Lが死んだ。
そうロジャーに告げられた時、ニアは顔色一つ変えず、肩や唇を震わす事なく、ただLに似ていると言われるその大きな目を糸のように細くしただけだった。
「死んだ!?な、なんで‥‥!」
隣では自分と同じ次期L候補のメロが年相応の驚愕に満ちた表情を晒している。
「キ、キラに殺されたって事か?!‥‥そうなのか?」
「‥‥おそらく」
ニアは院長室にまで持ち込んだジグソーパズルの最後のピースをパチリと嵌めながらその会話を聞いていた。
「キラを死刑台に送るって言っておいて殺されたって‥‥そう言うのか!?」
「‥‥メロ‥‥」
直ぐ激昂するのはメロの悪い癖だ。そうニアは断ずる。
そして、メロは決してLの死を悼んでそう言ってる訳ではないとも。
「ゲームに勝たなければ、パズルを解かなければただの敗者」
だからそう言ってやった。
案の定、ロジャーに詰め寄っていたメロはハッとニアを振り返り、徐に―――
「で?Lはニアと僕のどっちを後継者に?」
そう追求した。
結局メロの関心事はそれなのだ。
「まだどちらとも‥‥死んでしまってはもう選ぶ事も‥‥」
不安に苛まれた目でメロを見上げるロジャーという名の老人は、ほんの少々目先が利くものの本質はいたって凡庸な男である。言われた事は十二分にこなすけれどそれ以上の仕事は期待できない。その代わり、誠実という長所を持った男だった。
「メロ、ニア‥‥」
そんな男の次なる科白は決まりきっている。
だからこそ、ニアは完成したパズルを崩し、再度ピースを嵌め込みながら待っていた。
「どうだろう‥‥二人で力を合わせ‥‥」
彼のその一言を。
「‥‥うん、そうだね」
メロの気配が冷たく凍り、そして熱く激しく噴出するのが判った。肌で感じた。
だがニアは顔色一つ変えなかった。いや、変わらなかった。
「無理だよ、ロジャー。僕とニアが仲良くないのは判ってるだろ」
怒りと憎しみを奥底に塗り込めた科白がメロの口から発せられる。
「いつも競ってたんだ‥‥いつも‥‥」
そう思ってたのはお前だけだ、メロ――― とは、ニアも流石に言わなかった。
いつも二番だったメロ。どんなに努力しても自分には勝てなかったメロ。
メロに次期Lの座を譲る気も、奪われるつもりもないけれど、何かと目障りで煩わしいメロをどうにかしたい。ずっとそう思っていた。
「いいよ、ロジャー‥‥Lを継ぐのはニアだ。こアなら僕と違って冷静に無感情に、パズルを解くようにやってくれる」
ニアはメロの厭味にも全く動じなかった。
「僕は出ていくよ、この施設からも」
「!‥‥メロ」
あぁ、やっと言った。
「ロジャー。どっちにしろ僕ももうすぐ十五歳だ」
ずっと聞きたかったその言葉、敗北宣言。
「自分のやり方で生きていく」
もちろんニアは止めなかった。
年末の押し迫ったある雨の日、メロはボストンバッグひとつ持ってこの『ワイミーズ・ハウス』から、ニアの視界から消えた。
「ニア……淋しいだろうが、これで次期Lはお前という事になる」
「そのようですね……」
次の日その事を知ったロジャーは深い溜め息とともにそうニアに告げた。
ニアは知っていた。
ロジャーが、次期Lにはどうせならメロがなってくれないだろうか、と考えていた事を。
メロは扱いにくい『後継者候補』の中では、比較的コミュニケーションの取りやすい方だったからだ。L候補としては幾分感情的で荒っぽい所があるが、その分情に厚いという人間関係全般に必要な要素を持っていた。厚いといっても『ニアよりはまし』という程度で、決して一般レベルではない。
それでも凡庸なロジャーにはメロの方が人間味豊かな子供に見えたのだろう。感情を何処かに置き忘れて来たようなニアより彼を好いていたのは確かだ。
その事をロジャーがキルシュ・ワイミー、この養護施設の創始者に愚痴るように語っていた事をニアは知っていた。
正義の探偵が冷たい機械のような人間であってはいけない――― そう言っていたのもちゃんとこの耳で聞いた。それに対してワイミーは『決めるのはL』と、答えただけで何の意見も口にしなかった。
だからニアは思った。きっと自分とLは似ているのだろうと。
だったら次期Lは自分でしかありえない。
メロの敗北は当然のことだった。
メロが去り、一人残ったニアはロジャーのパソコンに触る許可を求め、それを了承された。
そのパソコンは特別なパソコンだった。
この施設で直にLとリンク出来る唯一のパソコンだ。
そこには定期的にLから連絡が入るようになっている。そして、万が一600時間、つまり25日間連絡が無ければ自動的に『Lは死んだ』とみなされる事になっている。そのようにロジャーとL、ワタリの間で取り決められたらしい。
そんな重要な意味を持つパソコンにはLが手掛けた事件の資料がバックアップの一つとして送られても来ていた。
ニアはそれが見たかったのだ。
しかし、残念ながらキラに関するデータはごく初期のものしか送られて釆ていなかった。キラがFBI捜査官を殺した後のものは一切なかった。
それがLの意志なのかキラの仕業なのかニアには判断するだけの材料がなく、彼は自分で調べ直さなければならないのかと少々うんざりした気分になった。
こんな事ならメロを追い出さず、二人でLをやればよかったと思った。
根っからのインドア派であるニアは頭脳労働は得意でも、足で稼ぐ地道な調査は大の苦手だった。いや、嫌いだった。
理想は自分がLを継ぎ、行動力に優れ直感型のメロがサポートに回る。
だが、手を組むには二人は子供すぎて打算を働かすまでには至らなかった。
それだけは悔やまれたが今更である。
他のL候補の中から一人選んでサポート役をさせれば良いだろう。そのほうがメロを使うより余程いいかもしれない、と考え直しニアはほくそ笑む。
自分について来れたのはメロだけだった。十何人もいるL侯補の中で二番と三番の差はとても大きかった。だが、少しバカな方が良い忠犬にはなるだろう。
ニアはパソコンの電源を切りながらそう思った。
そうして年は明け冬が過ぎ春になった。
その年の春の訪れは例年より遅く、もうじき四月になろうというのに肌寒い日が続いていた。
ニアが身を寄せる養護施設『ワイミーズ・ハウス』は表向きカソリック系のボランティア団体によって運営されていた。
