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その日、Lが日本のキラ捜査班で僅かに残った刑事達と無事合流を果たし、『正義は勝つ』などと言うこっ恥ずかしい台詞を吐いてキラ捕縛を誓い合ったのは、既に日が沈んでからの事だった。
あと数時間で年が明けようという中、興奮した刑事達はLが提示したキラに関する資料を我先にと読み漁り、そんな彼らの姿に何処まで信用できるのかと――― まぁ、少なくとも彼らの正義感とやらは信用できるだろう。能力の程はこれからか?――― 眉一つ動かさず観察していたLが、もう遅いからと先に自室に引き揚げたのは、これからの捜査方針に彼らの知能を全く期待していなかったからに他ならない。
そうして都内某ホテル最上階を貸し切りにし、その一室を自室にと決めていたLは、誰も――― 例え共に捜査をする刑事達でも――― 入れないよう当然の事ながら鍵を掛け、掃除の行き届いた絨毯を踏み締めスプリングの利いたキングサイズのベッドによっこらせと這い上がった。
酷く疲れた気がする。
肉体的にそう疲れるような事はしていないのだが、珍しく犯罪現場――― 彼が仕掛けた罠にキラが引っ掛かりその存在場所が知れた――― に自ら赴いたせいで時差ボケなんぞを患ったせいだろう。
だから元から睡眠時間の少ないLにしては珍しく眠気に襲われ、ベッドの上で両膝を抱えながらこれからの事を考えていたにもかかわらず、何時の間にかうつらうつらし始めていたのだった。
キラ――― それは犯罪者ばかりを狙う殺人鬼の俗称だ。犯人自身がそう名乗った訳ではない。世間の野次馬達がネット上でそう名付けたのだ。
曰く『キラ様』はこの腐った現代社会の悪を一掃する救世主である、と。
キラは心臓麻痺という全く手口の判らぬ方法で世界中の凶悪犯罪者を殺しまくっている。その被害者数は――― 純粋にそう言って良いのか判断に窮するが――― 既に3桁に達している。人種、性別、年齢を問わず、法律的な罪の重さでもって殺すかどうかを決めている節がある。
つまり『目には目を、歯には歯を』である。
故に、世間一般の凡人が現代のスーパーヒーローと面白おかしく噂するにはもってこいの存在だったという事だ。大抵の凡人は罰金程度の軽犯罪は犯しても、裁判所で裁かれ刑務所で刑に服さねばならないような犯罪は犯さない。そんな彼らにしてみればキラの殺しは対岸の火事、むしろ犯罪者を始末してくれる便利な存在に過ぎない。下手に刑務所から出て来たまた犯罪を犯されるくらいなら、とっとと始末してくれた方が助かるというものだ。
だから彼らはキラを『救世主』と煽て、その殺しを『裁き』と称して肯定した。中には、何処にいるとも知れぬ本当に存在しているかどうかも怪しいキラに、『誰々がこんな酷い事をしているから殺してくれ』と頼む者までいる。告発とは聞こえがいいが、要は『チクリ』である。いや、それよりもっと下らない只の『愚痴』である。
キラがそれらを鵜呑みにして殺しをしたかどうかまでは判っていないが、取り敢えず今の所キラのターゲットは明確な犯罪者に限られている。ただし、Lの画策により一人の犯罪者と12人のFBI捜査官がキラによって殺されはしたが。
それはLにとってキラ逮捕の為には必用な事であった。
そんなLは『世界の切り札』と称される探偵である。探偵である限りは只の民間人である。決して警官のような公務員その他ではない。よって、犯人逮捕の権限もなければ他人のプライバシーを侵害して許される立場でもない。
しかし、その探偵としての能力の高さ故に何時しか金持ちや権力者に贔屓されるようになり、Lは街中に事務所を構え宣伝看板を掲げるような事もなく、まるで映画か小説の中のヒーロー探偵のように特別な繋ぎで依頼を受ける、特殊な探偵として仕事をするようになった。
法外な依頼料を平気で受け取り、様々な特別措置を手配して貰い、時には違法捜査にも目を瞑って貰い、さらには刑事などの公務員を顎でこき使う事を許される身分となった。それを当然と本人が思うようになるほどLと金持ちや権力者との付き合いは長く、それらを奢りだと本人が感じられなくなるほど、Lは特別な立場である事に慣れ切っていた。
だからだろうか、ふと目が覚めて身を起こした時、明るかった筈の室内がやけに暗く、そして寒い事に妙に腹が立ったのは。
「何時の間に眠ってしまったのでしょう‥‥」
最後に作りつけ暖炉の豪華な置き時計を見た時、針は未だ12時を指していなかった。
「どうしてこんなに暗いのですか?それにエアコンは?ワタリが切ったのでしょうか‥‥」
ワタリとは、探偵Lのサポーターにして、彼個人の生活全般の世話をしてくれている老人である。
二人の関係は、ワタリと彼の祖父が古くからの知り合いだった縁から始まった。僅か3歳で孤児となり引き取り手のなかった彼を、ただそれだけの理由で育ててくれたのだ。そして、少々癖のある性格に育ちつつあった彼の知能の高さに興味を持ち、俗に言う英才教育を施してくれたのもワタリだ。
ワタリ――― 本名はキルシュ・ワイミーと言う、結構名の知れた資産家で発明家だ――― の意図が何処にあったのかは判らないが、世間一般で言う所の成功者にして金と暇を持て余し始めた初老の彼には、才能豊かな子供の育成は老後の楽しい道楽の一つだったのかもしれない。
当初ワタリは、Lには自分と同じ発明家の道を進んで欲しかったようだ。実際、彼は科学や工学の話ばかり幼いLに語って聞かせた。しかし、Lの興味はそちらの方面に向く事はなく、心理学や歴史、そして推理謎解きと言った一風変わった方面に向かってしまった。
それを残念がるでもなくむしろ後押ししたワタリを偉いと誉めるべきか否か。いずれにしろ、周囲に陰で変人と称されたワタリならではの反応だったと言えなくもない。
とにかく、そんなワタリは齢70にして未だ現役の探偵助手だ。推理謎解き以外はとんと興味のないLの世話をせっせと焼いている。その姿は執事然としてはいても――― そういうスタイルを彼自身が好んで演じている――― 中身は孫を溺愛する祖父そのものだ。
そんな彼がベッドで転寝をしてしまったLに毛布を掛けるでもなく、電気を消し暖房も消してしまったのは実におかしなことである。
「電気、電気‥‥」
暗がりの中、Lは明かりのスイッチを探して室内をうろついた。ぼんやりと見える黒い影は家具の類だろう。それらを避け壁に辿り着きやっと探し当てたスイッチだったが、何度押しても明かりが点く事はなかった。
「停電?」
