貴方の瞳に映る私
その霧はとても深く濃密で、この世の終わりが来るまで決して晴れることはないと言われている。
その霧を生み出しているのは世捨て人と呼ばれる気難しい魔術師。黒い髪に黒い眼の、まるで死神のように不気味な風体の錬金術師。もう何十年も、何百年も生きている不老不死の男だと言われている。
たった一人、霧の向こうの幸福の島で、この世に留まった心優しい神様を守っているのだと‥‥‥そう言われている。
「見て、霧が晴れてきた」
「本当だ。ぼんやりとだけど空が見える」
「でも、風は吹いてないよ。風もないのにどうして霧が晴れてきたんだろう」
ギィギィと、オールを漕ぐ音だけが響いていた濃霧の海で、ボートの中央に一塊りになって座り込んでいた子供の一人がそう言って空を指差した。つられて顔を上げた他の子達も、この海に連れて来られてから初めてみる青空に恐る恐る顔を上げた。
今の時代どんなに小さな子供でも知っている。神様の島を蔽う霧は決して晴れることがないと。だから子供達は不思議がった。どうして霧が晴れたのかと。
これは悪いことの兆しか、それとも良いことの兆しか。
誰かが『怖い』と言って再び下を向いた。すると、次々と子供達は顔を伏せ青空から目を背けた。
怖い怖い、何か悪いことが起きるんだ。大嵐が来るんだ。魚がいっぱい死ぬんだ。違うよ、雨が降らなくなるんだよ。地震が来るんだ。津波が来るんだ。あぁ、きっと太陽がなくなってしまうに違いない‥‥‥
戦争が起きて、またいっぱい人が死ぬんだ‥‥‥
「大丈夫、霧が晴れたのは神様がお前達を迎えて入れて下さるおつもりだからだ。これは吉兆だ」
「!ほんと?」
今にも泣き出しそうな子供達にボートを漕いでいた屈強な男が声をかける。
「本当に神様は僕達に会ってくれるの!?」
「私のお願い聞いてくれる?」
「僕のお願いも!」
ねぇねぇ、と五月蠅く騒ぎだした子供達はたった今まで恐怖に震えていた事などすっかり忘れている。
「あぁ。お前達が一生懸命頼めば、きっと願い事を叶えてくださる。今までもそうやって‥‥」
「静かにしろ」
そんな子雀達を安心させるように漕ぎ手の男がそう言うと、ボートの先端に座って辺りを警戒していたもう一人の男が鋭い声を発した。
「霧が晴れたということは、他の連中も島に近付けるということだ。邪魔が入らないうちにサッサと島に上陸するぞ」
「イエッサー」
男はオールの代わりに銃を抱えていた。
何十人でも殺せそうな自動小銃だ。足下には頑丈な防水仕様のボックスがあり、子供達はそこに武器が隠されていることを知っていた。耳を澄ませば自分達の後ろから別のオールの音が聞こえる。
「あれは護衛のボートの音だ。安心しろ」
漕ぎ手の男は近くにいた一番年下の男の子に小声でそう言った。皮膚病でカサカサになった頬に潮風が当たって痛いのか、その男の子は船の医療室でもらったガーゼをずっと手放そうとしない。とっくに軟膏は乾き効果はないというのに。
よく見れば他の子供達も似たり寄ったりのみすぼらしい格好をしていた。痩せて血色が悪く、中には片足の子や白内障で目の見えない子もいる。逆に付き添いらしい大人二人は恰幅が良く、飢えたり患っているような様子はない。そして、とても目立つダークグリーンの、所謂アーミー服を着用している。そう、彼らは軍人だった。
「あ‥‥」
一人の子供が微かに声を上げた。
「島だ!」
その一言に我も我もと立ち上がり船の進む先を身を乗り出すようにして眺めやる子供達。
「おとなしく座っていろ。船が傾いて転覆したらどうする」
年嵩な方の軍人が不機嫌な声でそう窘めても、興奮した子供達は言う事をきかない。早く早く、と黒人の漕ぎ手を急かし自分達も海に手を突っ込み波を搔く。
「危ないから船の中央に‥‥」
そう漕ぎ手の男が言った時、後方で何かの破裂音がした。
「敵襲だー!」
パパパパン、タタ、タタタッ――― 音は何度も途切れては繰り返し、合間合間に怒号と悲鳴を挟み、穏やかな海上を一気に緊張の渦へと落とし込む。
「急げ!」
「イエッサー!!」
二人の軍人は震え上がる子供達に身を低くするように言うと、応戦などはなから諦め只ひたすら島に向かって船を漕いだ。彼ら二人の使命は子供達を神の住む島に送り届けることであって、それを阻止せんとする者達と戦うのは他の連中の使命だったからだ。
「キャツ!」
ヒュン、と風を切って何かが高速でボートの上を飛んでいく。流れ弾だ。
「怖いよー‥‥助けて、ママ‥‥」
誰かが堪らずに泣けば他の誰かも泣きだす。中にはもちろん泣かない子もいる。泣いても誰も助けに来てくれないと知ってしまった子供だ。
「大丈夫!もうすぐだ!島に着けば神様が助けてくださるぞ!神様が‥‥グッ‥‥」
「?大佐!?」
己が任務の重大さ故に決して厳しい顔を崩さなかった上官の初めてともいえる優しい言葉を耳にした直後、若い黒人の下士官は幼い女の子と男の子を片手で抱え込んでいた大きな体がグラリと傾ぐのを視界の端に捉えていた。
「大佐っ!!」
肩口を濡らす赤い染みは間違いなく血。
「みんな、もっと伏せるんだ!伏せろ!!」
流れ弾にあっけなく倒れた上官の様態を見るゆとりはない。男は必死にボートを漕ぎ続けた。
後方では未だに銃撃戦の音が鳴り響き、塩臭いはずの海上に硝煙と血の臭いが漂い始めている。
それでも、どうやら神様は哀れな子供達を見捨てなかったようだ。
再び立ち込め始めた霧が、子供達を乗せたボートと襲撃者の間にまるで分厚いカーテンのように広がったからだ。
「もう、何も聞こえない‥‥」
「助かったの?私達‥‥」
「霧が‥‥また出てる‥‥」
「空が見えない」
「島も見えない」
静かになった海の上で、いつの間にかオールを失くした男は頭を撃ち抜かれ息絶えた上官の傍らに膝をついていた。
「死んじゃったの?その人」
「‥‥あぁ」
嘘をついても無駄だと知っている男は正直にそう言うと、上官のドッグタグを外し自分の軍服のポケットにしまった。自分もまた生きて帰れるか判らないというのに‥‥‥
「見て!島だ!!」
そうして気が付くと、すぐ目の前に大きな灰色の影が出現していた。運の良いことに桟橋も見える。
「みんな!漕ぐんだ!!」
男はもう一本のオールを取り、最後の力を振り絞ってボートを漕いだ。子供達も真剣に波を搔く。そうして桟橋はみるみる近づき、子供達は漸く目的の島に辿り着くことができたのだった。
神様の住む島、永遠の島。祝福を与えてくれる島に‥‥‥
ゆっくりと目を開けた男は、何故自分が起きたのか直ぐには理解できず、暫くの間ただボーッと灰色の天井を眺めていた。
「あぁ‥‥そういうことですか」
何がそういうことなのか――― パジャマにも着替えず普段着のまま大きなベッドに転がっていた男は、のそりと身を起こしカーテンが隙間なく引かれた窓の外に視線をやった。もちろん外の景色など何も見えない。
「性懲りもなくまた来たのですね」
さて、どうしたものかと考える素振りで立ち上がり、ベッド以外何もない寝室を後にする。しんと静まり返った廊下をぺたぺた足音を鳴らして歩く姿はまるで何処かの浮浪者のようだ。それなりにお金がかかっているであろうこの屋敷に似つかわしくない様相である。
「あの‥‥」
正面玄関前の吹き抜けの大広間まで来ると、この屋敷の管理と男の身の回りの世話をしている二人の男女が戸惑いも露な様子で男を見上げて来た。
「判っています。貴方達は気にしないでいつも通り仕事をしていなさい」
「は、はい‥‥」
そうは言われても遠く聞こえて来たのは確かに戦闘の音。それは二人に昔の悲しく辛い記憶を思い出させ、彼らは小刻みに震える体を押さえることができず互いに手を取り合い階下の広間に立ち尽くしていた。
「判りました。では、ディナーの用意を」
「‥‥‥」
風に乗ってまだ聞こえてくる戦闘の音にそんな悠長なことなど出来ないと、恐怖に怯える目と震える体で訴える初老の男女。
「二人分」
「?」
「これが最初で最後のチャンスです。彼に、貴方がたが作った料理を食べてもらえるのは‥‥」
「!」
彼、という表現に、男が言うところの『彼』が誰を指すのか瞬時に悟った二人は、たった今まで感じていた恐怖をあっさり忘れ、今度は湧き上がる喜びに大きく体を震わせた。
「わ、判りました‥‥腕によりをかけてお食事をお作りします‥‥!」
二人には最早戦闘の音は聞こえていない。長年の苦労と絶望に落ち窪んでいた目を喜びに輝かせ、あたふたと屋敷の奥へと駆けて行く。
「皆、同じような反応を返しますね。面白みのない‥‥」
その姿を確認することなく男は裸足のまま階段を下り正面玄関の頑丈な扉を開いた。最後にこの扉が開かれたのは何時だったろう。先の二人の男女がこの屋敷に流れ着く十年も前だったか。
「どうやら争いも治まって来たようですね。それで良い‥‥彼は何だかんだ言って争い事が嫌いですから」
屋敷の前に広がるのは殺風景な景色。ごつごつとした岩と疎に咲く草花しか見えない。立った二人では庭仕事まで手が回らないせいもあるが、男がそういった事に全く興味がないからだ。
そんな庭に足を踏み出し久方ぶりに覗いた青空には見向きもせず、男は屋敷の玄関扉と同じにずっと開かれた事のなかった門扉へと向かう。錆ついて動かなくなってしまった鉄柵をよじ登り、まるで猿のように柵の向こうへ飛び降り、そうして獣道に近い小道を海岸へと下りて行けば、壊れかけた桟橋に数人の人影が見えてきた。
「!だ、誰かいる‥‥!」
初めに男に気付いたのは小さな女の子だった。有り合わせの布で作ったであろうボロボロの人形を胸に抱きしめ、やせ細った指で岩棚の小道の上に現われた男を指し示す。
「魔術師だ」
「悪魔‥‥」
「死神が来た‥‥」
「仙人様?」
一人が言い出せば他の子達もそれぞれ勝手に自分の国の言葉で男を指し示す名を口にする。
ただ一人、夢物語など信じない大人の男が腰のホルスターのホックを外しハンドガンに指をかけた。不老不死と噂される魔術師の話など、軍人の男は信じていなかった。
だが、この島が霧に閉ざされた不可思議な島であることは疑いようがない。
「エ‥‥L‥‥か?」
それもきっと、何らかの軍事技術の応用に違いないと、そう自分に言い聞かせゆっくりとハンドガンから手を放す。
「この島で‥‥神の眠りを護っているという‥‥あんたが、Lか?」
桟橋から島の奥へと続く道は急な岩場の綴れ織りの小道。その途中の両側を頑丈な岩で阻まれた場所にやはり錆びた狭い鉄柵がある。それもまた潮風に曝され開くことはない。
「そんな名前は忘れました‥‥よくここまで辿り着けましたね」
「霧が晴れたからだよ」
男の言葉が判る子供の一人がそう答える。
「風も海流もないのに‥‥境界線からここまで漕いで来るのは大変だったでしょう」
「か、神に会うためなら‥‥」
「ほぉ‥‥信じているのですか?神の存在を」
鉄柵越しに男が無表情に笑う。その笑い顔とも言えない笑い顔から夢見ることを忘れた軍人の男が目を背ける。
子供の頃からずっと耳にしていた噂、お伽話、神の存在。
愚かな人間に穢されたこの世界をたった一人で支えているという美しき天の御使い―――
「俺は‥‥」
軍服に身を包んだ男は、とっくに死んでしまった祖父が子守歌代わりに聞かせてくれたその話を思い出し、小さくかぶりを振った。
「俺に与えられた任務を果たすだけだ‥‥テロリストに殺された大佐のためにも‥‥」
「テロリスト、ですか」
「そうだ」
「人は罪深き生き物。これ以上他の命を蔑にし、天の使いの命を分け与えられて生きて行くくらいなら、いっそ滅ぶべきだと叫ぶ者達がテロリストですか」
「そ、そうだ‥‥!」
「何年経っても、人間は傲慢なままですね」
「!」
