺した事を思い出し止めた。女はスパイなのだ。スパイをAMが、キラ様が許すだろうか。女の嘘を許すだろうか。
 結局行き着くのはそこだ。
 こうなったら一刻も早くキラ様の情報を掴むしかない。そして、逃げよう。女はそう思った。
 そうしてクリスマスで世間が浮かれ気味なその日、女は宿坊管理室に忍び込んだ。AMにキリストの誕生日は関係なかったが、それに合わせて会員達のほとんどがボランティア活動に勤しんだ。
 誰もが疲れて寝入った真夜中、女は行動した。ドアの鍵は既に合鍵を作っていた。パソコンのパスワードは親しくなった事務員の操作を盗み見て覚えた。
 真夜中の暗い管理室にポッと青白い光が浮かぶ。女はそこからAM本部のホストコンピューターにアクセスを試みた。
 キラの裁きが再開されて以降、CIAは女に『裁きのリスト』を探し出すよう伝達してきた。それも『予定者リスト』。もしくは、犯罪者名簿を何処かに送っていないかどうか。
 時間はかかったがメールの閲覧に成功する。だが、何処にもそれらしい内容のメールは見当たらない。
 ただ ―――

「何?これ‥‥」

 やけに日本支部との遣り取りが多い事に女は気付いた。しかもかなりの容量だ。それを不審に思い女はメールの中身を幾つか開いてみた。

「‥‥説教の‥‥原文?」

 そこにあったのは週一回行われる導師による説教の草稿メモだった。説教は本部の誰かが考えているのではなく、日本支部で考えられたものだったのだ。

「どうして日本支部?そこに誰か偉い人でもいるの?」

 女はメールの本文をよく読みなおした。

「!‥‥キラ様のお言葉を伝える!?え?何、これ‥‥」

 どのメールにも必ずその一文が添えられている。それは形式的なものなのか、それとも真実キラの言葉を文章にして送ると言う意味なのか。女は震える指でマウスを操作し、それらのメールを指示されていたアドレスに転送した。
 それから他に何かないかファイルを探ったが、重要なファイルを開くには当然の事ながら別のパスワードが必要だった。
 時間が掛かりそうだと女が唇を噛みしめた時、

「そこで何をしている?」

 いきなり背後から声がした。
 女は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いたが、抵抗はしなかった。出来なかったと言った方がいいか。

「やたらと管理室に入り浸ろうとする女がいる、とは聞いていたが‥‥やはり、そう言う事か」

 聞き覚えのない声だった。宿坊で暮らしている会員の声ではない。だとすれば会館詰めの職員だろうか。
 女は背中を焼く懐中電灯の光の中、ガタガタ震える体を止める事が出来なかった。

「名前は?」
「偽名は使っていません。本名です」
「ふむ。誰かに入れ知恵されたか」

 二人目の声に意識が遠のきそうだ。

「おおかた、権力にしがみ付く偽善者どもだろう。自分達が世界を動かしていると思っている金の亡者。正義の為と偽り弱き者に犠牲を強いる人非人。愚かな事だ」

 部屋に明かりが灯る。眩しさに目が眩む。

「如何いたしましょう」
「背後を探れ。正直に吐けば良し、吐かなければ何時もの通りにしろ」

 何時もの通りとは? ――― 女は連絡がつかなくなった捜査員達の事を思い出しやおら逃げようと立ち上がった。だが、その時はもう遅かった。

「い、いやぁぁ‥‥っ!」
「罪を償いたいと言うから警察に通報せずにおいたのに」
「更に罪を増やしてどうするつもりだ」

 左右から両腕を掴まれ自由を奪われる。引き摺られた拍子に椅子がひっくり返り屑かごが倒れた。

「人を騙すのは強欲の罪、己を偽るのは傲慢の罪。七つの大罪のうち二つもの罪を犯して許されると思っているのか?」

 だからと言って法を無視して勝手に裁いて良いのか。
 だが、パニックに陥った女にそれを言葉にする余裕はなかった。また、言葉にしたからと言って聞き入れて貰えるとも限らなかった。所詮、法も人の手で作られたもの、人に守ろうという意識がなければ何の意味もない。
 ましてやここはキラのお膝元。罪を悔いる者に救いの手は差し伸べても、罪を繰り返す者に慈悲は与える謂われはない。
 キラ本人の思いが何処にあろうとも ―――

 

 


 送られてきたメールの内容に目を通しニアは思いっきり眉を顰めた。

「で?CIAはどうするつもりだと?」
「ノートの在処はまだ確定していません。ただ、今現在AMを動かしているのは日本支部だと判断したようです。もしくはAMの中心人物が日本支部にいる、と睨んでいる、らしいです」
「だから日本支部を中心に探る、と‥‥短絡的ですね」
「しかし、それが一番早道‥‥」
「キラと一番関係の深い日本が一番怪しい?それを逆手に取られて捜査の網を日本に集中させる向こうの策かもしれないのに?アドレスの偽装などちょっとPCに詳しい者なら簡単に出来るでしょうよ。送り込んだスパイは素人だったのでしょう?どんなに腕の良いハッカーでも、焦ったり怖気づいたりすればポカをやるものです」
「‥‥‥」

 AM本部に日本支部から何らかの指令が出ている ――― そんな情報とそれを裏付ける証拠を意気揚々と提出したジェバンニだったが、ニアの厳しい分析に出鼻を挫かれる形となった。これで捜査が進展する、という希望が潰えたような気がして何だか体が重い。連日寝る間も惜しんで情報収集に明け暮れているのだ。疲労が溜まっていても仕方ないだろう。

「AMの最高幹部連中は全員本部にいるの?」
「デス・ヘキサグラムの事か?」
「えぇ、それ。ふざけたコードネームよね」

 AMの前身は慈善事業目的の非営利団体である。それなりに税は免除されているが、全く非課税という訳ではない。そのため多くの事務員や弁護士を有し会社経営と何ら変わりない側面も持っている。だが、彼らもまた会員、信徒である限りは、AMの活動の中心である『導師』達の言葉に従うのである。
 導師はキリスト教で言う所の『司教』に相当すると考えて良いだろう。とはいっても、犯罪被害者の救済が主な活動なのだから、AMの指導者達の多くは本業の医師や教師、弁護士といった職業にちなんで『先生』と呼ばれる事の方が多い。特に特技を持たない一般の会員達からは活動のチームごとにチーフと呼ばれているようだ。
 だが、そんな活動の中心にいる会員達の中に特別に『導師』と呼ばれる者達がいるのも確かだ。彼らはここ2~3年の間に出現した、AMの宗教団体という側面を象徴する存在である。

「彼らは国外に出ていない」
「本当に?」
「彼らの所在はキラの死亡後も常に組織がマークしていた筈だ」

 キラの存在が騒がれ始めた2004年、AMでもキラについての論議が為された。
 キラは是か否か ――― もともとが犯罪を憎み犯罪被害者に同情的だった団体なうえ、しかも、ボランティアで奉仕している会員の半数が大なり小なり犯罪被害者だったせいもありキラを肯定する意見が多かった。もちろん中にはキラの裁きの動機は理解できても裁きそのものには賛成できないとする者もいた。そうしてAM設立当初の中心メンバーの半数は会から離れて行った。だが、半数は残った。当然彼らは熱心なキラ支持派となった。
 そうしてキラの力が世界に浸透するにつれ、AMは慈善事業団体を基本としながらも宗教団体色を強く出すようになった。ボランティア活動の他に『説教』もするようになったのだ。
 穏やかにして暖か、健やかにして清らかな世界 ――― 腐敗した世界はキラ様によって一度解体されなければならない。
 そして、誰もが等しくなった後、私達は手を取り合い、誰にでも優しい世界を共に築いていこう。
 つまり、キラの裁きは必要悪、キラは真に世界の救世主足り得る存在なのだと、人々に説いて回ったのである。その説教は常にAMや公共の建物内で行われ街頭演説などという過激な手段では行われなかったが、現代のネット社会でそれはあまり大きな意味をなさない。それらはネット上で公開され誰でも視聴する事が出来たからだ。
 誰々を殺す ――― などという過激な発言を慎重に避けたAM。ネットへのアクセスは本人の意思と責任によるもの。AMのサイト活動を誰も止める事は出来なかった。
 その説教を行う幹部会員が特別に『導師』と呼ばれているのである。
 導師は大きな支部に一人か二人、多くて三人ほど存在する。そして、それら導師達の最高峰がAM初期設立メンバーからなる6人、デス・ヘキサグラムである。

