HWITE NIGHTMARE

HWITE NIGHTMARE
穢れなき悪夢

 

 



 監禁から解放後夜神月が変わった、と思ったのはどうやら竜崎一人だったようだ。
 何所がどう変わったと指摘する事は出来ない。しかし、竜崎には性格が変わったとしか思えなかった。まるで本当にキラに操られていたとでも言うかのように。

「あぁ、竜崎。そんな所に紅茶を置いたら書類が汚れるだろ。それと、角砂糖を悪戯した手でパソコンを触るなよ」

 自分の右側からいきなり伸びてきた手がすっかり冷めてしまったティーカップを散らかった書類の上からどかし、有無を言わせず自分の手を取り予想していたかのように用意されていたウェットティッシュでゴシゴシ擦る。

「午前中もこれで書類をダメにしたばかりだろ。中身の文章が幾ら保存済みだからって粗末にしていい訳じゃないんだからな」

 あぁ、本当に‥‥この嫌になるくらい世話好きな二十歳一歩手前の少年とも青年ともつかぬ輩は何者だろう。
 確か女にすこぶるもてて自分で何かしなくても何でも女にやってもらえそうな、巷で言う所のイケメンだったはずだ。いやいや、監視カメラで見た自室の異様に整理整頓された様子からして母親に掃除させていたというより自分でしていたという感じだったが、それでもこれは行き過ぎだろう。潔癖症という訳でもなさそうなのに。何故なんだ?
 相も変わらずのポーカーフェイスでそんな事を真剣に考える男は竜崎こと世界の切り札探偵L。解けない謎はなかったはずなのに、今の彼はどんなに考えても解けない謎にぶち当たっていた。
 綺麗好きがこんなにもはた迷惑な性格だとは思いもしなかった。

「竜崎、何度言ったらわかるんだ。風呂から上がったらちゃんと体を拭け!髪にはドライヤーを当てろ!シーツと枕が湿るだろ!」
「湿るのは私の枕だけですからいいじゃないですか」
「湿った臭いがするんだよ!お前、見た目は結構アジア系だけど、欧米の血も結構濃いだろ」
「‥‥ノーコメントです」
「ノーコメント結構!その方がお前が日本人だと思わなくて済むからな。判ってるか?お前。結構体臭あるぞ。いつもお菓子ばかり食べてるから鼻が甘い匂いで馬鹿になってるんだろ。少しは一緒に寝る僕の身にもなれ。離れたくても離れられない僕にとって、移りそうなくらい体臭のする男なんて願い下げだ!」

 一瞬何を言われたか判らなくて、竜崎はバスタオルを頭にのっけたまま――― 情けない事にそれ以外は裸だ――― 手際よくベッドメイクしている夜神月の形の良い引き締まったヒップをまじまじと見やった。別にその気がある訳ではない。ただ単にその時の夜神月が腰を折り曲げていたから、視線がそこに行っただけである。
 それだけなんだと、何故か言い訳をしてみる。自分の頭の中で。

「それは、つまり‥‥」
「僕が毎日でもシャワーを浴びろ、とお前に言うのにはちゃんと理由があるんだ」
「私の体臭が‥‥」
「いくら空調が利いていても、同じベッドで寝ると鼻に付く!いやむしろ、移る!!」
「臭う‥‥?」

 身を起こし振り返った夜神月がニッコリと笑った。

「あぁ。日本人ならそんな事はないけど‥‥あぁ、相沢さんは結構きついかな?あの髪型に似合うと言えば似合うけど竜崎ほどでもない。まぁ、そうは言ってもオーデコロンの類は鼻が歪むから嫌だし‥‥うん。やっぱり毎日のシャワーは欠かせない。欠かさせない!」

 まさかこんな事で自分の素姓の一端がばれようとは思ってもいなかった竜崎こと世界の切り札探偵L。表情はやはり無表情だが、内心かなりショックを受けている。

「ほら、こっちに座れ」
「‥‥‥‥」

 だからという訳ではないが、そう言われて素直に従ってしまうのはこの行動がもはや日常茶飯事と化していたからだ。ふらふらベッドまで歩いていけば、サッと頭から大判のバスタオルを取られそれで残っていた雫を拭き取られる。

「はぁ‥‥同じ男相手とはいえ、股間丸出しで隠しもしないその図太い神経‥‥これが憧れの探偵Lの実態かと思うと涙が出るよ」

 それから無理矢理ベッドに座らされ、まだ濡れている髪にドライヤーを当てられる。

「でも、図太くないと探偵なんてやっていけないのかなぁ‥‥あぁ、でもお前、安楽椅子探偵だっけ。引き籠りなんだよな。って事は、どっちかっていうと繊細?」

 うわぁぁっ!信じられない!!――― などと叫ぶ夜神月に『失礼な』と言い返せば、

「だって竜崎、何にも感じないんだろ?」

 と、実に真面目な顔で言われてしまった。

「は?」
「肩重くない?」
「姿勢が悪いので肩は凝りますが‥‥」
「頭痛は?」
「私、偏頭痛持ちじゃありませんよ」
「吐き気とか悪寒とかしない?知らない間に鳥肌立ってたとか」
「ここ数年風邪をひいた覚えはありません」
「やっぱり何も感じないんだ」

 続いて取り交わされた会話にただただ疑問符しか浮かばない。

「良かったな、鈍感で」

 一瞬、やはり何を言われたのか判らず竜崎こと世界の切り札探偵Lは、目の前の綺麗好きにして世話好きな、自分とタメを張れる頭脳を持ったおそらく十人が十人とも美形と称するだろうこまっしゃくれた18歳少年の――― 体格的にはもう青年と呼んで差し支えないが、悔しいから少年、いや、おこちゃまで十分!と心の内でこっそり叫んでみる――― ツルツルスベスベお肌にキラキラ琥珀の瞳がものすごく印象的な、サクランボ色した小憎らしい唇とツンと自尊心の高そうな実に形の良い鼻が絶妙に配置された顔をじ~っと見つめ返すことしかできなかった。
 あ~、ちょっと認めよう。この顔はどうやらストライクゾーンらしい。

「私にも一応好き嫌いがあったみたいです」
「は?」

 小首を傾げる仕草が可愛い、と思うからには間違いなくそうなのだろう。

「貴方がキラだという証拠を掴んだら、私、揉み消してしまうかもしれません」
「バカか、お前」

 湿ったバスタオルを顔に投げ付けられ竜崎はその未来を想像しようとして止めた。

「推理は得意ですがこういうのは‥‥」

 夢は見ない。見方を知らない。
 そんな暇はなかったし、そんな必要もなかった。

「バカだなぁ」

 目の前に突き出されたのは白湯。風呂上がりには水分摂取が必要だからと、彼はいつもこれを用意してくれる。それ以前は蜂蜜たっぷりの甘い甘いレモネードを飲んでいた竜崎だったが、今はこの何の味もしない液体をそれなりに気に入っていた。その理由が、彼から手渡されるからだと、たった今気づいてちょっと爪を噛んでしまう。

「それはそれで淋しいけど‥‥うん、お前はそれでもいいかもね」
「月君?」
「神経質なところが、あっちの方にも発揮されたら、すぐ倒れそうだし」
「月君。さっきから何を言っているのか判らないのですが‥‥」
「判らない方がいいよ」

 そう言って30センチと離れていない先にある綺麗な顔が竜崎をじっと見つめてから何故かウロウロと視線を彷徨わせる様子に、あぁ、そういえばこんなことが以前もあったなぁ、と思う。

「探偵って、大変だよな」
「えぇ、まぁ」
「父さんを見てて刑事って大変だなぁって思ってたけど、探偵も似たようなもんだったんだな。お前を見てると日本の刑事は楽だって、日本は平和なんだって、つくづく!思うよ」
「働く大人は大変なんです」
「あぁ、ごめん。うん、どんな職業も楽なはずないよな」

 命がけなら尚更だ――― そう言って優しく微笑んだ夜神月の視線がやはり一瞬だけ竜崎から離れたのを彼は見逃さなかった。

 



 そう、夜神月が変わったと思ったのは、何もその綺麗好き世話好き口やかましい性格が自分にだけ発揮されるせいばかりではない。
 自分のお世辞にも良いとは言えない胡乱な眼付や、遠回しだったり直接的だったりする嫌味と皮肉にビクともしないばかりか、返す刀で世界の切り札を見事に切ってみせる強かさと図々しさは相変わらずなのに、そこに時折竜崎の胸をキュンとさせる可愛らしさが加わったせいばかりでもない。

「あ‥‥」
「何ですか?月君」
「‥‥な、何でもない」

 今みたいに外から帰ってきた松田を見るなりちょっと驚いた顔をして、それからじっと見つめたかと思うとフイと視線を反らしてしまう奇妙な行動のせいである。
 それ以外の事は、実を言うとあの短い春のキャンパスライフで薄々感じていた竜崎だった。
 優等生の見本のような、正に完璧を絵に描いたような夜神月なる青年、いやいや少年は、父親の教育の賜物か性格の根底に博愛精神が根付いているらしく、一見クールそうに見えて――― それは彼の容貌のせいもある。彼はよく『クール美人』と友人達から言われていた――― 実は父親同様かなり熱い性格なのではないかと思わせる節があったからだ。
 好き嫌いははっきりしているが、他人を傷つけてまでそれを主張することは自重しているし――― 竜崎には別だったが――― 何だかんだ言って困っている人間には手を差し伸べるし。何といっても日常生活全般において実に健全な考え方の持ち主だったのだ、夜神月は。
 あまりに健全過ぎて普通なら嘘くさいとか思ったり煙たがったりするはずが、彼の友人達のほとんどは――― 付き合いが長ければ長いほど――― それを『夜神だからな』の一言で片付けてしまっている。片付けられるほど、それは自然な事だったらしい。つまり、口先だけの人間ではないということだ。
 従って、健全ではない日常生活を送る竜崎に夜神月が何かとちょっかいを掛ける様になるのは全然不思議なことではなかった。
 しかし、出先から帰って来た松田の背中にこっそりと塩を撒くなんて奇行は、全くもって!竜崎の知る夜神月では、キラではなかったのである。

「何やってるの?月」

 そして同じようにある日、仕事から戻って来た弥海砂を見るなり僅かにその柳眉を顰めた夜神月は、彼女を労う振りをして――― もちろん労いがメインの行動だった――― さり気なく彼女の背後に回ると背中の埃を払うような仕草をした。
 何故「ような」かと言うと、彼の手が海砂の背中に直接触れていなかったのを竜崎はちゃんと見ていたからである。

「え?あぁ、海砂の背中に綿埃がついてたんだ」
「そうなの?ありがとう、月」

 大好きな月が一瞬でも自分の視界から消えるのが嫌な海砂がそれを指摘すれば、彼は何の動揺もなくそう答えた。

「埃なんか付いてませんでしたよ、月君」
「そう?」

 しかし、竜崎はその嘘を許さなかった。

「それに海砂さんの体に触れずして埃が払えるとは思えませんし」
「風圧だよ」
「海砂さん、背中に何か感じましたか?軽い圧迫とか風とか」
「え?え?」

 こんな話を何故Lが引き延ばそうとするのか判らなくて海砂は目を白黒させながらも、そういえば何にも感じなかったなぁと思う。
 今日の海砂は体にジャストフィットしたタンクトップを着ている。たとえ綿埃とはいえ海砂の体に触れずにそれを払うのは無理だろう。そして、払ったとすればその感触に海砂が気付かないはずがなかった。

「え?何?埃を払ってくれたんじゃなかったの?月」

 隠し事なんか嫌よ!とばかりに怒ったような泣いてるような顔をして月に迫る海砂。

「埃だよ。小さいし軽かったから僕が触る前に何処かへ飛んでっちゃったんだ」
「この前は松田さんでしたよね」
「マッツー?え?月、マッツーの埃も取ってあげたの?」

 月、やさし~!と破顔する海砂とは対照的に、余計な事をとばかりに月は一瞬眉間に皺を寄せる。

「松田さんの前は相沢さん‥‥相沢さんの時は今みたいに払うだけでしたが、松田さんの時は私を無理矢理キッチンに引っ張って行って、食塩を掴んで彼の背中とメインルームの入り口に撒きましたよね」
「え~~!何それぇ!?」

 Lがばらしてしまった月の奇行に海砂は悲鳴に近い声を上げ、

「塩撒くなんて、まるでお清め?えぇっ!?もしかして背中を払ったのもそういう意味?やだっ!海砂の背中に何か憑いてたの?」

 何処ぞのオカルトバラエティ番組に出たおバカなアイドルタレントさながらのリアクションをぶちかました。

「憑いてたっていうか‥‥憑いて来たっていうか‥‥」
「マジで!?キャァ―――ッ!海砂、とり殺されちゃうぅ!可愛いから呪われちゃったんだぁ~~!」

 一瞬で海砂の部屋は海砂自身により騒がしくなった。

「月、助けてぇぇぇ~~~~!」
「うわっ!ミ、海砂!?」
「海砂、怖~~い!」

 怖がっているのか喜んでいるのか判らない――― おそらく8割がた喜んでいるのだろう――― 海砂は先程よりもさらに黄色い声を上げて隣に座る月に伸しかかるようにして抱きついた。ジャランと、長い鎖がガラステーブルの脚に当たって嫌な音をたてる。

「‥‥見え見えですよ、海砂さん」

 竜崎と夜神月を繋ぐ手錠の鎖は一般の物より遥かに長く、テーブルを挟み二人が向かい合ってソファに座ることは十分可能だった。
 初めのうちこそ海砂一人に竜崎と月の二人という組み合わせで座っていたのだが、月の傍がいいと駄々をこねて海砂が竜崎を一人席に追いやってしまったのだ。
 月と向かい合う方が彼の表情が判り易いと考えたのかどうか知らないが、海砂の我儘に竜崎は何の不満も訴えず、断れば海砂がさらに駄々を捏ねるだけだと判っていた月もそれに異議を唱えることはなかった。
 かくして今の席取りとなった訳だが、二十歳の平均女性より小柄な海砂が――― 胸の方も平均より小さい方だろうと竜崎は悪意を持って断じる――― 年下の男の子の顔に自分の胸を押しつけるようにして襲いかかるというのは、傍目から見ていて非常に不快な光景だ!という事実に世界の切り札はいきなり気づくのである。
 人はそれを嫉妬と呼ぶ。

「月君から離れなさい。彼が苦しがっています」
「いやぁよぉ~。海砂、月にお化けから守ってもらうんだも~ん」
「いや、海砂は軽いから別に苦しくは‥‥それに海砂にくっついて来た奴、もう何処かに行っちゃったみたいだし‥‥」
「え?マジ!?マジでマジ!?マジで憑いてたの?ってか、月、視える人だったわけ~~~!?」

 海砂の声に思わず両手で耳を塞いだ月は一瞬「しまったぁ」という顔をしてから、いつもの柔和な、けれどチョッピリ困ったような微笑みを浮かべて、自分の腹の上に居座った海砂を軽々抱き上げ上半身を起こした。

「凄~い!凄いよ、月ぉ!」

 何が凄いんだと、二人の何処から見ても恋人同士にしか見えない今の体勢に人知れずこめかみを引き攣らせながら竜崎は思う。
 いきなりのオカルト話の何処が凄いって?超常現象マニアか、お前は。それとも、何でもネタにしてただ抱きつきたいだけか?あぁ、そうか、そうなんだな。だからそんなにギュウギュウと夜神月の左腕に抱きついているんだな。無い胸を押しつけて何の意味があるんだ?これだから頭の悪いアイドルは‥‥‥などとブツブツ口の中で呟いて、それでも一応月の問題発言を脳内で検証してみる。
 もし彼の話が本当なら、あの時々視線が逸れていた理由は普通には見えない霊なるものを――― つまりは自分の背中か肩辺り、下手をすれば腰なんかに張り付いていた、いやいや取り憑いていた幽霊―――視ていたせいという事になる。