だったら真っ先に渡りが駆けつける筈だ、と思いながらLはドアを目指した。その間も妙に足の裏がチクチクするなぁと考える。滅多に外に出ない彼は常に裸足で、その足の裏の感触がどうにもおかしいのである。
そうしてドアを押し開き廊下に出ると、周囲はより一層暗かった。
「やはり、停電‥‥」
ホテルの廊下に窓は少ない。両側に部屋があるためだ。窓は階段の踊り場ぐらいに行かなければない。
「ここも足の裏が‥‥」
何かに躓き慌てて壁に取り縋る。そこで漸くLは気付いた。
「壁紙が剥がれている?」
足の裏だけでなく、壁に触った掌の感触もおかしかった。壁紙が所々剥がれているのである。しかも、更に進んだ所には穴まであった。
「いったいこれは‥‥何があったのですか?まさか、キラに襲われでもしたのですか?」
もしそうだとしたら、自分が無事なのはおかしい。ましてや誰も呼びに来ない筈が無い。此処にはワタリの他にも日本の刑事がいたのだから。銃撃戦の一つもあっていいはずだ。
「いえ、キラの『裁き』なら、それはありませんか」
キラの殺しには顔と名前が必要――― それはLが辿りついた『事実』である。
「だとすると、刑事達の事はとっくにキラの知る処だった。そして、警察庁を出た時点でキラに害になると判断され殺された、そう見るのが正解でしょうか。私が殺されなかったのは、私の本名が判らなかったから?しかし、そうだったとしても、私が眠っている間に私を直接殺す事ぐらい出来たのでは?いえ、刑事達がここへ来た事を知らなければそれは無理ですか‥‥キラは遠くにいて、ただ刑事達だけを殺した‥‥だとしたら、ワタリは?」
階段に辿り着く前にLはエレベーターを探し当てた。だが、これもまた動かなかった。仕方なく階段を探して歩き、そこの踊り場の窓で漸く周囲の様子を窺う事が出来た。
「こ、これは‥‥!」
そうして見たのは、やけに荒廃したホテル内の様子だった。
「何ですか、これは?まるで、廃屋ではないですか」
その言葉通り、周囲は放置されて何年もたった建物のように荒れている。壁紙は剥がれ、床のカーペットは染みと埃に汚れ金属部分はサビだらけだ。ゴミが落ちてないのは高級ホテルの名残のせいか、それとも最上階なせいか。
「どちらにしても、この様子では私以外に人がいるとは思えませんね。しかし、何時の間にこんな事に‥‥」
まるで100年間眠り続けたオーロラ姫のような気分に陥りながら、Lは長い階段を降りはじめた。こんなことなら最上階に泊まるんじゃなかったと思いながら。
途中の階に人がいないか確認していたのも、5階ほど降りた辺りで諦めた。何処もかしこも同じように荒れ果てていたからだ。10階下のレストラン階などは、見るも無残な有様だった。何処からどう見ても略奪後にしか思えなかった。
だが、そうだとしたら、そんな騒ぎに気付かず寝こけていた自分が信じられない。幾ら最上階でも気付いた筈だ。そして、ワタリが知らせに来たはず。
「ワタリの顔と名前がキラに知られていたとも思えないのですが‥‥いえ、この様子はそれだけで済む話ではないですね。いったい従業員や他の客は何処へ?」
それから何分もかけて漸く1階に降り立ったLは、そこで更に荒れ果てたホテルの様子に驚く事となる。まるで地震かテロの惨劇跡のようだ。
「そんな‥‥!」
そして、それを裏付けるかのように寂れた大都市東京の風景に、Lはホテル前でただ茫然と立ち尽くすのだった。
目が覚めて外に出てみると、世界は一変していた。
世界有数の都市、東京。それが一夜にして荒れ果てた街になっていた。建物そのものは建っている。戦争後のように破壊され瓦礫と化している訳ではない。しかし、略奪跡は明白で、昼日中だというのに出歩いている者は人っ子一人いない。乗り捨てられた車、壊れた信号機、散乱するゴミ、罅割れたアスファルト道路のあちこちに生えた雑草。
「どんな夢ですか、これは‥‥」
本当に100年後の世界にタイムスリップでもしたのだろうか。
そんな事を思いながらホテルを離れ歩き出したLは、自分が裸足である事を早々後悔する事となった。荒廃した街はとてもじゃないが、裸足で歩けるほど楽な道路事情ではなかったのだ。そこで目に付いた靴屋らしき店に侵入し、何とか履けそうなビーチサンダルを探し当てそれを履いた。店内は既に略奪された後で品物はほとんどなかったが、サンダルは流石に利便性が悪くて捨て置かれたのだろう。
それからの行軍は随分と楽になった。だが、寒さは如何ともし難かった。
それで、同じようにブティックらしき店に侵入した所で、Lはそこを住まいにしているらしい男女と遭遇した。
「すみません‥‥怪しいものではありません。余っている服があったら分けて欲しいのですが‥‥」
男女は荒廃した街の住人にしては小奇麗な格好をしていた。何処からか運んで来たらしいクッションを敷き並べた床に座り込み、レーションのような食事を行儀良く食べている所だった。年の頃は30前後だろうか。
「日本人ですよね?私の言葉、判りますよね?」
黒髪黒眼の男女はどう見てもアジア系だ。だったら日本人の筈だ。そう考えたのだが、二人は物音に振り向きLの姿を見るなり、彫像のように固まったまま動こうとしない。
「いったい、何があったのですか?日本でおなじみの地震ですか?」
そう言いながらも地震だとはLも思っていない。地震ならもっと被害が大きい筈だからだ。それに、救助活動をされた形跡が無いのは余りにおかしい。
「‥‥誰だ?」
すると、漸く男の方が口を開いた。
「私ですか?私は竜崎と言います」
Lは日本に来て使用していた偽名を口にした。それを聞いて女が男に何やら耳打ちする。
「あんた、ここらでは見かけない顔だな」
「えぇ、まぁ‥‥」
それは二人以外にもこの辺りに住んでいる者がいる、と言う表現だった。
「工場勤務の希望者か?」
「工場、ですか?」
「川向うに工場地帯がある。この辺りじゃまともに動いてる数少ない‥‥」
「ちょっと。言っちゃっていいの?こいつが死神憑きだったらどうするのよ」
「取り敢えず死神の姿は見えないみたいだし‥‥」
「判んないわよ。姿を消してるだけかもしれないじゃない」
更にとんでもない言葉が飛び出して、Lは内心大いに驚く。
「ち、違います。私は死神憑きなんかじゃありません。ただの浮浪者です」
『死神憑き』がどういう意味なのか判らなかったが、それが良い意味を持たない事は直ぐに判ったので慌てて否定する。旅行者、と言わなかったのは、今のこの荒れた街の様子ではそれが妥当だろうと判断したからだ。
「死神憑きが自分から死神憑きだって言うもんですか。やっぱり怪しい‥‥」
「す、直ぐ出て行きますから。ただ、その前に何か着る物を‥‥」
「おい、どうした?」