「では、組織が把握していない幹部が日本支部にいるって事かしら?」
「だから、そういう推理そのものが連中の誘導かもしれないと、ニアは言ってるんだろ?」

 DEATH HEXAGRAM ――― 死の六芒星。
 6人という人数のせいかアンチキラ派から恐怖と憎悪を持ってそう呼ばれている彼ら。彼らは皆高い教育を受けた知識人、社会的成功者である。AMがここまで大きくなったのは彼らの功績によるものが大きい。
 キラを肯定しその裁きを容認する一方で、当初の犯罪被害者救済活動も決して止める事はなく、なおかつ犯罪者の更生にも力を入れたAM。彼ら自身は決して法を逸脱する事はなかった。そこが他のキラ信奉団体とは異なる点である。キラの裁きを真似てリンチまがいの暴力沙汰を起こす団体とは大違いだ。それが知識階級や富裕層に受けAMは着実に会員を増やしていった。また、そのような会だからこそ高田清美も入会しようと思ったのだろう。
 そして、その高田清美がキラのスポークスマンに選ばれた事でAMはキラ信奉団体の頂点に立った。彼らはキラ支配の元、世界の指導者になるのは自分達だと錯覚したに違いない。そして、その錯覚は今も続いている。その結果が例の『キラに裁きを任された』発言なのだろう。
 とにかく高田清美の件以来、AMの導師という地位には神聖性が発生し、件の6人が更に特別視されるようになったのは事実だ。
 元々一般会員達から尊敬や畏怖の念を持って『ヘキサグラム』と呼ばれていた彼ら。A国がキラへの恭順を示した時、キラ様の時代が、自分達の時代が来たとばかりに、信者達はその6人をそれぞれ六芒星の6つの頂点に対応する『土星-Saturn』『木星-Jupiter』『金星-Venus』『月-Moon』『水星-Mercury』『火星-Mars』と秘かに呼ぶようにになった。六芒星の中心『太陽-Helios』がキラという訳だ。
 以来、キラの死が発表された後も彼らはそう名乗り、そう呼ばれ続けている。
 キラ様は生きている ――― ヘキサグラムの6人だけでなく、キラを信じ、キラの存在を熱望する者達にとってそれは真実なのだ。

「まるっきりオカルトですね」
「ニア‥‥巫山戯てる場合じゃない」
「別に巫山戯てるつもりはありませんよ。キラに便乗して自分達も偉くなったつもりでいるバカに呆れているだけです」
「だが、そのバカな連中の手にデスノートが渡ったのは確かだろう?」
「‥‥そうですね。それが、一番の問題です‥‥」

 レスターの険しい言葉にニアも渋々と言った体で賛同する。それと同時にその苦労知らずのヤワな手がせっかく積み上がっていたレゴブロックの山を一撫でした。カラカラ音を立てて崩れたブロックにニアの陰鬱な視線が注がれる。
 キラ復活を匂わせる事件以来、常にニアの心にはそこはかとない苛立ちがあった。
 夜神月の死でもって『キラ事件』は解決したはずだ。ニアの勝利で幕を閉じた筈だ。たとえ死神がまたノートを持って人間界に降りて来たとしても、誰かがそれを使ってキラの真似事をしたとしても、キラ復活はありえないとニアは確信していた。
 『キラ』という存在は『夜神月』なくして成り立たない。さしものニアもそれだけは認める所だったからだ。
 人が人を殺す。それは存外簡単な事だ。人は感情の高ぶり一つで人を殺せるし、殺すつもりがなくとも弾みで殺してしまう場合もある。ましてや『ノートに名前を書く』だけで人が殺せるとしたら、良心の呵責や罪悪感など何の意味もなくなる。だから、誰でもキラになる事は出来るのだ。
 だが、キラを続ける事は非常に困難を要する。

「狂人も、十人百人と集まれば厄介極まりない‥‥」

 最初の人殺しは無我夢中。二人目三人目当たりは恐怖を感じ、十人も殺す頃には快感となる。更にそれを過ぎれば何も感じない。
 殺人にそんな見解を述べたのは誰だったか。殺人鬼か、兵士か、何処ぞの傭兵か。いずれにしろ、罪悪感のない殺人に初めから箍や枷はなく、それがなければキラの『裁き』が無秩序な殺人になり下がるのは目に見えている。
 そう、キラの一見無慈悲な殺人にも一定のルールはあるのだ。だからこそ世間はキラの殺人を『裁き』と称し、キラを『救世主』と持ち上げた。持ち上げられたからには『救世主』であり続けなければならない。それが世間というものだ。
 救世主としての裁きのルール。それを守り続けるには堅固な意志が必要不可欠である。あるいは決意が。
 夜神月はそれを『新世界の神になる』というバカげた目標で維持し続けた。ニアに言わせればそれは傲慢以外の何ものでもなかったが、別の角度からみれば夜神月の殺しは酷く禁欲的で隠者のようでさえあった。自分にはとても真似できないと流石のニアも舌を巻くほどに。
 殺人を『裁き』に見せかけられるのは夜神月だけ。
 キラ復活を匂わせる事件が起きた時、ニアが真っ先に思ったのはその事だった。

「貴方がたは、私達がキラに勝った一番の要因は何だと考えますか?」

 突然のニアの問いかけに戸惑う三人。

「それはやはり‥‥ニアの思考がキラのそれを上回ったから‥‥」
「ジェバンニが魅上のミスに気付いたからじゃないの?」

 互いに顔を見合わせる三人は何を今更、というようにニアを見やる。

「えぇ、そうですね。勿論、私の頭脳がキラの上を行っていた事は確かです」

 どうやらニアの辞書に『謙遜』という文字はないらしい。

「けれど、私は‥‥私達がキラに勝った一番の要因は、キラが単独犯だったからだと考えています」
「それは‥‥」
「単独犯って、キラには仲間がいたわよ?第二のキラである弥と、Xキラの魅上が‥‥」
「あれらは出来の悪い駒でしかありません。とてもじゃないですが、キラの共犯者足り得なかった」
「共犯‥‥」
「つまり、1+1=3どころか、1+1=2にもなっていなかったという事です。だから、駒でしかない魅上の独断がキラの計画の全てを狂わせる結果となった。キラには彼を補佐する仲間が一人もいなかったのですよ」

 ニアの口から『仲間』という言葉が出た事に三人は内心驚かなくもなかったが、確かにあの頃はそういう関係であったと多少懐かしさを伴って思い出すに至る。すると余計に今の関係が歪に感じられて仕方がない。

「キラは一人でした、常に。だから正体が知られる事は致命的だった。キラが私に勝利する為には綿密な計画が必要だった。イレギュラーに対処するには一人は厳しすぎますからね」

 確かにそうだと三人は思う。キラに信頼できる仲間がいればあの倉庫での状況も逆転の可能性があっただろう。
 だが、キラは一人 ――― 弥海砂は秘密を共有する相手ではあったが、有能な戦力とは言い難かった ――― だった。一人で全てに立ち向かうしかなかった。そして、当然ながら限界が訪れキラは負けた。

「何処ぞの犯罪マニアや引き籠りがデスノートを手に入れ新たなキラになったとしても、私の敵ではありません。夜神月ほど手を焼かせることなく私の前に屈するでしょう。しかし、ノートを手にしたのが、それなりに力を持った組織なら話は別です」
「AM、だな?」
「おそらく今回のキラは複数犯、いわゆる組織犯罪の形をとっています。夜神のようにずば抜けた頭脳を持つリーダーがいない代わりに、一定レベルの能力を持った複数の人間が、同じ目的の元、協力し合って行動している。しかも、世界各地に支部があり多くの駒を擁している。資金的にもたいして困っていない。実に厄介です」

 Angel′s Mercy ――― 天使の慈悲。キラを救世主と仰ぐ狂信者集団。
 ニアは、今度のキラは個人ではなく集団だと指摘する。それ故に夜神月一人を相手にするより厄介なのだと。

「組織そのものに明確な権力はありません。しかし、信者の中に権力者がいる。その連中が力を使えば同じ事です」
「‥‥情報操作が為されていると?」
「しない方がおかしいでしょう」

 判り切っていた事だが改めてそう言われ三人は押し黙った。
 AM会員の名簿は入手済だ。しかし、名のある権力者が ――― 例えば国政を預かる身分の者 ――― 名簿に自分の名が上がる事を許すだろうか。それを考えれば『裏の名簿』というものが存在していてもおかしくないのである。残念ながらそれらしき物を入手した、という情報は未だない。

「権力者という者は往々にしてエゴイストです。口では国の為と言いつつ己だけは生き残れるよう常に画策している。そうでなければ権謀術数の世界では生き残れない、そういう世界に連中は生きている。信頼など有ってなきが如しです。しかし、そんな連中を一つにまとめてしまうのが信仰というものです」
「‥‥信仰‥‥思想ではなく、信仰ですか」

 曲がりなりにもキリスト教圏に生まれ育って来た3人にはニアの言葉を否定する事は出来なかった。

「思想は人間の行動原理の一つに過ぎません。集団形成の理由でもありますが、思想というのは時と共に個人の中で変質して行く危ういものです。そして何より、思想を胸にした時の初心は忘れ去られるものと決まっています。しかし、信仰は違う。信仰は個人の意思を、思考を麻痺さる毒でしかありません。他者に自分の全てを丸投げしてしまうのが信仰だからです。自分で考えないのなら信仰が変質する事はありません。むしろ人間が信仰の為に変質するのです。それでも、信仰に敗れたり裏切られたりする事はあります。そして、切っ掛け次第でそれは簡単に復活する。憎悪しつつも心の奥底には常に畏敬の念が潜み続けるからです」
「‥‥‥‥」

 三人は一様に魅上照の事を思い出していた。
 キラを神とまで崇めていた男。しかし、敗色が濃厚となり己の死を意識した時、魅上はその神であるキラを憎み罵倒した。己を惨めな敗北者にした存在をクズとまで罵った。ニアの言う通り信仰に裏切られたのだ。
 そのくせ全てを失い絶望と恐怖の極みに達した魅上が最後に縋ったのは、やはり神、キラだった。正気を失いキラの名を叫び続けながら死んで行った愚かな男。

「信仰の対象は死して更に存在感を増す。過去の歴史がそれを証明しています」

 仏陀しかりキリストしかり、現代のカルトしかり。死んで既に存在していないからこそ対象への妄想は膨らんで行く。もうこれ以上裏切られる事はないからだ。裏切るのは生きている人間であり死んだ人間ではない。