「幽霊ってどんな感じ?やっぱり怖いの?それとももらい泣きしそうなくらい可哀想?ねぇ、ねぇ、守護霊って見える?動物霊は?」
「う~ん、視えるといっても、全部が全部視える訳じゃ‥‥たぶんだけど、かなり強い残留思念を持った霊に限られる、みたいな?」
「怨念、ってやつ?凄い、凄すぎるぅ~!流石は月ォ!!」

 という事は先程まで弥海砂にもその幽霊が憑いていたということか。それを月が追っ払った?エクソシストか?キラは‥‥‥

「僕はキラじゃないし、エクソシストでもない。それに、言っとくけど僕には霊を追い払う力なんて全然ないから」

 いや、私の心を読むなんて十分エクソシスト―――

「でも、竜崎の考えてる事なら直ぐ判るぞ。目は口ほどに物を言い、ってね。それに、もごもご唇動いてたし。探偵失格?」
「え~!海砂には竜崎さんが考えてる事なんてちっとも判んな~い!判んなくても全然平気だけどぉ~~」
「貴女に判って欲しいとは思いません!」

 そんな事ができるのは、許せるのは、夜神月限定だと、竜崎こと世界の切り札探偵Lは内心ぼやく。弥海砂にまで判ってしまったら本気で探偵を廃業しなければならないとも。

「あ~、とにかく。貴方は視えないものが視える、いわゆる霊能力者ということでいいんですね?」

 この一見爽やか好青年は――― 事実、好青年なのだが――― 自分と違って笑顔で相手を観察するのを得意としている。彼には竜崎がマスターしたポーカーフェイスは必要ない。
 美人はこういう時も得だ、眼付の悪い自分には絶対習得不可能なスキルだ、と長年忘れていた劣等感なるものをちょっぴりだけ思い出してみる竜崎だった。

「うっわ~!竜崎さん、何時にもまして眼付悪ぅ~~!何処から見ても悪人顔~!」
「海砂さん‥‥少し黙っていてください」
「海砂、正直なのは良いけど、あまり人の身体的特徴を口にするのは‥‥」
「月君も。見え見えの嫌味はやめてください」
「ははは、ごめんね?竜崎」
「ついでに視線を私の左肩に向けるのもやめてください」
「だったら頭の上でもいい?」
「‥‥‥いったい私には幾つ憑いてるように視えるんですか‥‥」
「うわっ、うわっ!やっぱり竜崎さんにも憑いてるんだ!そうだよねぇ!探偵の助手なんかやってたら、うっかり人の恨み買っちゃったりするよねぇ!竜崎さん、頭痛くない?肩、凝ったりしない?」

 それと同じ台詞を何時だったか月からも聞いたなぁ、と一瞬遠い眼をしてみる。そして、あれはこういう意味だったのか、と今になってしみじみ思う。
 という事は、日本人の刑事達にはたいして憑いていない、もしくは全然憑いていないという事だろうか。そりゃぁまぁ、最近日本も物騒になってきたとはいえ、銃の所持が一般に許されていない日本の殺人発生率は欧米諸国に比べてグッと低い。何より、犯人を射殺するなんて滅多にないことだ。犯罪者が自分を逮捕した刑事を恨みながら死ぬ、なんて状況は早々起こらないとみていいだろう。

「お前、顔も本名も世間に隠してるくせに、幽霊には筒抜けみたいだな」
「それって、無駄な努力って事?」
「海砂さん‥‥」
「だってぇ~、生きてる時は素性隠してるから『お礼参り』?されなくても、死んじゃったらバレバレで取り殺されるなんて、あんまりにもおバカなんだもん」
「だから海砂、正直なのにも程が‥‥」
「月君‥‥もういいです」
「大丈夫。お前、見た目と違って神経太いから。その人達の恨み攻撃全然効いてないみたいだ。超現実主義?それがいいみたいだな」
「‥‥月君」
「スッゴ~~~イ!恨み攻撃だって!それが全然効かないって事は、恐竜並の神経!?さっすが、竜崎さん!!ってか、体に染みついちゃった甘~い匂いで幽霊退治してるんじゃない?ニンニクと同じ効果?」
「あぁ、案外そうかも」

 キャハハハ、と海砂に大笑いされ、月にまで納得されて怒る気力も失せる。

「それにしても、まさか月君に霊感があったとは‥‥事前調査ではそんなこと少しも‥‥」
「だって、誰も知らないし。あぁ、小学校の時の友達なら何人か知ってる奴がいたかな?でも、誰にも言わないでくれって口が酸っぱくなるほどお願いしてたから、探偵の身上調査にもうかうか答えたりしなかったんだと思うよ」
「月にお願いされて断れる人なんていないよねぇ」
「友達には恵まれてると思う」

 海砂が言いたいのは友達云々ではない!とニコニコ笑っている月に突っ込みたいのを我慢して、竜崎こと世界の切り札探偵Lは新たに判明した夜神月、いやキラの――― だから僕はキラじゃないって何度も言ってるだろ、という容疑者の可愛らしい反論は無視する――― 情報について更なる探りを入れることにした。
 どんな些細な事でも何処でどうキラに繋がっているか判らないのだ。夜神月の事はすべて把握しておく必要がある。
 一瞬でそう判断した竜崎だったが、未だ月にピッタリくっ付いたままの弥海砂に視線が行くと、何故かピクピクこめかみが引き攣るのであった。
 まさか、こちらには聞こえない声でヒソヒソ話をするためか?はたまた竜崎には見えない月の背中に指で文字を書くためか?それが狙いで月君の隣がいい!などと駄々を捏ねたのか第二のキラ!!おバカアイドルのくせによくも姑息な手を使ってくれたな!――― 竜崎、考えてる事バレバレだから――― と、ガシガシ左手の親指の爪を噛みながら只でさえ悪い眼付きを更に悪人面へと変えていく。

「ご家族は?夜神さんはこの事をご存じのようには見えませんでしたが?」
「父さんは仕事が忙しかったからね。母さんには話しら怖がられるより心配されるだけだって子供心にも判ってたし」
「世間一般の父親と母親ってそんなもんよねぇ」
「だよなぁ」

 海砂の言葉はメインルームのモニター越しに真っ青な顔でこの話を聞いているであろう夜神総一郎への何がしかのフォローになるだろうか。

「って事は、粧裕ちゃんは知ってるの?」
「妹の粧裕は‥‥何度かひっ憑いて来た浮幽霊を追っ払ったりしたからばれちゃったな、うん」
「良いお兄さんしてたんだね、月」
「そうかなぁ」
「そうだよぉ」
「貴方達‥‥」

 この奇妙な軟禁生活が始まった当初こそ積極的すぎる海砂に押され気味の月だったが、竜崎と違って嘘いつわりのない彼女の好意を拒絶するいわれはなく、スキンシップ過多な彼女のコミュニケーションにも随分と分慣れて来ていた。
 それが証拠に笑顔にチョッピリ困った色を滲ませながらも月は決して強くは海砂の腕を振り払おうとしない。海砂が小柄で年上に見えないからかもしれないが、基本的に女性には紳士的であるようにとの両親の教えが生きているのだろう。
 それにしても、月と海砂では知的生活面でかなりの隔たりがあるはずなのに、海砂との感覚重視な会話にあっという間に慣れてしまった月が竜崎は不思議でならなかった。そこはやはり優等生の夜神月も今時の子供、ということなのだろうか。それとも、手錠生活にも同じくあっという間に慣れてしまったように適応能力が人一倍高いだけだろうか。
 とにかく、大学のキャンパスで世界の切り札とまで言われた自分と切った張ったの遣り取りを笑顔で繰り広げた人物と目の前の人物が同じだとは到底思えない。
 そう思う事は『夜神月はキラに操られていた』説が有力になるので認められないのだが、認めざるを得ない現実が目の前に確かにある。
 こんなにも理解できない謎がこの世に存在していようとは夢にも思わなかった。夜神月とのあの心弾む知的な会話は一体何処へ‥‥‥?
 今もウフフアハハと主語述語のはっきりしない会話を綴っていく若者二人に、自分もそんな年でないにもかかわらず付いて行けないと感じる竜崎である。

「つまり、月君が霊能者だと知っているのは身近な処では妹の粧裕さんだけ、という事でよろしいのですね?」

 だが、今はキラへと繋がる情報集めの方が大事とばかりにじっと耐え忍ぶ。

「そうなるかな。それより、竜崎。何度も言うけど僕は霊能力者じゃない」

 何とか話を本筋に戻したところで、月が大真面目な顔でそう言った。

「視えるんでしょ?」
「視えるだけだ」
「霊の言葉とか聞こえないの?」
「ちっとも」
「コンタクトできないんですか?リーディングは?除霊は?」
「出来るか!僕はごく一般的な日本の仏教徒で、お経も読めないんだぞ。まぁ、一部覚えたものもあるにはあるが‥‥」
「え?そうなの?凄~い。でも、普通日本人でお経が読めるのはお坊さんぐらいよねぇ」
「1億総無神論者というやつですね」
「占領軍の思惑通りじゃないか」
「また古臭い話を」
「え~、何々?海砂、判んな~い」
「海砂さん、少し黙っててください」

 ピクリとこめかみを引き攣らせ――― 何度目だ?――― 竜崎は目の前の月をあからさまに探る眼付で見つめた。

「しかし、先ほどは確かに何かを払うような仕草をしてましたが?相沢さんと松田さんの時もそうでしたよね?」
「まぁね。でも、あれはただの『お約束』だから。形だけでもあぁすると、憑いてるものが取れたって気になるんだよ。僕自身への慰め?」
「良く、判りません」
「自分の意思で追っ払った、ってのが大事なんだ」
「海砂も全然判んないんだけど‥‥」

 本当は言いたくないんだと言わんばかりに小さく溜息を吐いて月は自分の秘密を語った。

「除霊は出来ない。でも、追い払うぐらいは出来る。そういう事」
「それって除霊じゃないの?」
「さぁ?違うと思うよ」
「除霊じゃなければ何だというのですか」

 海砂の言う通りだと、竜崎は心の中で大きく頷いた。しかし、月は頑なに違うと言い張った。

「だって、僕としては追っ払ってるだけで、除霊なんて大げさな事してるつもりないから。ほら、除霊って取り憑いてる霊を説得するもんだろ?」
「そういえばテレビに出てくる霊能力者は説教魔だよね。で、ビシバシ取り憑かれてる人の背中を数珠やお札で叩いたりするの。霊が納得して離れてかないと意味ないって言ってた気もする」
「映画のエクソシストも似たようなものでしたね」

 説教魔――― 海砂のとんでもない言葉に頭痛を感じながら、状況無視で聖書を唱え続けるエクソシストの姿を思い出し、口元をひくつかせる。

「キリスト教は神と悪魔が敵対してるから除霊でいいと思うけど、お坊さんのは浄霊じゃないかなぁ?霊の成仏が目的だと思う」
「私、今貴方と宗教談義をする気はないのですが‥‥」
「僕もないよ」
「オカルト談義だよね~」

 それとも違う気がします、とは言う気力もない竜崎だった。

「とにかく、僕は何にもしてない。除霊なんてそんな大げさな事‥‥ただ単に、幽霊の方で勝手に逃げてっちゃうだけ。それだけなんだ」
「は?」
「何度も言わすな!」

 不意に怒ったような顔をして、いや、怒ったというよりは拗ねたような顔をして、何れにせよ不機嫌さを隠そうともせず月は竜崎をいったん睨み付けるやプイと顎を反らした。

「幸か不幸か僕は霊に嫌われてるんだよ。目が合っても、何か直ぐ視線を逸らされるんだ」
「‥‥幽霊と、目が合うのですか?」
「信じてないくせに白々しいぞ、竜崎」
「今は信じる信じないではなく、貴方から話を聞くという事が重要なんです、月君。で?幽霊と目が合うのですか?」

 やな奴!とばかりに横眼でこちらを窺う横顔が心なしか頬が膨らんでいて、ついでに形の良い唇が子供っぽく尖っていて、あぁ、こんな顔もできるのかと、こっそり胸の内で鼻の下を伸ばす竜崎こと世界の切り札名探偵L。

「向こうの姿がはっきり視える時はね。目が合うって事は相手に顔があるってのが大条件だから。まぁ、顔も体もない靄みたいな状態でも視線は感じるけどね。幽霊って、年月が経つと自我が曖昧になって来て姿形を保っていられなくなるみたいなんだ。よっぽど強い恨みの念や未練があると逆にガチガチに固まって、余程の事がない限り変われないみたい。可哀想だよねぇ。成仏したくってもできないんだから」
「月、優しい~~!」
「‥‥ナイロンザイルの神経?」
「グラスファイバー製神経のお前に言われたくない。無視するよう小さい頃から自分自身に言い聞かせてきた賜物だ!」
「流石、月!ちょっと竜崎さん!海砂のカッコ良くて美人で賢い月を苛めたら承知しないんだからね!!」
「苛めて‥‥!」

 半信半疑どころか眉唾ものだと内心思いながら話を進めればそんな言葉が返ってきて、しかも海砂から『苛める』などという単語も飛び出し、竜崎は一瞬意識がブラックアウトしそうになった。
 別にオカルトが苦手な訳ではない。これがあの夜神月の口から出た言葉なのが耐えられないのだ。たとえ相手が幽霊でも誰かに嫌われて傷ついているらしい、幽霊を本気で可哀想だと思っているらしいお子様の顔が無性に可愛らしく感じられ『もっと苛めたい』と一瞬でも思ってしまった自分が信じられなかったのだ。そうなのだ。

「幽霊って、やっぱり死んだ時の姿で化けて出てくるの?」

 そうして、次の言葉に詰まり竜崎が固まっている間に、好奇心丸出しの海砂が目をキラキラ輝かせて『オカルト談義』に花を咲かせ始めた。

「う~ん‥‥そうだなぁ‥‥死にたくないって思いながら死んだ霊はそんな感じかな?火事で死んだ霊は火傷だらけだし、交通事故死らしい霊は体にタイヤの跡が付いてたり足が変な方向に曲がってたりするから。首つり自殺した霊なんかは首にロープが付いたまんまだったりするしね。戦争被災者はかなりアレだ。あぁ、見るからに落ち武者ってのもいたっけ。とにかく、皆たいてい実に恨めしそうな顔してる。お前も苦しめ~死んじゃえ~って、八つ当たりする気満々な顔?」

 そして、それに至極真面目に答える月はある意味天然かもしれない。
 キャ~!怖い~~っ!!と叫びながらその月にしがみ付き『ごめん、海砂。海砂には刺激が強過ぎたね』なんて慰められて、月からは見えないように俯せた顔に『よっしゃぁ!』という喜色満面の笑みを浮かべている海砂とは大違いである。
 それはまさに『年増女の手管に引っかかった未成年』の図だ。どうしてくれよう弥海砂!――― 竜崎の固まっていた思考の奥で何かがプチリと音をたてた。たてたけれど、自分は冷静だと信じて疑わない名探偵は取りあえずこの場の主導権を握り直すべく咳払いを一つした。