その時だった。奥の壊れたドアの向こうから更に二人の男女が現れたのは。
「誰だ?そいつ」
年の頃は40を過ぎているだろうか。4人の中で最年長らしい男は、店の中程に立つLを見るやいなや、手に提げていた金属バットを両手に持ち直し警戒態勢を取った。
「こっちに流れて来た浮浪者らしい」
「浮浪者だと?この地区はもう今の人口でいっぱいいっぱいなんだぞ。これ以上増えたら、また殺し合いが始まっちまうだろうが」
殺し合い――― 何とも物騒な言葉である。では、街のこの荒廃ぶりは地震でもテロでもなく、純粋に略奪のせいなのだろうか。
「でも、死神は‥‥」
「バカヤロウ!死神は姿を消せるんだ。こいつが死神憑きだったらどうするつもりだ!」
先に会った若い方の男が人の良さそうな気弱そうな顔でLを庇おうとする。しかし、年上の男はそれを許さなかった。
「だから言ったじゃない!それに、この地区の周囲にはパトロール隊もいて防衛ラインを守っているのよ。それをどうやって突破して来たって言うのよ。それに、突破したならしたで、もっと悪いじゃない!」
「それは‥‥」
「早くこいつを突きださないと、今度はあたし達がここから追い出されるのよ!やっとまともな働き口が出来たって言うのに、そんなのあたし、嫌だからね!」
「わ、判ったよ‥‥」
そして、それに追従するように若い女が甲高い声を上げ、若い男はすまなそうにLを振り返った。
「ちょっと待って」
此処はとっとと逃げた方が良いかもしれない。
Lがそう思い直し秘かに逃走態勢に入った時だった。後から現れた二人のうち女の方が、Lに鋭い視線を向けたのは。
いや、その前から女の視線は鋭かった。Lをじっと観察する鋭さに溢れていた。
「この男‥‥何処かで見た顔だわ」
「見た顔だぁ?」
「今時、そんな事あるの?みんな死神を怖がってカメラには映りたがらないのに」
「昔の映像で見た事ある気がするのよ」
死神、カメラ――― ますます理解できなくて内心混乱するL。
「昔って‥‥俺達とそう年も変わらないように見えるけど‥‥」
「もう10年も前からテレビはやってないぞ。ラジオじゃ声しか聞こえないし。10年以上前と言ったらこいつはガキだろ」
「違うのよ。誰かに似てるのよ」
テレビはやってない?ラジオだけ?いったいそれは何だ?今は戦時中か?それとも文明後退か?日本人皆してアーミッシュにでもなったと言うのか?
「!‥‥L!!」
その時だった。女が突然そう叫んだのは。
「そうよ、こいつ、Lに似てるのよ!」
「Lだと‥‥・」
「Lですって?」
「まさ、か‥‥そんな‥‥」
いきなり自分の探偵としての名を連発されLは大いに慌てた。
これはどうした事か。これはやはりキラのせいなのか。それにしても、何時の間に自分の正体が世間にばれたのだ?そもそも、何時、キラに知られてしまったのだ?
「そう言えば‥‥似てるような‥‥」
「え?そうなの?」
「キラ様が暗殺された時、その犯人として世界中に指名手配された男の顔が‥‥確か、こんな顔‥‥」
「嘘っ!こんな爬虫類顔が世紀の大犯罪者L!?神様殺し!?」
暗殺!?キラが!?しかも犯人は私!?神様殺しとはいったい何の冗談だ!!
混乱はますます募る一方だ。
「そうだ!確かにこんな顔だった、思い出したっ!子供の頃、確かにこの顔をテレビで見た覚えがある!!」
「そうでしょ?間違いなく、この顔だったでしょ!?」
年かさの二人はいささか興奮気味に頷き合い、反して若い二人は半信半疑でLの方を見ている。
「そんな事が‥‥あ、だけど、Lは40男だったって聞いた気がする‥‥彼はどう見ても20代‥‥」
「でも風貌はそっくりなのよ!この顔を後10歳も老けさせたら、私の見たLの顔にそっくりになるの!」
「本当に?」
「こんな事で嘘ついてどうするのよ!」
「でも、L本人じゃない。キラ様が暗殺されてからもう30年は経ってるんだ。こんな若い筈ないじゃないか」
「バカね!Lの子供かもしれないじゃないの!!」
「有り得ない話じゃない、な」
「そうよ、そうに違いないわ!息子じゃなくても、きっと血の繋がりがあるのよ!出なけりゃぁ、こんなに似るもんですか!」
「え?何?じゃぁ、こいつの父親のせいで、あたしのパパとママは死んじゃったの?市長になって一生懸命市民のために働いてたのに、賄賂を受け取らなかったからって口封じのために殺されちゃったの!?」
若い女の方が般若の形相でLを睨みつける。その言葉に意味が判らないまでも危険を感じ取りジリジリと後退するL。
「や、やめろよ。彼のせいじゃないだろ?本当にLの息子だったとしても、悪いのは父親であって彼じゃないんだ」
「何よ!あんたは平気なの!?あんたの親だって金持ちってだけで殺されたんでしょ!?悔しくないの!?」
「それは‥‥でも‥‥」
「良い人ぶらないでよ!あたし、あんたのそんな所大っ嫌いなんだから!!」
『殺シタイホド嫌イカ?』
それは、まさに青天の霹靂だった。
『殺シタイホド嫌イナラ、手ヲ貸スゾ』
耳を擦るしわがれ声が突然頭の上から降って来て、Lと4人の男女の間に黒く半透明な物体がスクリと立ったのは。
ポタリと、天上の割れ目から滴り落ちた雨水に辺り急成長したキノコのようにも、その雨水が増殖して出来たオヴジェのようにも見えて、Lを初めとする4人は驚きと恐怖に声もなく立ち尽くす事しか出来なかった。
その間にもそれは天井近くまである背をクニャリと曲げて、若い女の方に顔らしき部分を近付けた。
それはよく見ると確かに顔で、しかし、決して人間の顔ではなく、鳥の、それも猛禽類の顔をしていた。黒い姿の中で仄かに黄色い色をした嘴にはクネクネと蠢く蚯蚓のような髭らしきものが数本生えていて、三つもあるやはり黄色い目は其々が違う方向を向き、Lと、女と、そして嫌いだと言われた男を見下ろしている。
『サァ、ドウスル?人間』
曲げていた背を反対方向へクニャリと伸ばし、黒い半透明な存在はおそらく翼と思われる、まるでコートのような黒い裳裾をバサリと翻した。その拍子にどう見ても猛禽類のものにしか見えない足と、その先の2本の鍵爪が露わになり、年かさの女の喉から掠れた悲鳴が零れ落ちる。
「し、死神‥‥」
「!?」
『如何ニモ、死神ダ』
その言葉にLの中で恐怖よりも驚きが打ち勝つ。
何だこれは、何だこれは、何だこれは!!――― 自問自答の叫びを内心繰り返し、Lはめまぐるしく頭を回転させる。
えるしっているか
しにがみは
りんごしかたべない
刑務所の犯罪者を使って送られて来たキラからのメッセージ。あの死神と言う言葉には本当に意味があったのか?今目の前にいる鳥とも人間ともつかぬ不気味な存在が本当に死神だとでも言うのか?