「そして、そんな狂信者どもが思想を説いている。実に厄介です」

 信仰を全ての人間に受け入れさせる事は難しい。だが、思想なら幾らでも流布する事が出来る。
 そう、流布だ。
 思想などと恰好つけたものでなくて良い。ただのスキャンダルで十分。より多くの人間の耳に入れる事、それが重要なのだ。話題性が人を引き付ける。眉唾であればあるほど人は好奇心を持つ。付和雷同、噂は噂を呼びそれがあたかも真実のように広まって行く。

「世論というものは、作ろうと思えばいくらでも作れるのですよ」

 ニアの淡々とした口調に隠された苛立ちを三人は読みとる事が出来たのか。いずれにしろ、その言葉が意味する恐怖を三人はよく知っていると思った。
 1年前の世界が再び蘇る。キラの『裁き』という恐怖に支配された世界が ―――
 だが、彼らは半分も理解していなかった。
 それを恐怖と感じる人間ばかりではない、という事実を。
 罪を犯さない限り自分は安全。その罪もキラ様は情状酌量して下さる。そんな漠然とした考えが世間にはあった。
 事実キラの裁きは誰が見ても許し難い犯罪者に下される事が多かった。殺人犯でもやむに已まれぬ事情、世間の大方が同情するような理由がある場合は裁きから免れることもあった。
 救世主のキラ様は決して形式一辺倒の非情な神ではないのだ、世間一般にとって。
 だが、初めからキラに敵対する側に立っていた彼らは、そんな世間一般の考えを知ってはいても同調する事は出来なかった。
 人殺しは人殺し。法律は何の為にあるのか。いくら恰好つけて裁きだなんだと称そうが、個人の考えだけで執行される罰はリンチ以外の何ものでもない。
 それははなはだ真っ当な見解ではあったけれど、所詮法律も人が作ったものであり、法の規範は時代によって変わるものだと彼らは忘れていた。

「一個人なら、潰すのは簡単です。証拠がなければ捏造すればいい」
「!ニア‥‥ッ!」

 だから、ニアのその発言に三人は怒りを感じた。キラに逆らう者、敵対する者は『正義』でなければならないからだ。ニアのその発言は、偽善者のそれである。

「何を驚いているのですか。夜神の時も似たようなものだったでしょう?」
「だが、あの時は夜神がキラだとはっきりしていた」

 いや、そうではない。夜神月がキラである事に賭けたのだ。

「ないのは証拠だけだった」
「えぇ、だから証拠を作った。魅上を嵌めて、証拠を作らせた。今回も似たようなものです」

 あの時は時間との戦いだった。そして、彼らは賭けに勝った。

「でも、今度の相手は集団なのよね?しかも、かなりの数の。そして、権力も金もそれなりに持った‥‥」
「集団の全員が賢い訳ではありません。中には、いえ、大半は自分の頭で考える事の出来ない人形です。罪などいくらでも作れます」
「つまり、AM信者の誰かに犯罪を犯させ、それを機にAMの一斉取り締まりに踏み切ると?」
「それが一番手っ取り早いでしょうね。向こうが情報操作をしているのなら、こちらも何らかの撹乱を仕掛けるのも悪くありません」
「いったい、どんな?」
「凶悪犯罪者をでっち上げAMに探させるのも一つの手です」
「囮捜査ですか?」

 それはよくある手だ。だが、3人はあまり乗り気はしなかった。何度も言うが、キラに対する者が正義の側でなくてどうするのか。

「しかし、そこまでしてノートが見つからなかったら?」
「それが厄介です」

 レスターは渋い顔でニアの背中を見つめた。
 ニアが相手の顔を見ながら話す事は非常に少ない。彼にとっては相手の感情などどうでもいいのだろう。

「さっきからそればっかり‥‥」

 やはり、ハルの呟きにニアが振りかえる事はなかった。

「AMを潰す事は簡単です。けれど、デスノートを押さえなければ意味がない。レスターの言う通りです。もしデスノートがAMから他の誰かの手に渡ったとして、その誰かが新たなキラとなり、それをまた見つけ出し潰して。それでもデスノートが見つからなければまた同じことを繰り返す。延々と続くいたちごっこですね。それではキラは不変なる存在だと世間に思わせてしまう」
「‥‥そんな事は‥‥!絶対、許されない」
「えぇ、その通りです。キラの神格性を増すような事など、この私が許しません」

 それはある意味とても傲慢な言葉だったが、三人には力強い希望の言葉に思えた。ニアという人間の情の無さに辟易としていた筈が、たった一言で頼もしい存在に思えてしまうのだから不思議である。それはニアがそれだけの力を持った存在だからなのか、それとも彼らが所詮は駒にしかなれない存在だからなのか。いずれにしろ、現金な事この上ない。
 人は支配する者と支配される者の2種類しかいない――― そんな言葉が似合いそうな彼らに、それを指摘してやる者はいなかった。
 情報に溢れながら世間から隔離された、快適でひやりとした空間にただ4人だけが息をしていた。

 

 


 男はそうは見えないが酷く緊張していた。

「――― 議員。お心は変わりませんか?」
「あぁ、もう迷いはない」

 目の前には自分が秘書をしている議員がいる。シカゴ市議会議員の中ではそれなりに力を持つ60代半ばの男だ。そして、その男と向かい合って座っている二人はAMシカゴ支部の幹部だ。俗に『導師』と呼ばれる幹部会員である。

「イリノイ州は全米で最も銃規制の厳しい州だと言われている。それなのにどうだ、銃規制は憲法違反だと?銃を持った犯罪者には銃を持って防衛しろ?立ち向かえ?バカを言うなと私は言いたい!」
「えぇ、そうですね。確かに自己防衛は大切でしょう。しかし、誰もが銃を捨てればそもそも銃犯罪は起きないのです。銃で誰かが傷つく、命を失う。その憎しみと恐怖故に銃を持つ。自分が傷つく前に誰かを傷つける。何処かで断ち切らなければならない負のループです」
「キラの裁きは確かに行き過ぎかもしれん。人殺しは人殺し‥‥私もそう思って今までキラ反対の立場をとってきた。だが、キラの目指さんとする所まで否定するつもりはない」
「えぇ、それも判っています。キラ様のやり方はいささか、いえ、かなり強引ですから」
「だが、そうまでしなければ人は簡単に犯罪に走るのだと、人は‥‥そこまで堕落しているのだと、漸く私も認める気になった」

 議員は実に渋い顔をしてテーブルの上を見つめている。そこには先日シカゴで起きた強盗事件の記事が載った新聞が置いてある。スーパーを襲った二人組の強盗犯。そのうち一人は銃を持っていた。そして、三人の犠牲者が出た。一人は即死、一人は病院搬入後に死亡、もう一人は幸い軽傷だった。
 その犯人達を捕えて判った事は、犯罪に使用された銃が盗まれた銃だったという事実だ。FOID(Firearm Owner′s Identification)カード所有者が購入し護身用として自宅に保管していた銃が盗まれ、所有者が通報を躊躇っているうちにその銃が犯罪に使われてしまった。実に皮肉で悲しい事件である。

「キラは必要悪なのだ‥‥あぁ、すまない、私はただ‥‥」
「いえ、かまいません。キラ様ご自身が『自分は倫理の薄れた世界に投げ込まれた誰もが見過ごせない凶兆なのだ、誰もが反省しなければならない悪意の具現なのだ』と、そう仰っていらっしゃいますから」
「‥‥それは‥‥」
「世界には荒治療が必要なのです、議員」

 導師の言葉に議員は更に苦虫を噛み潰したような顔をしながら頷いた。

「キラ様が亡くなった、などという噂が流れたとたん犯罪が増えました‥‥嘆かわしい事です。抑止力が亡くなったとたん直ぐに欲望に走るなど、まるで獣のようではないですか。いえ、無意味な同族殺しをしないぶん、獣の方が遥かにましでしょう」
「見張っている者がいなければ好き勝手する。人間はみな親や教師に隠れて悪さをするガキか」

 吐き捨てるようにそう言った議員の背中を男はただ静かに眺めやった。
 男は議員の正義感を尊敬している。だから学生時代に選挙運動のボランティアをした縁で彼の下で働くようになった。もうかれこれ10年になる。そして、彼の第一秘書となって3年が経とうとしていた。議員のブレインとしてはまだまだ新米だが、それなりに信頼されていると自負している。
 事実、議員は今日の大事な密会に男を同伴させた。それは信頼がなければ出来ない事である。彼の姪との婚約話が持ち上がったのがいい例だ。
 だが ―――

「それでは、よろしいのですね?」
「あぁ‥‥」
「では、こちらへ‥‥私達は貴方を歓迎いたします」

 導師の一人が笑顔を浮かべ手を差し出す。その手を握り返し議員は立ち上がった。
 その時、奥へと続く扉が開いた。

 シカゴ本部聖堂奥の賓客用応接室は四方を壁に囲まれた窓の無い部屋だった。調度品は質素で重厚、だが、あまり使われている様子はない。天井に描かれた某有名画家のモノトーンアートはAMが多用している物だ。白い鳩と黒い蝙蝠が描く円形の図は俗に言う騙し絵というやつで、確かタイトルは『天国と地獄』だっただろうか。
 何と悪趣味なシンボルマークなんだろう ――― そう思いながら男は開いたドアの隙間から奥の様子を窺った。