建物の外観は古めかしかったが、中は最新設備が導入されセキュリティも万全だった。
それもそのはず。世界の切り札Lの次期侯補を密かに育てる教育施設なのだから。
ニアがここへ釆たのは母親が他に男を作って躯け落ちし、父親が麻薬のやり過ぎで死んだからだった。まだロースクールに上がる前の事で、そう珍しくない事例の一つといえた。
入所して直ぐに行われた知能テストで――― その時はそうだとは判らなかった――― ニアは特別クラスに振り分けられた。
特別な教育カリキュラムが組まれたクラスだ。そこには既にメロがいた。
その後何度となく面子が変わったが、クラスには常に十数人の子供たちがいた。年齢に多少バラ付きがあり個性豊かなその集団はお世辞にも協調性があるとは言い難かった。
授業の合間に出される推理クイズや普通の学校では決して教えないだろう犯罪史や犯罪心理学。
十歳になる頃にはクラスの子供たちは自覚する。
自分たちは特別なのだと。
そして、自分こそは次期Lになるのだと夢見る。
けれど現実は厳しく、途中で挫折する子もいれば、Lが死亡もしくは引退する前に大人になり施設から出ていかざるを得なかった者もいた。
その点、ニアは才能だけでなく運にも恵まれていた。
結構若いと聞いていたLがキラに殺され、ライバルだったメロが癇癪を起こし自ら出奔したからだ。
メロがいなくなった特別クラスにニアに逆らおうという子供はいなかった。ニアが一番だと皆認めていた。
「おい、ニア」
いや、ただ一人ニアに冷たい態度を取る者がいた。
背後から声を掛けられてもニアが読んでいた本から視線を外す事はなかった。
「お前、また礼拝さぼったな」
「許可は出ています」
「ハン!許可じゃなくて黙認だろ?」
それは同じ次期L候補の一人マットだった。いや、もう候補ではない。
「私が日曜礼拝に出ないのはいつもの事でしょ。今更、なんですか」
「今日のは全員参加だって言われてただろ」
「あぁ、何処かの誰かさんが死んだ日でしたね」
「それを……」
「許可は貰ってます」
忌ま忌ましげにマットが舌打ちする音が聞こえた。
彼はクラス全員がライバルというL候補者たちの中にあって少々浮いた存在だ。非常に社交的で陽気、あのメロとも仲が良かった。
体を動かす事が大好きで勉強よりスポーツに熱を上げ、この一年は下から数えた方が早いような成績だった。
そのマットだが、彼はメロが施設を出て行った本当の理由に気付いていた。
口にこそしないが、目が言っている。
『お前がメロの性格を逆手に取り、自ら出て行くよう仕向けたんだろ、ニア』
もちろんニアは動揺の欠片も見せなかった。それでも内心彼の勘の鋭さに舌を巻き、彼がサポート役になってくれれば助かるのに、と考えた。
だが、その話をちょっとでも切り出せばマットもメロ同様ここを出て行くだろう事は判りきっていた。マットは特にメロと仲が良かったからだ。
どうして誰もかれも冷静に事に当たれないのだろう。
世の中本当にバカばかりだ。
ニアはしみじみそう思いながら本のページを捲った。
「ニア!お前いい加減に……」
その時、二人がいる談話室に黄色い声を発しながら数人の女子生徒が騒け込んできた。いずれも最年長クラスのようだ。まだまだ青臭さの残る二人など足下にも及ばぬくらい大人びた女の子たちだ。
その余りの騒々しさにニアは眉を革め、マットは遅れて入って来た同学年の子に彼女たちの浮かれ加減の理由を尋ねた。
「ほら、今日のミサに見慣れない奴が混じってただろ?」
「ん?あぁ、確か一番後ろにいた……」
「旅行者らしいぜ。ミサが珍しくて見物しに来てたんだと。そいつにあいつらの一人が声を掛けて、それからはもう蟻が群がるみたいに……」
「なんだ?TVスターか何かだったのか?」
「いいや。けど、すげぇイケメンだって、女の子たちが騒いでた」
「チッ、顔目当てかよ」
その会話を聞くともなしに聞いていたニアは、ギュッと寄った眉間の簸を指で無理矢理伸ばし質問した。
「旅行者ですって?何処から?」
「知るかよ」
「知らないのですか」
「男にゃ興味ねェよ」
「役に立ちませんね」
同学年の子は――― その男子生徒はL候補ではない――― ニアの言い方にあからさまに腹を立て、マットに『相変わらずヤな奴だよな 』と耳打ちした。
「厭味は聞こえないように言うものです」
「!!」
「知りたかったら、自分であいつらに聞けよ、ニア」
カッと頑に血を昇らせた友人を止めたマットはそう言うと、どうせニアが動くはずないと踏み自分から女の子たちに声を掛けた。
「そうなのよ~!すっごくカッコイイのォ!」
「だよね、だよね!なんかガラスで出来た王子様みたいな感じィ」
「指なんて細くて白くて。繊細って、あんなのを言うんだよ、きっと」
「ちょっと男にしとくの勿体ない!つてくらいの美少年だったわね」
「美青年だよォ。二十歳越えてんじゃないのォ?ホラ、東洋人って若く見えるから」
「東洋人?」
機関銃のように喋りまくる生徒たちの黄色い声に辟易しながらも、ニアはその引っ掛かる一点を追求した。
「そう、日本人。今、日本の大学は春休みなんだって。それでこっちに旅行に来たって言ってた」
「……日本人」
ひっかかる所ではなかった。だが―――
珍しく厳しい表情で黙り込んだニアの様子に、マットも何か気付いたのだろう。
「なんでこの街に来たんだ?ここにゃぁ、たいした観光名所なんてないだろ」
「ここにはなくても隣街にあるじゃない」
確かに隣街は古い街道で有名である。
「そこの教会で、この街の教会にグリューネバルトの絵があるって聞いてわざわざ見に来たんだって」
「え?うちの教会にお宝があんの?」
「そういやぁ、なにかあったような……」
「祭壇の隅っこにあるでしょ。小さいのが」
「聖母子像」
「そう、それ」
「それをね、一緒に見たのよねェ」
「ステキな瞳だったわァ。モルトウイスキーみたいにキラキラしてた」
「日本人って、全然体臭がないよね」
「ちっとも男臭くなくって」
「肌もツルツル」
「キャーッ!」
それだけ聞くとニアは立ち上がり談話室を後にした。
「待てよ、ニア」
その後を追ったマットが廊下でようやく追いつく。
「ニア、なに考えてんだ?」
「………」
「答えろよ、次期L殿」
ジロリとマットを睨み付け、ニアは左に折れる廊下の奥に視線を送った。