命を賭けてこの使命を果たそうとしている自分達にその言葉はないだろうと、男は目を剥き鉄柵の向こうの男を、Lと呼ばれる不老不死の魔術師を見上げた。
「こ、この子供達を前にしてそれを言うのか!?」
「だったら連れて帰りなさい、今直ぐ」
「!」
「やだ!帰らない!」
「私だって帰らないから!神様に会うまで、絶対お家には帰らない!!」
「僕だってそうだ!神様に会って僕のお願いを聞いてもらうって、ママに美味しいご飯をたくさん食べさせてあげるってママに約束したんだ!」
やはり男の言葉が判る子供達が、どうやら魔術師は自分達が神様に会うのを邪魔するつもりだと知って騒ぎ始める。他の子達も意味は判らずとも魔術師に歓迎されていないと知って騒ぎだす。
「神様に会うんだ!会ってお願いを聞いてもらうんだ!!」
「会わせて!神様に会わせて!」
今にも崩れそうな桟橋に心細げに立ち竦んでいた子供達が、急な岩の小道を駆け上がり魔術師が立塞がる鉄柵に飛びつく。一人がそうすれば二人三人、そうして全員が狭い小道に群がる。
「神様に‥‥キラ様に会わせて!」
思わず一人の子供の口から迸り出たその名に、二人の大人はハッと息を呑んだ。軍人も魔術師も、息をすることも忘れてその名に纏わるありとあらゆる噂を、伝説を、神話を思い出す。
「キラ様に‥‥!」
「キラ様に会わせて!」
「キラ様は何所!?」
「キラ様!」
「キラ‥‥!!」
「やめろ!その名を口にするな!!」
「ヒッ‥‥!」
黒いざんばら髪を振り乱し、黒く淀んだ目でキィキィ叫ぶ子供達を一喝した魔術師は、一度ガシャリと鉄柵を鳴らし桟橋に残る軍人を睨みつけた。
「その名を口にするな‥‥その名を口にしていいのはこの私、Lだけ‥‥そう言い聞かせなかったのか?」
「う、あ‥‥す、すみません。ちゃんと言い聞かせたのですが‥‥」
低く冷たい、一切の感情を排したLの声に、軍人生活が身に染みついている男は肝を冷やし、あわてて子供達の元へ駆け寄った。己一人で十人近くの子供達を庇えるはずもないのにその体の後ろに子供達を押しやり、噂にしかすぎなかった世界の命運を握る男、Lの様子を恐る恐る窺う。
「私は人間が嫌いです。彼は、口で言うほどには‥‥いえ、むしろこの世の誰より人間を好いていましたが、私は嫌いです。今も昔も」
「申し訳ありません‥‥ですが、どうか‥‥この子達を神に‥‥お願いです!」
「会って、お願いを聞いてもらって、その後は?」
「!」
「家へ帰ってママに報告ですか。神に、天使に会ったと」
「‥‥それは‥‥」
「貴方も軍人の端くれなら知っているでしょう。悪いことは言いません。その子達を連れて今直ぐ帰りなさい。そして、全てが終わる時を懺悔しながら待ちなさい」
「このまま帰っても、この子達は‥‥」
「だから、人間は変わらないと言うのです。胸糞の悪い」
軍人の男は深く項垂れ、この島を守る不可思議な力――― Lは境界線と言った――― の向こうに停泊している戦艦のことを考えた。
自分が戻るまで待つと上官は言っていたけれど、果たして本当だろうかと。艦の燃料はギリギリだ。食料も今のご時世軍にだってそう満足に支給されない。自分と大佐が戻らなければ、二人分食料が浮いたと喜ぶ輩がいるはずだ。
「もうこれしか道は残されていない‥‥この子達も固い決心をしてここまで来ました。帰ってもまた辛い日々が待っているだけです。だったらいっそ、最後の願いを‥‥」
最後という言葉にLは微かに目を細めた。
その言葉を聞いたのは確かこれで3度目だ。1度目は当然だと思った。2度目は仕方がないと思った。そして3度目は‥‥‥
「そこの斜面を登りなさい」
「え?」
顎をしゃくるようにLと呼ばれる男が指し示した先には、道とは呼べない、けれど確かに誰かが使っていたであろう急な登り道が見える。
「子供達だけでその斜面を登り切れたなら、彼に会うことを許します」
ワッと上がる喜びの声。
Lに怯えていた子供達が我先にとその道とも呼べない道に向かって走り出す。
「あ、あんな急な‥‥手摺も欄干も、ロープも無い所を子供達だけでなんて‥‥」
それを止められなかった男は子供達とLを交互に見比べ、ここまで来て更に過酷な試練を課すのかと無言で訴えた。
「大人が彼に会うことはできません。穢れた大人の声は彼に届きません‥‥彼の耳に、彼の心に届くのは、もはや純真な幼子の声だけです。だからこそ、落ちぶれた国連は年端も行かない子供を搔き集め、この島に寄こして来た。非難するなら彼ではなく、連中を非難しなさい。哀れな子供を犠牲にして、自分達はしつこく生き延びようとする薄汚い老人達を」
男は自分の胸を飾る擦り切れた国連ワッペンにそっと手を添えた。
生まれて直ぐ強盗に両親を殺され、暴動で祖父母もなくし、生きるために十代初めで国連軍に入った男は、そこでもまた生きるための苦労を強いられた。飢える事こそなかったものの上官の命令が絶対の軍で理不尽な思いを嫌というほど味わった。しょせん、良い思いをするのは権力者、一握りの上の人間達だけなのだ。
神――― キラの存在さえもそんな連中は利用し甘い汁を吸おうとする。
「あそこを登れば、あの子達は本当にキ‥‥神に会えるのか?」
「えぇ。彼は今、あの険しい道の向こうにいますから」
男は力なくその場に膝をつき――― 知らず知らずその両手は胸の前で固く握られている――― 力を合わせて滑りやすい岩棚の上を這い登って行く子供達を見守った。
一人はアジアの山岳地帯から連れてこられた男の子。
一人はオセアニアの乾いた大地から連れてこられた少年。
一人はアフリカの疫病が蔓延る町から拾い上げられた少女、それとその妹。
一人はカリブの海に没してしまった島から投げ出された男の子。
一人はアラブの未だに紛争が絶えない地から逃げてきた少年とその弟。
一人は北米のスラム街で寝起きし幼いながらに春を鬻いでいた少女。
一人はEUの汚染物質に冒され片腕のない男の子。
一人は南米の禿げた大地と化した地で拾われた女の子。
「キ‥‥神は、あの子達の願い事を‥‥聞いて下さるだろうか」
「聞くだけは聞いてくれるでしょう。彼はとても優しいですから‥‥けれど、その願いの全てが叶う保証は何所にもありません」
子供達に共通点はない。あるのは辛く苦しい毎日を送りながらも、一欠けらの希望と幸せを胸に残していたということだけ。共に助け合い必死に岩棚を登って行く彼らは、今までその幸せを拠り所に生き延びてきた。
そして運悪く狡猾な大人達にかどわかされ、その胸に唯一残った幸せを護るために今は伝説と化した神に、天使に、救世主に‥‥‥キラに会おうとしている。
決して楽園とは呼べない故郷や難民キャンプに残して来た大切な人のために。
「子供の頃‥‥まだジイちゃんが生きてた頃‥‥俺もキラ様に会いたいと思っていた」
男はLに『その名を呼ぶな』と言われていた事も忘れ、嘗てこの世を席巻したその名をそっと唇に上らせた。
「キラ様に会って、ママとパパを殺した連中を‥‥殺してくれるようお願いしようと思っていた」
「バカな事を‥‥」
「あぁ、そうだ。バカな事だ‥‥悪人をこの世から消そうとしたキラ様に逆らってキラ様を殺したのは、他ならぬ俺達人間自身なのに‥‥」
「悪人を全て殺したからといって、狂ったこの世界を正すことまではできません」
「でも、ある程度の歯止めはかかったかもしれない。富を独占しようとする連中を殺してくれたかもしれない。暴動に走る連中も少しは減ったかもしれない」
「仮定の話をしても意味がありません」
「あぁ‥‥あぁ、そうだな。全ては一〇〇年も前に終わった話だな」
子供達の最後の一人が岩棚の向こうに姿を消すや、男はこれで肩の荷が下りたとばかりにガクリと項垂れ尻餅をついた。そして胸ポケットを探り、貴重な煙草の最後の1本を口に銜えた。
「もう戻りなさい。まだ霧が晴れているうちに」
「やめとく。どうせ戻っても船は俺達を置いて行っちまってる」
「まだ待っているかもしれませんよ」
「テロリストがいるのにか?」
「連中は、自分達はテロリストではないと言っているようですが?」
「ハハハ‥‥テロリストじゃなかったら、集団自殺を企む狂人の集まりだな」
「彼らはただ、早く死にたいだけです。この狂った現実から、生きることの苦しみから逃れたいと思っているだけ。その他大勢のまだ死にたくないと足掻いている人々を道連れにしてね」
「余計なお世話だ‥‥」
反対のポケットから取り出したのはこれまた貴重なライター。数少ない親友が餞別代わりにくれた物だ。
それで煙草に火をつけ、深々と煙を肺に吸い込む。
「なぁ‥‥」
もう話は終わったとばかりに元来た道を戻ろうとしたLに男が穏やかな口調で声をかける。
「キラ様は‥‥本当にいるのか?」
「‥‥‥‥」
Lが足を止めた拍子に小石がカラリと岩棚を転がり落ちて行った。
「キラ様が犯罪者を裁いていたのは一〇〇年も前の事だ。しかも、当時の権力者達からキラ様自身が犯罪者呼ばわりされて、アメリカか何処かに殺されちまったって話‥‥だったら、この島にいるっていう神様は本当にキラ様なのか?殺されたってことは、キラ様は人間だったんだろ?それとも正真正銘、天の使いだった?人として一度死んで、本物の救世主になった?」
「貴方はキラ信者ですか?」
男はLと呼ばれる魔術師、世捨て人の冷たい声にヒソリと肩を竦めた。
「違う‥‥俺は宗教なんか信じない‥‥けど、誰かが二度、この世を救ってくれたって話は信じたいと思ってる。でなけりゃ、この世界はとっくの昔に滅んでいたと、軍の科学者連中も言ってるしな。それに‥‥」
吐き出された紫煙がゆっくりと流れて行くのは風が出てきた証拠だろう。
「そんなお伽話でもなけりゃぁ‥‥みんな生きる希望を無くしちまうだろ?」
「勝手な事を‥‥」
その小さな応えに、男は黙って煙草をふかし続けた。
「彼に頼るのはもうやめてください」
風に乗って聞こえて来た足音と苦しそうな声に身動き一つせず、ただ茫洋と海を眺める。
胸の内にあるのは幼い頃の数少ない幸せの記憶。
寝物語に聞いた綺麗な人の話。
悪い人を懲らしめて、心優しい人、弱い人が幸せに暮らせる世界を創ろうとした可哀そうな神様の話。
キラという名の、それは天の御使い‥‥‥
そこは一面の花園だった。
岩と岩の隙間のとても道とは言えない岩棚を必死に登って来た子供達の、小さな穢れなき瞳に飛び込んできた夢のような光景。お話にしか聞いたことのない天国か楽園を思わせる、それはそれは美しい世界がそこにある。
「いい匂いがする」
「美味しそうな匂い‥‥」
「空がとても近いよ‥‥」
「風が気持ちいい‥‥」
「あったかい‥‥」
子供達は思い思いの言葉を口にしながら色取り取りの花が咲き乱れるそこをゆっくりと歩き始めた。もし子供達が普通に教育を受けていたなら、周囲を埋め尽くす花々が季節を問わず咲き乱れていると気付いただろう。だが、幸か不幸か彼らは余分な知識を何一つ持ち合わせていなかった。
花の名前もその育て方も何一つ知らず、ただ美しいとだけ歓喜の内に感じていた。
神が住むに相応しい場所だと、そう喜び納得した。
「あそこ!誰かいる!」
そうして、一番背の高い女の子がその人に気づいた。
「もしかして‥‥神様?」
誰かがそう口走れば、子供達の頭の中はもうその人の事だけでいっぱいになった。けれど、急に気後れして誰もそれ以上先に進めなくなる。
「どうしよう‥‥」
「お話‥‥しなくちゃ」
「神様に‥‥お願いを聞いてもらわなくちゃ‥‥」
「早くしないと、何処かへ行っちゃうかも‥‥」
そんな、そんな!――― 子供達は大いに焦った。
「行かないで!神様!」
「僕達の話を聞いて!」
「待って‥‥!待って、神様‥‥キラ様!」
キラ、キラ、キラ‥‥‥キラ様!!