「こちらは最高導師の‥‥」
「!‥‥おぉ、貴方がたが‥‥」

 そこから現れたのは初老の女性と如何にも知識人然とした背の高い男だった。

「金星-Venusと」

 導師が女性を紹介し、議員は彼女の痩せた皺だらけの手を取った。

「木星-Jupiterのお二人です」

 痩身長躯の男とは硬く手を握りあう。

「‥‥‥‥(こいつらが‥‥DEATH HEXAGRAM‥‥)」

 その耳慣れた、それでいて異質な名を冠する二人は実に穏やかな雰囲気を醸し出していて、これが犯罪者や政府機関から『死の六芒星』と呼ばれている六人のうちの二人だとはとても思えなかった。
 一人は片手で捻り潰せそうな老婆、もう一人も争い事とは全く無縁に見える。だが、彼らは裁きと称し平気で人を殺す ――― その証拠はないがAMはそれを否定していない ――― 犯罪者だ。油断はできない。

「――― 議員。私達は貴方の入会を歓迎いたしますわ」
「これからは私達と共に犯罪と戦いましょう」
「えぇ、えぇ‥‥!」

 何やら熱く盛り上がる年寄達に男は内心溜息をつきたい気分だった。

「さぁ、どうぞこちらへ。今からキラ様の私達へのメッセージを皆で聞く所です」
「!‥‥それは‥‥」

 だが、続いて聞こえてきた言葉に男はギョッとなる。
 キラ様からのメッセージ!? ――― キラは死んだ筈ではなかったのか!?
 男は手にしていた鞄を強く握りしめながら、知らず知らずの内に目の前のキラ信者達を恐ろしいものでも見るかのように睨みつけていた。それに気付いているのかいないのか、彼らはただ穏やかに笑っている。そこには冗談めかした色は微塵もない。そこにあるのは当然と言わんばかりの、キラの生存を信じてやまない狂信者の顔だ。

「ところで、彼は?」
「!わ、私は‥‥」

 不意に導師達の視線が自分に集中し男は焦った。

「あぁ、彼は私の秘書だ。彼も私同様銃規制強化に力を入れている。信用できる男だ。ただ、私も流石に入会を強制する気はなくてね‥‥」

 議員の言葉に男は薄く苦笑いを零しその焦りを誤魔化す。

「私も議員同様キラのやろうとしている事を全面否定している訳ではありません。ただ、その‥‥『目には目を、歯には歯を』という考えはちょっと‥‥」
「えぇ、判りますわ。たとえ犯罪者であろうと人の命は尊いもの、それを摘み取ってしまう行為に恐れをなすのは当然です」

 命は尊いと判っていながらキラの裁きを許すのか? ――― 男はそう思いながらも老婆の言葉にさも納得したかのように頷いて見せた。

「けれど、今世の中は荒みきっています。浅ましい欲望のままに多くの尊い命が蔑ろにされています。悲しみは憎しみを呼び新たな被害者を生みだします。悲しみに傷ついた心は明るさを失い生きる力をも失います。未来を考える事が出来なくなるのです。それは何と痛ましい事でしょう。しかも、明日を担うべき若者達は言論の自由を盾に垂れ流される欲望に日々晒され続けています。それは彼らの純粋な心を犯し、悪徳を厭う心を麻痺させます。命の尊さを忘れさせるのです。あぁ、本当に、何と悲しい時代なのでしょう。そんな若者達を私たち大人が守らなくてどうするのですか」

 どうやら老婆は現代のネット社会を憂いているようだ。その姿は、昔は良かったと愚痴る年寄りその者である。

「どうですか?貴方もキラ様のメッセージを私達と一緒に聞きませんか?」
「私が?いいのですか?私は議員と違って未だ入会していないのに‥‥」

 男は『木星』と呼ばれた長身痩躯の男をまじまじと眺めやった。

「構いません。私達は一人でも多くの方にキラ様のメッセージを伝えたいのです」
「今日聞いた話を貴方のお友達に話して下さってかまわないのよ」
「そ、そうなのですか?そう言う事、でしたら‥‥」

 男は渡りに船かもしれないと思った。

「では、こちらへ」

 議員と男は導師達に誘われ奥の部屋へと足を踏み入れた。
 そこは未だ控室だった。クロークルームらしく所々にコートが掛けられている。細長いその部屋を進み通路に出ると信者らしき男女が彼らを待っていた。如何にも重厚で重々しい扉を力を込めて開く。

「!?」

 その先にあったのは小さな聖堂だった。造りは本聖堂と同じで、それを小さく狭くしただけである。100人も入ればいっぱいになるだろう。華美な装飾を抑え、正面壁に例の円形の図を描いているのも同じだ。違う所があるとすればと天井を飾る幾何学模様のステンドグラスだろうか。それのせいで視界が虹色に淡く輝いて見える。
 そんな狭い空間には既に20人近い人間が集まっていた。全員信者なのだろう。しかも、議員同様入会をあまり公にしたくない隠れた信者達。そんな信者が一斉に振り返り、男は一瞬息を呑んだ。

「皆さん、新しい同志を紹介いたします」

 会員でも信者でもなく同志 ――― イヤな単語だと男は思った。感激に何やら低い声を上げながら中央へと進んで行く議員の後に続き、男はこの場に集まった男女の顔をさり気なく記憶に刻む。

「では、皆様が席に着かれたところで、キラ様のメッセージを読み上げます」
「あぁ、頼むよ、Moon」

 正面の一段高い場所に置かれた説教台。そこに一人のスーツ姿の男が歩み寄る。年の頃は未だ若い。
 あれで導師か?と思いながら議員の後ろに座った男はその若者が『Moon』と呼ばれた事を思い出しそっと眉を顰めた。

「‥‥(まさかアレが、六芒星の一人‥‥月-Moonなのか?)」

 虹色の視界の中これから読みあげられるキラ様からのメッセージを、一言一句聞き逃すまいと真剣な顔つきで注目する信者達に若者が柔らかい微笑みを向ける。

「‥‥‥‥‥(なんて、若い‥‥せいぜいで20代半ば?しかも‥‥アジア系?)」

 その微笑みに誰もが魅入られている様に男はゴクリと唾を呑みこんだ。だが、それも仕方がない事だと思う。若者は絵から抜け出て来たかのように綺麗な顔をしていたからだ。

「(体の良い広告塔か?)」

 七色の光の下でも良く判る甘く噎せる亜麻色の髪、星のようにキラキラと輝く深い琥珀の瞳。
 肌は真珠のようにまろく虹を反射し、言葉を紡ぐ形の良い唇は花びらのように可憐だ。
 柔らかな輪郭に集められたパーツのどれもが宝石のように美しく、神の造形という言葉が自然と脳裏に思い浮かぶ。
 それほど若者は美しかった。
 そのせいだろうか。男の目はその姿に吸い寄せられ、男の耳は何の役にも立たなかった。男はキラのメッセージとやらをほとんど聞く事が出来なかった。
 心を奪われたのだと、気付く事もなかった。

 

 


「‥‥議員、先程の説教師は‥‥」
「あぁ、六芒星の一人、月導師らしいな」
「Moon‥‥六芒星はAMの設立メンバーなはず‥‥」
「代替えがあったらしい」
「代替え?」

 話が終わり興奮気味の信者達を前に議員がこれからの社会の在り方について熱弁を振るった後、帰りの車の中で男は若い導師についてそれとなく訪ねた。

「昨年、急な病で倒れられたMoon導師に代わって新しく導師になられたそうだ」
「あの年で?」
「先代導師の息子さんだ。ミドルスクールの頃から父親である導師に着いてボランティア活動をしていたそうだ。だから、年に似合わずAMでの活動時期は長いのだよ」
「それで‥‥」
「まだ学生だそうだが、温厚で正義感の強い優秀な息子さんだと聞いている。ハハ、それがまさかあんな美人だったとはな」

 六芒星の一人が亡くなっていた ――― 初めて耳にする情報に男は逸る心を必死に抑えた。

「年が‥‥」
「あぁ、養子だそうだ」
「そうですか」

 男の言いたい事が判ったのか、尋ねる前から議員が答えてくれた。彼の存在は秘密でも何でもないらしい。

「AMでも若い世代が育っている。君も頑張らないとな」
「‥‥はい」

 議員の公にし難い秘密はこうして他人に知られる事となった。
 その夜、男はさっそく議員がAMに入会した情報をとある筋へと流した。そう、男はスパイだったのだ。
 もちろん、初めからそうだったのではない。議員を尊敬しているのは本当だし、彼自身銃を嫌っているのも本当だ。議員の政治活動を心から支えたいと思っている。
 だが、世の中とは汚いもので、そんな男を罠に嵌めてまでスパイに仕立てた連中がいた。議員の政敵の一人である。
 仕事一筋だった男に恋人はいなかった。時々ベッドを共にする女友達はいたが、相手も決まった恋人はなく互いに遊びと割り切っていた。決して深い関係ではなかった。ジムで一緒になった時、ついでに夜も一緒にする事がある、という程度だ。
 そんな男がある雨の日に出会った女。混み合うタクシーを取り合い、喧嘩腰の会話ながらも行き先が一緒だと判った二人は、強くなる雨足を避けるため同乗する事を決めた。目的地へ向かう間互いに謝罪しあい、どういう流れでかまた会う約束をした。職場が意外に近いと判った気安さからか、女が男の好みのタイプだったからだろうか。
 その後は絵に描いたような展開だった。たちまち二人は男女の関係となり、男はそれを秘密にした。議員の姪との婚約を壊したくなかったからだ。
 だがまさか、その女が麻薬の不法所持で捕まり、挙げ句に自分から貰ったと警察に話すとは思いもしなかった。
 そして、やって来た刑事が男に耳打ちしたのは『秘密の協力』だった。
 その内容に全てが罠だったと知った時はもう遅かった。議員の一番の政敵が警察出身だと判っていたのに。
 それから男はスパイとなった。政敵に議員の情報を流し続けた。とは言っても選挙はまだ当分先の事だったし、キラ事件の終結で混乱が続きそれどころではなかったから大した情報は流していなかった。
 それがここに来て一変した。
 議員がAMに入会すると言いだしたのだ。
 キラ復活が騒がれる今、それが議員の弱点となるかどうかは判らない。だが、取り敢えず男はその情報を政敵に流す事にした。