その先には、養護施設に併設された教会がある。多少古いものの大した名所でもないので一般人も出入り自由。そこにグリューネバルトの絵が飾られている事は旅行パンフレットにも載っていない。
「日本人の旅行者だってさ」
旅行者自体は特に珍しいものではない。有名観光地ではないがそれなりに歴史のある街だ。観光要素が全くない訳ではない。隣街から続く街道目当ての旅行者がついでに立ち寄って行く事もしばしばだ。それに、郊外に広がる長閑な田園風景のお陰で、観光パンフレットに避暑地として紹介されてもいる。観光のメッカとは言わないが、そこそこ魅力のある街だといえよう。
そんな地味な歴史ある街にも、ここ十年程で東洋人の旅行者が増えた。交通の便の良さが引き金となったようだ。
だが、いまこの時期に日本人というのは―――
「もしかしてKIRAだったりして」
ニアは厳しい視線を冷めたものにして再度マットを見やった。
「だったらキラは相当のバカですね」
「プチLの溜まり場にノコノコ現れたから?」
「私がいるからですよ」
随分と驕ったその科白に、マットは思いっきり鼻の頭に皺を寄せた。
「キラのはずねェだろ」
「そうでしょうか」
「キラにここが判るもんか。それに、Lやワタリが使っていたパソコンには強制デリートソフトが組み込まれていると聞いた。一定時間キーが押されなければ自動的にそのソフトが働く。キラがLの情報を得られる筈が無い」
「Lのパソコンが、Lの死後直ぐにキラの手に渡っていたら?」
「それでもパスワードが判らなけりゃ手に入れようがない」
それはつまり、知らない間にLがキラに肉迫されていた事に他ならない。
もしそうなら、キラはLの身近にいた事になり、Lはキラにまんまと騙されていた事になる。それをLが知っていたのか知らなかったのか。いずれにしろ、負けて死んだLにもはや汚名を雪ぐ術はなかった。
「キルシュ・ワイミーの死は新聞に載りました」
「!」
マットはニアの冷静な口調に一瞬呑まれた自分を感じた。
「もしキラがワタリの顔を見ていて……」
「地方紙だ!」
ワタリがそんなへまをする筈が無い。ましてやあのLが、有能な方腕であるワタリを危険に晒すような真似をする筈ながい。若しくは最後の切り札としてワタリの存在は最後まで隠していた筈だ。
そう思いながらも、その可能性が全くないとは言いきれず、マットは鋭い視線をニアへと向け続けた。
ワタリの正体は謎でも、慈善家にして発明家のキルシュ・ワイミーはそれなりに有名である。事実、その死は地方紙とは言え新聞に載り、多くの人が知るところとなったのだから。
「このインターネット社会のご時世にそれを言うのですか」
「それでも!キラ自身のはずがない!自分から姿を現すような、そんな危険を冒すバカじゃない筈だ!」
「ずいぶんとキラの肩を持つんですね、マット。もしかして貴方、キラ信者ですか?」
「ニア!」
あまりの言いぐさにマットはもう少しでニアを殴るところだった。
「判った。俺が確かめて来てやる!」
「……」
「どうせお前は、自分じゃ何もしないんだろ?」
少し蔑むような目でニアを見下ろし、マットは教会へと続く渡り廊下を進んだ。
どうしてこんな奴が次のLなんだろう―――マットは行方の知れないメロのことを思い、苦々しく唇を噛みしめた。
女の子たちの言う通り、件の旅行者はまだ教会にいた。今は最後尾から前の方へ移動し、長椅子に浅く腰掛けて祭壇のイエス・キリスト像を見上げている。
「なにか面白いもんでもある?」
マットが声を掛けるとその旅行者は驚いたようにこちらを振り返った。
「あぁ、すまない。もしかして、もう出ないといけない時間なのかな?」
流暢な英語に今度はマットが驚く。
「そんな事ねェよ。ここは来る者拒まずだ。迷える子羊には何時でも扉を開けてる」
「そう…よかった」
逆光で顔はよく見えない。
マットはキラに関する噂をもう一度頭に思い浮かべ、それからゆっくりと旅行者―――若い男に近づいて行った。
キラの殺人には顔と名前が必要。
それが現時点で判っている事のすべて―――
「隣、座ってもいい?」
「……どうぞ」
そう言うと、男は少し首を傾げ小さく笑って頷いた。
女生徒たちが言う通り、旅行者はイケメン、綺麗な男だった。いや、声を聞かなければマニッシュな女性と勘違いしたかも知れない。
肩に届くか届かないかの髪は東洋人らしく黒くツヤツヤとして指通りがよさそうだ。間近で見た肌は通説通り肌理細かく黒子ひとつない。そのうえ薄紅色にほの白く、有名美術館に展示された陶磁器を思い出させる色合いをしている。
同じ色白でも白人と東洋人では透明感が全然違うんだな、とマットは思った。まるで真珠のようにまろやかな白さだ。
骨格も白人男性とは比較にならないほど華奢で丸い。角のない頤は女性的とさえ言えた。
サッと紅筆を掃いたような唇、形の良い鼻、細い眉。すべてが小作りで触ったら壊れてしまいそうだ。ガラスの王子様とは言いえて妙である。
「えっと……やっぱり、もう行った方がいい?」
「!違うって。居ていいんだよ」
「でも……」
あまりにじっと見ていたせいで男は――― 東洋人は若く見えると言う通り、旅行者は男というより少年に見える。年齢は十六~七だろうか――― 居心地が悪くなったのだろう。少し腰を浮かしかけ、躊躇いがちにまた長椅子に腰を下ろした。
「うちの女の子たちがさ、スゲェ綺麗な兄ちゃんがいるって騒いでたから見に来たんだ。そんだけ」
「!」
ちょっとピックリした顔は更に幼い。
「あんた、日本人?」
「ん?そうだよ」
「名前は?何てェの?」
「………」
「俺、マット」
マットは人好きのする笑顔を浮かべ極力無邪気に振る舞った。
「僕はKISARAGI」
「キ……?」
「February。二月っていう意味だよ」
それが功を奏したか男は名を名乗りニッコリと微笑んだ。その途端、眼鏡の奥の琥珀の瞳がとても柔らかく笑み崩れ、マットは図らずも己が胸がときめくのを感じた。
男でも女でも美人は美人だと、齢十五歳にして初めて知る。
「俺、日本人見るの初めて。なぁなぁ、空手できんの?カラオケ好き?」
その美人がコロコロと笑う姿につい見とれてしまう。
「日本人がみんな空手をやってる訳じゃないよ。僕は合気道。それと柔道をちょっとね」
「ジュードー!俺もやった事あるぜ!」
