L編
その日、昼をだいぶ過ぎた頃、グウグウと煩く鳴る自分の腹の音に集中力を乱された男は、何時もならあるランチの差し入れが今日に限ってなかった事に今更のように気付き、気付いたとたんその音が余計に気になりだし、暫し原因解決の手段が向こうから現れるのを待っていたが、一向に現れない現状に痺れを切らし座りっぱなしだった椅子から厭々立ち上がった。
「今日も暑いですねぇ」
廊下に出ると、案の定真夏の暑い空気が充満していた。と言うか、男の部屋の冷房が利きすぎているのだ。
カラリと湿気のない暑さは日陰で有ればそれなりに涼しい。にも変わらず暑いと感じるのは部屋と外の気温差が有りすぎるせいに他ならない。
男は今出て来たばかりの部屋の冷たい空気を未練たらしく思いながら階段を下りて奥のダイニングキッチンへと向かった。
「おや、貴方一人ですか?ニア。ロジャーは?」
そこには既に先客がいた。灰色に近い色褪せたプラチナブロンドにダークブラウンの目をした少年だ。歳は11、そろそろソバカスが出そうなお年頃の歳より小柄に見える少年だ。既に昼を過ぎていると言うのに未だパジャマのまま、白いダイニングテーブルに着き皿なしでライ麦パンにピーナッツバターを塗っている。
「ロジャーなら今日は病院です。忘れたんですか?L」
「‥‥あぁ、そう言えば、そうでしたね。ワイミーの見舞でしたっけ」
「帰りは夜になるそうです。ディナーは何時ものハウスキーパーが作りに来てくれます」
「そんな先の事より私はランチが食べたいです。ランチは?用意してないのですか?」
少し短い指につままれた銀色のバターナイフ。それが瓶とパンの間を行き来するたびテーブルにピーナッツバターがぽたぽた零れ落ちるのだが、ニアと呼ばれた少年もLと呼ばれた男も全く気にした様子はない。
「まさか、それがランチだなんて言うんじゃないでしょうね」
「他の物が食べたかったら自分で冷蔵庫を漁ってください」
「あるんですか?」
「ありますよ。ちゃんとロジャーが用意してってくれました。ただ‥‥」
「ただ?」
ニアはライ麦パン以外何もないテーブルの上を物欲しそうに眺めるだけのLを嫌そうに見上げ、顎で冷蔵庫を指示した。
「サラダボールからサラダを小分けするのがメンドイです。オレンジを剥くのも嫌です。トルティーヤの皮が乗った大皿は重いし、たくさんある具の中から私の好きな具を探し出すのも面倒です」
そう言ってニアは不均一な厚さでピーナッツバターの塗られたライ麦パンに齧りついた。
実を言うと、ライ麦パンはニアの好みではない。ただ単に最初に目についたのがライ麦パンだったと言うだけである。ニアの好みはオーソドックスにパンケーキである。それに蜂蜜とバターをたっぷりかけるのが好きである。しかし、あいにく冷蔵庫に作り置きのパンケーキは見当たらなかった。蜂蜜も切れていた。それで渋々取り出しやすい位置にあったピーナッツバターを手に取った次第である。
「つまり、今日のランチはトルティーヤなんですね」
「そうだと言ってるじゃないですか」
「私、あれ、嫌いなんですよ。野菜が多くて。しかも、辛いし」
「そんな事知りません。私が用意した訳ではありませんから」
お前の好みなど知った事ではない!とばかりにパンの耳を千切っては捨て千切っては捨て、を繰り返すニアは、白いテーブルの上をパン屑とピーナッツバターだらけにして遅いランチを終わらせた。
「シュガーバターはありませんか?」
「自分で探してください」
「蜂蜜は‥‥」
「あったら私が食べてます」
「ケーキは‥‥」
「それもあったら私が食べてます」
パジャマの袖口で口の周りを拭ったニアは、後片付けのあの字もせずにテーブルを離れ、冷蔵庫からドアポケットの一番取り出しやすい位置にあったオレンジジュースのパックを取り出し、そのドアを開けっ放しにしたままキッチンから出て行こうとした。
「ニア!メロは?メロはもう食べ終わったのですか?」
その背に向かってLが鬱蒼と声を掛ける。腹の虫は空腹に耐えきれず沈黙してしまったようだ。開け放されたままの冷蔵庫のドアを閉める事もせず、男はテーブルに出しっぱなしの、蓋も締めてないピーナッツバターの瓶に指を突っこんだ。
「メロならお隣です」
「隣?」
「SOBAをご馳走になるとかで、朝から張り切って出かけました」
「SOBA?そばって、何ですか?」
そんな事を2~3回繰り返した後で、やっぱり甘くないと顔を顰めるL。
「日本の薄汚い色をしたパスタのことです」
「ジャパニーズパスタ?‥‥何だってそんなものをメロが?」
「知りませんよ。それより、これ以上私に話しかけないでください。私は忙しいんです」
「またジグゾーパズルですか。今度は何ピース?よく飽きませんねぇ」
「5000ピースです。大作です!」
「幾ら大作でも、ただの真っ白パズルなんて‥‥」
「ちゃんとワンポイントあります」
「あぁ、Nの頭文字ね‥‥どれだけナルシーなんですか」
「貴方にだけは言われたくありません」
それっきり、ニアはジュースのパックを片手に自分の部屋へと行ってしまった。ペタペタという裸足で廊下を歩く音がLの耳に微かに届いていたが、直ぐに聞こえなくなってしまった。