「このデーターも渡すか?」

 男は隠しカメラに納めた議員とAM導師の握手シーンをメールに添付するかどうか悩んだ。何時も指に嵌めている、大学時代に所属したクラブの会員リング。それは太く大きく、カメラを仕込むには最適だった。そんな物をわざわざ用意し男に押し付けた刑事 ――― 政敵の犬だ ――― に賛辞を贈りたい。
 パソコンのエンターキーを押しベッドに入った男は、数日後とんだ災厄に合う事をこの時はまだ知らなかった。

 

 


 「ニア!ニア‥‥!大変だ!!」

 その日昼近くになって漸く執務室に姿を現したニアに、いの一番で駆け寄って来たレスターは酷く蒼褪めた顔をしていた。

「どうしました。貴方ともあろう人がそんなに大声を出して」
「大変なんだ!と、とにかく大変なんだ‥‥!これを、これを見てくれっ!」

 彼はそう言うと手にしていた少し皺の寄った1枚の紙をニアの眼前に着き付けた。
 煩げに顔を背けながらも横目でその紙を見たニアは、次の瞬間一気に目が覚めた。

「これ‥‥は‥‥」
「ニアもそう思うだろ?これはどう見ても‥‥」
「これを何処で入手したのですか?」

 レスターの手から紙を奪い取るや食い入るように見つめるニア。その様子に募る不安と、逆に肩の荷が下りたような安堵を覚えるレスター。きっとまたニアが何とかしてくれる ――― そんな思いがレスターの胸の内にはあった。

「これを何処で!」

 そんなレスターには一切構わず、紙から顔を上げることなくニアが叫ぶ。

「あ、あぁ‥‥例の、DEATH HEXAGRAMを監視していたCIAから送られて来た」
「DEATH HEXAGRAM‥‥!」

 不吉な符牒に紙を持つニアの手が震える。

「シカゴ支部に六芒星のうち二人も集まったとかで、その時の情報を掻き集めたらしい。その一つがこれだ」
「‥‥‥‥」

 何時の間にかレスターの後ろにジェバンニとハルも来ていた。

「どうやら大物の秘密の入会儀式か何かがあったらしい。その場にこの男もいて‥‥」
「名前は?」
「え?あ、あぁ、資料によれば名前はジェグォン・バランタイン。AM創始者の一人、ジェームス・バランタイン医学博士の息子だ。韓国系アメリカ人で養子。だが‥‥」
「何です?」

 ニアが漸く顔を上げる。その顔は大の男が肝を冷やすほど凶悪だ。

「記録が‥‥確かに以前の戸籍もあるし養子となった記録もある。某大学の籍も確認されている。だが、誰も彼の事は知らない。過去も現在も」
「それはいったい‥‥」

 ジェバンニがどういう事だと掠れ気味の声で問い質す。

「何時の間にか存在していた、幽霊のような男、という事だ」
「‥‥‥ghost‥‥‥」
「証人保護で新しい戸籍を手に入れた人間のように、全てが捏造された存在かもしれない」

 ハルの息を呑む音が静かに響く。

「CIAが、自らこの情報を送って来たのですか?」
「あ、あぁ、そうだ」
「それはつまり、私に確認を取りたいと、そう言う事ですね?」
「‥‥‥あぁ」

 弱々しく頷くレスターなど見向きもせず、紙を持ったままニアは自分の所定位置に行き徐にその場に座り込んだ。その拍子にせっかく半分まで出来上がっていた真っ白なジグゾーパズルが少しだけだが崩れる。
 そのパズルの台座をひっくり返しピースを全て床にばら撒くと、パソコンからプリントアウトされたその紙を丁寧に皺を伸ばし台座の上に置く。

「この男の名前は?」
「え?だから‥‥」
「私が知りたいのは六芒星の名前です」

 レスターがニアに手渡したその紙には一人の若い男が映っている。遠目でしかも隠し撮りだったのだろう。目線が合ってないし障害物が多すぎてはっきりしない。だが、顔だけアップにした方は修正されたものらしく目鼻立ちがよく判る。
 綺麗な顔をした男だ。一度見たら忘れない、いや、忘れたくても忘れられない忌々しい顔。

「あぁ、やはり結構です。予想が付きますから」
「‥‥‥」
「Moon ――― 月、ですね?」
「!‥‥はい」

 その名前にジェバンニとハルが息を呑む。

「面白い冗談です」
「ニア?」
「向こうの思惑通り、私への挑戦と受け取りましょう」
「ニア!」
「偽物に決まっているじゃありませんか。キラは死んだのですよ。貴方達も死体を確認したでしょう?念のため頭に一発撃ち込んだのは貴方ではありませんか、ジェバンニ」

 三人を振り返ったニアは笑っていた。本人は楽しそうに笑ったつもりなのだろうが、日頃表情筋など動かした事のない人間が無理に笑っても歪な笑いにしかならない。何よりニア自身の胸の内が決して明るいものではなかったため、当然の事ながらその笑いは不吉に鬱々として見る者に多大な不快感を与えた。

「ククッ‥‥厄介ですが退屈な事件だと思っていました、今回の事件。しかし、思った以上に楽しめそうです」

 再び三人に背を向けたニアはまるで白い岩塩の塊のようだった。不味くてとても口にはできないが、人間には必要不可欠なもの。

「貴方の真実を暴いて上げますよ、偽物のキラ」

 キラがそうであるように、探偵Lも悪なのか善なのか三人には判らない。
 ただ、L ――― ニアもまた他者に大きな影響を与える存在である事だけは確かだった。

 

 


 白を見に纏った歪な若者が手にするのは綺麗な玩具。その写真。
 そこに映し出された造形の妙を彼は堪能しているのかいないのか。

「キラを騙るに事欠いて、夜神月まで騙るとは‥‥」

 三人に『月-Moon』の情報を至急集めるよう指示したニアは、一人になった部屋の中で飽きることなく例の紙を見つめていた。
 そこにあるのは懐かしい顔。
 暴き、捕え、破壊し、いずれは勝利の証として剥製よろしく監禁しようと思っていた存在。一生その綺麗な顔が悔しさに醜く歪む様を見ていたいと思っていた男。
 Lを、ニアが超えたいと思っていた人間を殺した、ある意味称賛に値する、そして自分の足元に必ず這い蹲らせなければならなかった人間。
 そうしなければ自分という存在を『Lの後継者候補』から解き放てなかった。

「‥‥私から、生きる目的を奪った、愚かな存在」

 Lを超える事だけが生きる目的、術だった。それしかニアは知らなかったし道はなかった。許されていなかった。それ以外自分に出来るとも思えなかった。
 ニアは自分が歪だと自覚していた。だが、それをどうにかしたいとは思わなかった。他人に合わせるつもりも必要も感じなかった。自分は自分である。好んで今の自分に育った訳ではないが、今の自分以外の自分など想像できない。ニアは今の自分に満足していた。そして今のまま、より高みに登りたいと思っている。
 その為に先ず乗り越えなければならなかったのがLだった。そして次がキラだった。

「果たして貴方は私が乗り越えなければならない壁足り得るのでしょうか?」

 1年ぶりに目にする夜神月。
 その姿はニアの記憶のままに美しい ―――

 

 

 


  3

 

 地獄の一丁目――― そんな言葉が脳裏をよぎる。
 ステファン・ジェバンニことステファン・ラウドは今『Angel′s Mercy』の某支部に来ていた。勿論入会するためである。
 AMでは会の参加、会員登録を他のキラ信奉団体、キラ信仰教団と違い『入信』とは言わず『入会』と呼ぶ。そこにどれだけの差があるか彼には全く理解できなかったが、入信よりは入会の方がましだとは思えた。
 勿論、とは言ったが決して本意ではない。仕事でなければ誰が入会などするものか。
 だが、CIAから送られて来た情報確認の為にそれは必要な事だった。

 

 

「夜神月は死にました。ジェバンニ、貴方が止めを刺したのです。ですから、貴方が確認して来て下さい」

 どういう理屈だよ!?と思った。殺したのは死神だ、自分ではない。自分はただ念を押しただけだ。

「俺が!?キラに敵対していた元SPKの俺が!?」
「ニア!私達の正体など、とっくにAMに知られているのでは‥‥」
「かもしれませんね」
「だったら、誰か他の者を‥‥!」
「私達以外の誰が夜神月の事を知っているというのですか?」
「それは‥‥」
「今AMにいる夜神月が偽物である事は判っています。恐らく彼によく似た誰かに整形でも施したのでしょう。大層な事です」
「な、なら‥‥ジェバンニではなく、私が‥‥!ハルもジェバンニも一年前危険に身を晒している。今度は私の番‥‥」
「貴方には私の身の回りの世話をして貰わなければなりませんから、それは却下です」
「!!」