キラ?暗殺?30年前?神殺し?指名手配?犯人は‥‥‥‥L!
それはどんな冗談だ!誰の冗談だ!!
「嘘、嘘‥‥嘘!どうしてよ、どうして出て来るのよ、しかも、今!私の前にっ!」
『ソレハ、オ前ガ望ンダカラダ。コノ男ノ死ヲ』
「ち、違う!そんなの望んでない!」
『イイヤ、望ンダ。ダカラ、私ガ来タ』
「違~~~う!だったら、どうしてパパが殺された時に来てくれなかったのよぉ!!」
『アノ時ハ、オ前ノ母親ノ望ミノホウガ強カッタ』
「‥‥え?」
『ダカラ、オ前ノ復讐ハスグニ果タサレタダロウ?』
「‥‥ママが‥‥殺した、の?あの‥‥建設業者を?」
目の前で繰り広げられる茶番劇。そうとも、これを茶番劇と言わずして何と言う。
「ママが‥‥デスノートで‥‥」
『ソウダ。コノ私ノノートニ、オ前ノ母親ハ名前ヲ書イタ。憎イ夫殺シノ男ノ名ヲ』
「嘘‥‥嘘、だぁ‥‥」
死神と名乗った存在に恐れをなし、若い男は既に腰を抜かし店の床に座り込んでいる。Lをキラ暗殺犯だと糾弾した男女は真っ青な顔をして壁まで引き下がっている。
黒い異形の存在と、蒼褪めた顔で涙を流し始めた女だけが、互いに視線を交わし何かをおし進めようとしている。Lはただ、それを見ている事しか出来なかった。
『サァ、使エ。裁キノ力ヲ。キラノ遺物ヲ』
「あ‥‥あぁぁ‥‥」
黒い翼が翻る。風切り羽を切り落とされたかのように短い翼を、黒い死神が狭い空間にうち振るう。
バサリバサリと壁や天井に反射し、Lの耳を不快に打つその音が、落ちて来るギロチンの刃の音のようだ。それはまさに死の宣告の音。
「これに‥‥これにママも‥‥」
女が震える両手を黒い死神に向かって差し出す。
すると、その手の上に珍妙な物体が音もなくゆっくりと落ちて来た。
それは1冊の黒いノートのように、Lの目には見えた。
「キラ様が世界に残して下さった死神の力‥‥デスノート‥‥」
風もないのにペラペラと捲くれ上がる白いページ。その動きは女の手の上にノートが納まると、あるページを開いた状態で静かに止まった。
『ソレガ、殺サレテ当然ノ男ノ名ダ』
「あぁぁ‥‥あぁ、この名前は‥‥確かに、あの建設業者の男の名前‥‥パパは、こいつのせいで‥‥」
「や、やめろ!その男も、どうせ死神に唆されてお前の父親の名前をデスノートに書いたんだ!お前まで一緒の事をする事は‥‥!」
『竹原淳一』
その先を止めようと、年かさの男が叫ぶ。
しかし、死神に自分の名前らしきものを口にされると、情けない悲鳴と共に言葉を呑みこんだ。
『オ前ノ邪魔ヲスル者ハ、スベテ殺スガイイ。私ハイクラデモ力ヲ貸スゾ』
「バ、バカッ!余計な事するんじゃないわよ!」
そして、女の方は却ってそれで肝が座ったのか、恐怖に震えあがる男の腕を引き、店の奥へと逃げて行ってしまった。残されたのは腰を抜かして動けない若い男と、全く事態の呑みこめていないLと、恐怖とも感激ともつかぬ感情に身を振るわせる女が残った。
それから、死神と。
「あんた‥‥浮気したでしょ。知ってんのよ、あたし‥‥」
「‥‥お、俺は‥‥」
「あたしの‥‥娘を‥‥育てられないからって、売り飛ばしたのもあんたよね‥‥帰って来たらもういなかったなんて、下手な言い訳して‥‥浮気女の仲介で、人買いに売ったの、知ってんだからね‥‥」
「ゆ、許して‥‥くれ‥‥金が‥‥あの時はどうしても金が必要で‥‥」
「あんたの娘でもあるのに‥‥浮気女と飲む金が欲しくて売るなんて‥‥!」
つまりはそれが殺意の根本的原因。
女は鬼の顔で泣きながら自分の右手の人差指の先を噛み切ると、流れ出た真っ赤な血でノートに何かを書きなぐった。
すると―――
「ぐっ?がはっ‥‥!あががが‥‥っ!!」
床に座り込んでいた男が突然自分の胸を掻きむしり悶え苦しみ出した。
「!!‥‥ぐ、ぐるぢ、い‥‥ぃぃぃっ!た、たずけ‥‥れ‥‥!!」
無法な涙を流し、苦しさと恐怖で失禁し、男は惨めな姿で数秒間のたうったあげく、歪みに歪んだ顔をLの方に向けて事切れた。
「‥‥はは‥‥あはは‥‥死んだ、死んだ‥‥死んじゃった!あたしが殺した‥‥あたしが!あたしの娘を売った男を!犯罪者を裁いたんだっ‥‥!!はは、ははははははは‥‥ざまぁ見ろ!あはははは‥‥!!」
その男の死体を何度も何度も蹴りつけて狂ったように笑う女。
そして、その姿を満足そうに見つめる死神。
そう、死神と名乗った、黒い異形の存在。
『‥‥‥オ前‥‥』
その死神の黄色い三つの目のうちの二つまでもがLを振り返る。流石のLも死を覚悟し思わず唾を呑みこんだ。だが、死神の目は動かない。ただLをじっと観察している。
その間に、笑いながらLの横をすり抜け外へと出て行った女の手から黒いノートが擦り抜け、Lの足元に白いページを広げた状態で落下する。まるで測ったかのような行動だ。
それを胡散臭いと思いつつも、Lの目は足元のノートに引き付けられる。
広げられたページ。そこには未だヌラヌラと光る女の血で書かれた一つの名前があった。
「まさか‥‥これが‥‥」
キラ様が世界に残して下さった死神の力――― 女の言葉がLの脳裏に蘇る。
恐怖より好奇心が打ち勝ち、Lはそのノートを拾い上げようと腰をかがめた。
「!」
だが、ノートはLの手に納まる前に何者かによって奪われてしまった。
ハッと顔を上げれば、直ぐ目の前に黄色い三つの目があった。
思わずギョッとなって後ずさった拍子に死んだ男の足に蹴躓きたたらを踏む。そうして直ぐに顔を上げた時には、もはや死神の姿は何処にもなかった。
「いったい‥‥これは‥‥」
日が西に傾きだした東京の街。
それはLの知る東京に似ているけれど、全く違う街だ。