「そうなんだ」
たったそれだけで二人は旧知の仲のように打ち解けた。たぶん人懐っこい性格の日本人なんだろう、とマットは思った。
「あんた、やっぱ綺麗。美人だな」
「……ハハ。一応ありがとうと言っておくよ」
「眼鏡外せばいいのに。きっともっと美人になるぜ。あんまり度、強くないみたいだし」
「もう癖になっちゃってるから」
マットが指摘した通り、キサラギと名乗った男の眼鏡の度はさはど強くない。掛けなくてもそれなりに見えるはずだ。それにこの若さでこの美貌なら、コンタクトをしていた方がしっくりくる。
「もしかしてナンパ予防?」
「アハハ」
笑って誤魔化されたが、この推理が案外当たっているかもしれない。
「大学生?」
「そうだよ」
「見えない」
「これでも二十歳なんだけど」
「嘘!十六~十七かと思った。一人旅じゃなけりゃ、十五でも通るし。そしたら、俺と同級生~!?」
「うわっ、十五はヒドイなァ」
またひとしきり笑ってマットはさり気なく男の肩に触れた。緊張は微塵も感じられない。
「えっと……二月(フエブルス)君でいい?」
「アハハハ、いいよ。僕もマットって呼び捨てでいいかい?」
「OK!OK!」
マットは肩に掛けていた手を滑らせ彼の両手を握り大げさに握手してみせた。細いが確かに男の手だ。少しも手荒れがない事からして暮らしは中の上だろう。付け加えると、発汗の類も全くなかった。
「絵、見た?」
「見たよ。椅麗だった」
「綺麗か?あれ。ちょっとグニャッとしてない?」
「色彩が好きなんだ」
「あんたの方が美人だと俺は思うぜ」
それを口にすると彼は必ず笑う。多分言われ慣れているのだろう。そして本人はそれに何の感慨も抱いていない。
「でも、物好きだな。こんな名もない街に来るなんてさ」
「隣街にね、行ったんだ」
「あぁ、やっぱり」
「パンフレットにあった街道、時代を感じるよね。教会も。そこでここの絵の事を教えてもらった」
「気に入った?」
彼はコクリと領き、それから目を細めてキリスト像を見上げた。
美しい横顔だった。
けれど、何処か淋しそうな表情だとも思った。
「あんた、クリスチャンなのか?日本人はみんなブッディストだと聞いたけど……」
「仏教徒だよ」
「その割りには熱心に見てるんだな」
「ん?あぁ、あれ?」
イエス・キリストをあれと言ってしまえるからにはクリスチャンでない事は確かだ。
「そんなにじっと見てたつもりはないんだけど……見てた?」
「見てた、見てた」
微かな笑顔も同様に淋しげである。
「あ、判った。傷心旅行だろ。センチメンタル・ジャーニー。いまどき古いね~」
少し揶揄い気味にそう言うと、否定とも肯定ともつかぬ笑みが返ってきた。
この男がキラだとはとても思えない――― そう思い始めた自分がいる。
マットは男の横顔からそっと視線を外し、ステンドグラスの向こうにチラチラ見える銀色にそっと溜め息を漏らした。
あれで隠れているつもりなのかと呆れ返る。
「友達がね……」
ポツリと漏らされた声は囁きに近かった。
朝のミサが終わり人気の無くなった礼拝堂は急激に温度が下がりつつある。かろうじて息は透明なものの男と違ってコートを着ていないマットはそろそろ辛くなり始めていた。
「昔イギリスの田舎に住んでたんだって‥‥それで、その時の事をいろいろ話してくれたんだ」
「友達?」
「生の英語を体験したくて、大学の休みを利用してこっちに来たんだけど……その時の話を思い出したら、急に田舎の風景ってのが見たくなったんだ‥‥」
静かな口調には明らかな悲しみが参んでいる。
「その友達って、こっちに住んでたのか?」
男は小さく首を横に振った。
「場所までは知らない。なにかのついでに思い出話として聞いただけだから‥‥ずっと忘れてて、それをこっちに来た時思い出してね。なんとなくフラッと‥‥だから荷物はホテルに置きっぱなし」
そう言って苦笑した男はボストンバッグやスーツケースの類を持っていない。地味な色のデイバッグひとつきりだ。
やはり傷心旅行なのだとマットは思った。友達と言っているがそうではあるまい。相手はおそらく恋人か恋心を抱いていた人物。多分に美化された思い出だから会ったばかりの人間に気軽に話せるのだろう。自分がまだ子供と呼べる年齢のせいもあるが、要は誰かに聞いて欲しいのだ、切ない胸の内を。
「恋人?」
だから出来るだけ幼い雰囲気を装ってマットは尋いた。
「いや……」
途端、伏せられた睡毛に憂いが浮かんだ。
「でも、好きだったんだろ?」
「ハハ……」
小さく笑った男は『判る?』と悲しそうに聞き返した。
「告白する前にね、交通事故で死んじゃったんだ、その娘」
物悲しい限差しが再びイエス・キリスト像に注がれる。
そこに宗教心は欠片もない。あるのは永遠に閉ざされた美しくも悲しい思い出への感傷だ。遠い異国の地で自己憐憫に浸るエゴイズム。
マットは胸の内でそっと悪態をついた。
日本人旅行者と聞いて『まさかキラ!?』と疑ったが――― Lがキラに殺されてまだ半年と経っていない――― どうやら取り越し苦労だったらしい。
『そうだよな。いくら超人的殺しの能力を持ってるからって、俺がキラでもこんな堂々と人前に出ないよな。ここはいわばLの故郷。しかも街の人間ばっかり集まった日曜礼拝に、いかにも余所者ですって姿見せるなんて、摘まえてくれって言ってるようなもんじゃないか』
ましてや男の容貌は決して地味とは言い難い。全体的に長めの髪のせいで顔の輪郭こそはっきりしないが、野暮ったい眼鏡を差し引いても十分お釣りが来るはど美しく整っている。高学年の女生徒たちなら一ケ月たっても男の事を覚えているだろう。
『Lを殺されて、ここの事も嗅ぎつけられたかと思ったけど、違うみたいだな』
「隣街の観光は昨日のうちにやっちゃったのか?」
「ん?あぁ、そうだよ」
「昨晩は隣町のホテルに?」
「部屋が取れなかったらどうしようかって焦ったけど、運良くユースホテルに空きがあってね」
マットは男の行動の穴を埋めるべく何気なさを装って探りをいれた。隣町にユースホテルは幸いにも1軒しかない。気になるようなら後でホテルの宿泊リストをチェックしてみるのもいいだろう。
「一度カソリック系の礼拝を見てみたかったから、朝一番のバスでこの街に釆たんだ」