「そんな露骨に‥‥いえ、はっきりと視えるんですか。かなりの霊能力、いえいえ、霊感ですね」

 何だかちょっと言葉の選択が上手くいっていないのはご愛嬌。

「怖くないのですか?」
「う~ん‥‥あんまり?小さい時はそれなりに怖いと思ったこともあったけど、今はもう、全然?」
「いや~ん、流石は海砂の月!」

 いや~ん!って何だ!?いや~ん、って!嫌ならさっさと私と月君の前から消えろ!!――― そんな嫉妬心丸出し思考で胸中激しい突っ込みを入れるのも貴重な初体験だろう。竜崎の爪を噛む音が心なしか速くなったようだ。
 誰が見ても今の竜崎は『恋人達の間に割り込もうとするお邪魔虫』以外の何者でもない。
 モニターの向こうで松田と相沢が『竜崎、砂吐かないのかなぁ』『あれだけ甘いものばっかり食ってるんだ。今更他人のイチャラブを見せつけられたぐらいで砂なんか吐くもんか』という会話を交してしまうほど、それは間違いない現実だ。
 しかし、当の引き籠り探偵本人には今の己の実態がまるっきり判っていなかったりする。それどころか、自分の尋問が邪魔されたと少々ご立腹気味である。
 夜神月はキラ容疑者だ、いや、キラ本人だ。故に、どんな些細な事でも新事実が出てくればそれを詳しく調べなければならない。それが個人のプライベートに関わる事なら尚更。それは間違いなく夜神月の、いや、キラの思考解読への手掛かりとなるのだから。
 しかし、その容疑者の外見が自分の好みかもしれないと何となく自覚してしまった時点で、この尋問は一部脱線し始めているのだが―――
 恋の駆け引きは知識ではどうにもならない。というよりは恋愛一直線な乙女の行動力について行けると思う事自体が間違いなのである。

「犯罪に巻き込まれた死体、もとい幽霊に出会った事は?」
「日本は某犯罪大国とは違うからね。せいぜいで1度か2度?さっきも云った通り凄惨な姿をした幽霊の大半は事故か戦争被害者だったよ」
「夜神さんにくっ憑いて来た、という事は?」

 モニターの向こうで誰かさんが悲鳴を上げたことだろう。

「幸いにも一度もない」

 続いて上がったあからさまな安堵の溜息は当然のことながら夜神総一郎のもの。もちろん、竜崎達三人には聞こえていない。聞こえてないが十分に予想の範囲内だ。

「じゃぁ、マッツーとモンチッチに憑いてた霊ってどんなのだったの?」
「モン、チッチ?」
「あぁ、相沢さんの事か」
「は?」
「やだ!月、判っちゃった?判っちゃった!?可愛いよねぇ、あの髪形!」
「海砂‥‥」

 モニターの向こうで怒りに震えているだろう一人と笑いを堪えているだろう三人に心の中で深く同情する月。
 片や、『モンチッチ=相沢』という図式の理由が判らない竜崎は左手の親指の爪を噛みしめたまま無駄な思考を展開させるばかりだ。

「あ~、う~‥‥で?松田さんと相沢さんは?」
「ん?あぁ、相沢さんの時はもうほとんど形を失くした浮幽霊だった。害はなさそうだったけど一応ね。松田さんの時は何か恨めしそうな顔をした男の幽霊だったな。あれは金銭絡みで自殺した霊じゃないかなぁ」

 あぁ、絶対松田は悲鳴を上げて大騒ぎしている――― そんな事を思って竜崎は苦笑いとも嘲りともつかぬ薄笑いを爪を噛みながら浮かべた。それを見た月がやれやれと言ったような顔をするのはいつものこと。こんなに自分の感情を容易く読める相手がキラかと思うと、竜崎は背筋がゾクゾクするほど嬉しくて仕方がなかった。

「やはりストライクゾーン‥‥‥」
「え?」
「ガチホモめ‥‥‥」

 激しい恋愛バトルの火花が散った一瞬であった。

 

 

「ゴホン‥‥なかなか面白い話でした。しかし、ちっとも視えない私にはあいにく月君の話を信じる術がありません」
「あぁ、お前ならそう言うと思ったよ」

 その火花に気づいているのかいないのか、俗にいう『視える人』であることを告白した夜神月は、竜崎の否定的な言葉に傷付く素振りも見せず、それでこそ『探偵L』だ、と言わんばかりにニッコリと微笑んだ。
 その微笑みにうっかり当てられ『うっ?何かが胸に刺さりました!これはもしや巷で噂のキューピットの矢!?』などというフォーリンラブの古典的表現を一瞬脳裡に思い浮かべ、人知れず脂下がる世界の切り札名探偵L。これで私が一歩リードです!なんて思ったかどうかは定かでない。いや、きっと思ったことだろう。

「ちょっと竜崎さん!月が嘘ついてるとでもいうの!?月、ずっとこの事隠してたのに!それを暴いておいて、その言い草は何よ!!」

 しかし、負けじとばかりに海砂も声を荒げる。ちょっぴり涙目なのは演技に違いない。

「海砂、落ち着いて。竜崎は現実主義だからこの反応は当然なんだ」
「だって~‥‥!なんか悔しいんだもん!月、嘘ついてないのにぃ~!」
「海砂は僕の話、信じてくれるんだ‥‥」
「当たり前だよぉ!」
「僕がそういうの『視える』ってのに抵抗ないの?」

 嫌じゃない?怖くない?と、竜崎には目もくれず海砂を真正面から見つめて心配そうに尋ねる月に、彼女は自分が年上であることも忘れ頬を真っ赤に染めながらコクコク頷いた。

「ないわよぉ~!視えても視えなくても月は月だもん!」
「ありがとう、海砂」
「月‥‥(勝った!)」

 その瞬間、テーブルを挟んだ向こうで『このカマトトアイドルが!』という無言の圧力が発生した。

「それより、月こそ怖くないの?」
「僕はもう視慣れてるからね」
「でも、ほら、何てったっけ?れ、れ‥‥」
「霊障?」
「そう、それ!それになったりしないの?何か悪い霊の波動とか受けると、吐き気がしたり悪寒がしたり、とにかく体調が悪くなっっちゃうんでしょ?酷いと意識を失ったりするって!月、そういう事今までなかったの!?」
「ううん、ちっとも。さっきも言ったけど、僕は霊に嫌われてるみたいだから」
「へ?」
「だから。僕には向こうが視えるし向こうからも僕が視えてるんだけど、どういう訳か憑かれたことはないんだ。憑かれるどころか傍に寄って来てももらえない」

 寄って来られても困るんだけどね――― と言いながらやはりニッコリと笑う月に、こんな時であるにもかかわらず『月って美人~』とホンワカするアイドルと探偵。

「視線を逸らされるだけじゃないんですか?」
「あぁ、酷い時は‥‥いや、そのお陰で今まで何事もなく来たんだろうけど、逸らすどころか僕と視線が合ったとたん逃げてくのもいたよ。だから、さっきみたいに海砂の背中にくっついて来た、あれは女の霊かな?そういうのに僕が触れようとすると勝手に離れて行くんだ。その後も僕に近付きたくないのか少なくとも僕の目の届く範囲からはいなくなっちゃうね」
「さっき払ったの、女の幽霊だったの?」
「あぁ、凄く僻みっぽい顔してた。モテモテの海砂が羨ましくって取り憑こうとしてたんじゃないかな」
「いや~ん、怖~い」
「ごめん、ごめん」

 わざとらしく月の腕にしがみついた海砂に竜崎の鋭い視線が飛ぶ。

「月君、相当嫌われてるんですね、幽霊に」
「好かれても困るよ」

 そして、冷静に意見を述べれば冷静な答えが返って来た。しかし―――

「気を落とさないでね、月!そいつら幽霊だから月の良さが判んないのよ!月、こんなに綺麗でカッコいいし優しいのにぃ!死んじゃったら美的感覚狂っちゃうんじゃない?そうよ、きっとそう!だぁから幽霊ってみんなキモイ顔してるんだ!キモイキモイ!!」

 割り込んできた黄色い声に無意識に竜崎の肩が落ちる。
 こういう時こそ一番感じる。月と海砂の逢瀬に自分が邪魔しに入っているのではなく、自分と月の間に海砂が割り込んでいるのだと。これでは手錠で繋がった意味がないと。

「あ~‥‥つまりこういう事ですか。特別な力、この場合は霊能力ですが、そういった力を駆使して除霊しているのではなく、ただ単に幽霊との相性が合わないから霊の方でさっさと逃げ出してるだけだと、そう言う事ですか」

 それでも気を取り直して話を進める世界の切り札であった。

「そう、なるかな?水と油?犬と猿?でなかったら磁石のN極とS極。そんな感じ?」
「そんな感じって‥‥月君、貴方‥‥例えがチープすぎませんか?」
「じゃぁズバリ、生者と死者」
「今度は即物的すぎです」
「だって事実だし」
「‥‥もういいです」

 そう、確かに事実だ。夜神月は生きていて、幽霊は死んでいる。だがそれは霊が彼を避ける理由にはならない。

「で?今までの話で僕の何が判った?僕がキラだと確信するものは掴めた?」
「残念ながら」
「仕方のない奴」
「そうそう、仕方のない奴ぅ~」
「うるさいですよ、海砂さん。私と月君の話にしゃしゃり出て来ないでください。貴女なんてロケ先で嫉妬まみれのブス幽霊に取り憑かれてればいいんです」
「しゃしゃり出て来るのは竜崎さんの方でしょ!それに海砂、ブス幽霊なんて怖くないも~ん!海砂の可愛さでやっつけちゃうんだからぁ!」
「取り憑かれて戻って来たのは何処の誰ですか」
「竜崎、海砂。日本には言霊ってのがあるんだから、あんまりそういう冗談は言わない方がいいぞ」
「そうなんですか?」
「え?え?言っちゃいけないの?」
「嘘から出た真、というやつですか。面倒な。というか、月君、信じてるんですか?」
「幽霊がいるんだから、そういうのも稀にはあるんじゃないか?ただの偶然でも、覚えがある者にはそうなるだろ?そう言う事が重なって言葉が生まれてきたのだろうし」
「貴方、本当に夢のない子供ですね」
「いや、だから、お前にだけは言われたくないって。それに幽霊に夢見てどうするんだよ。僕はオカルトマニアじゃない」
「私だってオカルトにはこれっぽっちも興味ありません」
「お前の興味の対象は生きている人間の愚かさだろ?」
「あまりズバリと言わないでください」

 これだから純真なお子様は怖いのだ――― モニターの向こうでこの会話を聞いているであろう、いい年をして正義を求める男達の、この後の自分への態度を想像して些かゲンナリする竜崎である。

「とにかく、今までの話で判った事は、月君、貴方が私同様結構な現実主義者だという事です」
「上出来?」

 ニコリと笑った月が何だか嬉しそうなのは気のせいではないだろう。

「貴方にとって超常現象は超常ではなく、ただ眼に視えている事象にすぎない」
「理論的だろうと非論理的だろうと事象は事象だからな」
「やはり、夢のないお子様です」

 夜神月は確かに常人には視えないものが視えるのだろう。死んで尚この世に未練を残した者の影が。だからと言って彼は特別な人間ではないし、その事に特別な感情を持っている訳でもない。彼にとって霊の姿が視えるという事は本当に唯の事象でしかないのだ。言うなれば日常風景の一コマ。
 おそらく彼の周りでそれを理解できた人間が今まで一人もいなかったのだろう。誰もが海砂同様、夜神月は特別なのだと感じたに違いない。だから彼は自分の霊能力を誰にも言わなかったのだ。
 人目を引く整った容貌と優秀な頭脳、理想的な性格に人の心を揺さぶる話術。
 夜神月は正に完璧を絵にかいたような若者だ。誰もが憧れ羨む存在だろう。そこに特殊な能力が一つ加わったところで些かもその存在感は揺るがない。『特別』という冠詞がこれほど似合う人間はいないからだ。
 それは自分も同じだが――― その自負はある――― あいにく自分は『完璧』からはほど遠い。むしろ欠陥だらけだから特別で有り得る。こんな自分に霊能力があったなら、それは夜神月とは違った意味で納得されるだろう。決して良い意味ではなく。
 だが、完璧で特別である事は夜神月にとって取り分け幸せな事ではなかったらしい。かといってそれを疎み嫌っているかといえばそう言う訳でもない。
 本当に彼は完璧で稀有な存在である。

 

 

「あぁん、もう!竜崎さんったら直ぐ月の事悪く言うんだから~!」

 だが、そんな至極真面目な思考の竜崎の思いなど月の腕にしがみ付いたままの海砂には全く通用しなかった。

「月は竜崎さんと違って、夢も希望もある前途有望な若者なんだからね!本当なら、こんな所に閉じ込めていい男の子じゃないんだから!」
「男の子って‥‥海砂さん、貴方月君が幾つだと‥‥」
「それよりさぁ、月!海砂にくっ付いて来た幽霊が視えたんなら、竜崎さんにくっ付いてる幽霊も視えるんだよね?」
「急に話を変えないでくだ‥‥」
「どんな幽霊?やっぱり恨めしそうな顔してる?頭の上に憑いてるんだよね?」
「ついでに左肩にも」
「月君?」
「怖くないんだろ?竜崎」

 確かに怖くはないが、眉唾ものとして聞いていた時と違い月の力を半分がた認めている今では、それは恐ろしくリアリティを持って耳に入ってくる。ようするに望んで聞きたい話ではなくなっていた。

「ねぇ、どんな幽霊か教えて!」
「海砂‥‥」
「海砂さん?」
「さっき海砂を脅してくれた罰だよ~」

 脅したのは月君の方でしょう、とは口に出しては言えず、竜崎は無意識のうちに自分の左肩を手錠の嵌まった右手で払っていた。

「う~ん、と‥‥頭の上の奴はもう姿が崩れてて、男だって事ぐらいしか判らないな」
「月君!」

 余計な事言わないでください、と窘める竜崎を無視して『キャァ~、怖~~い!』と悲鳴を上げながら海砂が大笑いする。
 幽霊を笑い物にして呪われても知りませんよ――― そう言ってやりたかったが、何気にフェミニストな月に先手を打たれ一睨みで黙らされてしまった。

「何度追っ払っても何日かしたら戻ってくるから、相当竜崎の事を恨んでる霊だと思う」
「相性が合わないから霊の方で貴方に近付かないんじゃなかったんですか」
「うん。だからこんなのは初めて。やっぱり世の中に絶対って言葉はないんだな。いい経験になったよ」
「‥‥‥‥それは良かったですね」

 ニコリと笑った綺麗な顔が今ばかりはちょっぴり恨めしい。

「左肩のは一週間前に新しく憑いたばかりの霊。一度逃げてったけど、昨日また舞い戻って来た」
「竜崎さん、愛されてるんだねぇ」
「遠慮します」
「安心しなよ。すごく逃げ腰だから、多分次は戻って来ないと思う」
「だったら早く追っ払ってください」
「だから僕はエクソシストじゃないってば」

 ついに竜崎の口から大きな溜息が零れた。

「探偵Lへの依頼は極秘なんじゃないのか?」
「依頼主が大口であればある程そうですね。しかし、月君の言う通り『絶対』と言う言葉はこの世に存在しません。どんなに秘密裏に事を進めても、漏れる時は漏れます。わざと『Lに依頼した』という情報を流して相手を慌てさせることもありますし」
「多くの犯罪者は自分が誰に追い詰められたか知らないまま捕まっちゃったってことか」
「中には、被疑者死亡で解決した事件もありましたね」
「あぁ、やっぱりあったんだ」
「月君?」
「だって、左肩の幽霊、結構‥‥」

 そこで月はチラリと海砂に視線をやり言葉を濁した。相当ひどい姿をした幽霊なのだろう。そんなものが自分の左肩に乗っかっているのかと思うと、ショートケーキのイチゴを見るたび、もしくはラズベリーパイを見るたび血みどろの死体を想像してしまいそうで嫌になった。食欲が半減したらどうしてくれる、と思った。