滅びた訳ではないけれど、すっかり荒廃してしまった街中をビーチサンダルを引き摺ってLは流離う。死体から剥ぎ取った服を着込み、食べかけのレーションを腹に納め、他に人はいないかとただただ歩く。
そうして気付いたのは、街のあちこちに残された落書き。
卑猥なスラングから罵倒の言葉、怒りの言葉、それから意味の判らないシンボルなどなど。
ただその中で、キラを讃える言葉だけは意味のあるものとしてLの記憶に留められた。
けれど、キラはもういない。キラは死んでいる。
「しかも、キラを殺したのはL。この私とは‥‥」
どうやら100年後ではなく30年後の世界にタイムスリップしてしまったようだと、Lは苦い笑みを零した。
頭上を鳥の羽ばたきが風と共に駆け抜けて行く。
けれど、落ちる影はない。
それが死神の存在を知らしめる音だとLが知るのは、もう少し先の話である。
2
夜の荒廃した街にポツポツと明かりがともる。
その頼りない輝きに人の生活を確かに見出し、竜崎ことLは此処が完全にうち捨てられた街ではない事を再度確認した。
だが、それらは文明の証たる電気によるものではない。恐らくは蝋燭かランプの類だろう。安定しない光量と光源にそう予想する事は簡単だった。それは何処かで電線が切れたせいなのか、それとも発電施設そのものが稼働していないからなのか。残念ながら今のLには判断のしようがなかった。
そんな街中を月明かりを頼りに歩きながらLは夜の寒さを凌げそうな場所を探した。30年という隔たりはあっても季節のずれは無いらしい。相変わらず外は身を着るように寒い。真冬の東京だ。頭の上を時おりヒョオオと音を立ててビル風が吹きすぎる。
そんな荒れた街中でも人が生活している気配はそこそこに発見できる。破壊されたガラス窓を板戸で塞いだ雑居ビルだとかがそうだ。しかし、闇雲に助けを求める訳にはいかない。最初に遭遇した男女4人の反応から、どうやら自分は危うい立場にあるらしいと判ったからだ。
神殺し――― キラを暗殺し世界中に指名手配された『L』。
Lとはすなわち自分だ。従って自分がLに似ているのは当然である。なにせ本人なのだから。
だが、そのLは『世界の切り札』と言われたLではない。いったい未来に――― 目を覚ます前の自分にとっての未来――― 何があったのか。自分は何をしたのか。
キラを殺したと言う事はキラの正体を突き止めたと言う事だろう。突き止めて、だが、逮捕する事は出来なかった?キラ様?暗殺?ただ殺したのではなく、暗殺?そして指名手配?
それはつまり自分が犯罪者と言われる立場に回ったと言う事に他ならない。殺人鬼を殺して犯罪者?いや、殺人は殺人なのだから確かに犯罪には違いないだろうが、Lの力なら幾らでももみ消す事が出来た筈。それが出来ない状況にあったから犯罪者にされたと言う事か。
「笑い話にもなりませんね」
比較的広い交差点に差し掛かったところでLの足が止まった。
交差点の向こうにホテルかショッピングビルらしき大きな建物が見える。その窓の幾つかには蛍光灯らしき明かりが灯り誘蛾灯のように人を誘っている。恐らく自家発電施設があるのだろう。目が覚めてから初めて見る文明らしい文明にLは我知らず安堵を覚えた。
だが、その分守りも硬いようだ。ビル前の広場に数人の男達が陣取っている。手にしているのは明らかに銃の類だ。下手に近付いて『L』だと気付かれるのは得策ではない。年齢の違い――― 順当にいけばキラを殺したLは50代だ――― から本人だと思われる事は無かろうが、血縁者として捕縛されるのは間違いないだろう。どうやらキラ殺しは神殺しに相当するほどの大罪らしいから。
「あそこに行けば間違いなくこの時代の情報が手に入るのですが‥‥」
電気があるならコンピューターの類も有るかもしれない。他の離れた地域と連絡をとる手段もあるかもしれない。
Lはワタリの事を思い出し、それからワタリが育てていた『Lの後継者候補』達の事を思い出した。
この荒廃は恐らく東京だけに留まらないだろう。下手をすれば全世界規模のものかもしれない。そうなると、あの子供達は今どうしているのか。キラの敵であるLの後継者候補だと誰かに知られ悲惨な目に会っていなければいいのだが‥‥‥
そんな事を思いながらLは元来た道を戻り、それから別の道を進んだ。
「川向うの工場地帯‥‥とか言ってましたね‥‥どうやらそこに行けば働き口もあるらしい」
Lは先に出会った男女が食べていたレーションのような食事を思い出し、それも『川向うの工場地帯』で作られているのだろうと予想した。荒廃はしているけれど、人が滅びた訳ではない。文明もちゃんと残っていて人々の生活もそれなりに維持されているようだ。それが場所によって差がある、という事だろう。
「それにしても寒い」
夜風が身に染みてLはジャケットの上から我が身を掻き抱き長年癖になっている猫背を更に丸めた。
「これは‥‥地下鉄の入口ですね」
ここにするかと足を向ける。建物内と違って空気の遮断が為されていない地下鉄ホームなら人がいないと思っての事だ。長年掃除をされた形跡のない階段や通路は土埃とゴミで汚れ放題だ。入口から不要なものを投げ込んだ結果だろう。簡易ゴミ捨て場だ。
そんなゴミの山を避けて通路に降りたったLは、真っ暗な中、壁を手さぐりしながら奥へと向かった。改札口の事務室なら個室だから寒さが凌げると思ったのだ。だが、暫くも行かないうちに先客がいる事が判った。
明かりだ。
Lは足音を顰めそっと近付いた。
改札口手前の分岐通路がちょっとした商店街になっていて、そこの一番大きなテナント――― 喫茶店のようだ――― 内から明かりが漏れている。光源はランタン、キャンプ用だろう。店内のソファに寝転がっている数人がくるまっているのも毛布ではなくシュラフだ。