男は口許に微笑みを湛えながら左腕の時計を見やる。
そう言えば、隣町にはプロテスタントの教会しかなかった。近辺の街で観光目当てで訪れる価値のあるカソリック系教会は、確かにこの街にしかないだろう。
「もうこんな時間か……」
「あれ?もう行っちゃうの?」
「明日の便で帰国する予定だからね。今日中にホテルに戻らないと」
マットの目にチラリと映ったのは、銀色のリストバンドに黒い文字盤の実用牲の高い腕時計。贅沢品ではないが、安物でもない。
流暢な英語を話しツアーではない旅行を楽しむ大学生。そこそこいいトコのお坊ちゃまなのだろう。
そんな事を考えながらマットは立ち上がった男の優雅ともいえる動作を目で追った。
「じゃぁ、僕はこれで。君と話ができて楽しかったよ、マット」
柔らかい微笑みには悪意も嘘偽りも感じられない。
「もう行っちゃうのか~残念。せっかくジャパニーズの友達が出来ると思ったのになぁ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
ゆっくりと出口ヘ向かう男と並んで歩き出したマットは、本当に名残惜しい気分になっている自分に少々驚いた。
ほんの五~六分話しただけなのに、どうやら彼の事が気に入ってしまったらしい。
確かにこんな美人なら男でも目の保養になるというもの。それに男の話し方はとても耳に心地良かった。
「そこまで送る」
二人は連れ立ち教会の外へ出た。
外は朝方の雪が嘘のように春先の長閑な陽光に溢れている。
ふと、男が向きを変え正門ではなく教会の右手へ回り込んだ。
「!?」
「なんだ、人間だったのか」
「え?ニア?」
慌ててその後を追い少し遅れて角を曲がったマットの目に映ったのは、覗きを見つかり逃げるのも忘れて囲まったという風情のニアだった。
「窓の外に何か白っぽいものがチラチラ見えたから、何だろうってずっと気になってたんだよね」
覗きの現行犯は事実。マットに男の事を探らせ自分は窓の外から中の様子を窺っていたのだから。自分は安全な場所に隠れ危険な事は他人にやらせる。良く言えば慎重、悪く言えば臆病なニアの常套手段だ。
恐らく帰る様子を見せ始めた男に、こっそり前へ回って後ろ姿を観察しようとでも思ったのだろう。それがあっさりバレて鉢合わせしてしまうとは、頭ばかりで実経験の乏しいニアらしい失敗といえた。
「君もここの子?」
「こいつ、ニアってんだ。こいつもジャパニーズは初めてだって騒いでたんだけど、人見知りが激しくってさァ」
このバカと内心ばやきながら、マットはさり気なくフォローを入れた。
「覗き見するくらいなら俺と一緒に来いよ、バーカ」
バカと言われ強張った表情ながらニアはジロリとマットを睨む。
「う~ん、もうジャパニーズなんて珍しいっていう時代でもないと思うけど」
「この街じゃまだまだ珍しいって。しかもカメラも持たず真面目にミサに出てるジャパニーズなんて目立つ目立つ」
「神聖なミサにカメラは駄目だろ」
「ヘェ、本当に真面目なんだ。フエブルス君は」
小さくニアに笑いかけた後、再び門へ向かって歩き出した男にマットも続く。
一人残されたニアはその場を動かず黙って二人を見送った。
「まだこっち見てるね、あの子」
門までのそう長くないレンガ敷きのポーチは朝方降った雪でまだ少し濡れていた。
滑るから気をつけろよと言ったマットに、男は少し困ったような笑顔を向ける。
「気にすんなって。あいつ、ここで一番の変人だから。人見知りどころか、人間嫌いのクソガキ」
「クソガキって……言いすぎだろ、それ。友達なのに」
「友達?まぁ、一応そうだけどさァ」
「なんか、淋しそうだったよ。もしかして君と遊びたかったんじゃない?それを僕が……」
「ハァ?」
その笑顔を横目で見ながら『もっと見ていたいなァ』などと呑気に考えていたマットは、男のとんでもない勘違いにぴっくり仰天した。
「僕のせいで君と遊べなかったって思ったんじゃないかなァ」
「な、ないない!それはないっ!ニアに限ってそんなの絶対ありっこない!」
「でも……」
「あいつが誰かと一緒に遊んでるとこなんて、俺がここへ来てからただの一度も見た事ないし!」
門の角を曲がった途端、大げさな身振りで必死に否定するマットの顔は真剣そのもの。ニアなんかと友達だと思われるのは心外だ。そう、その顔には書いてある。
「……あの子、友達いないの?君、友達じゃないの?」
「友達。つーか、仲間?ライバル?」
「仲良くしなきゃ」
「あいつの性格じゃムリムリ」
「気難しそうだものね、あの子。でも、一人ぼっちは淋しいしつまんないよ。君の方から誘えない?あの子のこと、嫌い?」
「俺は別に……」
男の悲しそうな表情に何だか怒っている自分が悪者のように感じられ、マットは振り上げていた手を下ろしポリリと首の後ろを掻いた。
「き、嫌いじゃないさ。同じ親無しの境遇だし……ここがそういう施設だってのは知ってる?」
マットはコクリと領いた男の、世間の辛さなど微塵も知らないような綺麗な眼差しに、一瞬礼拝堂のマリア像を連想していた。
あの虚ろとさえ感じられる力の無い微笑みが、何故目の前の男と重なるのだろう。
たかが石に刻まれた聖女の顔。父親の判らない子を産んだ癖に『聖女』と持て囃される女の何処が聖女なのか。
作られた理想があれならば、目の前のこの男の微笑みも?
あぁ、そうか‥‥羨ましいのだ、きっと。施設に引き取られ養われ生きる事の苦労はしていないけれど、心の何処かで普通に育った人間が羨ましいのだ。そして、彼のような綺麗な人間が羨ましくて、そして‥‥憧れているのだ。
「いけ好かない奴だけど、ずっと一緒に暮らしてきたんだ。ちょっと仲の悪い兄弟って感じで……うん、嫌いじゃない。ニアだって、心の底ではそう思ってると思う……」
形良い唇が描く微かな笑みと、眼鏡の奥の柔らかな琉拍の光。苦労知らずの微笑み、美しさ。
理想の母親、理想的に育った人間。
修正不可な隔たりがあると思っていた。縁が無いと。それを埋めるのが力だとここで教わった。
それなのに彼はその『隔たり』を感じさせない。たぶん、そういう事だ。
1時間にも満たない邂逅でそこまで思わせる人間なんてそうそういないだろう。だからこそ、マリア像を連想させる。リアルに欠ける存在だから。
彼はキラ?キラではない?