草の葉で足を切りながら決して平らではない地面を転がるように駆け、遙々この島までやって来た子供達はかの人の後を追う。
走っても走っても追いつけないのでは、という恐ろしい想像が悲惨な日々を過ごして来た子供達の面を悲痛に歪ませる。
「キラ様‥‥!」
それでも漸く一番年長の少年がかの人に追い付きその白いシャツの袖口にしがみ付いた時、辺りの霧はすっかり晴れ澄み切った青空が子供達の頭上に広がった。
「だ‥‥れ?」
「!」
ゆっくりと振り返った綺麗な人‥‥‥!
「神‥‥様、です‥‥か?」
あとから追いついた小さな男の子が、兄の後ろに隠れながらおずおずとそう尋ねる。
「‥‥かみ‥‥さ、ま‥‥?」
夢の花園を包む陽射しにも似た柔らかな栗色の髪。けぶる様な眼差しの蜂蜜色の瞳。その目許はとても優しげで、桜色の唇も暖かな微笑みに満ちている。乳白色の肌に静かに降り注ぐ陽射しが細かな産毛を金色に光らせる様はまるで神々しいオーラのようだ。
「貴方は‥‥キラ様ですか?」
年嵩の少年と少女が代表するようにそう尋ねると、その綺麗な人は一度ゆっくりと首を傾げ、それから何かを探すように何度か辺りを見回し、そうしてまたゆっくりと子供達に視線を戻し花のように笑った。
「あぁ‥‥懐かしい名前だね」
「!キラ様‥‥!」
惨めで辛い故郷から無理やり連れて来られた収容施設。そこで毎日祈りを捧げさせられたマリア様よりも、幼い時から聞かされていたキラ様の方が何倍も何十倍も綺麗だと、子供達は心から思った。
それぞれ違う言葉を話す子供達なのに何故か全員にキラ様の言葉が判るなんて――― そんな不思議にも気づかないほど彼らは目の前の奇麗な人に夢中だ。
「キラ様。僕達、貴方に僕達の話を聞いてもらいたくてここまで来たんです」
「キラ様、キラ様!あのね、僕ね、お家がなくなってとっても困ってるんだ。僕の友達もみんなお家がなくなっちゃたんだよ。大きな台風が何度もやって来てみんな海に流されたんだ」
「病気でお姉ちゃんが死んじゃった。村の半数の人が死んじゃった‥‥」
「みんなお腹が減ってるんだ。赤ちゃんが生まれたばかりのお母さんがね、オッパイが出ないって言って赤ちゃんと一緒に川に飛び込んで死んじゃった」
「キラ様‥‥キラ様‥‥悪い人が町中にいるの。私達からいっぱい物を盗んでいくの。学校に行きたかったのに‥‥そう思ってお金を貯めていたのに‥‥ママの薬代も盗られてしまったの」
キラ様、キラ様、キラ様‥‥‥私達を見守って下さる優しいキラ様‥‥‥‥‥
子供達のゴワゴワした髪を、カサカサに乾いた肌を優しく撫でてくれるその人は、シンプルな白い服を身に纏い風に揺れ動く花の中をゆっくりとさ迷い歩く。
いや、風があるのではない。花が勝手に揺れているのだ。まるでキラに触れようと背伸びしているかのように、手を伸ばすかのように。そして、縋り付くかのように‥‥‥
「キラ様‥‥いつまで僕達は我慢しなくちゃいけないんですか?」
それは少年の声。大人になりかかった若者の声。
「みんなどうしてこんなに苦しまなくちゃいけないんですか?」
それは乙女の声。憂い嘆く母にも似た声。
「昔人間が酷い事ばっかりしたせいだって神父様が言ってました。本当ですか?」
「人間はバカだから仕方ないんだって」
儚い白百合のごとく美しく細く頼りなげなキラの周りを取り囲むのは、かの人とそう変わらない背丈の若者たち。声はいつの間にか低く、そして母性に溢れ、故郷に残して来た大切な人達のことを思い涙する。
「空が晴れないんです」
「空が落ちてきそうなほど青く、雨が一滴も降りません」
「海が迫って来て僕達の住む場所を奪ってしまいました」
「空気が汚れているのだと言われました。水も土も、全部が毒なのだと言われました。母も父も、いまだにそんな土地に住んでいます」
「毎日人が死んで殺されて、だれも安心して眠れません」
「誰もお腹一杯ご飯が食べられない」
「みんな暑かったり寒かったり‥‥」
「みんな咳をしたりオシッコを垂らしたり、血を吐いたり‥‥」
「赤ちゃんが死んで行くんです」
「年寄達がコロコロ死んで行く」
「犬も猫も、鳥もネズミも死んで行く‥‥」
「みんな‥‥死にたくないのに‥‥」
一人、また一人と脱落していくのは壮年の男、初老の女。小さくなってしまった服を脱ぎ棄て裸同然の彼らは、あっと言う間に過ぎてしまった子供時代を懐かしむ暇もなく、ただ只管求めてやまなかったキラに縋り付く。
「死んで行くんです‥‥」
「死にたいと、声に出して言ってしまうんです‥‥」
風に弄られるようにより一層激しく揺れ出した花が散らす色褪せた花弁――― 咲いては散り散っては咲くを繰り返した花達は、生き急ぎ死に急ぎ、次々と花開いては種を飛ばしまた新たな命を咲かせては土へと帰って行く。飛び交う虫が忙しなく花粉を運び命を実らせ、自分達もまた子をなして死んで行く。
本能のままに、ただ只管生き物の本能のままに‥‥‥
そして、風に吹き寄せられた霧が視界を覆い始めた頃、かつての子供達は漸く知るに到る。
足掻き続けるのが人という生き物の本能だと。
だからこそ、大好きな人達と別れても絶望せず、こんな所まで来てしまったと。
「助けて下さい‥‥」
「みんなを助けて下さい、キラ様‥‥」
自分達にもう未来はない。
あの日あの時、いかめしい軍人達によって大好きな人達から切り離された時から。
何もしてくれない神様に心の籠らない祈りを捧げた時から。
「キラ様‥‥」
「母を、父を‥‥」
「兄を、妹を‥‥」
「叔父を、叔母を‥‥」
「彼を、彼女を‥‥」
「数多の同胞を‥‥‥‥」
咲き乱れ、今は見る影もなく散り逝くだけの花々同様、自分達もまた生き急ぎ死んで逝く。
この島で神様に、キラ様に見守られ死んで逝くのだと、動かない体、重い体、霞む視界にそれを知る。
「ほんの少しで構いません。このまま苦しく辛い日々が続いても構いません」
「腹ぺこな日々を送っても‥‥」
「凍てつく寒さに震えても‥‥」
「うだるような暑さに苦しんでも‥‥‥」
美しい人、綺麗な人。
誰に穢されることなく禁断の地で眠り続ける人。
かつて悪を裁き自らも悪として裁かれた人。
死してなお心優しき者を、弱き者を護ろうとする慈しみの人、哀しき人。
「たった一つでいい‥‥ほんの小さいものでいい‥‥」
「幸せをください」
「生きていて良かったと」
「生まれて来て良かったと」
「そう思える瞬間をください」
ハタリと倒れたのは南半球から来た子供だった。
ガクリと膝を付きそのまま動かなくなったのは、再び暗黒大陸と呼ばれるようになった地から来た子供。
トサリ、トサリと櫛の歯が欠けるように力尽きて逝く嘗ての子供達。もはやゆったりとしたキラの歩みにも付いていけなくなり、遠い故郷を思い返しながら小さく微笑んで息絶える―――
「大好きな人達に、ほんのひと時の安らぎを‥‥」
「暖かな思い出を‥‥」
「決して一人ではなかったという、満ち足りた想いを‥‥」
キラ様‥‥‥‥
「どうかこの願いを‥‥」
琥珀に輝く瞳が振り返った時、そこには点々と続く死体の道が出来ていた。骨と皮のミイラのような老人の死体。
「‥‥‥‥‥僕は‥‥キラじゃない‥‥‥」
「月君」
霧の向こうから聞こえて来た声に、綺麗なその人は華のような笑顔を向けた。
「竜崎‥‥!」
「起きて直ぐに出歩いたりして‥‥体は大丈夫ですか?」
「?大丈夫だよ。それよりお前こそ裸足でどうしたんだ?痛くないのか?」
自分もまた裸足だと気付かぬまま走り寄って来た人の体を抱きとめ、Lはかつて呼ばれていた懐かしい名に目を細めながら、胸一杯に吸い込んだ空気と一緒に彼の甘く切ない香を我が身に取り込んだ。
「おはようございます、月君」
「ん?おはよう。何?僕、そんなに寝ていたの?」
「えぇ。ほら、見てごらんなさい。辺りはこんなに明るいでしょ?」
「本当だ」
すっかり花が散った地は、ごつごつとした岩場が広がる不毛な土地。見上げた空は青空一つ見えない霧の世界。それでも真昼の陽光は確かに存在し、竜崎とキラ、いや月に、撓むことなく流れ続ける時間を感じさせた。
「さぁ、屋敷へ戻りましょう。お腹がすいたでしょ?月君のために美味しいご馳走を用意しました」
「屋敷って、お前の別荘か何か?」
「はい」
「相変わらず、無駄に金持ちだよな」
「お金はいくらあっても困りませんから」
「まぁね。でも、僕のために無駄使いするのは許さないからな」
「判っています」
「ならいいよ」
えぇ、判っていますとも‥‥‥判っていますから、貴方も見ず知らずの人間なんかのために、貴方の心と命を無駄使いしないでください。
「抱いて行ってあげましょう」
「うわっ!バカ!何するんだ!?」
「何って、いわゆる姫だっこというやつですが」
「竜崎!また松田さんに下らない事を教わっただろ」
「さて、どうでしたか」
柔らかな彼の足が硬い岩で傷付くのを嫌がった竜崎が、いきなり月をその手に抱きあげ有無を言わさず歩きだす。
「下せよ、バカ」
「嫌です」
「竜崎!」
「大人しくしていなさい。そうでないとキスしますよ」
そう言ったとたんピタリと暴れるのをやめた月の頬が耳まで赤くなっているのを、猫背で無表情な竜崎は決して見逃さなかった。
ひっそりと静かだった食堂に明るい笑い声が響く。
大きなテーブルの中央に寄り添うように座った二人は、目の前の暖かな食事に舌鼓を打ちながら懐かしい思い出と他愛もない話に花を咲かせた。
「あぁ、ほら。口の周りにソースが付いてる」
「拭いて下さい、月君」
「しょうがないなぁ」
カチャカチャと五月蠅い音を立てるマナー無視の竜崎と、そんな彼の世話を焼きながら静かに食事をする月。二人にとってそれは何時ものことだった。
日常からかけ離れた異常とも言える手錠生活。
あの、長い人生の中のほんの一瞬が、二人の関係の全てを形作ってしまった。
決して月の上から離されることのない、妄執にも似た竜崎の黒い眼差し。
諦めと好奇心と、悲しみと親しみと、嫌悪と慈しみと。相反する全ての想いを内包し、それでもなお傍にいると訴える月の頬笑み。
冷たい鎖で繋がれている限り死ぬ時は一緒だと、そう口にした心はいまだ彼の中にある。
「あぁ、美味しかった。ごちそうさま」
「もういいのですか?」
「うん。そんなにお腹、減ってないから。運動しなかったらこんなもんだよ」
「そうですか‥‥」
ナイフとフォークを置き、膝の上のナプキンをテーブルに戻し、月が小さな欠伸を一つ噛み殺す。
「眠いのですか?」