 二人にばかり危険を押し付ける事は出来ないと、少々顔を青褪めさせながら潜入捜査を志願したレスターに、ニアは顔色一つ変えずそんな言葉を口にした。そのとんでもない理由に呆れていいのか怒っていいのか、レスターもジェバンニもハルも実に嫌そうに顔を顰めるしかなかった。

「何、簡単な潜入捜査です。ただ、ターゲットの様子を観察し、その動作や喋り方などから『月-Moon』が偽物だと確信を持てばいいだけの話です。念のため指紋採取などしてくれればより確実です」

 それが本当に可能だと、ニアは本気で考えているのだろうか。だいいち、観察も何もジェバンニがその『観察』、いや、『監視』していたのはXキラの魅上照であって夜神月ではなかったというのに。
 彼が夜神月に会ったのは、夜神月が死んだあの日、倉庫での密会が初めてだったのだから。それはレスターもハルも、そしてニアも同じだ。だからジェバンニであろうと誰であろうと、今現在AMにいる、夜神月と目される人物が本人かどうか確実に判断できるとは言い難いのだ。もし出来るとしたらそれはニアである可能性が一番高い。なにせ彼は面と向かって会った事はなくとも、会話だけなら山ほどしたのだから。
 そんなジェバンニにとって『夜神月』とは、理解しがたい狂人でしかあり得なかった。

「無理だ!正体がばれてるのに俺が近付ける筈がないだろ!」

 だから彼はそう言い返した。だが、ニアは何時もの軽く蔑みの籠った一瞥をくれるだけでジェバンニの心情など気にも留めなかった。

「少しは頭を働かせたらどうですか」
「クッ‥‥頭を働かせるも何も‥‥」
「連中は『夜神月』を出してきました。キラの裁きのからくりも、キラの正体も既に知っているのだと、向こうから暴露してくれたのです。それは何故か」

 お前など視界に入れる価値もないとばかりに直ぐにお気に入りのパズルに向き直ったニアが淡々とした口調で続ける。

「私への挑戦状です」

 私達ではなく、私 ――― その微妙な違いに3人は気付いた。
 世界が半ば屈したキラ。そのキラを排除したニア。そこに、この世で一番賢く優秀なのは『ニア』だという見事な三段論法が成立する。そして、ニアがそれを当然だと認識している事実を、この時3人はいやいやながらも理解した。穿った見方かもしれないが、そうとしか思えない発言だった。

「今更夜神月が出て来る必要はないのです。必要なのはキラであって夜神月ではない。もっと言うなら、キラには姿形など有ってもなくても良いのです。ただ、裁きという力さえあればそれでいい。目に見える恐怖より目に見えない恐怖の方が人間は畏れるものです」
「‥‥確かに‥‥」
「では、何故今更夜神月を出して来たのか」
「それは?」
「私を誘き出す餌にする為ですよ」
「‥‥‥‥」

 3人はチラリと互いを見やり、それから、何時ものように床に蹲り背中を丸めてパズルに興じるニアの後姿を見やった。

「キラはLに負けた。それが世間一般の認識です。キラがLに負け死んだ事でキラの裁きは止まった。しかし、世間はその詳細までは知らない。当然です。死神やデスノートの事など凡人が知る必要はないのですから。しかし、連中はキラの正体を知っている。そしてキラを殺したのが今のL、つまり私だと知っている。おそらく死神が教えたのでしょう。もしくは、事の詳細を知る誰かが教えた‥‥」
「!ニア、それは‥‥」
「言ったでしょう?AMに権力はない。しかし、会員の中には権力者がいると」
「裏切り者がいるってことね。シカゴの議員の例もあるし」
「いったい誰が‥‥」

 市議会議員程度ではキラ事件の詳細を知る事は出来ない。国政の、しかもかなり中央に所属する者でなければ真実を知る事はない。もしAMにキラの正体を教えたのが死神でなく人間なのだとしたら、それは酷い裏切り行為である。ニア達にとっては。

「いずれにしろ、連中は世界をデスノートの力で支配しようと画策しています。死の恐怖で人間を従えようとしている‥‥その前に、邪魔な存在を消そうと考えた。今更夜神月を出して来たのはそんな下らない理由からでしょう」
「‥‥つまり、AMは‥‥ニアがLだと知っているけれど、ニアの個人情報そのものは掴んでいない、という事かしら?」
「!だから夜神月をわざわざ出して来た!‥‥俺達を挑発しているのか!?」
「その挑発に敢えて乗ると、そういう事か?ニア」

 いずれも政府機関のエージェントとして働いていた3人である。ニアほどではないがそれなりに頭の回転は速い。彼らは今度の潜入捜査の意味を理解し渋い表情を作った。

「しかし、もし裏切り者がいるのだとしたら‥‥やはり潜入捜査は危険なのでは?私達元SPKのデーターがAMの手に渡っていないとも限らない。そうなればジェバンニの正体など直ぐにばれてしまう」
「ばれればデスノートに名前を書かれ、ニアの居所を白状させられる。目に見えてるわね」

 それでは潜入捜査の意味がない。

「連中の元に貴方がたのデーターはありません」
「どうしてそう言い切れるの?」
「もしあれば、とっくに名前を書かれている筈だからです」
「!!」

 そこで彼らも漸く気付いた。
 確かにニアの言う通りだ。デスノートがあり、顔と名前さえ判っていれば、何処に隠れていようとターゲットを殺す事は出来る。しかも、キラが死んだ直後死神リュークに確認したところ、デスノートで死の直前の行動をある程度なら操る事も可能だという。
 もし、AMが3人のデーターを手に入れていれば、とっくにデスノートに名前を書いて一番のターゲットであるニアの情報を手に入れていてもおかしくない。むしろそうする筈だ。だが、それが未だない、という事は ―――

「SPKのメンバーがメロに殺された時、私はメンバーのデーターを消去するよう上に要請しました。勿論、私の手元にあったデーターは消去済です。しかし‥‥」

 ニアが正式に二代目Lとなった事、元SPKの生き残りメンバーがそのままL専属捜査官になった事は、キラ事件の真相を知る数少ない権力者達だけでなく、CIAやFBI、司法機関の一部上層部にも知らされている。だが、ニアの素性やSPKの誰が生き残ったかまでは誰も知らないのだ。いや、知らない筈だ。

「上の連中が本当に消去したかどうかは判らない、そういう事だな」
「そ、そんな‥‥」

 レスターの苦渋に満ちた声にジェバンニは色を無くす。

「メロの手に渡ったデーターはキラが強襲したした時の火災で焼失したと考えられますが、それさえも定かではありません」

 そして、ハルも。

「わ、私が入手したデーターも消去済よ。それにあれのソースは、メイスン長官個人が所有していたもので、それも長官が殺された時ニアが処分した筈‥‥」
「えぇ、そうですね。彼のパソコンの中にありましたね。あの程度のプロテクトで大丈夫と思っていたのは愚の極みです」

 ハルに解けたのだからニアに解けない筈がない。パスワードも実に簡単なものだった。

「彼にしてみればいつ誰に裏切られるか判らない状況で保険のつもりだったのでしょう。彼は一度キラに部下を殺されています。キラの恐ろしさは十分知っていました。いざとなったらそのデーターをキラに売って自分の命乞いでもする気だったのでしょう」

 自分が所属していた機関の長を貶されレスターが密かに嫌そうな顔をする。

「とにかく、SPKメンバーのデーターが全て消去済かどうか判らない以上、まだ何処かに存在していると考えて行動するのが妥当です。データーがキラ派の人間に渡る前にデスノートを奪うか、AMを潰すだけの材料を揃えるまで安心して眠れません」

 貴方達がね ――― 言外にそう言われたような気がして3人は無言で了承するしかなかった。

「レスターは先ほど言った通り無理ですし、ハルにも無理です」
「そ、そうね‥‥私は高田清美誘拐時に死んだ事になっているから‥‥」

 ニアに名指しされ忌々しそうに顔を顰めるジェバンニをチラリと眺めやるハルの声には何処か安堵する響きがあった。

「貴女は既に死者です。ですから、貴女がAMのブラックリストに載っている可能性はレスターやジェバンニ以上に低いでしょう」
「だったら彼女が潜入捜査を‥‥」
「バカですね。死んだはずの人間が生きていると判ったら、真っ先に疑われるに決まっているじゃありませんか」
「!」

 ジェバンニの無駄な足掻きは一瞬で潰された。

「ジェバンニ‥‥」

 高田清美のボディガードとして誘拐犯を追ったハル・リドナーは返り討ちにあい死んだ事になっている。後日死体も偽装した。万が一の場合を考えての作戦である。ニアと合流するにもそれが一番手っ取り早かった。下手にボディガード仲間から探されても困ったからだ。よって、Lの専属捜査官にして元SPKの生き残りに彼女は該当しないのである。
 その結果、彼女は『ハル・リドナー』の名も捨て、全く新しいプロフィールで生きる事となった。髪型を変え色も栗色に染めた。外へ出る時はカラーコンタクトを着用している。もう二度と『ハル・リドナー』にも『ハル・ブロック』にも戻る気はない。また、もどる事も出来ない。
 過去に未練がないとは言わない。だが、今となってはラッキーとしか言いようがなかった。

「必然的に、潜入はジェバンニ、貴方にお願いするしかありません」

 お願いと言いつつも命令なのだと、相変わらず振り向きもしないニアの後姿が言っている。

「‥‥判った」

 それに対してジェバンニはもはや逆らう気力を失っていた。

 

 