こんな善良な人間がキラだなんて―――
「君はあの子の一番の友達なのかな?」
「俺?……俺は違う」
ふと脳裏に浮かんだのはメロの顔。
ニアの一番のライバルだった。次期L候補として互いに敵意剥き出しだった。一緒に遊んでいる所など見た事がない。講義で行われた模擬共同捜査でも意見の対立が甚だしかった。それでも二人のタッグが一番出来が良かった。その事実に悔しいと思ったのはむしろマットの方だった。
水と油――― そう呼ぶに相応しい関係の二人だった。Lの後継者候補という立場がなければそれも変わっていただろうか。
いや、それは有り得ないだろうと思う。
それほど、二人の性格は違いすぎた。
そしてたぶん、自分にとっての理想の友達はメロだった。ライバルではなく、友人‥‥‥
そのメロが去ってしまった理由がニア。元々の原因がキラでも、直接はニアだ。
「ニアは今……淋しくて苛ついてんだと思う」
「どうして?」
「あいつの一番の友達がここを出ていったから」
「そうなんだ……」
それは嘘だ。ニアはメロのライバルにはなっても友人にはなれない。
メロの友人は自分だ。自分なら友人兼パートナーになれる。
何だ、自分だって理想を体現しているではないか。
鉄柵の塀に沿って歩くマットの足取りは自然と軽くなった。
「その友達、何処かの家へ養子に行ったの?」
「いいや。独り立ちしたいって言って飛び出してったんだ」
「それは……心配だね」
「あぁ……でも、きっとあいつなら大丈夫だ」
「信じてるんだ」
「あぁ」
「君とその子は本当に仲の良い友達だったんだね」
「まぁね」
その言葉と微笑みが嬉しくて自然と頬が緩む。
「でも、さっきの子は‥‥信じてない、のかな?」
「当たり。未練がましくメロの写真見て溜息ついてやがる。バカな奴さ」
マットがそれを知ったのはつい最近の事だった。
Lがキラ事件を手掛け、キラが顔と名前を手掛かりに犯罪者を殺していると推理された時点で、次期L侯補者たちの肖像はすべて破棄された。将来の事を考え候補者たちは日頃偽名を使用しているが、本名と顔写真を記した資料は厳重に管理されていた。
けれど、そこからも映像は消され――― そう言っていたのはメロだ――― 何処にも彼らの肖像は、写真も絵も含め、存在しないはずだった。
にも拘らずメロの写真を隠し持っていたニア。
自分から望んだ個室の床に座り込みぼんやりとメロの写真を見つめていたニアは、本当に人恋しそうだった。偶然目撃したマットは、それを誰にも言わなかった。
バカなニア。
心の底ではメロと友達になりたいと思っていた癖に、次期L候補の座に目が眩んで自分の心を無視した。失ってから後悔しても遅いのに。いや、きっと、失ったとも後悔しているとも気付いていないのだろう。メロの事を負け犬と、哂う自分に酔っているに違いない。
あぁ、早く自分もここを出よう。出来る事ならメロの居場所を探し出して―――
「素直になればいいのに」
「ハハハ、無理無理」
今日初めて会った行きずりの男。もう2度と会わないだろう男。きっと石でできた聖女様が俺の為に遣わして下さったのだ。
自分の思う通りに生きなさい――― そう伝えるために。
キラではない。
キラとは関係ない。
駅へ向かう男と通りの角で別れたマットは何処かふっきれた思い出で教会へと戻った。
「浮かれてますね」
「……なんだよ」
驚いた事にそこにはまだニアがいた。
目つきの悪い仲間の非難めいた言いぐさにマットは肩を竦め、何処か可哀そうなものを見るような眼でニアを見返した。とたん、ニアの機嫌が更に加工する。自分より劣ると認識している人間からのそんな視線に、態度はどうあれ心中穏やかではいられないのだろう。未だ未だ子供だな、と子供のマットは思った。
「連絡先は聞き出しましたか?」
「いいや」
「何故?」
「行きずりの旅行者だぜ。たかだか十分程話した程度でそこまで聞けるかよ」
「………」
下からジトリと睨め上げるニアの視線も今なら無視できる。
「気の利かない……」
「お前に言われたかねェよ。覗き見するならもっと上手くやれ」
「……あれは貴方のせいです」
「ハァ?俺ェ?」
「貴方がチラチラ私の方を見るから気付かれたんです」
「よく言うぜ」
もうこれ以上話したくないとばかりにそっぽを向き、マットはひとり足早に施設へ向かった。
「世の中バカばっかりです……」
ボツリと呟かれたニアの言葉がその背に届く事はなかった。
その夏の日の夕刻、成田空港に降り立ったニアは、すぐさま電話を一本かけ都心行きのリムジンに乗り込んだ。
目立つ銀髪を隠すため適当に選んだ茶色のフルウィッグをつけ、チェックのシャツにダボダボのジーンズ、量販のスニーカーを履いた姿は何処にでもいる普通の子供だ。
Lに似ていると言われた異風は府き加減のせいか鳴りを潜め、肩から担いだ大きめのショルダーバッグぱかりが目立つ。
運動嫌いの引きこもり。少しも目に焼けていない白い肌が彼を日本人ではないと周囲に教えていたが、ニアに注意を払う者は誰一人としていなかった。唯一リムジンバスの運転手が、日の沈みかけたこんな時間に一人でバスに乗る外国人の子供に首を傾げたが、特に何も言わずバスを発進させた。
初めて訪れた東京はとても騒々しかった。それでもアメリカやEUの国々に比べ安全な街といえた。盛り場や余程変な場所へ入り込まない限り、子供が一人でいても平気なくらい。
そうして日が落ちた街は、昼とは違う華やかで退廃的な喧騒に満ち溢れていく。
極力人の記憶に残らぬよう夕食はコンビニのサンドイッチで済ませ、ニアは約束の場所へ向かった。
「やぁ、ネイト・リバー。よく来たね」
不意に背後から聞こえてきた声に、ニア、ネイト・リバーは凍りついたように動けなくなった。
「久し振り。元気にしてたかい?」
全く動けないニアの体に触れた声の主は、彼の荷物をそっと奪い取り自分の肩に掛けた。
「例の物は持って来てくれた?」
ごそごそとバッグの中身を探る手を凝視し、その手が意外に細く繊細だと知り目を細める。
「これかい?」
その手が取り出したのは一枚の写真。
「メロ?」