「ん?そうだね、何となく‥‥いっぱい寝たはずなのに、変だな」
それを指摘され恥ずかしそうに笑った彼を、竜崎はやはりじっと見つめていた。どんな仕草も見逃さないとばかりに、満月のように見開いた黒い瞳で瞬き一つせず月の姿を捉え続ける。
「では、部屋に戻りましょうか」
「え?でも‥‥」
「話ならベッドの上でもできます」
先に立ち上がった竜崎がレディーにするかのように月の椅子を引き、その行為に困ったような笑みを浮かべた月はそれでも黙って彼に従った。
食堂を出ようとして、奥の厨房へと続く扉がほんの少し開いている事に気づき足を止めれば、扉の隙間から四つの目がこちらを覗いているのが見えた。
「この屋敷の管理を任せている夫婦です。今夜の食事も彼らが作りました」
傍らの男に目で問えばそんな答えが返ってきて、月は奥ゆかしく恥ずかしがり屋な夫婦に向かって『ありがとう』という言葉を柔らかい笑みとともに送った。
四つの目が驚きに丸々と見開かれるのが遠目にも分かり、何か驚かせただろうかと小首を傾げる。
「気にしないでください」
「でも‥‥」
「彼らはあれでも喜んでいるのです。腕によりをかけて作った料理を貴方に食べてもらえて」
「竜崎はもったいないお化けが出そうなくらい食べ方が汚いものな」
「放っておいてください」
二人が笑いながら歩く廊下に他の人間の気配はない。
静かな夜の帳に包まれた静かな空間。
「ここ‥‥やっぱり竜崎の別荘か何かなのか?」
「はい」
「‥‥何時、こっちに来たっけ‥‥」
寝室に案内しましょうと言われ、お前に世話を焼いてもらえる日が来るなんて、と月は笑った。
「疲れているんですね、月君」
「‥‥‥」
返されたのは求める答えではなかった。
「いいのか?」
「何がです?」
重く煩わしく、鬱とおしくて冷たかった、信頼という言葉からほど遠い、けれど確かに二人を精神的にも繋いでいた絆が今はない。
軽くなった左手をそっと伸ばし、相変わらず櫛一つ入れた形跡のない竜崎の黒髪を指で梳き流してやる。
「仕事‥‥残して来たんじゃないのか?」
「大丈夫です。全て終わらせて来ました」
「‥‥キラの事も?」
「はい」
面と向かって、決して視線を反らされることなく告げられた言葉に、月はどう笑えばいいのか判らずただじっと竜崎の黒い瞳を見つめ返した。嘘の上手いこの男が相手の目を見つめたまま平気で嘘がつける事を彼は嫌というほど知っていた。
「お忘れですか?キラはとっくに捕まっています。私と貴方で、捕まえたんです」
「竜崎‥‥」
「ヨツバキラ。月君が探し当てたんですよね。あれは見事でした」
招き入れられた寝室には確かに見覚えがあった。少なくとも月がこの部屋を訪れたのは今日が初めてという訳ではないらしい。それでも月の記憶は曖昧で、何故自分がここにいるのか、ここは何処なのか全く思いだせない。
「キラは‥‥」
「死刑になりました」
「そ‥‥う、なんだ‥‥」
「えぇ、そうなんです」
手を引かれキングサイズの豪華なベッドに座るよう促され、月は何故か黙ってそれに従った。
何か言わなければならない事があるはずだ‥‥‥何か聞かなければ、何か確かめなければならない事が‥‥‥キラの事ではなく、もっと他の事で‥‥‥‥
「でもお前は‥‥」
そっと隣に腰を下した男の右腕と自分の左腕が意図せず触れ合った事実に、なんだか無性に泣きたいような笑いたいような気持になる。
「お前は‥‥それでも僕がキラだと思ってるんだろ?」
「‥‥はい」
あぁ、なんて正直な男なんだろう。そして、なんて頑固で直向きで、愚かで賢く、可愛げの欠片もない愛すべき男なんだろう。
「竜崎‥‥」
「L‥‥エルと、呼んでください」
「‥‥‥」
不思議な記憶の欠落にあってなお、覚えているあの異常で平穏で、退屈とは無縁の、生きていることの喜びに輝いていた日々。
その中で一際、男の無表情な、けれど重すぎる思いに満ちた視線が心に焼き付いて離れない。
「それが‥‥お前の本当の名前?」
「はい」
それだけは嘘ではないと、何故かすんなり信じられる自分が月は不思議だった。
「エ‥‥ル?」
「!」
ヒュッと、竜崎の、Lの息を呑む音が微かにして、次の瞬間、月の上半身は細いけれど筋肉質な腕に抱き締められていた。
「ずっと‥‥ずっとこうしたいと思っていました。できる事ならまた貴方と鎖で繋がって、一つの事に一緒に取り組みたいと‥‥まるで運命共同体のように、常に一緒にいたいと‥‥」
「エル‥‥」
知っているよ‥‥‥そう呟けば黒々とした眼が月の深い琥珀の瞳を真正面から捉える。
「お前が何時それに気づくかと、期待しないで待っていた」
自慢ではないが、そんな視線には慣れっこだったのだ。竜崎の探るような暴くような視線の奥に見え隠れする執着の裏の感情に月はとっくに気づいていた。だが、言ってやるつもりはなかった。竜崎自身が気づかなければ意味がなかったから。
「気付いて‥‥」
「僕も‥‥一緒に‥‥ずっと一緒にいられたらって、思っていたよ」
「月君‥‥」
見慣れた白いTシャツの上から竜崎の体を抱きしめ返し、ほら、傍にいるだろ?と囁く。
「お前はとてつもなく変人で、自分勝手で気難しい奴だけど‥‥僕もどこか似た所があって‥‥そんな僕にはお前ぐらいの変人がちょうどいいのかもしれない」
誰も彼も詰まらない奴ばかりだった。誰にも興味を引かれなかった。それを悲しいとは思わなかったけれど、退屈で仕方がなかった。
そして竜崎も似たようなものだと月には直ぐ判った。
竜崎は自分自身の事をよく知っていた。自分が変わっていると、まともな神経をしていないと知っていた。そして、そんな自分は特別であると、誰も自分の代わりはできないと知っていた。
自惚れていた。自惚れるだけの能力を竜崎は持っていた。自惚れを許される環境が彼を取り巻き、彼は自惚れることが当然の日々を送っていた。
そこが月とは違うところ。
異端な自分を当然と受け入れていた竜崎、L。
自分が他とは違うと判っていても、それを認めては生きて行けなかった月。
同じ穴のムジナでありながら全然違う二人が互いを求めあうか否かは一つの賭けだった。
先にそれを望んだのがどちらだったか、今となっては判らない。
「貴方は‥‥鼻持ちならないくらい完璧な外面でしたね。誰も本当の貴方を知らなくて、気づかなくて‥‥貴方を理解できるのは私だけだと直ぐに判りました」
「自信たっぷりだな」
「はい。貴方に関してだけは、妥協したくありませんので」
どちらからともなく見つめ合い微笑みあう。一人は無表情に、一人は優しく綺麗に。
「ずっと‥‥此処にいても、いいのか?」
「はい」
「此処にしか、いられない?」
「はい‥‥」
「僕がキラでも?」
「はい」
「キラでなくても?」
「はい」
「お前がLでも?」
「はい」
「Lでなくても?」
「はい」
私は知っています。
貴方は貴方だからキラになった。貴方以外の誰もキラにはなれなかった。貴方の真似をしたとしてもそれは上辺だけ‥‥‥
「名探偵には直ぐに判るって?」
「はい」
「しょせん海砂も火口もただの模倣犯?」
「はい」
「怖いな‥‥」
「それが私ですから」
僕は知ってるよ。
お前もLにしかなれなかった。L以外の何者にもなれなかった。他の事を望んだとしてもそれは決してお前に満足を与えなかった。
「L以外の自分なんて想像できません」
「僕もだよ」
ヒタリと寄り添い抱き合って柔らかいベッドに横になれば、たちまち襲い来る睡魔。
「エル‥‥」
「何でしょう、月君」
額にそっと口付けられて、月はうっとりと目を閉じた。
そして、背中を撫でていた手が微妙な動きで体のラインをなぞり出したのを嬉しいと感じる自分に苦笑する。
「僕が‥‥キラだよ」
「はい。知っています」
抱擁と口付けと。同じ温度で息をすること。
同じ意識で違う言葉を綴ること。
それが二人であることの全て‥‥‥
「貴方がキラで、私は嬉しいです」
そう告白すれば、眩暈がするほど甘い微笑みが竜崎を包んだ。
「お前がLで‥‥僕は嬉しいよ」
月からの口付けは天使のそれだった。
深い眠りに就いた月を両手に抱き上げソロリと寝室を抜け出した竜崎は、時を惜しむかのようにゆっくりと歩を進めた。
「次に貴方に会えるのは‥‥いったい何時になるのでしょねぇ」
静かな屋敷は何時であっても静かで、誰も彼の邪魔をする者はいない。
いっそ誰かが邪魔しに来くればいいのに‥‥‥そうすれば自分は月を抱いたまま退屈で陰鬱なこの島から脱出してみせるのに。
そう思ってみたところで、キラの意思は誰にも変えられない。
「最初は五〇年もちました。次は三〇年でダメになりました」
立ち入り禁止の地下室へと通じる廊下に差し掛かったところで、竜崎は静けさの中の静けさに気付き寄り道をした。
そこは先ほどまで老夫婦が忙しく立ち働いていた厨房。
「そして三度目は二〇年‥‥」
開け放たれたドアから明るい厨房を覗きこめば、そこには二つの死体が転がっていた。
さも幸福そうに微笑む干からびた小さなミイラ。
纏っているのは老夫婦の衣服。
「あぁ‥‥やっと逝けたのですね」
竜崎は手を握り合った二体のミイラを心底羨ましいと思いながら扉を閉めた。
「漸くキラ様に会えて、あまつさえ手料理を食べてもらえて、満足したのですね‥‥」
とっくの昔に生を終え、今また魂まで失った肉体が塵となって消失するのは時間の問題だ。
「大丈夫。貴方がたはきっと天国へ行けます。一人娘が待つ天国にね」
人の世のしがらみから解き放たれた、純粋に求め合う魂が出会えないはずはないのだから‥‥‥
「私達がそうなるのは‥‥いったい何時のことなのでしょうねぇ、月君?」
愚かで浅ましい生き汚い人間。
探偵Lが決して好きになれなかった人間を、キラは確かに好きだったのだ。
世の中腐っている、腐っている奴は死んだ方がいい――― そう言いながら、人が生きる道を模索していたキラ。
だからといって己が人生を、精神を犠牲にしてまでキラの道を歩み続けることはなかったのに。
「その点だけは恨みますよ、月君」
地下室へと続く扉はこの屋敷には不釣り合いな貧相なデザインの扉だった。だが、重く頑丈なその扉は招かれざる者を、許されざる者を決して通さぬ扉だった。
奈落の底を思わせる地下へと続く階段を、穏やかな微笑みを湛えて眠る月を抱え竜崎はゆっくりと降り始める。
ギシギシと軋む階段の音が何時しかペタペタと石を食む音へと変わり、空気もまた冷たく凍えて行く。
グルグルと、途切れることなく続く石の螺旋階段。
降りても降りても底へは着かぬまさに奈落。