 SPKは優秀な寄せ集め集団だった。A国の威信をかけ集められた各国家機関のエージェント達は各々接点がなく偽名を名乗っていた。
 キラを捕まえる ――― その使命感だけが拠り所の集団だった。
 だが、組織は簡単に潰された。しかも、たった一瞬で。人智を超えた恐るべき道具のせいだ。
 彼らは知った。
 全てはそれを使う人間次第なのだと。
 真に恐ろしいのは人間だと。
 今、その恐るべき道具が狂気の集団の元にある。人の命の大切さを理解しない、まさに死神のような集団の元に。

「何が『天使の慈悲』だ‥‥」

 ジェバンニは理解していた。一日も早くその道具を、デスノートを取り返さなければならないと。そうしなければ再びあの恐怖に日々脅かされるのだと。
 キラの裁きによる死の恐怖支配。
 それだけは絶対阻止しなければならない。

「‥‥‥‥」

 ジェバンニは心の奥底にある拭い難い死の恐怖をその使命感だけで押さえつけ『Angel′s Mercy』の門を潜った。
 『Angel′s Mercy』は基本的には犯罪被害者救済を目的としたボランティア団体である。それに付随して未然に犯罪を防ぐためと称しホームレスの救済シェルターを設け、家出した未成年者の保護、問題のある子供達の為のグループホームなども運営している。更には会員達に里親となるよう指導もしている。
 未来を担う子供達に健全なる教育を ――― キラ支持団体が言っても胡散臭い、とはニアの言葉である。ジェバンニもそう思う。
 ジェバンニが会館を訪れたその日、玄関ロビーには10人程の子供達がいた。年の頃は10歳前後、一番年嵩でも15歳にはなっていないだろう。どうやらグループホームで暮らしている子供達のようだ。
 洗脳という単語が脳裏に思い浮かぶ。州政府から養育費をせしめるだけでなく、そんな事までしているのかとジェバンニは渋い顔をした。
 ロビーの受け付けは複数あった。日々訪れる悩める訪問者に対応するためだ。入会希望への対応、警察代わりに苦情を訴えて来る者への対応、寄付申し込みの受け付け、慈善事業の恩恵を受ける為の申請等々。キラ復活の噂以来急激にその数が増えたとの情報だ。
 ジェバンニはそんな受付には寄らずメインホールへと向かった。誰にも咎められる事はない。AMは基本、来る者拒まず、犯罪者ですら受け入れる体制を取っているからだ。従って、部外者以外立ち入り禁止のエリアでない限り、会館内での行動は会員以外でも自由なのである。
 メインホールは教会で言う所の礼拝堂に当たる。そして、説教会、講演会が行われる場所だ。壇上に人が立って話をするのは週に一度、それ以外は録音されたものが流されている。その時もスピーカーが静かに説教を流していた。
 ジェバンニが直にそれを聞くのはこれが初めてだ。だが、内容は何度も聞いてよく知っている。犯罪は罪だとか、誘惑に負けるなだとか、他者の痛みを知れだとか、お決まりの綺麗事を綴っている。過激な内容はweb公開が主で通常はこんなものだ。
 ただ、気になったのは先程ホールで見た子供達が数人、この場に居合わせた事だろうか。彼らは大人達に交じって神妙な顔つきで録音された説教を聞いていた。教会で牧師が語る説教とたいして違いはないと思うのだが、何にせよ嫌な感じである。
 話が終わりジェバンニは受付へと取って返した。入会を申し込むためだ。受付には彼の他にも入会希望者は数人いた。皆、思いつめた顔をしている。横目でそれを確認しつつ、ジェバンニは気分が沈んでいく自分を感じた。
 受付の女性によると入会審査は個人面談で行われるという。入会の最終決断はあくまで本人の意思によるものだとも説明された。
 通された個室にいたのは中年女性だった。心理カウンセラーの資格を持っているという。互いに自己紹介しあう事から始め、入会希望の動機を尋ねられた。

「‥‥実は、私の勤めている会社は‥‥ある政府機関の下請けのような仕事をしていて‥‥つまり、その‥‥」
「納得のいかない仕事も時にはせざるを得なかった、という事でしょうか?」
「そんな所です‥‥」

 嘘は付いていない。
 ジェバンニはハルと同じCIA所属だ。部署も勤務地も違い互いの事は全く知らなかったがSPKで一緒になった。そんなジェバンニには表向きの仕事がある。ハルもそうだろうが、事務員ではなく現場の捜査員にはカモフラージュが付きものだ。ジェバンニはそのカモフラージュ用の経歴を面談者に語った。名前は本名である。この潜入に伴いカモフラージュ用の経歴の名前は全て本名に書き直した。ちょっとした手間だったが命に関わるからには手は抜けなかった。
 ジェバンニはAMに感付かれる前に仕事を終わらせるつもりだ。ニアにも、時間が掛かれば掛かるほど疑われる可能性は高くなる、と言われている。詳しく調査されれば情報操作の嘘は直ぐにばれる。ある意味これは時間との戦いだった。
 ジェバンニは覚悟を決めた。

「国の為‥‥ひいては国民の為だと、自分に言い聞かせてきました。大の為に小を捨てる‥‥必要な事だと、仕方のない事だと‥‥そう、思ってきました‥‥しかし‥‥」
「自分の心を偽りきれなくなったのですね」
「何が正しくて何が間違っているのか‥‥判らなくなったんです‥‥その、キラが‥‥」
「キラの存在が体制を脅かし、ひいては貴方の日常に変化を齎した」
「‥‥‥」

 面談者は言葉を選んでいると思った。

「人は皆変化を望み、それでいて変化を恐れるものです。そして、貴方が組み込まれていた体制というものは、変化を嫌い変化を恐れる最たる存在」

 キラはその体制に穴を開ける存在だとでも言いたいのだろうか。

「私は‥‥国民の為ではなく‥‥体制の為に働かされていたと、そう、仰るのですか?」

 心に浮かんだ考えを恐る恐る口にする。
 女性はただ一度瞬きしただけだった。

「何をどう感じるかは人それぞれです。貴方は今まで何も感じないようにして来た。それが貴方の心を守っていた。けれど、キラの出現で貴方は考えるようになった。何が正しくて何が間違っているのか」

 彼女からキラを讃える言葉は出なかった。狡賢い連中だと思った。

「キラは‥‥正しいんですよね?」
「キラを必要とする者には正しくて、必要としない者には間違っている。そう言うものです」

 ジェバンニは内心舌打ちしたい気分だった。

「入会したら‥‥何か変わるのでしょうか‥‥」
「入会しなかったら何も変わりません。それは確かです」

 入会しろとは決して言わない。

「色々な人達と話をするのも悪くありませんよ。今のままでは出会う機会の無い人達、そんな人達と話す機会を私達は提供する事ができます」
「話、ですか?」
「様々な年齢、職業、人生。そして、様々な考え。それらに触れる事で‥‥貴方は何がしかの答えを得られるかもしれない、得られないかもしれない」
「どちらですか?」
「それを生きている限り求めて行くのが人間です」

 本当に狡賢い。そして忌々しい。
 数日後、ジェバンニは再度AMを訪れ入会希望にサインをした。
 そこは彼のカモフラージュ用の住所に一番近い支部だった。しかも、ラッキーな事にその支部は州本部であり、『ヘキサグラム-六芒星』の講演が何度か行われた場所でもあった。
 事前情報によると、ヘキサグラムの6人はそれぞれ管轄区を持っている。未だ支部の無いアラスカ州を除く49州を6区画に分けて巡回しているらしい。そして、ジェバンニが入会した支部がある州は『Moon-月』の管轄区だという。
 その事実を知ったのはジェバンニが入会してから1週間後の事だった。
 それを知った時、彼は心臓が止まるかと思った。これは罠だと本能が叫んだ。
 出来過ぎだ。
 だが、もしそうなら自分は何故未だ生きているのか。それとも既にノートに名前を書かれ今は執行猶予期間中なのだろうか。
 いずれにしろ、ジェバンニに逃げ道はなかった。
 そうしてジェバンニのAM生活は始まった。
 AMの会員達には特に課せられる義務のようなものはない。会が主催するボランティア活動に参加するもよし、同じ会員の心理カウンセラー ――― 当然ボランティアだ ――― に悩み事相談をするもよし、ただ討論会を傍聴したり説教や講演を聞くだけでも良い。毎週寄付は呼び掛けられるが、金額は決まっていないし、余裕がなければ断る事も出来る。後でまとめて徴収される訳でもない。その点は気楽な会である。AMには多くの後援者、後援企業が付いているようだ。
 だが、キラ支持を表明してからは会への非難や嫌がらせが増えたと同時に、入会者達の意識もだいぶ変わったと聞いている。その代表例が俗世を捨て『宿坊』で暮らす内部会員達の出現だ。形式上はボランティア団体、非営利団体とは言え、内情は宗教団体なのだから当然かもしれない。とにかく彼らはまさに滅私奉公でボランティア活動に勤しんでいる。それもこれも、AMが唱える ――― ひいてはキラが唱える ――― 『穏やかにして暖か、健やかにして清らかな世界』に住む権利を得るためだ。
 ジェバンニから見れば愚かしい限りだ。
 彼らは無報酬で働かされる奴隷も同じではないか。騙されて財産を奪われ、自分で考える力も奪われた被害者。勿論中には自ら進んで奴隷となったバカもいるだろうが。
 いずれにしろ、そんなAMの世間の評判は真っ二つに割れる。
 アンチキラ派からは狂信者集団とみられ、何時かとんでもない事をするのではないかと警戒されている。反対にキラ支持派、またはキラをさほど恐れる必要のないごくごく平凡に生きる一般小市民からは、社会貢献に勤しむ良心的なボランティア団体と思われている。