ニアはコクリと領いた。
「貰うね」
手の主は写真を財布に仕舞い込みニアに歩くよう促した。
「フフ……思った通り、心配する必要なんてなかったね」
「心配?」
目的地がある訳でもなく、人込みに紛れてゆっくり歩く二人に注意を向ける者はいない。
「君はまだ未成年だろ?一人でどうやって日本まで来るのか、一応心配してたんだよ」
「そんなの……訳ない事です」
「だよね。さすが次期L候補」
「………」
ニアは足を止め、隣を歩く男を見上げた。
「貴方は……」
「ん?」
優しげに目を合わせてくれる男。
その口許には確かに笑みが浮かんでいる。
「貴方はあの時の……」
形の良い頭部をサラリと被う髪は恐らく茶系。春にニアが目にした色とは明らかに違う。それに眼鏡もない。
だが、いま目の前にいる男は間違いなくあの時の旅行者だ。
「キラ」
ニアは低く押し殺した声でその名を口にした。
「なんだい?ネイト」
ズキリと心臓が痛む。まるで鉄の爪で鷲掴みされたかのように。
だが、ニアにはそれが恐怖だという自覚はまだ無かった。
「どう……して……」
ゆっくりと振り返る艶笑。他人に全く興味のないニアでも、その整った容貌が 『美しい』と評されるに足るという事ぐらい判る。
「どうして?」
けれど今のニアには、その美しさに酔いしれている暇はなかった。
「どうして僕が君の本名を知ってるか不思議なのかい?」
それもある――― そう脳の内で呟きながらニアは小さく領いた。
「簡単だよ。僕には顔を見ただけでその人の名前が判るという特技を持った友人がいるんだ。その友人に君の写真を見せてね、教えて貰ったんだ」
「私の……写真?」
そんな筈ないと断じながら、心の内は信じられないくらい揺れ動く。
「まさか……隠しカメラで……」
「君は人嫌いの引きこもりで、滅多に施設から外へ出ないそうだね。だから、あの時会えるとは思ってなかったんだけど……」
男――― キラはさも可笑しそうに喉の奥で笑った。
「超小型カメラを用意してて正解だったな。まさか覗き見してるなんて‥‥面白い子だね、君」
その声は本来とても耳に心地よい声の筈だ。けれど今のニアには酷い雑音にしか聞こえなかった。
「何故、判った……」
「ん?ワイミーズ・ハウスの事?それとも君たち、次期L候補の事?」
あぁ、やはりそこからか――― ニアは胸の内でそう独り言ちた。
二人は繁華街のネオンに照らされた互いの顔をじっと見つめ合った。
「Lが死んだ時、ワタリ、キルシュ・ワイミーも死んだろ?あの老人の事は新聞で知ったよ。親切な篤志家だってね。世界のあちこちで養護施設を経営してる。アジアにも一つあるだろ?タイの方に」
「‥‥‥」
「調べたんだよ、その施設全部。Lのサポート役をこなしてた男が伊達や酔狂で養護施設を経営しているとは思えなかったからね。そしたらどうだい。この十年の間に各施設から何人もの子供たちが同じ施設に移されてるじゃないか。しかも国境を越えて。フフ‥‥いったい、何のために?」
滑らかに語るキラの微笑みが更に深くなる。
だが、その瞳は決して笑っていない。
夜の月より、星より。周囲の人工灯よりはるかに強く鋭くニアを射すくめる。
それに対し唇はいっそう艶めかしく嘲っていた。
「特別講師だって?それで判らないはずないだろ?芸術と理数系の英才教育。それに紛れて法律や犯罪心理学を十やそこらの子供に教える?教えないよね、普通は。だから直ぐ判ったよ。あぁ、Lの後継者を育成してるんだなって。顔も名前も明かさない謎の探偵‥‥危険な職業だよね。だから後釜を用意しておく?フフフ‥‥その時点で負けを想定してるってこと、どうして判らないかなァ」
あぁ‥‥と、嘆きとも喘ぎともつかぬ声がニアの喉の奥で鳴った。
「施設のパソコンに侵入して、君たち特別クラスの子のデータは全て見せてもらった。残念ながら映像記録は全て消去されていたけどね。名前も、通称しか判らなかった。ニアとメロ。ライバルだって?でも、君は一番を譲った事がない。そんなにLになりたかった?そんなに‥‥Lの死を望んでいた?」
悲鳴が音として発せられる事はなかった。
ニアは全身の筋肉が恐怖でガチガチに囲まっているのにも気付かず、美しく残酷な微笑みに意識の総てを奪われた。
「養子縁組がしたいからと、探偵を雇って君たちの日常も調べさせたよ。Lなんかとは比ベ物にならない下世話な探偵だったけどね。浮気調査で食いつないで、ときたまそれをネタに小銭を稼いでいた小悪党。けど、そういう奴の方が役に立つ事もあるんだ。特別クラスの子たちの人間関係を結構詳しく調べてくれた。写真も何枚か手に入れて‥‥メロが施設を飛び出した事もちゃんと調べてあった」
「‥‥メロ‥‥」
今ほどその名に親しみを感じた事はない。
今ほどその名を愛しく思った事はない。
目の前に立ちはだかる美しい死の影は、きっとその名の持ち主の元をも訪れるだろう。
そして、その切っ掛けを作ってしまったのは他ならぬ自分―――
「目障りなんだよ」
冷たい声がこアの頭上に降り注ぐ。
「Lの後継者?くだらない。所詮は物真似、二番煎じじゃないか。お前のその姿を見てみろ、Lそっくりだ。そう言われた事ないか?」
言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。
「ワタリもつまらない事をしたもんだ。Lのコピーを大量生産して何を安心してたんだか。コピーは所詮オリジナルには勝てないってのに」
存在を否定される。
「だ…だったら何故…」
必死の思いで絞り出した声は恐怖に震えていた。逃れられない死に逆らいたいのではない。逃げたいのだ。
助けてと叫びたいのに叫べないのは、助けを求める相手を思い描く事が出来ないから。
ニアは今初めて、自分がどれはど愚かだったかを知った。
孤高の優越感など腹の足しにもならない。
「何故君たちの前に現れたかって?」
片言で総てを理解するキラ。
キラこそは孤高。
何故ならキラは、己の幸せなぞ微塵も考えていないから―――
「別に意味なんてないよ」
キラが笑う。