いったい誰がこんな建物を造ったのだろう。
「それこそ神か悪魔か‥‥それとも今はいない死神か‥‥いえいえ、全てが幻?」
辿り着いた先で、その死神の最後の一人が退屈そうに真っ暗な頭上を見上げていた。
『よう、L。二〇年ぶりの月との逢瀬は楽しかったか?』
足元の砂を踏みしめ、闇の中で灯篭のように輝く金色の二つの丸い目を睨みつける。
『そんなに睨むなって、俺のせいじゃないだろ?こんな事になったのは』
「お前のせいです」
『うわぁ。逆恨みか?逆恨みってやつか?』
「お前がノートを落とさなければこんな事にはならなかった」
『けどよぉ、俺がノートを落とさなかったら、そして月が拾わなかったら、お前ら二人が出会う事もなかったんだぜ?』
「‥‥‥」
『その点は、俺に感謝してもらわなくちゃな』
「誰が‥‥」
『月は感謝してたぜ。俺がノートを落としてくれたお陰でLに出会えたって』
「!」
もう何度目か判らぬその会話に律儀に反応してしまった自分に舌打ちする。
『だからさぁ、いい加減俺を此処から解放してくれよ』
「‥‥ダメです」
『簡単な事じゃないか。キッチンの包丁でも持ち出して月の首をチョンと刎ねてやればいい。そうすりゃぁ、月はあっさり死んじまう。誰も月に危害を加える事は出来ない筈だけど、お前だけは違う。L、竜崎‥‥月に心から信頼されているお前だけは‥‥月を殺す事が出来るんだ』
「‥‥‥」
ジャラリと鳴ったのは錆びた太い鎖の音。死神をこの地の底に繋ぎ止める贖罪の鎖。
『月は、キラは、不老かもしれないが不死じゃない。肉体が死ねば魂は解放される。この忌々しい、お前達人間が運命とか呼んでるやつから解き放たれるんだ。ついでに俺も‥‥』
「それは月君の望む所ではありません」
『チェッ。お前だってそれを望んでるくせに』
「否定はしませんが‥‥月君が望まない事を、私はしたくありません」
『そしてまた一〇〇年、孤独で退屈な時間を過ごすのか?昔の思い出に縋りついて暮すのか?』
「一〇〇年ももちませんよ、もう」
『みたいだな‥‥今回は二〇年か?だんだん間隔が短くなってやがる。人間ってのは本当に馬鹿だよな。キラに泣いて縋ってようやっと生きてるくせに、ちっとも反省しやがらない。泣けば全て許される、助けてもらえると思ってやがるんだ』
鎖を鳴らし死神がゆっくりと身を起こす。
闇に慣れて来た竜崎の目にその姿はいたいけな殉教者のように映った。
骨だけになり果てた、命尽きた哀れな死神。
彼は知らないのだ。これは贖罪でも何でもなく、彼のただの未練だと。
夜神月と、キラと離れたくないという思いが、あるかどうかも判らぬ死神の魂を骨となった肉体に留めている。
あの老夫婦と同じように。竜崎と、Lと同じように‥‥‥
『ここは退屈なんだよ。なぁ、俺を開放してくれよ。月を殺してくれよォ』
「たとえ解放されても、貴方は死神界へは帰れません。もう、この世界と貴方の故郷を繋ぐ道は閉ざされたのですから」
『月ォ、起きろ~。俺とマリオしようぜェ。なぁ、月ォ、林檎くれよォ』
伸ばされた骨の腕。人間のものと似ているけれど、それよりも巨大で長い爪が特徴の醜い手。
その手が竜崎の腕の中の月に届いた時、死神はさも嬉しそうに笑った。
『大丈夫、大丈夫。俺が守ってやるからな‥‥誰もお前に近づけさせないからな‥‥』
からみつく骨の腕に竜崎は渋々月の体を手放した。
真っ白な夜着に包まれた、幸福な夢に微笑む綺麗な人。その夢の功罪がどれほど重いか知らぬまま、それでも何時か来るだろう罰を覚悟して全てを捨てた人。
その捨てられたものの中に二人で生きる未来もあったのだと、竜崎は、Lは信じている。
信じているからこその未練が、彼の魂を未だこの世に留めているのだ。
『あ~ぁ‥‥あん時、離れなきゃよかった‥‥ずっとお前の傍にいて、お前のする事を見ていればよかった‥‥そうすりゃ、こんな事にはならなかったのによ。だって、そうだろ?お前に害をなす奴は、俺がデスノートで殺してやるんだからさ‥‥』
やっと取り戻した自分のノートの持ち主を大事に大事にその胸に抱え込んだ死神は、文字通り己が醜い肋骨の内部に月を抱き込み隠してしまった。
『月ォ、なんか面白い話してくれよォ‥‥お前の話、ホント、退屈しなくて大好きだぜ』
醜いけれど鉄より丈夫な、そして砂より脆い骨が綺麗な人の夢を護る。
そうやって一〇〇年、死神は己が幸せの中で過ごして来た。
竜崎が孤独に耐えている間、幸せな夢を見続けていた。
「贖罪を負っているのは‥‥私の方です」
暗闇に消えていく死神の姿。その闇に隠された綺麗な人。愛しい人‥‥‥
全ては、あの日あの時、決まってしまった。
竜崎の、Lの招いた油断のせいで―――
「捜査官が死んだ事によりFBIは日本でのキラ捜査から手を引いた。しかし、手を引いたからといって、キラ逮捕を諦めていた訳ではなかった‥‥諦めるどころか、生きたまま確保することを目論んでいた」
何度も何度も後ろを振り返り、もう闇に塗り籠められ見えなくなった姿を未練たらしく探しながら、竜崎は来た道を戻った。
「‥‥それはFBIのメンツどころか、アメリカ国家の命題となっていた‥‥」
グルグル、グルグル。終わりなき螺旋の道。
「キラ、という恐るべき兵器を、他の国に奪われないためにアメリカは必死だった」
昇って昇って漸く辿り着いた地上こそが地獄。
「彼らの手がかりは他ならぬこの私‥‥私なら何時かキラに辿り着くだろうと踏んで、じっと息を潜め見張っていた。私が見つけたキラを横から搔っ攫うために‥‥!」
愚かな人間の行いによって病んでしまった地上。
異常気象に苛まれ、蔓延する疫病と戦争でボロボロになってしまった世界。
富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しく。広がる格差が社会不安を助長し、人は更に互いを信じられなくなり、そして人間は自滅の道を自ら選んだ。
「あの日‥‥火口逮捕のシナリオをいよいよ開始しようとした矢先、奴らは突然姿を現した‥‥」
不意に襲い来た胸の痛みに竜崎は居間の扉にその身を預けた。それは云わずと知れた精神的な痛みというやつだ。
「強引な手段でLビルのセキュリティを突破し、武力で持って私からキラを奪おうとした‥‥」
取っ掛かりはワタリだった。交渉役を担っていた彼は既に存在を知られており、竜崎の世話や買い物など、何だかんだと外へ出ていた彼が先ず最初に見つかってしまった。そして、家族持ちの相沢が狙われ、捜査から外れた時点で奴らに捕まった。
家族を殺すと脅され最後まで口を噤んでいられるほど、彼は職務に忠実ではなかった。彼はごく普通の男だった。
火口卿介が第三のキラであり、弥海砂が第二のキラ。そして大本命の第一のキラは夜神月。Lが最も疑い、そして最も証拠がない人物がその夜神月だと、相沢は簡単に暴露してしまった。
「夜神さんが撃たれ動転した貴方は、事もあろうに私を庇おうとしましたね?」
既に夜神月の外見的特徴を入手していた奴らは邪魔なLから先に始末してしまおうと、夜神総一郎を殺した銃を彼に向けた。そうと気づいてとっさに竜崎に覆いかぶさって来た月に、彼は何の冗談かと状況を無視して皮肉気に口元を歪めた。
まさかそれが、月が最期に見たLの感情になろうとは。
悲しげに微笑んだ月の琥珀の瞳は確かにこう言っていた。
最後まで僕を信じてくれないんだな、竜崎‥‥‥と。
『うああああああぁぁぁぁぁ―――!!』
その叫び声が自分のものだと気付くのにかなりの時間がかかったと思う。
「どうして私を庇ったのですか‥‥貴方を信じていなかった私を‥‥貴方はそれを知っていたのに‥‥」
頬を濡らすものが涙と気付いたのは更にもっと後。
『月君、月君、月君‥‥‥月君‥‥‥‥‥!!!』
キラだと信じて疑わなかった彼の名を必死で呼ぶことしかできなかった自分は、あの時間違いなくLではなかった。ただの一人の人間、エル・ローライトだった。
名探偵だ、世界の切り札だとどんなに誉めそやされようと、所詮は一個人、国家権力に勝てるはずがない。
利用され裏切られ、邪魔だからとあっさり殺される。組織の前に個人の命など何の意味もない。本当の正義など何所にも存在しない。
知っていたはずなのに‥‥‥知っていたはずなのに!竜崎は夜神月が絶望を抱いて死んだ瞬間に、やっとその事実を肌で感じたのだった。
「私にどうしろというのです‥‥貴方を失った私にどうしろと‥‥‥!」
『バカヤロウ!キラを殺してどうする!!』
そう叫んだ指揮官らしき男を振り返り『殺してやる‥‥!!』と口汚く罵った自分。
殺意は、憎しみは、愛の裏返しとはよく言ったもの。まさかそれを我が身で体現する日が来ようとは。
『あぁ‥‥これはつまり、終わりが来た合図だな』
再びLに銃口が向けられた刹那、世界は光に沈んだ。
その白い闇の中で聞こえて来た声は、人間のものによく似ていたけれど人間のものではなかった。
『もうダメだ。この世界は力に呑まれる。業という名の悪意に染まり、この世界を破壊する』
『そうなったら人間はみんな死ぬ。人間が死ねば俺達も死ぬ』
『他の世界を探そう。他の世界の人間を殺して、その寿命をもらおう』
『バカな人間達だ‥‥地上の天使を殺すとは』
その闇の中でぼんやりと浮かび上がって見えたのは血塗れの夜神月、キラ。
『天使を抱えた人間を殺せば天使は人間界に解き放たれる』
『解き放たれた天使が人間界に豊穣を齎したのは今や昔の話だ』
『今の人間界は穢れているからな。穢れた世界の天使もまた穢れるのが世の道理というもの‥‥天にあっては道理とも摂理とも無関係な天使でも、地上にあってはそれに従うしかない』
バカな人間、愚かな人間‥‥‥悪意でもって天使を解放した罰当たりども‥‥‥‥
そして、キラの周りに見えたいくつもの影の正体が何だったのか今でも判らない。
連中が言うところの天使が何なのかも。
だが、死神と名乗る異世界の住人が人間界の死神と全く違う存在であるのと同様、天使もそうなのだろうと簡単に予想がつく。
『あぁ、だが、この人間は強いな‥‥』
『本当だ。死んでも天使を放そうとしないぞ』
『この肉体に魂が留まっている限り、天使に死は訪れない。魂が肉体を離れた時、天使も世界に解き放たれる』
『では、天使が解き放たれるまで、もう少し時間がかかるかもしれぬな』
『さてはて、この魂は何所まで頑張れるのやら』
『愚かな人間どもが、この人間を興味本位で切り刻まない保証はないしな』
『いや、むしろそうするだろう』
