その日は前の晩から冷え込みが続き、この冬一番の寒さが予想されていた。
街行く人々は身を縮め早く暖かい場所に避難したいと忙しなく足を進める。
そんな冷え切った朝の空気の中、一人の少年が母親の運転する車から降り、
都内屈指の進学校の校門を潜った。
黒い学生服にマフラーを巻きつけただけの、
今日の寒さを乗り切るには聊か不向きな恰好の少年は、
見栄を張るなら背中を丸めるな!とか、
両手をズボンのポケットに突っ込むな!とか言いたくなる、
ちょっと、いや、かなり見栄えの悪い格好で寒風吹きすさぶ校庭に足を踏み入れた。
「しまったぁ‥‥やっぱり早く来すぎた‥‥」
校門の柱に立てかけられた看板には『私立大国学園高等学校受験会場』とある。
そう、この学生服姿の少年は受験生。今日この高校を受験しに来たのだ。
しかし、試験開始時間までまだ1時間以上ある。
どうやらこの少年、緊張に耐えられず早々に家を出て来たらしい。
早く試験会場に来てその場の雰囲気に慣れようと思ったのだろう。
だが、人気の無さと余りの寒さに逆に不安を助長され、ますます背中が丸くなっている。
小太りな黒いその姿はちょっとばかし滑稽と言えなくもない。
受験勉強のしすぎで運動不足がたたり太ったのだろう。
何もない場所で何度も転びそうになっているのは決して運痴だからではない、
と彼のために弁明しておこう。
いや、だから、転びたくなかったらズボンのポケットから両手を出せっての!
「そうだ‥‥!受験票、受験票‥‥あれ?何所いれたっけ」
自分の吐いた息で掛けた眼鏡のレンズを白く曇らせながら少年は鞄の中をごそごそ探る。
何を忘れても、たとえパンツを履いてくるのを忘れても、決して忘れちゃいけない受験票。
(聞くところによると、忘れて来ても臨時に受験票は出してもらえるらしい)
それが見当たらず焦りに焦った少年は、
よせばいいのに鞄を探った格好のまま入口に向かって歩き続け、
お約束通り階段にけつまづいて転んでしまった。
「あたっ!」
口を明けっ放しにしていた鞄の中身を盛大にぶちまけて顔から転倒する少年。
この場合『滑った』のではなく『転んだ』のだからゲン担ぎには関係しないだろう。
そういう事にしておこう。
「君、大丈夫かい?」
コンクリートの玄関床に顎をぶち当て、その余りの痛さに少年は涙目だ。
起き上がる事もカバンの中身を拾う事も忘れ、
これで落ちたらどうしてくれるんだぁ!ママのバカァ!!と、
全く関係ない母親に心の中で八当たっていたところ、
思いもかけない救いの手が少年に差し伸べられた。
「だ、大丈夫です‥‥」
影が覆いかぶさったなぁと思って直ぐ、力強くも優しい手で抱き起こされる。
「寒いとどうしても動きが固くなるからね。気をつけないといけないよ」
「は、はい‥‥ありがとうござい‥‥」
汚れたズボンをはたいてもらい、辺りに散らばったペンケースやら参考書やらを拾ってもらい、
少年は慌ててお礼を言おうとした。
その瞬間、少年は神様を見た!と思った。
そう、今日この日にこそ現れて欲しい受験の神様だ。
たとえネクタイをしていようと、ズボンを履いていようと、美人なら(?)神様だ。
そうだ、そうなんだ!絶対!!
「これ、一番大事なものだよね。はい、どうぞ」
そしてその、如何にも柔らかそうな栗色の髪、同じく柔らかそうな琥珀の瞳、
アルカイックスマイルと共に優しく少年を見つめる受験の神様は、
少年がどんなに探しても見つけられなかった受験票を、
まるで手品か何かのように手渡してくれた。
そのとたん少年の鼻腔を微かにくすぐったのは香しい華の香り。
それが他称受験の神様が昨夜使ったリンスの香りだという事は明らか過ぎるくらい明らかだが、
人生最初の試練で思わぬ醜態をさらし、なおかつ!
ごっつ好みの美人さんと運命的(何処が?)出会いをしまった少年は、
緊張感と焦燥感と不幸感と幸福感がごちゃまぜになっていたせいで、
全くちっとも!その事まで考えが及んでなかったりする。
あぁ、そうなんですねぇ。
つまり、件の受験の神様は少年のストライクゾーンだったんですねぇ。
貴重な早春の数ヶ月を受験勉強に捧げ過ぎたんだねぇ。
え?そのために中学で2年間付き合っていた彼女と別れた?はぁ、そうですか。
でも、彼女の方ははなから付き合ってるつもりはなかった、という情報が電波で‥‥‥‥
がんばれ若造!