「誰だ!?」
Lの足元で音がした。ガラスの破片を踏んだのだ。そのとたん、店内から鋭い声が聞こえて来た。
「ここはもう俺達が使っている。とっとと出て行け!」
その声に反応してLの背中側からも声がした。人がいたのは喫茶店だけではなかったようだ。眩しい光にゆっくりと首を巡らせれば、鉄パイプを手にした若い男が警戒心も露わな表情でこちらを睨んでいた。その後ろには懐中電灯を手にした若い女もいる。
「済みません、直ぐ出て行きます」
「この奥にも先客がいる。上にあがれ。空き家なら幾らでもあるだろう」
そうこうするうちこの場にいる人間が全て起きて来たようだ。合わせて7人。光を向けられているので良く判らないが受ける感じは非常に若い。刺々しい雰囲気から全員が武器を手にしていると判る。それが銃ではないのが幸いだろうか。もし銃があれば寝ずの番をしていた男がもっている筈だし、一番前に出て来た男もそれで武装している筈だ。
「こいつ余所者?」
「危ないから下がってろ」
幼げな声がした。年端もいかない子供の声だ。どうやらこの集団はティーンエイジャーの集団らしい。親はどうしたのだろう。
「食いっぱぐれてこっちに流れて来たんじゃない?冬になると増えるのよ、そういう連中」
「ねぐらと食いもんが欲しけりゃ役場に行きな」
「役場?」
「都庁の出先機関があるんだよ。そこに行けば何でもある」
先程見た建物がそうだろうか、と考える。政府関係なら銃を持った警備員がいてもおかしくない。しかし、政治機関が存続していたとは意外だ。てっきりその手は崩壊していると思っていた。
「貴方達は?何故そこへ行かないのですか?」
そこかしこから小さな笑い声が上がった。
「顔と名前を登録されて一生飼い殺しにされるなんてゴメンだね」
顔と名前――― その符丁に内心ハッとなる。
「そこには死神がいるのですか?」
「そこまでは知らねぇな。けど、あそこにいるハゲがノートを持ってるのは確かだ」
「奴に逆らった奴隷が何人も死んでるって話よね」
「ノート‥‥」
「キラ様の遺産だよ」
またキラ様だ。キラはよほど巧く世界を騙したらしい。サイトで救世主と騒がれていたが、それで押し通し続けとうとう神か王にでもなったというのか。
それと同時に『L』は何をしていたのかと、内心溜息もので思う。
『L』つまり自分はICPOの依頼でキラ事件を捜査していた。そしてキラが日本の関東に住んでいる事を突き止め日本に乗り込んだ。だが、捜査の過程でFBI捜査官から犠牲が出て、LはICPOの協力を失った。日本政府もまた弱腰になりLの介入を拒否した。それでも日本の刑事の何人かがクビと死を覚悟でLに協力を申し出た。
そして、これからという矢先にこの有様だ。
タイムスリップ?何だそれは?何処のB級映画だ?
「まぁ、ハゲのいう事を聞いてれば殺されはしないさ。安い給料でこき使われて一生を終えるんだな。雨露をしのげて腹が満たされれば満足だろ?」
そうですね、と呟いてLはゆっくりと出口に向かって歩き出した。そんな彼を懐中電灯の光が照らす。反撃に出ても多勢に無勢、暗がりにいる彼らの方が有利だ。それに、彼らを叩きのめした所で意味はない。ある程度情報は得られるだろうが解決にはならない。それだったら、彼らの言う『ハゲ』の所へ行くか、工場地帯とやらへ行った方がましだろう。
「俺達を恨むなよ。俺達みたいな親なしは、毎日を生きるのに必死なんだ」
「判ってます。お互い酷い時代に生まれてしまったものですね」
「それもこれも『L』のせいだ」
憎々しげな声が光の向こうから聞こえる。
「『L』がキラを殺さなければ?」
その声に向かってと言う訳ではないが、Lはさり気なくカマを掛けてみた。
「死神が好き勝手する事もなかったろうさ。ブーロー連中が暴走してノートが世界中にばらまかれる事もなかった」
返って来たのは想像を超えた答えだった。
死神?ブーロー?好き勝手?暴走?
まるでキラがそれらを支配管理していたかのようではないか。いや、まさか、本当に?
「キラ様さえ生きていらっしゃれば、平和なままだったのに」
その考えを肯定するかのように寝ずの番をしていた若者が言う。
「ジジィも言ってたっけ。ちょっと厳しかったけど、キラ様はお優しい方だったって。トミノ‥‥分配?それを目指してキョウイクのフキョウ?にも努めてたって。厳しいと言っても法律を守って罪を犯さなければ罰される事はないんだから今までと変わらない。人間として当然の事を守ればいいだけだ、ってな」
何やらこそばゆいほど『理想的な話』を聞いた気がする。
富の分配?教育の普及?犯罪者を殺す事でどうやってそれを目指すと?裁きの力をさんざん見せつけて恐怖で世界を支配するつもりだった?そして世界に号令?キラ様に逆らえば殺す?
確かに犯罪の原因は貧富の差によるものが大きい。教育が浸透すれば職業選択の幅も広がる。犯罪減少のための基本だろう。だが、それが出来れば誰も苦労はしない。金持ちは今更貧乏になる事を好んでしないし、権力者という者は一度掴んだ権力を離しはしない。そして、富も権力も持たざる者がいるからこそ持つ者が栄える嫌な仕組みだ。
つまりキラは、それを力技でぶっ壊そうとしたと言う事か。そうして『L』が、自分がそれを止めた。
キラを殺して―――
自分はいったいどうやってキラの正体を突き止めたのだ?そして、どうやって殺した?
30年前にいったい何があった?
「貴方達に神のご加護があらん事を」
「何?オッサン、何言ってんの?」
「港の教会のガイジンみたくない?