「それなのに竜崎さんの所にたどり着いちゃったんだ、その幽霊。根性あるね」

 なんて健気な幽霊さん!と竜崎を労わるどころか幽霊を褒め称える弥海砂を本気で蹴り飛ばしたい。

「信念岩をも貫くってやつだな」
「し‥‥?」
「幽霊の場合は怨念かな?もしくはたった一つ残った執着心、この世への未練」

 月の視線が何気に自分の頭上にあるようで竜崎は内心うんざりした。

「昔話でこんなのがある」

 唐突なその言葉に『何々?』と海砂が興味津津の顔で月を見上げる。

 



「江戸時代の話だけど、ある極悪非道の咎人が捕まり打ち首の刑に処されることになった」
「打ち首というのはギロチン刑の事ですね?それは実話ですか?」
「さぁ、どうだろう。昔から語り継がれてきた話を現代人が脚色したものだから、本当にあった話なのか架空の話なのかは判らない」
「もうっ!竜崎さんは黙ってて!」
「聞いて楽しい話でもないと思いますが‥‥」
「良いの、何でも!月がせっかく話してくれるんだからっ!」

 まるで寝物語を親に強請る子供のように月の右腕にしがみ付いたまま、海砂は初っ端から話の腰を折った竜崎にケチを入れた。

「確かに、女の子にはちょっときつい話かも‥‥」
「心配してくれるの?月、優しい~!でも海砂は大丈夫だよぉ」

 そして竜崎が忌々しげに爪を噛むくらい月にしな垂れかかる。

「じゃぁ続きを‥‥処刑場に引き出され今にも首を落とされんとしたその咎人は、刑の立ち会いに来ていた奉行に罵詈雑言を浴びせたんだ。悪の限りをつくしたその男は、とにかく役人を恨んでいた。特に自分を捕まえた奉行は名奉行として名高かったからその恨みはひとしおで、自分の首を切り落とせば七代先まで祟ってやると罵った」
「ナナダイ?」
「子々孫々、本人から数えて七代目の子孫まで呪ってやるっていう意味だよ」
「日本人は執念深いんですね」
「ハハハ、それって人種差別発言だぞ。それでだ、男の言葉に首切り役人は恐れをなし、刑の執行ができなくなった」
「情けない役人です」
「それだけ鬼気迫る呪詛の言葉だったんだろうな。しかし、奉行は少しも慌てなかったんだ」
「お奉行様は怖くなかったの?」

 海砂が不思議そうにそう尋ねれば、月は優しい笑顔で彼女を宥め話を続けた。

「僕や竜崎と同じ現実主義者だったんだろうな。だから、ただ一言『そんな戯言は信じない』と言って刑の執行を強行しようとしたんだ。もちろん、男は焦った、怒った。『嘘じゃない!俺は必ず怨霊となって七代先まで祟ってやるのだ!』と喚き散らした」
「なんか見苦しい」
「誰だって死ぬのは怖いからね」

 それをお前が言うのか?キラ――― 一瞬そう胸の内で呟く竜崎。

「呪ってやる、呪いなんか信じない‥‥そんなやり取りが暫く続いた後、奉行は男に言った」
「何て?」
「そんなに言うのなら、私を信じさせてみろ。お前の意思が呪いとなるくらいに強いことを証明して見せろ、と」
「呪いの証明?バカバカしい」
「呪いの証明じゃなくて、意志の強さの証明だよ、竜崎。奉行は言ったんだ。さもバカにしたような顔で『お前が首を切り落とされた直後、そこの石に齧り付く事ができたなら、お前の怨念を信じてやろう』ってね。その石は首切り場から随分と離れた場所に、たとえ男が生きていても縄を掛けられ地べたに這いつくばらされた状態では決して届かない場所にあった。ましてや首を切り落とされ死んでしまえば、齧り付くだなんて出来るはずもない」

 その図を想像したのだろう。海砂がほんの少し体を震わせ月の腕を掴む手に力を込めた。

「男は即座に答えた。『勿論できる』と」
「バカな男ですね。首切り役人を脅して刑を遅らせるはずが、敵の口車に乗って自分の首を絞めるとは」
「それだけ頭に血が昇ってたんだろ。憎くしみと怒りで冷静な判断ができなかった」
「それで?どうなったのですか?」

 この奇妙な例え話にどんな意味があるのか。竜崎は胡乱げな目で先を促した。

「男は進んで首を切られたよ。元から死刑は免れなかったからね。遅いか早いかの違いだった。奉行は逃げ腰の首切り役人の尻をひっぱたき男の首を切り落とさせた。その瞬間、男の首は地面に落ちることなく何メートルもの距離をボールのように飛んで、ずっと離れた場所にあった石に齧り付いていた。勿論、その首は生きていなかった」
「いやぁ~ん」

 怖いと言って縋り付く海砂を優しく撫でて、月は次の言葉を続ける。

「それを見て、首切り役人も他の役人達も心の底から男の言葉を信じた。そして、自分達は男に呪われるのだと恐れた」
「けれど、奉行だけは違った‥‥そうですね?」

 竜崎は賢いなぁと笑う夜神月。

「奉行は怯える役人達に言ったんだ。男の言葉は真実だった。しかし、これで男の呪いは消え失せた、と」

 子供のように首を傾げるだらしない格好の頭脳明晰で現実主義な男に、ただただ穏やかな笑みを送る。

「呪いは、怨念は、死ぬ瞬間の、生の最後の瞬間の、何よりも強い思いが死してなおこの世に留まった結果生まれるのだ。だから、最後の瞬間石に齧り付く事を一心に念じた男にそれ以外の何ができようか、とね」

 あぁ、と頷いて『言いたい事は判りました』と竜崎は答えた。

「凄いよね‥‥人間が何かを思う一念ってさ」
「そうですね」
「もちろん死にゆく人間の誰もが、そんな事できる訳じゃない。けどね、それでも確かに何人かは、その最後の思いに縛られ死んだ後もこの世を彷徨い続けるんだ」

 夜神月の自分を見る視線の微妙なズレ。こちらを見ているようで見ていないその視線の先にあるのは、そんな強い思いに捕らわれたものの存在。

「つまり、そんな死に際の強い感情が自分の死を招いた存在に向けられた結果が、頑固に私に取り憑いている霊だと、そう貴方は言いたいのですね。それが私だと知らなくても、不可思議な力か因果が働き私の元まで導かれたと」
「理屈ではそうなるね」
「理屈ではなく現実なんでしょう?」

 つい無意識に探偵Lは自分だと白状してしまった竜崎だったが、幸いにも、月に優しく背中を撫でられ一時の幸せに酔っている海砂に気付かれる事はなかった。
 だが、今の竜崎にはそんな事はどうでもいい。
 何故なら、その理屈が正しいのなら、ある一つの推理が成立するからだ。自分には決して立証できない推理が。

 

 

「月君‥‥」
「ん?」

 オカルト話にかこつけて甘える海砂を優しく抱きしめた夜神月は、疾しい事など何一つないといった澄んだ瞳で、厭世感にも似た無関心と猜疑心、謎とお菓子だけが自分の世界だと言い張る男を見つめ返す。
 二人を繋ぐ鎖はいまだ存在しているというのに、何故こうも二人の距離は開いているのだろう。弥海砂という不純物がむりやり割り込んで来たせいではない。テーブルを挟んで座っているせいでもない。そんな物理的問題のせいでは決してない―――

「貴方の理屈でいくと、キラに殺された者の霊は‥‥全体の何%を占めるか判りませんが、キラの元へ辿り着いている事になりますね?」
「そうかもしれないね」
「生きた人間は誰一人として知らないキラの正体を、当のキラに殺された犯罪者だけが知っているだなんて‥‥何という皮肉でしょう」

 竜崎の声には何時になく苛立ちが浮かんでいた。

「世界中の凶悪犯が死して怨霊となり、キラだけを恨み憎みその存在に取り憑く‥‥まるで砂糖に群がる蟻のように‥‥」
「キラが砂糖って、お前の願望か?竜崎」
「そうですね‥‥私の思考の全てを奪っていく存在がキラなら、思考活動に必要なエネルギー補充のためにもキラは甘い砂糖菓子であって欲しいです」
「相変わらず病んでるな」
「年季の入った引き籠りですから」

 ニタリと笑えば、困った奴と眼だけで微笑まれた。

「キラは判っているのでしょうか‥‥犯罪者の謎の死が問題視され、キラという明確な犯人が浮かび上がった時点で、犯罪者達は何時か自分がキラに殺されるのではないかと恐れるようになったはずです。そして、いざ心臓に強烈な痛みが走った瞬間、自分は今まさにキラに殺されるのだと確信するに至る‥‥死の間際抱くのは間違いなくキラへの恨み、憎悪です。そんな犯罪者の霊の、全部が全部ではないでしょうが、貴方の理屈どおりにキラに取り憑いたとしたら‥‥それはきっと私に取り憑いた霊の数など足元にも及ばないはずです」
「そうかもしれないな」

 微笑みが語っている。お前の言いたい事はもう判っている、と。

「その頭にしがみ付く者の数は?その背に伸しかかる数は?その腕にぶら下がりその脚に齧りつき、その首を鷲掴みその腹に拳を打ち付ける霊の数は‥‥その重み、その痛み、その辛さ‥‥キラは判っているのでしょうか」
「犯罪者であろうとなかろうと、命は命だね」

 命は命――― そのあまりに当然な真理に竜崎は無意識のうちに口を噤んでいた。
 命は命だと言えるほど、自分はその命を知らない。そして、自分の頭の上にいるという存在にも嘗ては命があったのだと、今漸く思い至る。

「私だったらごめんです。そんな面倒臭いこと‥‥‥」
「だろうね」
「私だけでなく、誰もがそう思うはずです」
「僕だって嫌だよ」

 嫌だと言いながら笑っている夜神月が判らない。
 よほど神経が図太いのか、それとも既に何らかの答えを持っているのか。

「まさか、とは思いますが‥‥‥」

 ふと、ある考えが思い浮かび竜崎はほんの一瞬猫背な体を震わせた。

「‥‥まさか、世界中の犯罪者の恨みを、全部自分一人で引き受けるのが目的‥‥何て事はありませんよね?」

 ヒクリと、弥海砂の喉を鳴らす音が幽かに聞こえた。恋人めいた触れ合いに酔いながら竜崎の言葉を聞いていたであろう彼女にも、竜崎の言葉の全てがキラではなく自分を抱きしめてくれている月に向けられたものだと判ったからだ。

「悪霊となった犯罪者が生きている人間に悪さしないために、自分が生贄になったなどと‥‥」
「何だそれは?何処の聖者様?イエス・キリストじゃあるまいし」
「キラは世間一般から救世主と言われてますが?」
「世直しの意味での救世主じゃないのか?」

 月が一つ溜息を漏らす。
 人間達の全ての罪を一人で背負って処刑されたかの存在。神の子。

「たった一人の人間が悪意の全てを引き受けたからって何になる?死んだ犯罪者を押し留められても、生きている人間の堕落を止められなかったら意味ないじゃないか」
「粛清と矯正ですか」
「少なくとも僕は、キラの目的はそこにあるんじゃないかと思っているよ。その方法が大問題だけどね」
「その結論に至った貴方はやはり‥‥‥」
「やめてよ!!」

 海砂が悲鳴に近い声を上げた。いや、間違いなく悲鳴だった。

「どうしてそう、何でもかんでも月がキラだって事に結び付けたがるの!?月はキラじゃなって言ってるのに、どうして信じられないのよ!」

 恋しい男の手を放し立ち上がってしまうほどに彼女は苛つき怒り悲しんでいる。

「海砂と月を監禁したのはそっちじゃない!ずっとずっと監視してたのはそっちじゃない!キラは他にいる、月も海砂もキラじゃない!それが判ったからあそこから解放したんじゃなかったの!?それなのに何時まで経っても月の事疑って!どうかしてるわよ、竜崎さんもLも!!海砂は良いのよ、海砂は!覚えなんてこれっぽっちもないけど証拠があるらしいから。それがキラの罠だっていつか月が証明してくれるから海砂の事は良いのっ!」

 ナチュラルメイクで可愛らしく装った眼元にほんのり浮かぶ涙は悔し涙。

「でも、月の事はダメ!月を疑うなんて海砂が許さない!月を疑って苛めるなんて絶対許さないんだから!!」

 テーブルとソファの間という狭い空間で地団太踏む海砂はとうてい二十歳の大人には見えない。いや、二十歳なんて中途半端な年齢ならこれも当然の反応なのだろう。それに彼女は恋する乙女で、恋はどんな大人をも愚か者にしてしまうのだから。

「許す許さないという問題ではありませんよ、これは。と言うか、そもそもどうして私が貴方の許しを得なければならないのですか。私がここにいる理由、判っているのですか?貴方達が今もってここにいる理由を、本当に理解しているのですか」
「そんなの知るもんですか!バカっ!!」

 恋とは何と愚かしく下らないものだろうと思いながら、竜崎はわざとらしく溜息を吐き右手の手錠の鎖を意識的に動かしてみた。感情を高ぶらせた海砂を心配そうに見上げる夜神月の年の割に大人びた容貌に視線を走らせ、そこに自分に対する怒りがないと知って少しだけ落胆を覚える。
 予想された会話に彼が今更何を思うというのだろう。自分が彼の隠された力すらもキラへと結びつけることなど、この聡明なお子様には判り切ったことだったのだ。

「何度でも言います。夜神月はキラです。海砂さんや日本の刑事達がなんと言おうと、本人がどう言い訳しようと、私の推理は覆りません」
「!!」
「それは消去法か?」

 海砂が何か言い返す前にポツリと吐かれた言葉には夜神月の苦笑いが添えられていた。

「はい、そうです。すべての可能性を消去して残った答えがそれです。それしかないのです」
「違うだろ」
「違いま‥‥‥」
「それはお前の勘であり願望だよ、竜崎」

 はっきりとそう明言され竜崎は一瞬返す言葉を失った。

 

 

 推理における『勘』と言う非科学的要素を竜崎は決して否定していない。『勘=閃き』が名探偵の重要な要素の一つであると、今までの経験から認めざるを得なかったからだ。その勘によって見える道がある事を世界の切り札はよく理解していた。
 そして間違いなく、夜神月がキラだという推理の一番の要因はその『勘』なのだ。
 隠しカメラを通して観察し続けた非の打ち所のない優等生ぶり。試験会場で何げなく振り返った冷めた表情。大学キャンパスでの全てを覆い尽くした爽やかな笑顔、倒れた父親へと向けられた綺麗な眼差し。
 それらは余りに完璧だった。完璧すぎて逆に竜崎の疑惑を煽った。
 竜崎は知っている。Lは知っている。
 人間に完璧はあり得ない。完璧な人間など存在しない。
 人間は愚かで浅ましく、卑しい存在なのだ。善人と悪人は表裏一体であり、人はいつでも善人から悪人へと転げ落ちる。堕落を嘆きながら何時しかそれに埋もれて行く。そんな人間を嫌と言うほど見てきた。いいや、そんな人間の資料をずっとずっと読み続けてきた。
 キラは悪人を殺す。犯罪者を殺す。そのくせ情状酌量と言う言葉を知っている。
 罪を憎んで人を憎まず――― 何と愚かな慣れ合いなのか。そんなもの理想でしかない。そうして、その理想を夢見ているであろうキラは人が無意識に望む『完璧』をちらつかせ人々に甘く囁くのだ。
 不条理な『死の裁き』と言う厳しさを頭上に掲げて。
 『完璧』の前に人は跪くか目を背けるしかできないと、キラはきっと知っているのだろう。
 その夢の『完璧』を夜神月は内包している。持ち得ていると、人々に思わせる。期待させる。だから竜崎は疑った。そこにキラの影を見た。数少ない証拠がそれを後押しした。
 夜神月の、キラの『完璧』と言う虚飾を剥ぎ取ってやると、Lは甘いスィーツに囲まれながら思った。
 それなのに―――
 何も完璧なのは夜神月一人だけではない。広い広い世の中、そう思わせる人間は多くはないけれど決して皆無ではない。
 多くの事件を手掛ける中で竜崎は、そんな『完璧』と称される人間に出くわした記憶がある。だが、どんなに完璧に見える人間も一皮剥けばやはり只の人間だった。人である限り欲望から解放されることはあり得ない。欲望がある限り人は完璧にはなれない。竜崎はそれを暴き証明してきた。そのたびに人間は愚かだという思いを強くしていった。ワタリの何か言いたげな視線は、結局『L』と言う存在の前に捨てられた。だから竜崎は、自分はこれでいいのだと信じている。