『人間とはそういうものだ』
『そうだな‥‥』
気が付くと、竜崎は見知らぬ林の中にいた。
『起きろ、起きてそこを掘れ』
先ほどよりも生々しいその声に弾かれたように振り返れば、白い異形が自分を見下ろしていた。だが、Lは驚かなかった。驚くだけのゆとりが心になかった。
『私はレム、死神だ』
『死神‥‥』
非現実的なその名称にキラのメッセージを思い出す。
『キラを襲った連中なら死んだ。追手は当分来ない。安心しろ』
『死ん‥‥だ?』
『一時的に開放された天使の力で塩になった』
『‥‥塩‥‥』
『古のソドムとゴモラと同じさ。いわゆる神罰というやつだ。夜神月は余程お前を死なせたくなかったらしい』
『‥‥‥』
『だから仕方なくだが、お前に夜神月を護らせてやる。そこを掘れ』
死神と名乗った白い異形レムに言われるまま大きな木の下を掘ると、厳重に梱包された黒いノートが出て来た。
『それがキラの力の源だ』
中を見て、その説明だけで全てを理解した。
『夜神月がキラだ。そして、地上の天使を抱えた人間だ。いや、天使を抱えていたからキラになったのかもしれない』
『‥‥天使?』
キラが天使?人殺しの天使?――― それはどんな皮肉なのかと、冷たい土の上に横たわる存在を見つめる。
『天使は清らかなものに触れればより清らかに、穢れたものに触れれば更に穢れて行く存在だからな。同じように天使と共存する魂もまた天使に感化される。相乗効果なのか、同じ穴のムジナなのか、いずれであっても死神の私達には有り得ない、理解できない現象だ。夜神月が犯罪者を裁くことにのみノートを使い私利私欲に走らなかったのは、本人の元々の気質もあるだろうが、その効果故だろうな』
そんなLを無視して死神は話を続ける。
『夜神月を殺させてはいけない。悪意で持って殺されれば、解放された天使はこの世界を滅ぼす。だが、善意ある思惟を与えてやれば天使は祝福をもたらしてくれる』
『祝福?‥‥だから天使ですか?』
半ば冗談半分でそういうと、死神は軽く肩を竦め『知らない』と答えた。
『死神の私に言える事は、私達死神が命を奪う事でこの世界に影響を与える存在なら、天使は命を生み出すことで影響を与える存在だという事だけだ。そうやって過去何度か地上の天使はこの世界を救い、多くの新しい種を生み出して来たらしい。そして、多くの世界を破壊した‥‥私も昔話でしか知らないから、確かな事は言えないがな』
『破壊‥‥創造の前の破壊?』
『さぁな、私は知らない。それに摂理の外側の事に興味はない』
興味を持った所でどうにもならない。それこそが摂理というものだ――― そう言ってじっと自分を見下ろす異形の存在に、Lはただ苦い笑みを漏らすしかなかった。
『そうですね‥‥どうにもならないから摂理なのでしょうね‥‥』
死んだ者は二度と生き帰らない――― 誰もが知っている、誰もがどうにかしたいと思っている、そして誰にもどうにもできない自然現象。それがこんなにも辛く苦しいものだとは、知っていても理解できなかった自分を笑うしか今のLに術はない。
それでも!そうと判っていても、心は叫ぶ。
どうして!?どうして彼が死ななければならないのか、と。
『夜神月は天使を内包していた。その夜神月がキラに、人が揶揄する所の救世主となった‥‥偶然かもしれないし、必然かもしれない。それを運命、と人は言うのではないか?』
そんなLの心を知ってか知らずか、異形の存在は『運命』という言葉を口にした。
『運命‥‥?』
L自身今まで何度か口にした事はあっても、本気で信じた事などなかった皮肉な思想。
『月君の死は‥‥運命だと、言うのですか?私を庇って殺されるのが、生まれる前から決まっていた、と』
『それこそ摂理の外の話だ、私が知る筈がなかろう?』
余りにそっけない返事に『他人事』という単語が浮かぶ。それと同時に激しい怒りも。
『死ぬなんて‥‥死ぬ運命だなんて、そんな‥‥!』
『死んではいないよ』
『え?』
だが、その怒りは異形の存在のただ一言で呆気なく消え去った。
『未だ死んではいない。夜神月の強い意志が魂を肉体に繋ぎ止めている。恐らく夜神月は本能的に知っているのだろう。自分が死ねばどうなるか。だから、必死にこの世に留まろうとしている。己が意志でもって天使が解き放たれるのを抑えつけている』
『生きて‥‥いるのですか?』
『摂理を無視してな。ほんの少しだが、天使の力が漏れ出ている。それが夜神月の肉体を生かしている。肉体があれば魂は地上に留まる事が出来る。そして、魂は天使の解放を抑制‥‥』
『月君!』
慌てて彼の体を抱き起こすと、無数の弾丸で引き裂かれたはずの彼の胴体は元通り綺麗になっていた。青白かった頬にも赤味がさし、呼吸も実にゆっくりとではあるが確かにある。
『月君、起きて下さい!月君!』
『あぁ、呼びかけても無駄だ。夜神月の意識は天使を抑えつけるのに精いっぱいで、とてもじゃないが表層にまで昇って来られない。お前達人間が言う所の超自我と自我の境界に立ち塞がり天使の力が現実界に、地上に溢れ出ないよう押さえつけている。そうする事でこの世を護っているのさ』
『境界?‥‥それは‥‥あの世とこの世の境界、という意味ですか?』
Lが藁にも縋る思いでそう尋ねても、異形はただ肩を竦めるだけだった。
『彼が‥‥目を覚ます事は‥‥もう、ない、のですか?』
『ない、とは限らない』
『それは‥‥!』
『夜神月の最後の意識が何処を向いていたかによるな』
その言葉の意味に思考を巡らせLは新たな絶望を覚えた。
夜神月が最後に取った行動。それは憎い敵の命を助ける事だった。そして、彼が最後に感じた事は『信なき世界の虚しさ』だった筈‥‥‥
『だが、まぁ、大方の予想はつく』
白い異形が長い手を伸ばしそっと夜神月の髪に触れる。
『夜神月は、キラだった』
そして、淡々と事実を繰り返した。
『‥‥それは‥‥』
『キラはミサのような人間を守りたいと思っていた。ミサのような悲しい人間を、もう生みだしたくないと思っていた。だから、夜神月が目覚める事があるとすれば、それは‥‥』
『この世にキラが必要になった時‥‥この世が、人が、キラを再び求めた時‥‥』
Lの言葉に死神はやはり肩を竦めるだけだった。
『死神の私には判らない‥‥他人の命を救うために自分の命を捨てられる心なんて‥‥一生、死ぬまで、判らないよ』
お前の何処にそんな価値があるんだろうな――― そう言って暫しLを見詰めていた死神は、深い眠りに就いた夜神月を抱きしめて離さないその様子に紡錘形の瞳を更に細く眇めた。それから全てに興味を無くしたかのように背を伸ばし踵を返した。
『私の話はこれで終わりだ』
あぁ、最後に一つ――― この時ばかりは何やら感情の籠った声で死神はそれを伝えた。
もうすぐここへ別の死神がやって来る。黒い死神だ。そいつを置いて行くから番犬代わりにでもしろ。死神だからな、何をしても、何をされても死なないからせいぜいこき使ってやれ。
『死神界はもはやこの世界とは縁を切る。いつ天使が解放され滅ぶやもしれぬ世界を食糧庫にする訳にはいかないからな。だから奴に言っておけ。お前に帰る術はないと。ここは云わば流刑地だとな』
そうして白い死神が消えた後にやって来た黒い死神はリュークと名乗り、自分が落としたデスノートを月が拾ってキラになったとベラベラ喋ってくれた。
だが、眠ったまま全く起きる気配のない月を不審に思い、その体に触れようとした瞬間、
『ギィヤァァァァ‥‥‥ァァァ‥‥‥!!!』
黒い死神は恐ろしい叫び声をあげて骨となってしまった。生きて動く、まさに死神と呼ぶに相応しい哀れで恐ろしい姿に。
「白い死神の言う通り、私に‥‥いえ、人間に‥‥貴方が命を捨ててまで守る価値なんて、これっぽっちもないのに‥‥」
リュークに月を守るよう指示しLビルに戻った竜崎は、そこに奇妙な塩の塊をいくつも発見し、それがレムの言っていた侵入者達のなれの果てだと悟り、逆に何時もの冷静さを取り戻した。
幸い松田と模木は軽症で命に別状はなく、ほどなく意識を取り戻した二人にキラ事件は終わったからミサを連れて直ちに此処から出て行くよう言い渡した。運悪く命を落としてしまった月の父、夜神総一郎の事はワタリに頼み、そうして竜崎自身は裏切り者に等しい相沢の所へ向かった。
会ってどうしたかったのか、理性があっても答えは出て来なかった。謝罪の言葉を聞きたかったのか殺したかったのか。恐らくは後者だろうと、彼自身は思っている。
だが、結局何もせず、ただ『夜神親子は、キラを道具にしようとした組織の襲撃にあい、殺されました』とだけ告げた。その事実にこの後相沢がどんな行動に出るか全く興味はなかった。
そうして、Lにとって無意味な時間だけが過ぎて行った。
「貴方は本気で世の中を変えたかったのですね‥‥優しい人間が、弱い人間が安心して暮らせる世の中を創りたかった‥‥」
それは夢です。決して実現しない綺麗な夢‥‥‥
「だってそうでしょ?人間は汚い生き物なのですから。そんな世の中にはどう頑張ったってなりはしない‥‥」
漸く治まった胸の痛みに脂汗を流しながら誰もいない居間に入りソファに寝転ぶ。
「私もそうです‥‥私の生きる価値なんて、道端の花にも劣る‥‥」
これは贖罪。
彼を信じなかったことへの罰。
彼を悲しみの中で終わらせたことへの罰。
人間を未だに好きになれないことへの罰。
許される日など決して来ないと知っている。
知ってはいるけれど、つい夢に見てしまう。
「こんな私でも‥‥貴方に好かれていると思って、いいのでしょうか‥‥」
貴方が最後に見せた悲しみは私への好意の表れだと、思っていいのでしょうか。
「月君‥‥」
結局キラは復活しなかった。キラは目覚めなかった。
人々がどれだけキラの、救世主の復活を求めても、夜神月が目覚める事はなかった。
けれど、天使は目覚めた。
銃を突き付けられたLが感じたか感じなかったかも判らぬ『死への一瞬の恐怖』でその身を竦み上がらせた時のように、世界が嘆きの声で溺死しそうになった時、天使は目覚め大いなる祝福を世界に与えた。
それが新たなキラの、神の誕生の瞬間だった。
あぁ‥‥‥‥何故自分は未だ生きているのだろう。何故、消えてしまわないのだろう。
「目を覚ました時、私が傍にいなかったら‥‥貴方は泣いてくれますか?」
薄暗く愚かな笑みが、泣き笑いが、ポーカーフェイスが得意な男の面を飾る。
「‥‥嘘です‥‥嘘です、嘘です‥‥今のは嘘です‥‥!だから、だから‥‥!!」
貴方がいなくなって泣くのは私です!