「あぁ、あの‥‥キリスト?だっけ?裸の痩せこけた髭親父を有り難がってる、あれ?」
「祈りなさい、されば救われる?バッカじゃねぇ?あんなのに祈って腹が膨れるかっての」
「祈るんならキラ様に祈ってよね」
そんな言葉に見送られ、Lは地下鉄を後にした。
結局その夜は雑居ビルの1室で夜を過ごした。久々歩いて疲れたのだろう。昼近くまで寝こけていて、起きると既に太陽が真上にあった。冬の東京は晴れの日が多い。雨や雪よりましだが、風が冷たくて堪らない。腹もすいている。
Lは歩いた。とにかく歩いた。歩くしか術がなかったからだ。
昨日得た情報によると、政府機関は壊滅した訳ではないらしい。それなりに残っているが、その頂点に立つ奴がキラの裁きの力を持っていて、恐怖支配を行っている。それとは別に工場地帯というのがあって、そこに行けば働き口があり、まともな生活が出来るらしい。
「工場地帯に政府の息は掛かっていないのか?官と民が分離?政府で賄えない分を民間がフォローしている?」
色々と複雑な世界であるらしい。
「キラの殺人には顔と名前が必要。それが何故なのか‥‥その答えはあのノートにこそあった」
キラはノートを使って犯罪者を裁いた。そして、そのノートには『死神』というオプションも付いていた。
「死神‥‥本物か?私の目には化け物としか映らなかったが‥‥あのノートは元々は死神の物だった?そして、死神は人の顔を見ただけで名前が判る?」
人々は死神を、ノートの力を恐れて生きている。名前を他人に知られる事は弱みを握られるも同じ。だからテレビは使われなくなり、ラジオだけになった。そのラジオが今も使われているかどうかは不明。おそらく滅多な事で他人に本名を教えたりしないのだろう。最初に会った4人組は全員が全員互いの名前を知っていた訳ではなかった。
だが、死神はそれをいとも簡単に暴いてみせる。そしてわざわざ人間に教え殺人を促す。
「死神は殺意を抱いた人間の前に現れるのか?」
たぶんそうなのだろう。そして、そのせいで多くの人間がいとも簡単に殺された。
憎しみ、妬み、嫉み。気に入らない、面白くない、ただそれだけで殺された者もいただろう。
それもこれも死神が好き勝手し始めたから?好き勝手に人間の前に現れて、殺したい相手の名前を教え、ノートを与え名前を書かせた?
殺された人間の知り合いは復讐心を抱くだろう。そこに死神がつけ込んで仇を取らせる。延々繰り返される殺人ループだ。
「だが、キラが生きていた時はそんな事はなかった‥‥」
キラの殺しには明確な意図があった。殺す相手が決まっていた。犯罪者だ。それも情状酌量の余地のない犯罪者。そしておそらく単独犯だった。
「死神憑き‥‥」
キラには死神が憑いていたのだろうか。
地下鉄の少年は『ハゲ』に死神が憑いているかは判らない、と言っていた。憑いていたとしても死神は姿を消せるそうだから誰にも見られていないだけかもしれないが。という事はキラに死神が憑いていたとしても、誰にも判らなかったに違いない。あんな化け物が目撃されたら騒ぎにならない筈が無い。
「それにしても‥‥お腹が減りました‥‥」
歩いて歩いて。いったい何時間経ったのか。既に日は西に大きく傾いている。喧嘩になれば負ける気はしないし体力に自信が無いわけではない。何日も徹夜で推理するのは良くある事なので、暇な時は体力トレーニングをしろとワタリが煩かったからだ。
だからと言って、ただただ歩くだけというのは思ったより疲れる。
「川‥‥ですね」
そうして何本目かの川を渡った所でひときわ大きな川に着き当たった。
「しかも川向うの街はまともなようです」
徐々に高いビルが減り住宅が増えて来ていた。そして、大きな川の向こうは今まで通って来た繁華街とは明らかに様相が違った。
明かりが点いているのだ。夕暮れを迎えた街のあちこちに街灯が輝き始めている。川向うでは未だ文明が生きているようだ。
「秩序も残っているといいのですが」
だが、橋が無かった。
夕日の弱い光でも川に落ちた橋の残骸は見て取れる。
「どれだけの規模の街かは判りませんが、養える人の数には限りがある、という事ですか」
だから、余計な食いぶちを増やさないよう、橋を落として余所者が簡単に侵入できないようにした。もっとも、川幅は広いし河川敷も広いからそれが功を奏したかは疑わしい。それにボートがあれば川を渡る事など訳はない。
「これが別の国なら河川敷に地雷が埋まっているかも」
だが、ここは日本だ。自衛隊から失敬して来ない限り地雷源など作れないだろう。
「大きな工場は無いようですね。町工場ですか?大きな物は造れなくても、生活に密着した物は造れますか。あと、畑でもあればそれなりにやっては行けますね」
川を下るか昇るかして渡れる場所を探した方がいいのだろうか。だが、恐らく近隣の橋は全て落とされているだろう。遠回りするほどの元気はもうない。もう二日、何も食べてないのだ。見た目に反して大食らいのLは――― 大半はカロリーの高いスィーツだ――― もうすっかり腹ペコである。
「仕方ない。泳ぎますか」
意を決し、Lは枯れ草の残る河川敷にソロリと足を下ろした。
ずぶ濡れになりながら川向うに侵入を果たしたLは、とにかくこの寒さを何とかしなければと酷く焦っていた。真冬の川に飛び込んだのだ。着替えただけでは体温は戻らない。
そこそこに人の気配がする。街灯、家の灯り、近付けば話声さえ耳にする事が出来る。この街は確かに荒廃を免れたのだ。
だが、人がいる分、身を隠すのは難しい。これが夏なら何とかなるのだが、あいにく今は冬だ。
Lは空き家を探した。そして運良く見つける事が出来た。街は無事でも人は無事ではなかったのだろう。一見平和そうなこの街も死神のせいで随分と人が死んだのだろう。だから住人を無くした家がある。
「鍵が掛かっている?」
誰かが管理しているのだろうか。だとしたら、この街にもそれなりの行政機関があると言う事だ。
Lはやっと見つけた空き家の周囲をうろつき入り込めそうな個所を探した。だが、窓を破らない限りそれは無理なようだ。ピッキングに必要な道具もない。
「ログハウス?‥‥あぁ、物置ですか」
だが、うまい具合に鍵の掛かっていないプレハブの物置があった。中身は空だ。おそらく中身は他の人間によって持ち去られたのだろう。死んだ人間より生きている人間の方が大事だ。
「服どころかタオルも無し‥‥最悪ですね。風邪引きは免れませんか」
そうしてLが物置に入ろうとした時だった。
「おい、あんた。そこで何してる?」
不意に生垣の向こうから声がした。
「越境者だ!越境者がいるぞ!!」
見つかった!