「勘の何処が悪いのですか?」

 犯人の巧妙に隠された真実を知るにはその欲望を引きずり出せばよい。今までと捜査の仕方に変更点はない。
 だから多少変わった手ではあるが、竜崎は月を手錠で繋ぎ自分の傍に置くことでそれを実行した。そうでもしなければ彼の『完璧』を暴く事は出来ないと思ったからだ。それほど夜神月は強敵だった。

「いいや、悪くないさ。僕だって勘は大事だと思ってる。ただ、願望にされるのは僕としてはちょっと困るなぁ、と思ってさ」

 けれど、引きずり出されたのは夜神月ではなく自分の欲望だった。

「願望ではありません。真実、貴方がキラです」
「そうしたいだけだろ?そうであって欲しいんだろ?」

 むしろ夜神月の『完璧』は『不完全』でもって補強されてしまった。発見した彼の欠点すら『完璧』に添えられた華なのだと思ってしまう今の自分は決して弥海砂を笑えないだろう。

「違います」

 否定しながらも夜神月の言う事で合っているかもしれない、と竜崎はふと思った。

「変な事に夢見てるよな、竜崎は」
「私は夢なんか見ません。私を現実主義者だと言ったのは月君ですよ?」
「そうだな」
「貴方だってガチガチの現実主義者じゃないですか。私と同類です」

 テーブル越しの距離を遠く感じる自分がとてつもなく情けない。

「やっぱり友達作った方がいいぞ。生身の人間より資料の中の犯人に親近感を覚えるなんて、あんまり良いこととは思えないからな」
「そんな事はしていません」
「竜崎‥‥」
「勘!?勘って何よ!願望って何なのよ!!」

 困った奴だと、あのいつもの笑みを月が浮かべたとたん、海砂が悲鳴ではなく怒声を発しテーブルを飛び越えた。ケーキ皿を蹴散らかしガラスを引っ掻くようにしてそこを乗り越え竜崎に飛びつく。

「今までただの勘で月がキラだって言ってたの!?冗談じゃないわよ!!海砂の月をここから一歩も出さないどころか手錠で繋いで!海砂の大事な大事な月を独り占めしてるくせに、その理由が勘!?月がキラであって欲しい!?何考えてるのよ、この、引き籠りの変態っ!!」
「ミ、海砂!落ち着いて‥‥!僕と竜崎の言葉遊びなんていつもの事だろ?」

 その余りの興奮ぶりに月が大きく目を見張って驚いている。慌てて海砂を止めに入るが、小柄な海砂からは想像もできない力で彼女は竜崎の胸元を掴みその体を激しく揺さぶった。

「嘘つき!人でなし!!カエル!!バカバカバカッ!!」
「海砂っ!!」
「放しなさい、弥海砂」

 その手が竜崎のザンバラ髪を鷲掴み首に掛った時点で漸く竜崎が抵抗を開始する。

「私に真実を突かれて焦っているのですか」
「うるさい、バカ!月はキラじゃない!キラじゃないんだからっ!」

 ソファに押さえつけられた状態ながら怒り狂った海砂の両手を自分から引き剥がす。フワリと浮いた彼女の体を月が懐に抱きこむのを横目に、竜崎は大きく深呼吸していつもの体勢でソファに坐り直した。もちろん、爪を噛むのもいつも通り。

「そうやって激しく否定する所を見ると、やはり夜神月は‥‥」
「お前も海砂を煽るな、竜崎!」

 未だ暴れる海砂をガッシリ抱きこんで、月は鎖の長さいっぱいの距離を保って竜崎から離れた。

「竜崎なんか嫌い!嫌い、嫌い!大っ嫌い!!あんたもLも、キラに負けて殺されればいいのよ!!」
「海砂!」

 激しくも厳しい恫喝に海砂は暴れるのをピタリとやめ、恐る恐る背後の月を振り返った。

「海砂、言って良い事と悪い事があるだろ」
「‥‥だって‥‥‥‥」
「私は構いませんよ。海砂さんの本音が聞けたのですから、有意義なひと時でした」
「竜崎、お前もだ」

 煽られて再び暴れだそうとした海砂を両手に抱え込み、月は彼女の小さな耳に何事かを囁いた。とたん、暴れるのをやめた彼女は今にも泣き出しそうな顔で、そして信頼に満ちた顔で年下の恋する青年に抱きついた。
 それは愛の睦言だったのか、それとも親しい者へと向けられる情だったのか。いずれにせよ、自分には無縁なものだと竜崎は思った。世界の切り札Lには邪魔でしかない感情であると。

「キラに負けて殺されればいい、ですか」
「竜崎‥‥海砂は興奮してたんだ。本気じゃない」
「ついうっかり、と言うのは隠された本心の暴露だと思いますが?」
「それが全てじゃない」

 否定しなかった彼の態度に、この先の会話もまた予想済みなのだと知る。自分もこの会話を続ければどんな言葉のやり取りがなされるのか判り過ぎるほど判っている。
 自分と夜神月のこの奇妙な親密度は何なのだろう。まるで二人で一つの思考を共有しているような錯覚は。
 それなのに、通い合う熱は『捜査』にしかないのだ。

「彼女は俗に言うキラ信者です。キラの存在を肯定している。そんな彼女が第二のキラであっても不思議ではありません。キラでなくともその協力者である可能性も否定できません」
「海砂はそんなんじゃない」
「えぇ、知っています。彼女は犯罪被害者の家族、キラによって無念を果たすことのできた小市民の一人です」
「判っているなら‥‥」
「だからと言って加害者側に回らないとどうして言えます?」
「竜崎!」

 ピンと張った手錠の鎖が忌々しい。
 プライベートな空間も時間も共有したはずの二人なのに。僅かな時間で互いの内面を深く知りえたはずなのに。その理解は何時まで経っても遠浅の海のように生ぬるい。

「キラになって悪人を裁く、殺す。その可能性が彼女にないと、誰が言えるでしょう」
「!‥‥ひ、酷い‥‥」
「自分の家族のような悲しい人間をこれ以上出さないために悪を裁く。言葉は綺麗でもやっている事は人殺しです」
「やめろ、竜崎!」
「それは貴方も同じなのですよ、月君」
「僕はキラじゃない」

 海砂の小さな嗚咽がして鎖がさらに引っ張られる。もう聞きたくないと、この場から逃げたそうな彼女の行動に月の体が押されたのだ。仕方なく竜崎はソファから腰を上げた。

「どんな理由であっても人殺しは人殺し。犯罪者は犯罪者です。殺されて当然ではありますが、人間が社会的な動物である以上、無秩序に殺されていい訳ではありません」
「興味ないくせに‥‥」

 怒りにほんの少し同情的な眼差しをこめて月が竜崎を詰る。海砂を苛めるから言い返すのだと、そう言外に添えて。

「えぇ、犯罪者の末路に興味はありません。死のうが生きようがどうでもいい。私の興味はあくまで犯罪の解明にあります。犯人個人を知る事はその手段でしかありません」
「だから捕まえるのは人任せ?犯人の動機も葛藤も後悔も、そして快楽も、推理を進めるためのキーワードでしかないって?」
「私は探偵です。警察ではありません」
「しかも、犯人に直に触れた事もない安楽椅子探偵だよな」
「足で稼ぐなど、能力のない人間の言い訳です」
「父さんは自分の仕事に誇りを持ってるよ」
「警察官なら当然でしょう」

 あぁ、そうだな、と月の視線が一瞬竜崎から監視カメラへと逸れたのが判った。それすらも気に入らなくて竜崎は急いで言葉を綴った。

「犯罪の動機なんて、どれもこれも人間の愚かしさの証明でしかありません。小さな犯罪におけるそれなど調べる価値もない。罪への葛藤も後悔も、本人の自己満足です。ましてや快楽なんて知りたいとも思いません。知ったとしても、所詮は他人の快楽ですからね。その末路に至っては自業自得としか言いようがない」
「そうじゃなくて‥‥」
「犯罪を犯す人間は、己を律せなかった負け犬です。環境のせいだと人は言うかもしれませんが、すべての人間が犯罪に走る訳ではない。ですからやはり、負け犬なのです」
「だからキラに殺されてもいいと?」
「そんな事は言ってません」
「キラに殺された人間に興味がないのはそう言う事だろ?」
「興味がない訳ではありません」
「名前と顔と犯歴を知ってるだけじゃないか」
「それの何処が悪いのですか」
「悪くないさ」
「貴方が何を言いたいのか私には判りません、月君」
「僕自身、よく判ってないのかもしれない‥‥」
「何ですか、それ」

 それが二人を隔てる鎖の距離であり重なり切らない熱なのだと、声もなく泣く女を抱きしめる綺麗な顔の子供が眉尻を下げて笑う。

「だって、Lの事は何とか尊敬できても、竜崎の事は尊敬できないもの」
「私がだらしないからですか?」
「違う。判ってるだろ?」
「‥‥そうでした‥‥貴方の根底にはお父さんがいるのでした‥‥」
「父さんの事は胸を張って好きだって言えるけど、Lの事は好きだとは言えない」
「‥‥‥‥‥」
「でも、竜崎は好きだ」
「私は‥‥月君のお父さんのようにはなれません‥‥」
「ならなくていいさ。竜崎は竜崎だ。誰かと同じ竜崎なんてちっとも面白くない。そんなの僕の好きな竜崎じゃない」

 好きと言われて悲しいなんて、まるで三文小説のようだ。

「Lも‥‥この先変わる事はありませんよ?」
「それが嫌だと思ってしまう僕は‥‥」

 キラ事件が夜神月無罪で解決したなら、きっと彼はLの元を去って行くだろう。そうしてLもキラも必要としない社会を目指して歩んでいくのだ。竜崎になら時折会ってくれるかもしれないが、この夏の一時のような時間は決して再現されることはない。

「貴方がキラなら‥‥」

 今ばかりは、キラじゃないと彼は言葉を挟まなかった。

「手は取り合えなくとも、決着が着くまで正面から向かい合う事が出来るのに‥‥」

 キラではない夜神月とは鎖でもなければ共にいる事が出来ないなんて。

 



 表情に乏しい竜崎の顔が一瞬何処か苦しそうに歪んだのを、月だけでなく海砂も見たと思った。
 いつも飄々として皮肉しか言わない男がまさかそんな顔をするとは思ってもいなかったので、思わず自分が泣いているのも忘れて、海砂は猫背な背中をより強調して立ち尽くす男をじっと見返してしまった。
 その視線に居た堪れなさを感じたのだろうか――― まさかあの心臓に毛の生えた傍若無人な男が?――― 竜崎は薄い眉を不快気に歪め、ピンと張った鎖を軽く一振りした。

「とにかく‥‥!月君の霊能力うんぬんは置いておいて、海砂さんの本音が聞けたのは収穫でした」
「な‥‥っ!?」

 次の瞬間にはいつも通りの竜崎に戻っていて、海砂は今度こそ本当に泣いていた事も忘れパクパクと唇を開閉させた。

「な、何よ、それぇ!」
「竜崎、まだ言ってるのか‥‥」
「その海砂さんを庇う月君も同じです」
「強引すぎるぞ」
「そうですか?」

 そんな言葉は信じない、という気持ちをその一言にこめて両手をジーンズのポケットに突っ込んだ猫背な男は、手錠の鎖をたわませフラリと抱き合う恋人達――― そう主張するのは女の方だけだが――― に歩み寄った。

「さて、もう十分でしょう?楽しい恋人達の時間はお終いです」
「ちょ‥‥!冗談!?楽しい事、まだな~んにも話してないわよっ!」
「さんざん月君に抱きついて喜んでいたのは何処の誰ですか」
「こ、これはっ!怖かっただけだもん!」
「海砂、海砂‥‥あんまり体重掛けないで‥‥」
「月君も海砂さんを甘やかさないで。ほら、戻りますよ」
「おい、引っ張るなよ、竜崎」

 弛んだ鎖を手に握りクイと引けば、月の体が前に傾ぐ。その拍子に海砂を抱く手が緩み密着していた二人の体の間に隙間が生まれた。
 月と海砂を繋ぐものが被害者意識なのか、それとも同じキラである共犯者意識なのか。いずれにせよ、竜崎には決して経験できない距離である。

「もうっ!竜崎さんのバカ~ッ!竜崎さんなんて‥‥竜崎さんなんてっ!」

 慌てて振り返った月の窘めるような視線に海砂は目まぐるしく頭を回転させた。

「馬に蹴られて死んじゃえ~~~っ!!」

 恋の妨害者への常套文句に、さも詰まらなそうに溜息を吐く竜崎。

「もっと気の利いた台詞が言えないのですか。芸のない。これだったら過去に私が刑務所送りにした犯罪者達の方がよっぽどマシ‥‥‥!?」

 ビシリ!

「キャッ!?」
「え?」

 突然だった。
 突然力任せに叩いた様な音がして、何事かと三人が辺りを見回せば、ソファの間に置かれたガラステーブルに大きな罅が入っていた。

「え?え?何?」
「海砂さん、貴女意外に凶暴なんですね」

 誰も触った覚えはない。

「はぁ?何言ってるの?私がやったとでも?足癖の悪い竜崎さんでしょ?」

 足を出した者もいない。物がぶつかった訳でもない。
 ビキッ。

「嘘っ!?」

 そうして再びガラスに罅が入る。

「キャ―――ッ!!」

 次の瞬間テーブルに載っていたカップや皿が何の前触れもなく粉々に砕け散った。それと同時にガラスの天板が枠から割れ落ち、柔らかいラグの上で何者かに踏みつけられたように無数に罅割れた。
 月が庇うより先に飛び散った破片が海砂の肌を傷付け、目の前で起きた信じられない現象に無表情ながら目を皿のように大きく見開いた竜崎の頬に赤い痕を作る。

「いやぁぁ――っ!何これぇ‥‥っ!?」

 それはまさに怪異だった。

「バカ、竜崎!お前裸足のくせに!」

 月の足の下でチャリとガラスが鳴る。グイと引かれた鎖の先で無残に壊れたテーブルに近付こうとした竜崎の体が大きく揺れる。
 そして怪異はそれだけでは収まらなかった。床から天井までのガラス窓が割れないもののビリビリ無気味に鳴り響き、カーテンが生き物のようにバサバサ揺れ、壁に掛けられた絵画がいきなり床に落ちたりスタンドランプが飛ぶように倒れたり、しまいには重いソファやサイドボードがガタガタ揺れだした。

「これは‥‥まさか‥‥‥噂に聞くポルターガイスト?」
「えぇっ!?嘘っ!幽霊!?幽霊の仕業なのっ!?」
「海砂、危ない」

 滅多にどころか普通なら一生経験できない心霊現象――― 現段階ではそうとは言い切れないが、とまだ竜崎は思っていたりする――― を心なしか面白がっているような裸足の男を鎖をひく事でガラスから遠ざけた月は、恐怖に震える海砂の頭を抱え込み厳しい視線で睨みつけた。

「いやぁぁ―っ、何よこれぇ!竜崎さん?竜崎さんに憑いてる霊の仕業なの?そうなんでしょ!?」

 逃げようとするのを追いかけるようにガタガタ動くソファにすっかりおびえ切った海砂がバタバタはためくラグに足を取られ転びそうになる。悲鳴は絹を裂くような悲鳴でポルターガイストが引き起こす騒動よりも余程うるさかった。