それもまた、彼が今まで馬鹿にしてきた愚かしい人間の、愛しき業なのだと、今の彼は知っていた。
すっかり霧に包まれた海は静かだった。あんな戦闘があったとはとても思えないくらい凪いでいる。
もう血の臭いも硝煙の臭いもしない。苦しく辛い現実はこの霧の彼方だ。
「そんな所にずっと座っていたら尻が痛くなりますよ」
背後から聞こえて来た声にゆっくり振り返れば、Lと呼ばれる男が桟橋の端に立っていた。頑なだった今も鉄柵は閉まったまま。
「あれはもう錆びて動きません。しかし、よじ登れない高さでもない」
あぁ、と小さく頷きまた海に視線をやる。
「子供達は‥‥どうなった?」
ふと、そんな言葉が口を吐いて出、男はクシャリと顔を歪めた。
「彼らは短い人生を終えました。苦しいだけの生から解放され、その魂は‥‥」
「キラ様には会えたのか?」
思わずその名を口にしてしまったけれど、Lからの反応はなかった。それを気に掛けるだけの気力もなく、男は一番聞きたかった事を更に聞いた。
「キラ様に‥‥願い事は言えたのか‥‥?」
「彼は優しい人です。優しすぎて本気で神になろうとしたバカな人です。深い眠りの中にあってなお、純粋な悲しみに心痛める人です」
「‥‥聞いて貰えたんだな‥‥」
Lの感情のこもらない、けれど深い情を感じる言葉に男は肩の荷が下りた事を知った。
「貴方にとって幸せとはなんですか?」
そう問われ、傍らに置いた自動小銃にチラリと視線をやる。
男が知る現実は厳しく醜く、心を殺して鬼にならなければ、もしくは獣にならなければ生き残れない世界だ。そして、男を生かしてくれたのはこの冷たい殺しの道具。
「さぁ、何だろう‥‥小さい頃は腹いっぱい食べることだったな‥‥あぁ、今もそれはあんまり変わらないか」
「それだけで満足できないのが人間です」
「‥‥そう、だな」
だから武器がある。人を殺す道具がある。人は他人を踏みにじり己が幸せを得ようとする。それが最も簡単な方法だと、狡賢い人間はよぉく知っているから。
「あの子供達は別れて来た親しい人達の幸せを願っていました。文字通り自分の命を捨てて、自分が信じる神に祈りを捧げました。一時的に開放された天使の力はそんな子供達の時間を呑みこんでしまった」
まるで生贄を受け取った神のように―――
Lの呟きに男は静かに黙祷を捧げた。
天使、神――― そんな単語に幼い頃の祈りの時間を思い出す。
どんなに大人達が祈りを捧げても神に通じた事はないという。現実の辛さを知っていながら人間の醜さに未だ絶望していない子供達の声だけが神に届くと。しかし、願い事を聞いてもらえた子供達は決して戻って来ない‥‥‥何時の頃からか実しやかに囁かれ始めた神の、キラの伝説。
そうして世界中のいろんな組織が、国家が、いたいけな子供達を集めて神が住むという島に向かわせた。永遠に晴れることのない霧の向こうの島に。
「大丈夫、あの子らが信じた神は形だけの神ではありません。キラは自分の心の安らぎを捨ててまで罪を裁いた人です。子供達の願いは何がしかの形できっと叶うでしょう」
「暫くは穏やかな日が続くかな」
Lが頷いたのが気配で分かった。
過去もそうだったと、歴史が物語っている。
「それで?貴方はこれからどうするつもりですか?もうこの島からは出られませんよ。何せ船は一隻もありませんから」
霧は侵入者を拒む。戻って来ないと判っている子供達を待つほど、国連も暇ではない。燃料は貴重なのだ。
「楽しかった頃を懐かしみながら、ゆっくりと死を待つのもいいかもな」
「それは無理な話です」
「戦争屋に安らかな死は勿体ないって?」
「そうではありません。この島に死は存在しないからです。しかも、今は彼が目覚めた直後、ここは『地上の天使』の力に満ち、世界で最も生命力に溢れた地となっていますから」
「‥‥え?」
「嘘ではありません。何でしたら四六時中そこに座って実体験しても構いませんよ」
「遠慮しとく」
あながち嘘とは思えず、男は諦めたように息を吐き出した。
「死なないって‥‥なんだよ、それ。じゃぁ、あんたやっぱり不老不死の仙人なのか?」
「仙人ではありませんが、不老は確かなようですね。この一〇〇年、いつ鏡を見ても同じ顔でしたから」
「世の権力者どもが涎を垂らして飛びつきそうな話だな」
「私に賄賂は通じません」
「そんな感じするな、ハハハ‥‥」
死を覚悟して桟橋に座り込んでいた男は、その救いさえ得られないという事実に大いに落胆した。
「世の中、科学じゃ解明できない事がまだまだあるんだな。神の存在もその一つか」
この時代、神はキラ様を指す言葉だ。日頃のご利益はとんとないけれど、何十年かに一度、大いなる祝福を与えて下さる有難い神様だ。
「神が実在するかは知りません。けれど、死神が実在するのなら、その他の存在が実在してもおかしくはない」
「死神?」
男は不気味な存在の名に顔をしかめ、再びLの方を見やった。
「信じられないでしょうが、死神は本当にいるのです」
「まさか‥‥」
「私も彼も死神に会って話をしたことがあります」
「‥‥‥」
無表情のままそう言った男はあまり人間らしく見えず、魔術師と呼ぶに相応しく思えた。
「俺は‥‥死ねないのか?」
「簡単には」
「餓死も無理?」
「ずっと空腹のまま、それでいて肉体は保たれ続ける。この島にいる限りは」
「それは‥‥嫌だな」
「えぇ。人間お腹が減るとイライラして作業効率が落ちますし」
「喧嘩っ早くなるし」
「私、意外と強いですよ」
男は笑って傍らの銃を手に取り海に投げ捨てようとして思い止まった。
「じゃぁ、自分で自分の脳味噌を吹き飛ばすってのは?もしくは首を刎ねる。ほら、よくあるだろ?ゾンビ映画とか何かで。あいつら、脳味噌吹き飛ばすか首を切り落とすかしたら死ぬじゃないか」
それから期待せず、レクリエーションで見た昔の古い映画の事を思い出しながら聞いてみた。だが、予想通り期待は裏切られた。
「何をしても無駄です。首を切り落とそうが燃え尽きて灰になろうが、意識、魂は此処に留まり続けます。バラバラになった死体に、灰に。生きていた時と同じ心理状態で。だったら、肉体は正常に保っていた方が何かと便利です」
「ゾッとしないな‥‥」
肉体を失っても死霊となり、しかも意識は生きていた時と同じ――― つまり、死んだと言う自覚はない?――― 状態で地上を彷徨うのだと知って、男は更に笑うしかないと思った。
「ちょっとあんたに同情するよ、魔術師」
「遠慮します」
男は何の未練もなく銃を海に投げ捨てた。なるべく遠くへ。
「それで先程の話なのですが。どうせこの島からは出られないのですから、貴方、私に雇われませんか?」
「?」
突然そんな事を言われ、男は目を丸くして背後を振り返った。
「実は屋敷の管理を任せていた夫婦がこのたび無事昇天しまして、私今、とても困ってるんです」
「昇天?え?死ねないんじゃないのか?」
「難しいと言っただけで、死ねないとは言ってません」
「な‥‥!」
たった今銃を投げ捨てた海に視線を戻し、あわてて飛びこもうとするが思い止まる。
「まさか‥‥人生に満足しなくちゃ死ねないとか‥‥言わない、よな?」
「残念ながらそのまさかです」
それを聞いて男は頭を抱えた。
「管理人夫婦は待ちに待ったキラの復活を目にして満足して逝きました」
「そういう理屈かよ‥‥」
では、自分はなかなか逝けそうにない――― 男は桟橋にどかりと座り込み項垂れた。
「で?どうなんですか?管理人、やりますか?」
相変わらず無表情なLは、よく判らないがどうやら本気らしい。行く所のない男は仕方なくそれを受け入れるべく再び立ち上がった。もう魔術師への恐怖は微塵もない。
「管理って‥‥?」
「文字通り管理です。私、掃除なんてできませんから。もちろん料理も洗濯もです」
「家事手伝いの間違いなんじゃ‥‥え?料理?食材は?」
「どういう理屈か屋敷の食料庫は何時も食材で一杯です」
「どうして?」
「たぶん霞でしょう。いわゆる幻です。しかし、精神的な満腹感は得られます」
「やっぱり仙人じゃないか‥‥」
「そうとも言いますね」
素知らぬ顔で平然と言ってのける男はこの島の主。魔術師にして世捨て人。その名をL。
ざんばらの黒髪に少し飛び出し気味な黒い目。白いTシャツに着古したジーンズ。何所からどう見ても仕事にあぶれた若者にしか見えないが、彼は間違いなく神の眠りを護る者だ。
「もし引き受けなかったら?」
「ずっと野宿です」
「狩りは‥‥」
「この島に食糧となる動物はいません。いても昆虫の類ぐらいです」
「魚は‥‥」
「海流の関係で魚もほとんどいません」
そんな話をしていたら急に空きっ腹が意識され、とたんにグウと男の腹が鳴った。未だ生きているのだと、そう感じる。
「飢えも寒さも十分すぎるくらい体験した。もうウンザリだよ」
男はそう言うと銃だけでなく弾帯やアーミーベストも海に投げ捨てた。
「報酬は?」
「柔らかいベッドと温かい食事。それで十分なのでは?」
「だな」
それで話は決まった。男はLに続いて鉄柵をよじ登り島の内部へと足を踏み入れた。
島は岩だらけの、それでもそこここに花が咲く静かな島だ。空は霧に覆われ灰色に染まっている。だが、あの時は確かに陽が覗いていた。
あれは神が、キラが目覚めていた時間だったのだろう。
「なぁ、キラ様って‥‥どんな人だったんだ?」
神話と呼ぶにはごく最近の、伝説というには血生臭い、それは云わば都市伝説。
その中心にあるキラは一人の人間であったらしい。Lがキラ様を『彼』と呼ぶからには男なのだろう。それも想像するに善人の塊のような男。
「良い人だったのか?」
ジーンズのポケットに両手を突っ込み酷い猫背で前を行くLは、男の言葉にただの一度もその歩みを止めようとはしなかった。