Lはとっさに逃げた。開けっ放しだった門扉を擦り抜け、追いかけて来る笛の音から走って逃げる。
「越境者だ!捕まえろ!!」
その声に応えて近隣の家から人が飛び出して来る。
「死神か?死神が来たのか!?」
「死神憑きだ!人殺しが川を越えて来たぞ!!」
手に手に懐中電灯や武器を持ちLを追いかけて来る。問答無用で犯罪者扱いだ。救いは連中の武器が銃ではない事だ。だが、捕まったらただでは済まないだろう。追跡者達が興奮しリンチにでもなったら『死神憑き』と誤解されたまま殺されるかもしれない。
今現在、警察組織が機能しているかどうか定かでない。いずれにしろ公平な裁判は期待できないだろう。
とにかく逃げなければならない。
「腹が‥‥減って‥‥」
しかし、空腹の状態で真冬の川を泳いだ後だ。体力は早々残っていない。
「‥‥このままでは‥‥」
地の利は向こうにある。だが、住宅街の込み入った道を利用して逃げるしかない。庭木の多い家に逃げ込むのも一つの手だ。だからLはそうした。一気に走ってある程度距離を開け、あとは曲がって曲がって追跡者をまく
そうして飛び込んだのは比較的大きな家だった。ブロック塀と門扉は2メートルを超え、身を隠すだけの植え込みと広さの庭がある。運がいい事に明かりは点いていない。空き家の可能性大だ。
遠くで追跡者達の声がする。どうやら撒くのに成功していたようだ。だが、その騒ぎに近隣の家々から人が顔を出して来た。
「越境者だ。死神憑きだ。見かけたら直ぐに治安部に連絡しろ」
「見つけても目の前に出るなよ。隠れて連絡するんだ」
いやいや、もし本当に死神憑きならもうとっくに殺しているだろう。なにせ名前を書くだけでいいのだから。
「どうしましたか?」
それくらい判らないのか?と内心毒づいている時だった。逃げ込んだ家の玄関ドアが開いたのは。住人がいたようだ。その住人は大きな声を上げ、2軒先にいた追跡者の一人を呼んだ。
「あぁ、先生。越境者だ、死神憑きだ」
「本当ですか?本当に死神憑きなんですか?」
「死神の姿は見えなかったが、姿を消してるだけかもしれん。先生、危ないから隠れていてください。先生が殺されでもしたら、俺たちゃみんなに顔向けできなくなる」
「判りました。でも、皆さんも気を付けてください。怪我を負ったら直ぐ僕の所へ」
「はい!」
追跡者はそう言って去って行った。だが、住人は未だドアを開けたままだ。
「何時までそこにいるつもりですか?」
その住人が明らかにLに向かって声をかけた。
「川を渡って来たんでしょう?ボートで?それとも筏で?まさか、この寒空に泳いで来た、なんて言わないでしょうね」
男だ。若い男。切羽詰まった感じも警戒している感じもしない。至ってリラックスした声だ。
「ほら、こっちに来て。風邪をひきますよ」
どうすればいいのか。懐柔し油断させて寝付いたところで追跡者達に通達する、というのが一番考えられる未来だが、果たして『死神憑き』にそんな手が通用するだろうか。
「只の越境者なんでしょ?死神憑きならとっくに誰かを殺してる筈ですからね。それに、死神自身が勝手に殺すでしょう。あの連中はそれが本能なんですから」
その言葉にLは意を決し、隠れ潜んでいた植え込みの陰から姿を現した。
「おや、ずぶ濡れですね?やっぱり泳いで来たんだ。なんて無茶な事を」
家に明かりが灯り、カーテン越しの光が庭に立つLの元まで届く。玄関の明かりは点いていない。声の主の姿はまだ見えないままだ。
「さぁ、入って」
「‥‥いいんですか?」
「何がです?」
黒い人影が家の中を指し示す。
「私は越境者ですよ」
「みたいですね。この街の審査会はつい1週間前に終わりました。貴方が審査会を受けられるのは半年後です。それまで生活の当ては?」
「‥‥ありません」
「無ければ都庁のお世話になるしかないですね」
「『契約者』の『ハゲ』がいる?」
「出目川都知事のことですか?ふふふ、そう言えば彼にはカツラ疑惑がありましたね」
一歩一歩歩を進め、玄関ポーチに上がる。
「何故私を?」
「僕は『医者』をさせて貰ってます。風邪をひくと判っている人を放ってはおけません」
「‥‥‥」
招き入れられた家の中は外よりは暖かかった。だが、暖房の暖かさは感じられない。電気は通じているが暖房までは賄えないのだろうか。
「こっちへ。風呂を使って下さい。電気で湯を沸かしてますので、あまり湯量は残ってませんが」
「いえ、十分です」
「直ぐに着替えをお持ちします」
「あ‥‥」
若い男は言うだけ言って2階へと上がって行った。廊下の明かりは点いていない。暗くて男の顔は見えない。顔も名前も判らない男を何処まで信用していいのか。だが、この寒さはどうにかしなければならない。
Lは廊下の奥、左手にあった風呂に小さくくしゃみをしながら入った。
風呂から上がると脱衣所に着替えが一式置いてあった。Lの濡れた服は見当たらない。ふと、隣に洗濯機を開けてみると、そこに入っていた。何時来たのだろう。全く気付かなかった。
「‥‥た‥‥お人よ‥‥から」
「それが‥‥の、いい所‥‥ですか」
廊下へ出ると、通り過ぎた部屋の向こうから声が聞こえて来た。先程の男の声ではない。声は二人。未だ若い、どちらかと言えば子どもの声だ。明かりが点いている。何時の間に?
Lはそっと近づき中の様子を窺った。ドアは閉まっている。幅10センチ、縦長の擦りガラス越しでは中の様子はほとんど判らない。
その時だ。
「何やってんだよ。入ったら?」
中から声がした。思った通り子供の声だ。
「今更遠慮するくらいなら越境なんかしないでください。面倒な」
「それは無理だって。ハゲに飼われて廃墟暮らしするくらいなら、思い切って川を越えようって気にもなるさ。審査会で住民票を与えられるのはほんの数人だけだからな」
「それも、何か手に職を持ってるか、この街に必要な知識を蓄えてるかしないと認められませんからね」
「場合によっては新規住民ゼロって時もある」
ドアを開けたそこにいたのは二人の子供だった。
一人は金髪、一人はくすんだ灰色の髪。
共に見覚えのある顔だ。
「うへぇ、カエル?」
「両生類か爬虫類って顔ですね。粘着気質と見ました」
「貴方達‥‥」
それはワタリが育てていた『Lの後継者候補』の子供達の二人だ。
「メロ‥‥」
「何だって?」
「それに、ニア‥‥どうして」
「‥‥どうしてその名前を‥‥」
思わず口を突いて出たその名に、二人の子供が気色ばむ」
「てめぇ!『契約者』かよ!」
「月さん!月さん、来て下さい!!」
それぞれが家具に飛びつき取り出したのは武器。金髪はナイフでもう一人はスプレーだ。どうやら防犯対策はバッチリらしい。
「そんなに大声を出さない。近所迷惑だろ?」
「だって、こいつ‥‥!」
「大丈夫。彼は死神憑きじゃないよ」
「しかし‥‥!」
「この僕が保証するんだ。間違いない。それより、ほら、彼に座って貰って。夜食作ったから」
Lを警戒する子供達とは裏腹に、キッチンに立つ先程の男は平然としている。
「鍋焼きうどんで良いかな?体が温まる」
その声に振り返ったLは奇妙な既視感に襲われた。
何処かで見た顔だ。
咄嗟にそう思った。
「座って、3人とも」
ニコリと笑った男は荒廃した世界には似合わない、実に綺麗な顔をした男だった。
続