「貴重な体験です。騒がしい霊、ですか。まさしく騒がしい。しかし、物をガタガタ揺らし壊すだけで何と芸のない」
「竜崎!霊を刺激するような事言うな!」
「月君。貴方、私の左肩辺りを見ていますね。するとこれは、私の左肩に憑いているという霊の仕業なのですか」
「お前が変な事言うから興奮してるんだよ!」
「変な事?興奮?私何か言いましたか?」

 心外だと言わんばかりに唇を尖らせる竜崎に件の霊が怒りでもしたか、部屋の中の惨状はますます酷くなり、それに比例して海砂の悲鳴も更にけたたましいものへとヒートアップしていく。

「それにしても、いらぬ騒ぎを起す霊です。ケーキがまだ少し残ってましたのに。これでは食べられません」
「あんた、変態!?変態でしょ、竜崎!!」
「海砂。それを言うなら変人‥‥」

 ますます部屋の中で暴れる霊をよそに実に冷静な二人と極一般的な反応を返す一人との間で奇妙な会話がなされる。

「キャァァ――!いやぁぁ――!もういやぁぁぁっ!何とかしてよぉぉっ!」
「何とかしてと言われても、これが本当に霊の仕業だという証拠は有りませんし、仮に本当に霊の仕業だった場合、相手に実態がないので手の施しようもないと思いますが」
「だからっ!お前はこれ以上何も言うな!」
「そう言われる理由が判りません、月君。こんな面白い現象、じっくり観察しなくてどうするんですか」
「するなら黙ってしろ!あぁ、でも、それも逆効果か!」
「何訳の判らない事を」

 おそらくこの一部始終をモニター越しに見ている刑事達にはいきなり霊が暴れだした理由も、月の言葉の理由も判っている事だろう。触らぬ神に祟りなし、と言うのはどうやら本当のことらしい。もっとも今は神ではなく幽霊だが。
 いずれにせよ、誰が助けに行くかで大揉めに揉めているに違いない。一番に来たがるのは月の父夜神総一郎だろう。しかし、彼は心臓に不安があるため他の者達が慌てて止めているはずだ。たぶん貧乏籤を引かされるのは松田あたりか、とやけに冷静に考えながら月は恐怖に震え尚且つ負けじと悲鳴を上げる海砂を抱き締めたまま、地震が来たかのように現在進行形で荒らされる室内を見回した。
 ポルターガイストはいっかな静かになる気配がない。
 その元凶である男はといえば、まるで他人事のように鎖の許す範囲でウロウロしながら騒動を眺めている。本人の言葉通り『観察』をしているのだろう。しかも、先ほどから砕けたカップの破片だとかクッションだとか雑誌だとかが自分に向かってビュンビュン投げつけられているにも拘らずだ。当然の事ながら投げつけた相手の姿は全く見えない。そして、それらの幾つかは竜崎が避けてしまうものだから、ラップ音までし始める始末。

「月君、霊能力の他にサイキック能力なんかもあったりしますか?」

 同時に前後から飛んで来た物体をヒョイと屈んで避ける竜崎。その一瞬に距離を詰め月は彼の後頭部をスリッパで思いっきりはたいていた。

「な、何をするんですか!?」
「お前がバカなことばっかり言うからだ!」

 たいして痛くはなかったがいきなりの事だったので、竜崎は驚くと同時に小鼻を膨らませて怒りを露わにしている。そのちょっとした表情の変化に気付いているのはもちろん月一人だ。

「バカ?また私をバカと言いましたね?私をバカなんて言うのは月君だけです!」
「バカはバカなんだから仕方ないだろ!」
「バカと言う方がバカだ、という名言を知らないんですか?」
「お前相手にそれは無効だ」
「その理屈、理解しかねます」

 いつの間にかポルターガイストが収まった事にも気付かず言い合いをする二人は今にも鼻と鼻がくっ付きそうなくらい顔が近い。
 そして、その距離に気付いたのは今の今まで恐怖に震えあがっていた海砂。

「海砂の月に手を出すな~~~~!」
「!?」

 恐怖は一瞬で怒りに切り替わり、彼女の口からは悲鳴ではなく怒声が迸った。
 気配に振り返った竜崎が感じたのはそんな彼女の怒り。下から来る攻撃にとっさに反応できたのは流石だったが、飛びのいたつもりで直ぐ傍にいた月にぶつかっていたのでは意味がない。

「竜崎の、バ~~カ~~~~~!!」
「!!!!!」
「あ‥‥‥」

 下からの攻撃、つまり海砂の蹴りは避け損ねた竜崎のガニ股気味な足の間を綺麗な弧を描いて上昇し、彼の股間にものの見事に減り込んだ。

「うわっ‥‥痛そう」

 元から飛び出し気味の眼球が更に飛び出して見えるほど、竜崎の苦痛は凄かったようだ。男ならかなり身につまされる。

「ふん!海砂の月に手を出そうとするからよ!ざまあみろっ、変態!!」

 泡を吹くかもしれないと危惧した月の目の前で、文字どうり竜崎は悶絶し意識を失った。

 

 


 ポッカリと浮上した意識に竜崎は一瞬何がどうなっているのか全く理解出来なかった。
 薄暗がりの中、パチリと目を開けて最初に見たのは壁。記憶にはない。だが、Lビル以外とは考えられないのでビルの中の何処かだろうと推測する。そこまで30秒ほど掛ってしまったのは一生の不覚だ。それから、自分が横になっているのがやけに固いベッドだと気付き、あぁそうか、ここは医務室なんだと納得する。

 ――― まさか弥海砂にやられるとは‥‥

 薄暗いのは壁を向いて横になった状態でシーツを被っていたからだった。明かりは点いている。背中側に。そして、その背中側には人がいた。背後だなんて最悪ではないか。いやいや、それは自分が寝ていたとはいえ背を向けてしまったからで、と言うより人前で気絶することそのものが間違いで――― その原因が素人の小娘に股間を蹴られたからだとは、決して認めたくない。
 意識を取り戻しても気恥ずかしさからか不名誉極まりない事態の情けなさ、怒りからか、竜崎は自分の覚醒を隠蔽した。つまりは狸寝入りを決行したのである。
 あぁ、未だズキズキする――― 不運な運命を辿った股間に冷湿布があてがわれている事に気付いた竜崎は、ふと、自分の治療は誰がしたのだろうと不安になった。
 ワタリがベストではあるが、あの場に月もいた事を考えればあの忠実な男は自分を助けるためでも決して出てこなかったはずだ。すると考えられる相手は夜神月‥‥‥

 ――― Lともあろう者が容疑者に助けられるとは!

 そしておそらく手当ての現場には弥海砂もいたはずだ。月命のあの女が一時でも傍を離れるはずがない。部屋の外で治療が終わるのを待っていたか、それとも図々しくも治療を手伝ったか。いや、月の性格なら彼女の立ち会いは拒んでくれたはず。その辺は甚く真っ当な神経の持ち主なのだ、夜神月は。
 その間モニター前にいた連中は何をしていたのか少々気になるが――― ただボケっと見ていただけなら後で嫌みの一つも、いや十や二十も言ってやろう――― 背中に感じる気配が二人だけだという事は、少なくとも今はここにはいないという事だ。松田辺りは荒らされた海砂の部屋の後片付けをやらされているかもしれない。いずれにしろ、こんな狭い部屋に意識のない自分とキラ容疑者二人を一緒にさせるとは。警戒心のなさにはほとほと呆れる。
 幸い監視カメラが設置されているからいいものの――― それを踏まえての処置だと、モニター前で誰かが医務室を見張っていると、そう信じるしかない――― それがなかったどうなっていたか判らない。どんなに見た目好青年でも、夜神月は間違いなくキラなのだ。
 たとえその説を唱えるのがL一人だとしても。彼はそれを信じて疑わなかった。
 オリジナルのキラと第二のキラ。
 背中に感じる気配は間違いなくこの二人だ。夜神月と弥海砂。何やらボソボソ話しているのは自分を殺す参段でもつけているのか。
 いや、それはあり得ない。月は医務室にも監視カメラがある事を知っている。簡単にボロを出すはずがない。
 では狸寝入りで聞き耳を立てても大した情報は得られないかもしれない。
 そこまで思考を巡らせて、竜崎は密やかに溜息を漏らした。
 聞こえて来るのは海砂の甘えるような声。少し鼻にかかっているのは涙声なせいだろう。滅多にお目にかかれない怪奇現象に遭遇した直後だから、未だ恐怖が抜けていないのだろうか。思い出して涙でも出たか。それとも、それにかこつけて恋人――― あくまでそう主張するのは彼女一人だ。ただし、夜神月は生粋のフェミニストらしく決して冷たい態度はとらない。そこが問題だと気付いているのかいないのか――― に甘えているだけなのか。
 どちらにしてもシーツを被っているせいで二人の会話は少々聞きづらかった。
 ちなみに、この結果――― 世界の切り札ともあろう者が股間を腫らして医務室の簡易ベッドに寝かされているという状況――― の原因である怪奇現象は無事治まったようである。
 どうやらあれは、認めたくないが、自分に憑いていた霊の仕業だったらしい。消去法でいくとそれしか考えられないが、あまりに非科学的過ぎて信じたくないというのが竜崎の本音だ。しかも、霊が暴れだした理由が自分の言動に腹を立てたから、というのがどうにも癪に障る。自分の発言の何が霊の気に触ったのか予想はついても理解出来ないからだ。模範的とは言い難い自分の性格が災いしたと理解しているが。
 自分が何をしたというのか。
 竜崎は心の内で二度目の溜息を漏らした。

「‥‥‥で‥‥それは‥‥って、思うの?」
「ううん‥‥」

 鼻を啜る音に混じって海砂の力無い声が耳に届く。それを慰めているであろう月の声は実に穏やかだ。きっと彼の右手は海砂の肩か背中を抱き寄せ、左手は彼女の手を握ってでもいるのだろう。女はそんなふうに自分一人優しくされるのが好きな生き物だ。そして、そんな優しい男に溺れてしまう。自分に優しいから、と言って他の全てに目を瞑ってしまうのだ。悪い男に引っかかったバカな女。そんなイメージが竜崎の脳裏をよぎった。
 第二のキラの出現はオリジナルキラ、夜神月にも予想のつかない事だったようだが、陥落するのは楽だったに違いない。

「‥‥ってるの、海砂だって判ってる。でも、どうしても、考えちゃうんだもん」

 寝返りをうつ振りをして肩を揺らし竜崎は頭に掛っていたシーツをほんの少しずり下げた。背中を耳にして二人の会話に集中する。

「ママとパパは死んだのに、どうして犯人は生きてるの!って‥‥復讐なんかしてもママとパパは帰って来ない、それよりは私がママとパパの分まで幸せにならなくちゃ!って、そう、思うんだけど‥‥でも‥‥」
「一度考え出したら止まらない?」

 月の声に云々と頷く海砂の気配がする。

「両親に代わって復讐しなくちゃ、って考えてしまう?」

 寝ている竜崎の頭の上を通る鎖が幽かに揺れた。海砂が月に抱きつきでもしたのだろう。

「海砂の両親ならきっとそんな事を海砂に望んだりしないよ」
「判ってる、判ってるの!海砂だってそう思う!でも、でもね‥‥!」
「うん、海砂のその気持ちも判ってる」

 何を二人で『判る、判らない』と言い合っているのか。バカバカしいにもほどがある。しょせん復讐などというものは残された者の自己満足に過ぎない。被害者の関係者が加害者を殺せば、今度は加害者が被害者となり同じことが繰り返されるだけだ。

「だから、キラが犯人を殺してくれて海砂は嬉しかった‥‥自分に出来ない事をキラがやってくれて‥‥卑怯かもしれないけど、嬉しかったの」

 おや、自分が卑怯だという自覚はあるのか、このバカ女。
 そんな失礼な感想を胸に零し、キラも大変だなぁと唇だけで笑う。
 多くの犯罪に多くの被害者と加害者。犯罪の数だけ復讐心は存在し、それが実行されるかされないかは別にして確実に負の感情は増えていく。
 キラはいわば復讐の代行者だ。キラ一人が多くの復讐を実行することによって新たに発生した復讐心はそのキラ一人に集約される。あながち、竜崎が指摘したことは間違っていないのかもしれない。キラにそのつもりはなくとも、今の夜神月なら十分あり得るかもしれないと、竜崎には思える。

「ねぇ、月‥‥海砂のママとパパも‥‥」
「それはないよ」

 しゃくりあげるようにして紡がれた言葉に、珍しく最後まで言わせず月が答えを先に言う。

「海砂のご両親は空の上だよ。空の上から海砂を見守ってる」
「‥‥そうだよね。あんな‥‥あんな残酷な犯人の傍になんか、死んだ後までいたくないよね‥‥‥」

 その言葉に『あぁ』と内心頷いて眉を顰める。
 強盗に殺された弥海砂の両親。
 その両親の霊が犯人を恨みその犯人に取り憑いた――― その可能性はゼロではない。それを彼女は憂いているのだ。犯人は既にキラに殺されたのだから理論的には成仏してしまっているはずだが、何をとち狂ってか未だこの世を彷徨っていないとも限らない。非常にオカルト的発想だが、そう考える事は当事者にとっては堪らない事だろう。

「空の上‥‥か。それもいいけど‥‥海砂の傍にいてくれるのでも良かったな‥‥」

 天国、極楽、空の上。どんな表現でもかまわない。死後の世界が明るくて幸せな場所なら何処でも‥‥‥

「ほら、守護霊とか背後霊とか。そう言うのになって海砂の傍にいて欲しい‥‥」
「空の上だよ、きっとね」
「‥‥うん、そうだね。その方がいいよね」

 甘えるような声は何処となく淋しげで、それでいてささやかな幸せに潤っていた。

「ねぇ?月には視えないの?」
「何が?」
「あれ」

 あれとは何だ?