「良い人ねぇ‥‥えぇ、確かに良い人でしたね」
だが、質問には答えてくれるらしい。
「綺麗で頭が良く運動神経も抜群、性格も非の打ちどころがなく、正に完璧を絵に描いたような人でした。私と違って品もあり、決して事を荒立てたりしない平穏を愛する人でしたね。そして何より人を労わる心を持ち、その強い正義感に見合った行動力の持ち主でもありました」
「なんか‥‥凄い人だったんだな」
「えぇ。本当に凄い人でした」
肩を竦める仕草は皮肉気ではあったが、彼の事を語る事ができてLは嬉しいのだと、何故か男には判った。
「その反面、幼稚で負けず嫌い。時には口より手が先に出る人でした」
「熱血な所もあったんだ」
「行動派だったんですよ。不言実行、一度口にした事は必ず実行する。そして、決して諦めない人でした」
全て過去形なのが悲しいけれど。
「とても‥‥とても不遜な人でした。自分にやれない事はない、他の誰にも出来ない、自分にしかできない‥‥そう思い込み、何もかも一人でやろうとする傲慢な人でした。この世を変えて新しい世界の神になるのだと、本気で考えていた‥‥」
Lの平坦な口調に変化はなかったが、やはり男には判った。Lはとても悲しんでいる、悔しがっていると。
「その為には手段を選ばないとても計算高い人で、情を捨てる事さえ厭わない合理主義者でもありました。そして、愛する家族でさえも、いざとなったら殺す覚悟をした恐ろしい人‥‥」
「‥‥可哀そうな人、だろ?」
だからついそんな言葉が口を吐いて出た。
「あんた、キラ様に捨てられたのか?」
おそらくLはキラに好意を持っていたのだろう。そして、キラとして生きる彼の身をとても案じていた。
キラがただの傲慢で冷たい人間だったら、Lがこんなに語る事はなかったはずだ。キラはLが語るに足る人物だったのだ、きっと。
目的のための犠牲を容認する覚悟があったのなら、キラは己の幸せを顧みることをしなかったに違いない。故に、自分を心配する者さえ切り捨ててしまったのだろう。そんなキラに切り捨てられた、置いて行かれた人間はLの他にもたくさんいたのかもしれない。
「捨てられたのなら、追いかければいいだけの話です」
「あぁ、そうだな」
男はLの苦しそうな背中をじっと見つめた。
「キラは子供だったのです。世を拗ねた振りをして、その実、世の不条理に憤慨していた。恐らく自分自身でも気付いていなかったのでしょう。何せ未だ未だ子供でしたから」
「キラ様は‥‥殺されたのか?」
一〇〇年前の事件は今も語り継がれているが、公的記録としては一切残っていないという。残っていたとしても最重要機密として厳重に保管され、決して人目に触れることはないと言われている。だから尚更キラは伝説と化した。
「彼がした事は、人類が長い年月をかけて築いて来た秩序を壊そうとするものでした。目には目を、歯には歯を、罪には罰を。それは一つの真理ですが、膨張し肥大化した社会においては権力者の不興を買う行いでした。彼の間違いは裁きを全て自分一人で行った事。裁きの基準も自分一人で決めた事。それは既存の権力を蔑にするものであり、その地位を危うくするものでした」
「だろうな‥‥いつの時代でも権力者ってのは自分の地位を守ろうとするからな。そして民衆は弱い者の味方に熱狂する。キラ様がクーデターでも起こすと思ったのか?だから殺した?」
「‥‥‥」
帰らぬ答えに男はそれも一つの真実なのだろうと悟った。
「本当に子供だったんだな、キラ様は」
見えて来た屋敷は神の住む屋敷と呼ぶには少々貧相ではあったが、男とLの二人で住むには聊か掃除し辛い大きさではあった。
「姑息で狡賢い権力者達の臆病を許容し、利用するだけの心のゆとりが、子供のキラにはなかった‥‥」
それだけ純粋だったのだと思う。それに下手に大人と慣れ合えば堕落してしまう可能性もあった。キラはそれを恐れて独善に走ったのかもしれない。
全ての行いには光と影が付いて回る。誰かが感謝すれば誰かが憎む。誰かが損をするから誰かが得をする。全てを掬い上げる事は不可能と言ってよい。
それを知りながらやろうとしたのがキラなのだろう。そして彼は権力者達に煙たがられ殺されてしまった。
いつの時代もそう言うものだ。
「あんたが助けてやればよかったのに」
「‥‥そう、ですね」
あまり使いこまれていない扉を押し開けば、そこは既に神域。
「本当に‥‥そうしてあげたかった‥‥」
気付くのが遅かったと、Lは心の片隅で思う。
いや、そうではない。判っている。
気付いていたとしても、やはり自分はキラを捕まえていたはずだ。そして、全てを騙して彼を手に入れていた。
「私は貴方を‥‥自分一人のものにしたかった」
夜神月をキラの座から引きずり降ろし、彼を自分に縛り付けておきたかった。
世界がどうなろうと知ったことではない。自分はただ快適に『L』として在りたかっただけだ。
そして、一人の人間として夜神月に甘えたかった。
「今も私はキラが許せません。私から月君を奪って行ったキラが‥‥」
それでもキラが月であるならば、月がキラであるならば、私はそのどちらをも愛するのだ。
慈愛の心など糞くらえ――― もう何十年も前、眠り続けていた彼が唐突に目覚めた時、Lもリュークも大喜びしたが、久方ぶりに見た琥珀の瞳はあまりに澄み切りもはや人のものとは言い難く、彼が何処かへ行ってしまうのではないかと大いに不安になった。
そして、目の前には自分しかいないにも拘らず、そこに映っているのが自分一人ではないと気付き、初めて知った彼の残酷さに心から泣いた。
彼はあれから三度目覚めたが、三度ともLの呼び掛けに応えてのものではなかった。
「早くキラを忘れて下さい、月君」
掬って欲しかったのは、その他大勢の人間なんかじゃない。
「そして、今度こそ私の傍にいて下さい」
自分がこんなにも幼稚だったとは、可笑しくて涙が出そうだ。
完璧な人間など何所にもいない。あの夜神月でさえそうだった。ましてや自分は隔離された世界で生きて来た、人間の欲望の表れである犯罪を友とし日々を過ごして来た人間だ。そんな人間の神経が、心がまともであるはずがなかった。そして自分の欲しいものが何か、ちっとも判っていない大バカ者だった。
判っているつもりで判っていなかったツケを一〇〇年掛けて今自分は払っている。
それが、夜神月を死なせてしまった自分への罰なのだ。
「その時こそ私は‥‥」
最後まで僕を信じてくれないんだな、竜崎――― 琥珀の瞳が最期に綴った悲しみの言葉。
まさしく月はキラであったけれど、あの時の夜神月はキラではなかった。彼の心はLの役に立ちたいと心の底から願っていた。
夜神月がキラだと言う事実を踏まえてなお彼のその心を信じる時、その時初めて二人の運命は重なったであろうに。
「貴方に笑って欲しい‥‥そして、私の笑顔を見て欲しい‥‥」
夜神月を信頼し共に生きたいと願っている自分の笑顔を彼の瞳に映したい。
それが、エル・ローライトをこの世に留めている未練の中核だった。
幸せを与えてくれる存在が神ならば―――
たくさんの人のための神なんかいらない。
大勢を救ってくれる神なんか必要ない。
ただ自分のためだけに存在する神が欲しい。
それがただの人間であっても、その人が自分の神様。
その人が自分に笑いかけてくれるだけで自分は幸せ。
だからその人が自分の神様。
その人の瞳に幸せな自分を映したい。
そして、それがその人自身の幸せに繋がるのなら、こんなに素晴らしい事はない。
貴方が私の神様です。
fin
後記
イメージは骨と花。元は漫画用のネタでした。
描きたかったのは、咲き乱れる花々の中をさ迷い歩く白い月、
幸せそうに眠る月を姫だっこして螺旋階段を降りて行く竜崎、
そして骨となったリュークに抱かれ護られるキラ、の3つのシーン。
しかし、筆をおいて早数年のためなかなか漫画を描けず小説に。従ってイメージ先行の話です。
「キラ=天使」ネタのLヴァージョンです。
月ォ~!殺しちゃってごめんよぉ~~!で、でも生きてるし?セーフ?
イメージに走ると屁理屈は消えます。意味不明です。
天使の詳しい設定はニアヴァージョンで書く予定。
ってか、ニアヴァージョンを書く日は来るのか?(書きかけで止まっている)
AVALONは云わずと知れたアーサー王伝説に出てくる島の名前です。
傷ついたアーサーが姉のモリガンに連れて行かれ最期を迎えた島です。
ケルト伝説だっけ?妖精の住む島だよね、確か。
相変わらずタイトル決めるのに四苦八苦し、
島が舞台だから有名な伝説の島の名前でも持ってくるかと思い、在り来たりですがこの名を借りました。
他のタイトルも一応考えたのですが、まぁ、これが一番しっくり来るかなと。
サブタイトルはLのためのタイトルです。幸せなのか不幸せなのかよく判らないLです。
Lはものごっつ自分勝手な奴だと思います。
彼のいう正義は確かに正義でしょうが、彼自身が正義を信じているとはNには思えませんので。
そして月もものごっつ自分勝手です。独善家です。
でも、自分でも知らないうちに博愛主義者に育ってしまった坊ちゃんです。総一郎の教育の賜です。
そんな二人が共に幸せになる道は果たしてあるのでしょうか。
「貴方の眸に私はどんな人間として映っているのでしょうか」
「ん?変人、かな?少なくとも善人ではないな」
「否定はしません」
「そう言う竜崎の目に、僕はどう映っているの?」
「一言でいえば、子供ですね」
「言うと思った」
「あとは美人」
「メンクイ」
「否定はしません」
「差別だな。僕はカエルだって平気なのに」
「ゲテモノ好き?」
「見た目で判断しないだけさ」
「そんな貴方が好きですよ」
「僕もね」
2007.10.19(初出)