死の恐怖に大きく見開かれたニアの目を見つめ、マリアのように笑う。
「ただちょっと、見てみたくなっただけさ。Lが‥‥竜崎が生まれ育ったかもしれない場所をね。ついでに君たちを始末できたら、後々楽になるかなァって、そう思ったんだ。それだけ」
お前たちに存在する意味はない。
だから優しく殺してあげる。
そうマリアは囁く。キラの顔をして。
この世で最も残酷な死をくれてやろう。
そうキラは囁く。マリアの顔をして。
「……そんな簡単に殺られは……」
「火を点けるのも有りかなァって。あそこ、無駄にセキュリティが厳重だから。外から侵入できないって事は、中から出るのも難しいって事なんだよ」
ニアの顔色が青を通り越し土気色に変わる。
「強盗殺人犯を何人か操って施設に火を点ける」
「!!」
「セキュリティはとっくに僕が乗っ取ってるから、誰も外へ逃げられやしない。みんなおとなしく火に焼かれて死ぬ。君が、姿を見せなかったら、そうするつもりだった」
声にならない悲鳴を上げたニアの体をキラが抱き留めた。
「バカな子だねェ、ノコノコ現れて。そんなに探偵ごっこがしたかったのかい?」
感じるはずのキラの体温を感じる事が出来ない。それほどニアの神経は恐怖にすり減り麻挿していた。
「おまけにメロの写真を持ってる?最高の道化だね、ニア」
敢えてその名で呼ばれ、遠のく意識の中、ニアは数度目を瞬いた。
「時間だ、ニア」
視界いっぱいに広がるキラの微笑み。
若さと美貌と行動力。
それこそがキラの実体。
「‥‥‥」
再び肩にバッグを掛けられても、ニアはその微笑みを見つめ続けた。
別れは死の別れ。
せめて苦しまずに逝きたい。
「行け、行って死んで来い。ネイト・リバー」
キラは顔と名前さえ判れば、人を簡単に殺す事ができる。
ロジャーに見せてもらったパソコンのデータによれば死の時間も操る事ができるとあった。
もし、もしも時間だけでなく死に至るまでの行動も操れるのだとしたら―――
「そうだニア。いいや、ネイト・リバー。お前がここへ来たのは僕に操られていたからだ」
キラの笑みがはっきりと嘲笑に変わる。
「『自分もメロのように一人でやる』とメモを残し誰にも気付かれず日本へ渡る。メロの写真を持って‥‥そう僕が操ったんだ」
そんな事出来るはずがないと思いつつ、ニアはキラにクルリと背中を向けた。
「そして日本到着後、とある電話番号に達格し、待ち合わせ場所で自分の本名を知る者にメロの写真を渡す」
ギクシャクとした動きで歩き出す自分にニアは失神寸前だった。
「それが終わったら、別の国に移動し自殺。『力の限界を感じた』と遺書を残してね」
死にたくないと心が叫ぶ。
Lの座もキラも謎解きももうどうでもいい。
「きっとお前の死はメロの知る所となるだろう。お前の死を知ってメロがどう動くか、僕は今からそれが楽しみだ」
助けて、死にたくない!誰か、誰か‥‥‥!
独りで死ぬのは嫌だ!
「引きこもりの坊やに用はない。自ら行動しなければ本当に欲しいものは手に入らないんだ、ニア」
遠く聞こえる甘やかな声に見送られニアは歩く。バッグには既にアメリカ行きのエアチケットが入っている。最終的にはそこへ行くつもりだった。
その途中Lが死んだ土地を見たいと、ただそう思っただけなのに。何故こんな事に‥‥‥
けれど、その思いも何時しか消えてしまった。
頭の中はアメリカへ行って自殺する。その事でいっぱいだった。
「フフフ‥‥どうだい?リューク。面白かった?」
夜の人込みに紛れ込む子供の後ろ姿を見送って夜神月は実に楽しそうに笑った。
『ウホッ。月がこっそりあの子供に会いに行った時も面白かったけど、今度の方がもっと面白だ。まさか向こうから来るとは思いもしなかったぞ』
頭の上から降り注ぐ声は月にしか聞こえない。
それは異形の存在、死神の声。
『けど、本気だったのか?施設に火を点けるって。そんな事したら無関係な子供まで死んじまってたぞ』
「次期L候補の子だけ縛り上げておくってのも変だろ?」
『そりゃそうだが‥‥」
「なんだ、リューク。同情してるのか?」
何気ない仕種で宙を仰いだ月の目にはしっかりと死神の姿が映っていた。他の人間には決して見えない死神の姿が。
「そっちは最終手段だよ。どうして僕が自分から『日本人』だとバラして乗り込んだと思うんだ?軽い変装はしてたけどね」
『……おびき出すため?』
「調査報告ではかなりの出不精とあったからね。僕が雇った探偵ごときじゃ写真を撮るのは無理だったろう。施設内の誰かに頼むのはリスクが大きすぎる。一か八かの賭けだったけど、上手くいったよ。こうしてメロの写真まで手に入ったしね」
月は財布に挟んだ写真を取り出し金髪の子供の顔を繁々と見つめた。
『そいつがもう一人の次期L候補か?』
「最有力候補の二人の内の一人だよ。あのマットという子も、一応侯補だったかな」
死神にはメロの本名は見えているだろう。だが、それを月に教える気がない事ぐらい知っている。月も教えてもらうつもりはなかった。
「後はこれをミサに見せればいい。行方不明だと判った時はどうしようかと思ったけど‥‥」
写真を財布に戻し駅へ向かって歩き出す月。
この先ニアの死体が見つかり、所持品にメロの写真がない事をマットが不審に思ったとしても、マットの本名も既に判っている。なんの問題もない。
もしかしたらマットとメロの二人が組んで自分に、キラに向かって来るかもしれない――― そう考えて月は目を細めて笑った。
「その方が退屈しないですむかな」
『何だ?なにか言ったか?』
「なんでもないよ、リューク」
ニッコリと死神に向かって笑いかける姿は夜の月の如く艶やかだ。
それに目を奪われた者が何人も彼を振り返るが、月自身はそんな輩に気を止めることはなかった。
『俺はそろそろミサの所に戻るぞ』
「あぁ。僕は電車で帰るよ。帰りにケーキでも買って行くとミサに言っといてくれ」
『判った』
黒い翼をはためかせその場から飛び立つ死神に目だけで別れを告げる。
月も星も見えない東京の夜空にその不吉な姿が幽鬼のように溶け込み、地上の月は人の群れへと紛れ込む。
総ては神の手の内にある―――