「幸か不幸か視えない」
「えぇっ、視えればいいのに。視えた方が絶対いいよ」
「そんな事ないと思うけど」

 海砂にも月にも『あれ』で通じるらしい。

「月に視えるなら‥‥パパとママが‥‥」
「一度だけ、視た事あるよ」
「え?」
「でも、それは海砂の守護霊じゃなくて、全然知らない通りすがりの人だった」

 あぁ、そう言うことか。『あれ』とは『守護霊』の事だったらしい。何と乙女チックで無責任な発想だろう。

「中学の時だったかな。子供の飛び出し事故を目撃した」
「‥‥その子、無事だったの?」
「あぁ‥‥小さなその子の体が宙を跳ね飛ばされるのを見たよ。普通なら重傷、運が悪ければ死んでたかもしれない事故だった」

 確かに、悪霊の類が視えるのなら守護霊が視えても不思議ではない。だが、月は視えないという。竜崎にはどんな判断もつきかねる出来事だ。

「その時にね、一瞬だけ視えた気がする」
「!‥‥守護霊ね!」

 海砂の嬉しそうな声に現金な女だと呆れる。

「その霊が子供を守るように車との間に割って入って、そのせいかどうか知らないけど、その子は右手を骨折しただけですんだ。九死に一生ってやつかな」
「それ、絶対守護霊のお陰だよ!凄いよ、月ぉ!やっぱり視えるんだ、立派な霊能力者だね!」
「でも、その時だけだよ。それ以外は、残念な事にこの世にどっぷり未練を残した不幸な霊ばっかり視えてしまう‥‥」

 フゥと、あからさまな溜息を漏らす月。

「‥‥それって、可哀そうな霊?」
「そうだな‥‥可哀想かもしれないな。輪廻転生が本当なら、もう一度人間に生まれて人生をやり直す機会を失ってしまったんだから‥‥」

 可哀そう?果たしてそうだろうか――― 眠った振りを続けながら竜崎はある意味普遍的な考えを展開させる。
 人間と言うのは生き物の中で唯一平時でも同族殺しをする生き物だ。社会的動物であるが故に他との争いが絶えず、己が生き残るためなら平気で他を貶める。そして、自ら招いたものであれ他人から押し付けられたものであれ、人間として人間社会に生きるからには様々な苦痛から逃れる事が出来ない、何とも損な生き物のだ。
 もちろんその苦痛は人それぞれ、大小差がある。この平和な日本に生きる彼らの苦痛など、飢餓や戦争に苦しむ国の人間に比べればただの甘えに過ぎないだろう。だが、本人にしてみれば重大な苦痛であることは間違いない。人間として生まれてくる、ただそれだけで苦痛を伴う一生が定められてしまう。だったら、生まれ変わらない方がましかもしれない。
 苦痛の果てに死んで尚この世を彷徨う事が苦痛でないのなら、だが。まだ生きている竜崎には判断不可能な事である。

「海砂は生まれ変わっても月に会いたいなぁ」
「ありがとう。僕も海砂に会いたいよ」

 キャッ!嬉しいぃ!と、海砂が喜色満面の声を上げたのが判った。それを背中で受け止めて、竜崎はそっと眉を顰めた。
 生まれ変わってもまた会いたい。
 そう言う思いに至る心の流れがどのようなものなのか、あいにくと竜崎にはよく判らなかった。
 生まれ変わってもまた会いたい存在。
 そんな存在の定義付けが彼には出来ない。
 優しくされたから?いい思いをさせてもらったから?
 少なくとも一緒にいて幸せだと感じる相手である事は間違いないだろう。それが弥海砂にとっては夜神月だったと言うだけの話だ。

「あ、いっけない!もうこんな時間だ。海砂、明日も仕事だからもう寝るね」
「引きとめてごめん。寝不足は美容に悪いのに」
「ううん。久しぶりに竜崎さん抜きで月と話が出来てうれしかった。監視カメラなんて野暮なものがあったけど、気分は二人っきりだったからそこは目を瞑っちゃう」

 おやすみ、と明るい挨拶を言い交わし海砂が出て行ったのが判った。一瞬の間が空いたのはもしかしたらキスでもしていたのかもしれない。
 そう思ったらなんだか無性に腹が立ってきて、やはり自分は夜神月を特別に気に入っているのだと認めざるを得なくなった。その『特別』はもしかしたら恋愛感情かもしれない、と考える事は甚だ遺憾ではあったが。
 そもそも、あの綺麗な顔がいけない。男のくせに人形みたいに整っていて、怒っても泣いても美人なのがいけないのだ。しかも、笑うと年相応に可愛らしくなるなんて性質が悪いとしか言いようがない。
 そこまで考えてこれが『メンクイ』というやつか、と少々ショックを受ける。まさか自分があれ程バカにしていた『メンクイ』だったとは今の今まで全く思いもしなかった。しかも、唯のメンクイではなく、かなりパーフェクトにメンクイだったとは。人間の美醜など皮一枚、もしくは骨格の相違でしかないと断じるだけの冷静さが自慢だったというのに。
 そういえば‥‥夜神月と手錠生活を始めてから人間の好き嫌いがはっきりしてきたような気がする。しかも、あの弥海砂を外見だけなら――― 性格は別にして――― 人並み以上に可愛いと思うようになっていた気がする。これもメンクイ効果なのだろうか。もしそうだとしたらイヤすぎる。
 だってそうだろう。弥海砂はアイドルなのだから。アイドルはおつむが足りないと相場が決まっているのだ。私は頭のいい人間が好きなのだ!そのはずなんだ!!――― 内心そう叫ぶや、竜崎は頭の中から資料として垣間見た海砂のグラビスチールを追いだし、鎖の先に繋いだ夜神月の姿を思い浮かべた。
 あぁ、やっぱり美人は人類の宝‥‥‥であるらしい。
 自然とだらしなく緩む口元に、もちろん竜崎は気づいていない。
 それからそれから‥‥‥あのくそ生意気な言動や自分の思考に優々付いて来れる頭の良さも、思考派タイプに修まり切らない行動派な所も、意外に口より手が早い所も。ついでに言うなら見た目通り世話好きな所も――― 他人に世話されるのが当然だった竜崎には、世話されながら口やかましく文句を言われるのがちょっぴり新鮮だったりした事は永遠に内緒だ――― 癪に障るがどうやら自分の好みであるらしい。変なところで潔癖なのも加虐心を煽っていけない妄想に誘ってくれる。
 あぁ、いかんいかん!これでは通りすがりのお姉ちゃんをいちいち振り返って見てしまうマッツーと同レベルではないか!
 人間は中身、中身だ!いや、違う!外見‥‥いやいやいや、その中身もより好みしてどうする!?世界の切り札、探偵Lにあるまじき失態だ!
 こ、これもキラの罠なのか!?
 夜神月と出会う前の自分は人間個々人に興味を持つ事などなかった。それだけはハッキリと断言できる。伊達に引き籠りの自覚を持っている訳ではないのだ。
 好きな人間は『有能』な人間。嫌いな人間は『無能』な人間。使えない人間はこちらの意思も存在も教える必要性を感じない。それで何の問題もなくやって来れた。この先もそんな日々が続くはずだった。
 それなのに‥‥‥‥

「百面相」
「!?」
「面白いか?」

 いきなり頭の上から声が降って来た。気がつけば視界は伸しかかる影で暗く陰り、キシキシとベッドが幽かに軋んでさえいる。

「寝たふりするなら、もっと穏やかにやらないと」
「‥‥私が‥‥目覚めていると、何時判りました?」

 それは月だった。夜神月。

「海砂が出て行く少し前かな?」
「!‥‥そ、そうですか」

 驚きに硬直した体を鞭打って、こちらを覗きこんでいるであろう月を避けて上半身を起す。Lともあろう者が他人にここまで接近されるまで気付かなかったとは、死活問題以前にプライドの問題だ。
 命とプライド、どちらが大事かと言われれば当然命なのだが、夜神月に関して言えばプライドの方が勝る!と、今この瞬間、竜崎は感じていたりする。もうそれだけで、やはり何処か今の自分はおかしい。
 これが世間一般で言うところの、いわゆる―――

「顔、赤いな。まだ‥‥痛むのか?」
「い、いえ。大したことはありません。腫れもだいぶ引いたみたいです」
「めり込まなくて良かったな」
「!ラ、ラ、ラ‥‥‥月君!貴方、何処でそんな卑わ‥‥‥‥!」
「男同士で、男にとって大事な話をしてるんだから、そこで乙女チックな発言をかますな」

 頬が更に熱くなったのを自覚しながら竜崎は身を捻り両足を下してベッドに腰かけた。たわんだ鎖がベッドからずり落ち床を打つ。それだけ二人の距離は近い。

 

 

「とんでもない夜でした‥‥」
「そうだな」

 我知らずホッと息を吐き出し竜崎は片付けを始めた月の動きを目で追った。

「ほら」
「‥‥‥‥!?」

 そうして目の前に差し出されたのは間違いなく今日自分が穿いていたジーンズ。そうと気づいて初めて自分がシャツにパンツ一丁という出で立ちだと知る。

「パンツぐらいで今更恥ずかしがるガラか?パンツどころかお前のはた迷惑なナニをもう何度目にしたことか」
「は、傍迷惑って何ですか!」
「視覚の暴力、という言葉を知ってるか?男が男のナニを見て嬉しがるとでも?」
「‥‥これから自重します」

 いつもの通り無表情なはずなのに月には自分が恥ずかしがっているのが筒抜けだった。ほんの数カ月でワタリの域にまで達した彼を誉めるべきなのか、それとも今の自分が普通じゃないのか。たぶん両方だろう。

「ちょっと向こう向いててください」
「は?今さら何?‥‥まぁ、いいけど」

 月に後ろを向いてもらい竜崎は大急ぎでジーンズを穿いた。これからは風呂上がりに裸でうろつくのは止めようと密かに誓う。

「歩けるか?」
「はい」

 時計を見ればもう夜中の12時を回っていた。一応メインルームに立ち寄ってみると当直の相沢が一人だけ残っていた。彼は竜崎と月を交互に見やり何か言いたげにしていたが、今夜はもうこれで失礼すると竜崎が告げるや、何処かホッとしたようにお休みと言って背を向けた。仕事熱心だが平々凡々な彼には超常現象なんてものは近づきたくない代物なのだろう。

「嫌われましたか」
「僕が?それとも竜崎が?」
「私が、です」
「どうして?一般的に見たら竜崎は被害者だろ?」
「そうでしょうか。今回騒ぎを起こした霊は私を怨んで私に憑いた霊なのでしょ?」
「逆恨みだよ」
「そうばかりとは言えません‥‥私が取り扱った事件の犯人の多くは弁護の必要もないほど凶悪な連中がほとんどでしたが、中には『復讐』のための人殺しもいました‥‥復讐の途中半ばで私に追い詰められ復讐を完結させることなく死んでしまった者もいたのです」
「お前は自分のするべき事をしただけだろ?」
「えぇ、そうです。それでも‥‥」

 それでも、復讐者にとって自分は殺したいほど邪魔な存在だったに違いない。

「よく言うでしょ?犯人は心の何処かで復讐を止めて欲しいと思っている、と」
「テレビドラマによくある台詞だな」
「確かにそう言うのもあるでしょうが‥‥」
「絶対は有り得ない?」
「えぇ。復讐の後に残るのは虚しさだけ、というのは良心に訴えるための方便です」
「一部、真理を突いてると思うぞ」
「残り九分は?」
「人それぞれだから」
「それを認めない人間が刑事をやると熱血になるんだと、私は思います」
「否定はしない」
「もちろん月君のお父さんもその中に含まれてますよ」
「いいんだよ、父さんはそれで」
「‥‥ファザコン」
「変人」

 真夜中に戻った二人のプライベートルームは今朝出て来た時と何ら変わらず綺麗に片付いている。マメな月が不便な鎖を器用に捌きながら毎日掃除しているおかげだ。空調が効いているから東京の熱帯夜とは無縁な空間に足を踏み入れ、竜崎は右隣に立つ月をチラリと見やった。
 こんなに似た思考展開が出来るのに、どうして二人は両極端な位置にいるのだろう。

 

 

「私に憑いていた霊、まだいますか?」
「ん?」

 お菓子屑一つないソファに腰を下ろし、向かいに月が座るのをじっと待つ。二人しかいないのに広くて大きな3点セットは優に8人は座れるだろう。鎖があるから向かい合って座る時はいつもソファの両端に座る二人。同じ椅子に並んで座ったっていいじゃないかと、ちょっと拗ねたい気分になったのは頭のコブが痛いからだという事にしておく。

「ほら、私の頭と肩に憑いているといかう‥‥」
「あぁ、あれね。喜べ、もういない。僕がお前の頭を叩いた時に2体ともいなくなった」
「やはりそうでしたか‥‥」
「何?何か変化でもあった?」
「はい‥‥実を言いますと、そこはかとなく背中が軽くなったような‥‥」
「でも、猫背は治ってないな」
「これは子供の時からです。年季が入ってます」
「探偵になる前から猫背だった?」
「はい」
「胸張って言うなよ」

 形の良いアーモンド形の目と桜貝のような唇を仄かに緩めて月が苦笑いを零す。それは決して不快なものではなかった。

「‥‥きっと、私の事をもの凄く恨んでいた霊なんでしょうねぇ」
「まだ言うのか?」
「いえ、私が彼らを追い詰め死に至らしめたにしろ、彼らが勝手に獄中死したにしろ、私は別にどちらでもいいんです。私は自分の能力に誇りを持っていますし、自分のした事に後悔はありません。ただ‥‥」
「ただ?」

 とんでもなく傲慢なセリフも聞き慣れたものとして眉一つ動かさない月に、実に豪胆な若者だと密かに感心する。それと同時に今の自分の台詞が意図的なものではないと嗅ぎ分けられる観察眼にも感心する。

「私が霊を怒らせたらしい事は判ります。わざと貶めるような言葉を口にした記憶があります」

『もっと気の利いた台詞が言えないのですか。芸のない。これだったら過去に私が刑務所送りにした犯罪者達の方がよっぽどマシ‥‥‥』

 おそらくはあれが切っ掛けだったのだろう。

「ただ、そのような発言なら過去に何度も口にしました。それなのに何故今日に限って彼らは暴れたのか‥‥私はその理由が知りたいのですよ」

 何か知らないか、とじっと月を見やれば、彼は少し困ったような顔をして一瞬だけ視線を逸らした。

「あぁ‥‥ごめん。それたぶん僕のせい」
「月君の?ですか?」
「一概にも僕のせいとは言いきれないけど、切っ掛けではあるかな?あの時の話の流れとか。ほら、オカルト話の真っ最中だったろ?」
「‥‥類友?」
「口は災いの元」

 不思議そうに訝しそうにそう問い正せば、彼は芸能人の噂話でもするかのように軽く言ってのけた。

「霊ってのは思いっきりこの世に未練を残している訳だから、魂だけになっても生きていた頃の記憶が曖昧になっても現世を彷徨ってるんだ。どうして自分が死ななくちゃいけないんだ~、死にたくなんてなかったのにこんちくしょう~~!って思いだけは残ってるみたいで‥‥つまり、その思いを生きてる人間にぶつけたくて仕方ないんだよ。そして、常にその機会を狙っている」
「八当たり?でしたか」
「そう。だから、一人ポツンと生きてた頃の事を懐かしみながら泣き明かす訳でもなく、幽霊同士つるむ訳でもなく、生きてる人間に取り憑くんだ」
「はぁ‥‥」

 海砂の部屋で繰り広げた会話より更にオカルト度が増しているような気がするのは気のせいだろうか。

「だから僕が言いたいのは、霊ってのは生きてる人間相手にしか燃えないってこと」
「‥‥それは」

 一瞬躊躇して、それから思い切って口にする。

「生きている人間に構って欲しいから幽霊は暴れるのだと、そう仰りたいのですか?月君」
「うん」

 あぁ、何だか頭のコブがまた痛くなってきた気がする。

「だから、視える人間がいると向こうも妙に意識して、よしっ!ここが暴れ時!とか思うみたいなんだよね」
「‥‥‥‥」
「だって、視えない人間相手より確実に霊の仕業だって気付いてもらえるから」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「鼻息荒くなるみたいな?」
「可愛らしく小首をかしげないでください。海砂さんじゃあるまいし」

 幽霊の鼻息って何ですか?そんなものあるんですか?!
 竜崎はどっと肩に伸しかかる、幽霊のせいでは決してあり得ない疲れを感じた。

「今まではほら、竜崎は超現実主義者だから」
「それが何か?」

 そんな疲労感を更に募らせる言葉が視える人の口から次々と飛び出してくる。

「霊だとかオカルトだとか、そんなものはなっから頭に無い人間には、たとえ霊能力があっても視えるものも視えない、聞こえるものも聞こえなくなる、そんな都合のよい現象が起きやすいんだよ。心霊スポットとかに行っても、ある人は嫌な気配を感じるのに他のある人は全く何にも感じないって具合にね」
「それは‥‥霊感の強弱のせいじゃないんですか?」
「それもあるけど、意識の問題も十分関わってくるみたいだな。だって、霊の存在そのものを認めてないんだよ。なのにどうしてそれに付随する現象も認められると思う?今日みたいに目の前で重い机がひっくり返りでもすればちょっとはその存在を考えるかもしれないけどね。冷気を感じるとか何か音が聞こえる程度じゃ、意識の外へ追いやる以前に感じ取りもしないよ。まぁ、一緒の防衛本能かもしれないけど」
「経験者は語る、ですか?」
「友達にいたんだよね。それはもう見事に霊を無視する奴が。目の前に霊が陣取ってても平気でズンズン歩いてくんだ。霊体を突き抜けても何にも感じないで平気の平左。視えるこっちの方が気持ち悪くなったっけ。普通なら悪寒の一つも覚えるのにね。そいつ、結構面白がってオカルト話もする奴だったけど、内心じゃぁ爪の先ほども信じてなかったみたい。そうじゃないかとは思ってたけど、うん、目がね、バカにしてる目だったからね。ホント、見事な無視っぷりだった」