『キラを必要とする者には正しくて、必要としない者には間違っている』

 要はそういう事だ。
 そして、自分はキラを必要としない者である。
 いや、そう言う立場にいたからそうならざるを得なかっただけかもしれないが ―――

「どうかしましたか?」

 不意に思い浮かんだ考えに我ながらギョッとなり、思わず歩みを止めたジェバンニに後ろから声が掛けられた。

「あ、いえ‥‥何でもありません。これが‥‥ちょっと崩れそうになって抱え直していただけです」

 そう言って彼は両手に抱えていた段ボールの箱をさも重そうに揺すって見せた。

「そうですか。足の上にでも落としたら大変ですから気を付けてくださいね」
「‥‥はい」

 彼は今、初めてのボランティア活動に参加している。支部で週に一度開かれる『読み聞かせ会』の準備だ。
 『読み聞かせ会』とは子供達に絵本を読んで聞かせる、要はお休み前の子守りの仕事のようなものだ。低所得者層、または街に立つ娼婦の就学前の子供達を主な対象とした活動である。参加人数はそう多くないが、多すぎても目が行き届かなくなるので10人前後が妥当とのことだ。その子供達を集めるのにも、実は多くの苦労があったという。
 プロジェクトが発足した時、これに参加したボランティア達は該当する家庭を回り、親に子供達の参加を呼び掛けた。それに対してほとんどの親は良い顔をしなかった。プライドがあったからかもしれない、他人を信用していないのかもしれない。親達はけんもほろろにボランティアを追い返し、中には可愛い我が子を参加させるのだから金をよこせと言う親もいたそうだ。
 それでも、根気良く呼びかけた結果、何人かの親が承諾した。主に母親だ。最低の親ではあっても、心の何処かで『これではいけない』と思っていたのだろう。
 バカな親だと思った。育てられないのなら生まなければ良いのだ。そんな理性も働かない、計画性もない人間に何かしてやる価値があるのか?
 その日の活動に参加したのはジェバンニと3人の女性だった。一人は看護士の資格を持っているが、後の二人は学生と主婦だ。新米のジェバンニはそんな彼女達の手伝いとして肉体労働を提供している。先日寄付された絵本を倉庫からプレイルームへ運ぶ係である。

「ここにある本のほとんどは寄付で送られたものなのよ」
「子供が‥‥来るんですか?説教を聞きに?」
「お子さん連れで相談に来られる方もいらっしゃるの。その間ここで預かったりするのよ。それに、近所の子供達に図書館として開放してもいるし」
「そうなんですか」

 寡黙でそれなりに男前のジェバンニに彼女達は何かと親切だ。

「子供達の中には字の読めない子もいるの‥‥」
「‥‥‥‥」
「親が育児放棄してしまうんですよね。貧乏だとか、薬やアルコール依存症だとか、そう言うのを理由にして‥‥」
「学校に行っている子はまだましな方ね」
「中には家に閉じ込めて外へ出そうとしない親もいるし」
「私達、そんな子供達を読み書きが出来るようにしてあげたくて‥‥」
「‥‥‥それは、必要な事ですね」

 世の中には碌で無しの親のせいで学校に行けない子供達がいる。この、現代のアメリカにおいても。そんな教養どころか文字も読めない子供達の未来などたかが知れている。彼女達はそんな子供達に救いの手を差し伸べようというのだ。
 普通なら感心すべき事なのだろうが、ジェバンニは『それが何になる』としか思えなかった。
 彼女達のこれは自己満足に過ぎない。本当に子供達の事を考えるのなら、親と引き離し施設に入れるか里子に出した方が幾分かましである。あと何年かすれば子供達は生きるために犯罪を犯すようになるだろう。先ずは犯罪の手先に使われ、そのうち自分の意思で行うようになる。碌で無しな親と一緒になるのだ。

「‥‥‥!」

 そこまで考えて、ジェバンニはグッと喉を詰まらせた。

「ラウドさん?」
「あ、いえ‥‥何でもありません」

 絵本の入った箱を小さな椅子が並ぶ室内の片隅に置き、彼は声をかけてくれた学生に少々引き攣り気味の笑顔を見せた。
 今のは‥‥‥今のは‥‥‥今の考えは‥‥‥‥‥‥!
 彼はある意味法に携わる人間だ。犯罪を阻止するのも仕事の一つだ。
 罪を犯した者を許してはいけない。法にのっとり罰しなければいけない。そして国家の安全を守るためには時には人殺しも遂行しなければならない。
 法で禁止されている筈の人殺しを ――― 合法的に、非合法的に。
 それは正しい事であり必要な事だ。社会を維持するために、誰かがそれをやらなければならないのだ。
 だからキラも、当然社会を乱すものとして、法を犯すものとして逮捕し裁判に賭けなければならない。もしくは排除しなければならない。
 それが当然なのだ。それを自分がやるのも当然だ。
 社会はそうやって昔も今も、これからも維持されて‥‥‥
 だが、それで?それで本当に全ての人々が幸せになれるのか?

「ラウドさんも一緒にどうですか?」
「私は‥‥」

 微かな狼狽に突っ立ったままだったジェバンニに学生が更に声をかける。ボランティアなどはなから興味のない彼はそれを断ろうとしたが遅かった。看護士と主婦の二人に先導されて子供達が入室して来たのだ。
 いずれも経済的にゆとりのない家庭の子供達だと一目で判る子ばかりだ。中には顔に青あざを作った子供までいる。
 それに気付いてジェバンニは無意識に表情を歪めていた。

「子供達の前でそんな顔をしてはダメですよ」

 聞こえるか聞こえないかの囁きにハッと振り返れば、まだ学生でしかない20前後の女が女神のように微笑んでいた。


  さて、人は人に対してどれだけの事が出来るのでしょう。
  親が子に対して、子が親に対して。兄弟が兄弟に対して、教師が生徒に対して。
  友達が友達に対して。赤の他人が赤の他人に対して。
  何をしてもどれだけしても受け取って貰えないかもしれない。逆に怒らせるだけかもしれない。
  些細な、自分ではたいして気にもかけなかった事が、相手には大きなプレゼントだったかもしれない。
  誰にもそれは判りません。
  ただ一つ言える事は、無関心である限り、人と人の間にどんな関係も生まれないという事です。


「‥‥‥‥」

 年端もいかない子供達が黙って絵本の朗読に聞き入る様をただ見ていただけのジェバンニが、一通り朗読が終わり休憩におやつを貰った子供達の姿にいたたまれなくなったのは偶然か必然か。それまで借りて来た猫のように大人しかった子達がお菓子を見たとたん目の色を変えたのを彼は確かに見た。
 嬉しそうにお菓子を食べる子。無表情ながらも食べる事に集中している子。全部食べずにポケットに残りを入れる子。その姿は朗読が聴きたくてここへ来たのではなく、お菓子が目当てで来たのだと如実に物語っているかのようだ。少なくともジェバンニにはそうとしか見えなかった。
 この現代のアメリカに、世界一の国と彼自身が誇るこの国に、こんな子供達がいるなんて‥‥!
 いや、そうではない。知っていた筈だ。この現実を、祖国の底辺に生きる人達の姿を。
 だが、自分はそれを犯罪の温床とは捉えても、そこで生きるしか術の無い弱者の現実を、真剣に、彼らの立場になって考えた事がなかっただけだ。

「‥‥‥‥‥俺は‥‥」

 何時の間にあの部屋から出たのだろう。気がつくと、ジェバンニはメインホールのベンチに座り込んでいた。
 耳に聞こえるのは穏やかな男の声。未だ若い声だ。録音されたものだが、何処か心を落ち着かせる暖かな響きを持っている。
 その声が言う。
 人は人に対しどれだけの事が出来るのか、と。
 無関心である限り人と人の間にどんな関係も生まれない、と。

「俺は‥‥‥」

 自分は自分の出来る事をやってきた。それが正しいか正しくないかは別として、必要とされたからやって来たのだ。その事で救われた人がいる。自分は決して間違ってはいなかった。それは今でも自信を持って言える。
 けれど、救われなかった人がいた事もやはり確かなのだ。もっともっと不幸になった人がいた事も。その人達にとって自分は必要ではなかった、むしろ邪魔だった、間違っていた。
 罪は何処から何処までが許される罪で、何処から何処までが許されない罪なのか。

「そんなもの‥‥人それぞれじゃないか‥‥」

 勿論人類普遍の線引きも間違いなくある。
 人殺しは罪。それが最たるものだ。
 だが、その罪さえ時には許される。様々な理由で。
 キラは罪だ。犯罪者だ。人殺しだ。間違っている。存在してはいけない。
 それと同等にキラは正しいのだ。誰かにとっては。

「今度、ヘキサグラムのどなたかが討論会に顔をお見せになるそうだよ」

 もう閉めますと言われ、のろのろ立ち上がったジェバンニの先を中年の男女が歩いて行く。

「あぁ‥‥最高導師のお言葉が聞けるのね」
「最高導師のお言葉はキラ様のお言葉だからな」

 その単語にジェバンニはとっさに反応出来なかった。
 チャンス到来である筈なのに ――― いささか早過ぎるようだが ――― 頭が動かなかった。
 彼の中で何かが崩れて行こうとしていた。