「どうしたの?何所か痛いの?」
目の前の理想の美人さんに思いっきり見惚れてしまった少年は、
差し出された受験票を受け取る事も忘れ、ただただ美人さんに見入っていた。
それを何所か痛いのだと勘違いした美人さんは慈愛の笑みを湛え、
少年の冷えた手を取り、その掌にわざわざ受験票を握らせてくれた。
あまつさえその手を暖かい自分の手で包みこみ、
ハァァと、香しき香(歯磨き粉の匂いだな)の息で温めてもくれた。
あぁぁぁぁ!受験の神様は至れり尽くせりですぅぅぅ!とは、少年の内なる声。
限界ぎりぎり肉声にしなかった事を誉めておこう。
「実はちょっと不手際があって、まだ受験会場の準備が出来てないんだ。
でも、廊下で待ってるのは寒いよね。
先生に言って何とかしてもらうから僕に付いてきてくれる?」
「は、はいぃぃ!」
『僕』と言ったからには目の前の美人な受験の神様は女神様ではないらしい。
ってか、ネクタイにズボンなんだから当然?
そして、受験の神様は少年が受けるこの高校の制服を着用し、
胸元には3年生のバッチを付けている。
いわゆる在校生‥‥先輩である。
それでも!だ!!!
にこやかに微笑みながら少年を校内へと案内してくれるからには!
親切な美人さんは受験の神様なのだ!!
こ、こんな親切な!こんな優しい!!こんな綺麗な先輩がいるなんて‥‥!!!
偉いぞ俺!よくぞ、この高校を選んだ!!
「受験頑張ってね」
「はいぃぃぃぃぃっつ!!!」
春からはこの美人さんと同じ学び舎で学ぶんだぁ!
そして、この出会いをきっかけに親しくなって仲良くなるんだぁぁぁ!
遂に!遂に俺にも春が来たぁぁぁぁぁ!!
などと心の中で叫びながら、少年は思いっきり鼻の下を伸ばしていた。
そんなんで大丈夫なのか?受験‥‥‥‥
「なぁ‥‥あれ、どう思う?」
「何だ?山元」
「あれがどうしたって?」
そしてその一部始終を、少し離れた場所から数人の男子学生が見ていた。
彼らもまた少年の受験の神様と同じこの高校の制服を着て3年のバッチを付けている。
彼らはインフルエンザで倒れてしまった教師数人に代わり急遽手伝いに駆り出された、
既に進学先が決まっているお気楽な連中であった。
もちろん、少年の受験の神様も進学先が決まっている。
いや、合格通知は未だだが、合格間違いナシ!と、校長のお墨付きをもらっている。
何せ高校3年間常に全国模試1位をキープしていた実に優秀な生徒なのだから。
「月と受験生?心温まるシーンだったな」
「相変わらず『良い人』だよな。しかも、無駄に笑顔ばらまいてるし」
「あれはもう癖だろ。ってか、月の笑顔はもはや癒し?
バレンタインの義理チョコも相変わらず美味かった」
「あ、ホワイトデーのお返しどうしよう。
俺、大学関西だから、10日過ぎにアパート探しに行くって、親に言われてんだよな」
「うわっ!それが高校3年間、月に義理チョコもらってた奴の言う台詞か?
知ってっぞ。お前、遂に月以外からチョコもらえなかったんだってな」
「違う~~!妹からちゃんともらってた~~~!」
「妹ね‥‥それって、カウント無効って考えるの、俺だけじゃないと思うぞ」
「いや、だから、今俺が言いたいのはホワイトデーの話じゃなくって。
その癒しの月の頬笑みが、あの中坊にどんな影響を与えるかって話」
「は?」
「あ~‥‥何か俺、山元の言いたいこと判った気がする」
「一緒にいたの、△○中学の生徒だよな。けっこう遠いのにうちを受けるって事は‥‥」
「あそこ公立だっけ。
という事は、よほど優秀なのか、それとも一生懸命勉強して賭けに出たのか」
「俺にも判って来たぞ、山元!」
「可哀そうにな」
「だな。可哀そうにな」
「え~?そうでもないだろ?逆に励まされて実力以上の力を発揮するんじゃないか?
合格すれば月と一緒の高校に通えるって、ものすご~く頑張るんじゃねえの?」
「初めのうちはそうだろう。だが、ある事実に気付いたら、
がっくり落ち込んで実力の半分も出せなくなる可能性が非常に高い」
「何だよ、ある事実って」
「あのさ、俺ら何年生よ」
「3年生」
「そう、もう進学先は決まってんの、後は卒業するだけなの。
って事は、俺達が春から通うのは何所かな?」
「大学‥‥あ、そっか!俺ら、もうここには来ないんだ!」
「もちろん、月も卒業してこの学校とはオサラバする。
あの受験生君が夢見たであろう、
『センパ~イ』『コウハ~イ』ってな間柄には決してならない」
「うっわ~!可哀そう!!」
「落ちたな‥‥」
「あぁ、落ちたな」
「桜、散っちゃうんだ」
そんな無情な会話が他人様の間でなされていた事を少年は当然ながら知らない。
月のお陰でこの瞬間、その他大勢の受験生達の合格率がほんのチョッピリ上がった。
桜は誰のために咲くのであろう。