 聞いていてほんの少し気分が悪くなったのは黙っておく。

「つまり、存在を信じない事が霊を大人しくさせておくコツだと?」
「付け込まれる隙が減るのは確かかな」
「隙?」
「幽霊だって暴れるにはエネルギーがいる、みたいな?」
「‥‥‥‥‥」
「今夜の場合、切っ掛けは霊自身の怒りだけど、その後は海砂の恐怖心だと思う」
「あ~‥‥俗に言うマイナスエネルギーですか?それを生きている人間から吸収し、それを使ってポルターガイストを起したと」
「死んだ存在にエネルギー生産ができると思う?」
「思いませんが‥‥周囲の自然エネルギーから取り入れるとかないんですか?」
「そんなの幽霊じゃない僕に判る訳ないだろ」
「だったら‥‥」
「でも実際、霊は精神的に不安定な人間に取り憑きやすいし、何か善からぬ事を仕出かす時はたいていその近くにマイナス思考の人間がいるのは確かだから」
「それも、経験者は語る、ですか」

 うん、と軽く頷く月に竜崎は既に反論する気力も失せていた。オカルトに科学的要素が加わると、何だかそれだけで真実味を帯びてくる気がする。

「百歩譲って月君の仮説を採用するとしましょう。そうなると今夜の月君の存在にはどんな意味があったのでしょうか?」
「ん~?‥‥フィールド設定?」

 いや、やっぱりオカルトはオカルトだ。

「‥‥ポルターガイストがヒステリーの一種だと言われていた理由が判ったような気がします」
「僕もそれに近いと思うよ?霊と憑かれた人間の意識が何処かで繋がって共鳴しちゃうんじゃないかなぁ」
「あぁ、いいです。もうオカルト話は結構です。今は私に憑いていたとか言う霊がいなくなった事だけ記憶しておきます。肩と背中が軽くなったのは認めたくありませんが事実ですから」
「え~?でも、また戻ってくると思うなぁ‥‥」
「はぁぁ!?何ですか、それぇ!?何なんですかぁぁっ!!」

 一息ついてソファの背凭れに全体重を預けようとした時、月の口から不吉な予言――― この際予言でも与太話でもどっちでもいい、そんな気分だ――― が綴られ、竜崎はスクリームのお面の如き表情を晒しながら腹筋だけでガバリと身を起した。
 その空気ポンプカエルのような動きに目をパチクリさせて驚く月。更にそれを見て、その意外に幼い仕草と表情が可愛いと思ってしまったバカな探偵。
 チョッピリ海砂の、オカルト話の余禄に北叟笑む気持ちが判ってしまい秘かに鬱を覚える。

「え?だって、肩に乗っかってた奴は一暴れしたから満足してもう戻って来ないと思うけど、頭の奴は相当執念深そうだったからその可能性が‥‥それでなくても竜崎これから幾らでも恨み買いそうだし?あ~、僕が一緒にいる間はそれとなく追い払ってやるから安心して、ってか、意識しなけりゃ今まで通り何にも起きないと思うぞ」

 意識するなと言われて『はいそうですか』と簡単に言い返せたらどんなに楽だろう。今夜起きた出来事を本当に忘れられる人間がいると、目の前の綺麗な小悪魔は本気で思っているのだろうか。

「判りました‥‥貴方が一緒にいる間は、貴方が追っ払ってくれるんですね?だったら月君、貴方を私専属のエクソシストに雇います。給料は言い値で構いません」

 だから、冗談半分本気半分で竜崎はそう言い返していた。

「は?バカか、お前。僕は霊能力者じゃないって言ってるだろ」

 これでいったい何度夜神月に『バカ』と言われただろうか。世界の切り札をバカ呼ばわりするのは、このこまっしゃくれた二十歳に満たないお子様だけである。

「何処が?視えるんでしょ?それに月君の拳一つでポルターガイストは治まりましたし、霊はいなくなりました。だったら貴方は立派なエクソシストです。貴方の可愛い拳の一発や二発、私の精神的安定のためなら幾らでもこの頬に受けましょう!ドンと来なさい!」
「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ、って?うふふふ‥‥お前にそんな殊勝な心掛けがあったなんて思いもしなかったよ」
「安心してください。殴り返したりしませんから」
「代わりに蹴り返すって?」
「‥‥‥‥‥」
「目を逸らすな!バカガエル!!」

 

 



 その後どうやって口喧嘩を終了させたのか両人とも余り覚えていなかった。ただ、後頭部の瘤に無意識に手をやったり眉を顰めたりする竜崎に月が気付き、それ所ではなくなったと言うのが切っ掛けだった気がする。
 色々あって疲れた夜だったのもある。
 気が付くと二人はこの手錠生活が始まって以来ずっと続いている『一つのベッドで一緒に寝る』という体勢に移行していた。
 月は真夏だと言うのにしっかりとパジャマを着こみ――― 一晩中点けっぱなしだったエアコンは当然ながら月の鶴の一声でキッチリ消されるようになった――― 竜崎は竜崎で寝るには硬いジーンズを脱ぎ月が松田に言って用意させたスエットに着替ていた。
 スプリングの利いたベッドに二人して横になり目を閉じてみるが眠りはなかなかやって来ない。それは月も同じらしく、微かに背中に感じる呼吸には時折意味のない乱れが生じていた。

「霊が視えると言うのは‥‥」

 キングサイズのベッドにそれなりに間を開けて横たわる二人は共に背中を向け合っている。眠ってしまえば何時の間にか正しい姿勢に戻り朝までそのままな月と違い、竜崎は夜中に何度か大きな寝返りを打つ。決して寝相が悪い訳ではないが、隣の月と比べるとどうにも分が悪かった。

「どういう感じなのですか?」
「‥‥別に‥‥何とも」

 何も今夜の事を蒸し返さなくても良かったのだが、いつもは無視できる沈黙に今ばかりは耐え切れずに口を開いていた。

「お前が指摘したとおり唯の事実、現実だよ、僕にとってはね。ただ、視える人が極端に少ないから異様に思えるだけで、視える者には余り意味がない」
「意味がない?」
「あぁ」

 竜崎はむりやり首を巡らせ右の肩越しに月の形の良い後頭部を視界に入れた。

「意味はなくないでしょ?死して尚この世を彷徨い姿を垣間見せると言う事は、その死した人の未練、訴えの表れでしょうから」
「そうだけど、やっぱり意味はないよ。いや、意味はあるんだろうけど、僕にはどうにもできない」
「‥‥そう言えば、視えるだけで声は聞こえないと言ってましたね」
「あぁ」
「それはまた‥‥片手落ちな霊能力ですね」
「だから言ったろ。僕は霊能力者じゃないって。僕には死んだ人間の魂を救済する力はないんだ」
「‥‥救済、ですか」
「そう。霊には可哀想だけどね」

 首を元に戻し明かりを消した薄暗い室内の暗がりに視線をやる。

「取り憑いた霊が‥‥月君を嫌っていなくなると言うのは‥‥」
「視えるのに何もしてくれない僕に早々気付いて、ここにいても無駄だと悟っていなくなるんだと思うよ」
「強引な結論ですね」
「だって、それしか考えられないだろ?霊も生きてる人間と同じで他人に無視されるのは嫌いみたいなんだよ。視えないし感じない人間に無視されるのはまだ我慢できても、視えるし感じる人間にまでまるっきり相手にされないのは堪えるみたいだ」
「無視して、怒りを買った事はないのですか?」
「幸運にもないね。霊のそういう行為自体無意味だと僕は思ってるし」
「意識しない事が一番の防衛手段?」
「そう言う事」
「案外冷たいんですね、月君は‥‥」
「だって仕方ないだろ?相手は肉体が、命がないんだから」
「‥‥それを子供心にも理解していた貴方に敬意を表します」

 それを口にして、竜崎は自分が少しがっかりしている事に気付いた。
 どうやら自分は彼に聖心性を見出そうとしていたらしい。非常に現実的でありながら人類普遍の理想をなんの衒いもなく口に出来る彼に、またそれを実行できる能力と意思を兼ね備えた彼になら、それは存在すると夢見たかったのかもしれない。
 そんなものはこの無情な現実に存在できないと判っていたはずなのにだ。
 どうかしている。夜神月はキラなのに――――

「だって、本当に‥‥仕方ない事なんだ」
「‥‥‥?」

 それは酷く遣る瀬無い呼気と共に紡がれた言葉だった。

「彼らは死者で、僕は生者なんだから‥‥」
「‥‥‥‥」

 もう一度首を巡らせると、仰向けになった月がじっと天井を見つめていた。

「僕は‥‥死者の尊厳を踏みにじる気も、その無念を蔑にする気もないけど‥‥でも、やっぱり残された者が死者に対して出来る事は冥福を祈ることだけだと思うんだ」
「殺された過程を‥‥明らかにすることができます。何故殺されなければならなかったかも‥‥無念を、晴らす事が出来ます」
「そうだな‥‥」
「殺した犯人を捕まえ、法の裁きに服させる事だって‥‥」
「父さんや、お前がやってる事だな、L」
「‥‥‥‥」
「生きている者にしか、それは出来ない‥‥でも‥‥」
「死んだ者は、戻っては来ない」
「それは事実の一つでしかないよ、竜崎」

 のそりと肩を揺らし寝返りを打つ。横になった向きを変え、暗がりの中いまだ天井を見やる月の彫像のように整った横顔にじっと視線を凝らす。

「お前は‥‥何も感じないかい?」
「何をでしょう‥‥」
「感じないんだな‥‥いや、感じないようにと、訓練されたのか?それとも感じることから逃げだしたのか?感じる事が、怖かった?」
「何の、事でしょう‥‥」
「僕はね、竜崎‥‥」

 怖かったよ。
 綺麗な人はそう言ってゆっくりとこちらを見やった。

「怖くて、悲しくて、いっぱい泣いたよ。でも、気付いてしまったんだ」
「何を‥‥」

 そうして、今は色を失った綺麗な瞳を細めて微笑んだ。

「彼らは死者で、私達は生者‥‥」
「罪を暴いても、それは過去の再現にしかならないんだ、竜崎」

 夜具をそっとのけて伸ばされた手が竜崎の頭をよしよしと言うように撫でる。

「死者に未来は紡げない」

 お前はどうなんだい?
 そう語る微笑みに何も言い返せない自分を見出し、竜崎は無意識に爪を噛みしめていた。

「だからせめて、僕は思ったんだ‥‥せめて、生きて残った人にだけでも何かしてあげたいって‥‥」

 罪を暴く事は死者への供養であり、残された者の悲しみの清算だ。歪で、決して満たされない清算。
 だから、生きて残された、死者へと未練を残す人々にこそ、この手は差し伸べるべきなのだと子供は言う。

「死んだら其処でお終いなんだよ、竜崎」
「‥‥そうですね」
「生きていればこそ懺悔もできるし、後悔もできるし、遣り直すことが出来るんだ」

 本当に可哀想だけれど、死んでしまった者にはそれさえも出来ないんだ―――
 そう言って竜崎が寝入るまで髪を梳き頭を撫でてくれた人から、無垢な微笑みが絶える事は遂になかった。

 


 竜崎が目を覚ましたのはそろそろ日が昇ろうかという時間だった。
 目覚めて直ぐは頭が働かず、それでも、ソモソ手を動かし、鎖の先に確かに彼がいると確認する事だけは忘れなかった。
 白々と明けだした外の光を受けて、すやすやと眠る姿は年よりも幾分幼く見えて、彼はまだ未成年であり社会の荒波に揉まれた事など一度もない、幸福な人生を送って来た子供なのだと竜崎に思い知らしめる。
 苦労も不幸も何も知らない、ある意味生きる事の半分も理解していない幸せな子供。
 それが竜崎の出逢った、探偵Lが見つけ出した子供の真実。
 それなのに彼は気づいていると言う。たった齢18で。いや、もしかしたらもっと幼い時に。

 生きていればこそ――― 

「それを貴方が言うのですね、キラ‥‥」

 人間生きていればこそ、死んでしまえば何も出来ない。
 それが判っていながら犯罪者を殺し続けるキラに、いったい何が彼をそうさせたのかと、竜崎は初めてプロファイリング以外の興味で思いを巡らせた。
 考えではなく、思いを。

「生きていればこそ罪も償える‥‥あの父親の教育を受けた良い子の夜神月ならそう思っているのが当然です。けれど、無情にも頭が良く現実主義者にしかなれなかった夜神月には、再び犯罪に走る人間の弱さも見えていたはず‥‥」

 それでも夜神月には人間の良心を信じるだけの強さがあった‥‥‥
 そこまで思い至って、何故こうも月が自分の世話を焼くのか、夕べ執拗に頭を撫でられたのかを何となく理解した竜崎だった。

「私の興味の対象が、生きている人間の愚かさで悪かったですね」

 加害者であれ被害者であれ、死したものに憐れみの一つも感じる事の出来ない自分に彼は微笑んでくれた。

「だって、仕方ないじゃないですか‥‥向こうは死んでるんですから‥‥貴方の言う通り、死んだ人間にしてやれる事なんてないんです。残された人の未練を満足させるために依頼を解決するぐらいしか、私には出来ない‥‥それしか、能がないんですよ、私は‥‥」

 だって、引き籠りですから‥‥‥生きてる人間とは、死者もですが、関わりたくなんかないんです。

「生きてる人間がバカにしか見えなくなったとしても、私のせいじゃありません。だって、事実人間はバカなんですから」

 竜崎はそっと右手を伸ばし穏やかな眠りを満喫する幸せな子供の艶やかな髪にそっと指を絡ませた。その髪を梳くなんて芸当はとてもじゃないが出来ない。そんな優しさが自分の中に残っているとは、悲しいかな思う事が出来ない。昔は持っていたのかもしれないが、何時の間にか無くしてしまった。
 それを寂しいとも悲しいとも思わない自分もまた、バカな人間の一人だったようだ。

「思い出しました‥‥被害者にいちいち感情移入していたら身が持たないぞ、と言われたんですよ、確か‥‥」

 ずっと昔の話である。そして、それは真理だと思い同意したのは他ならぬ子供の頃の自分だ。言い訳するなら、子供に必要以上に人間の愚かな生態を見せた大人が悪い。

「どうやら、私は本気で貴方が欲しいようです、月君」

 人は愚かだという結論以外の何かに辿り着けなかったのを育った環境のせいにしていいだろうか。
 夜神総一郎のような大人に頭を撫でてもらえなかったのは大きな損失だったかもしれないと、そう思っても許されるだろうか。
 いや、もう許されているのだろう。
 あれほど彼より先に眠ることを警戒していた自分が、彼の手に守られて、彼の微笑みに見つめられて眠ってしまったのはそういう事なのだ。
 そして、間違いなくそれを望んだのは自分自身だと、竜崎は感じていた。

「探偵Lが探し出し潰さねばならないのは‥‥キラではなく、貴方をキラにしてしまった『何か』なのかもしれませんね」

 

 

 日は昇る。日は昇り続ける、何度でも
 夢を夜の向こうに残して現実を連れて来る。
 未来に続く現実も、悪夢と言う名の現実も―――

 

 

 

※元日記連載。実は続いてます。