「トルティーヤ、嫌いなんですが‥‥ピーナッツバターはもっと嫌いです。今日からそうなりました」
指には未だ舐め取れなかった――― と言うより美味しくないので最後まで舐めなかった――― Pバターが着いたままだ。Lはそれを着ていた白のロングTシャツの裾で拭きとると、開けっ放しの冷蔵庫を物色し始めた。
そうして口にしたのは苺ジャムと昨夜のローストチキンの残りである。
野菜だけを綺麗に選り分け指でつまんだキチンの切れ端をジャムの瓶にポトリと落とし、コネコネ捏ね回してジャムだらけにしてから徐に口へと運ぶ。その間も、やはり冷蔵庫は開けっ放しである。
「結構いけますね」
ごく普通の味覚の人間が目撃したら仰天物の食事風景である。
その後Lはリビングのテーブルに放りぱなしの――― ニアの仕業だろう。彼は残念ながら11歳にして片付けの出来ない子供なのだ――― 新聞を手に取ると、麻混のタペストリーが掛けられたソファに両足を上げて座った。丸まった背を背凭れに掛けるでもないその姿勢は、お世辞にもゆったりしたものとは言えない。それでもLにはそれが通常のスタイルである。
「‥‥特に面白い記事はありませんか‥‥使えませんねぇ」
Lは読んでいた新聞を畳みもせずテーブルに放り出すと、無意識のうちに自分の腹を撫ですさった。
「あ~‥‥未だ食べ足りません‥‥」
残り物のチキンでは朝食も食べてない腹には少なすぎたようだ。だが、先程漁った冷蔵庫には目ぼしい物はトルティーヤぐらいしかなかった。
「!そう言えば、庭のフィカスの樹が実を付けたとロジャーが言ってましたね。あれなら皮を剥かなくても食べられます」
良い事を思い付いたとばかりにソファから器用に飛び降りたLは、染みだらけ――― おもにチョコとクリーム――― のジーンズのポケットに両手を突っ込み背中を思いっきり丸く曲げて、やっぱり器用にスキップしながら真昼の太陽がギラギラ輝く庭へと出たのだった
「あ‥‥暑い‥‥!」
それは24時間エアコンの効いた部屋に籠り続けているLには堪える暑さだった。
「フィカス‥‥フィカスは何処ですか?私のフィカス‥‥」
キッチンの出入り口から庭へと出たLは自分が裸足だった事を恨めしく思いながらフィカス――― 無花果の樹を探した。キッチンのタイル張りの床は冷たくて気持ち良かったが、庭の芝生は太陽に照らされ中途半端に生ぬるい。しかもチクチクと痛い。
あぁ、欲張らないで部屋に戻れば良かった‥‥と後悔するものの、Lは既に庭の半分を横切っていた。こうなったら無花果を食べなければ割に合わない。
「フィカス‥‥私のフィカ‥‥ス?」
そんな、もしかしたら急性熱中症で倒れかねないLの視界に突然飛び込んで来たものがあった。
「?」
日にキラキラと輝く蜂蜜‥‥‥色した髪の毛。
「誰ですか?私の家の庭で何をやってるんですか?」
本人脅し半分で怒鳴ったつもりが、生来の物ぐさ故か人付き合いの悪さゆえか、その声は無意味に間延びしている上に口調は棒読みで迫力がなかった。俗に言うポーカーフェイスが地顔であり、沈着冷静が自慢の個性と自負していたから気を付けたつもりがこの体たらく。それでもLは全く気にする事無く相変わらず両手はポケットに突っこんだまま、裏庭に佇む子供の返事を待った。
そう、それは子供だった。恐らく朝早くに出かけたままのメロ――― この家に住んでいるもう一人の子供――― と似たような歳だろう。推定年齢12~14?その子供はLの声に驚いた、つまりは首を竦める事も、ビックリして思わず振り返る事もなく、今は使われていない百葉箱をじっと見つめている。
「聞こえませんでしたか?私は人の家で何をしているのかと聞いたのですよ」
今度は声に怒りの色を滲ませ再度そう言うと、子供は首だけ巡らせLを見たのだった。
「百葉箱を見てます」
「それは見れば判ります」
クルリと、Lの好きなプリンの上にトロリと掛かったカラメルみたいな色した瞳がLの周囲を見回す。真昼の光をキラキラ弾きながらLを見て、その裸足の足を見て、染みだらけのシャツを見て、それからまたクルリと周囲を見て百葉箱へと戻って行く。
その間、1分とかからなかっただろう。けれど、たったそれだけでLは自分が隅から隅まで値踏みされたような気がした。
チラリと見えた子供のボイルしたザリガニみたいに綺麗な朱の唇が一瞬笑みを作ったのが見えたから?
いやいや、つややかでソバカス一つ黒子一つない生まれたての赤ん坊のような、熟れた白桃のような頬がピクリとも動かなかったからなのか?――― 同じように形の良い眉もちっとも動かなかった。
二重のカラメル色したクリクリとした瞳同様、Lの事なんか気にもしないとその可愛らしい顔全部で言っているからなのか!
「蔦が絡んで役目を果たしてないのはわざとですか?それともただの物ぐさ?」
「今問題なのは百葉箱ではなく‥‥」
「誰の趣味ですか?メロじゃぁないですよね?彼は体育系だし。ニアは思いっきりインドア派だし。ロジャーさん?でも、メロによるとロジャーさんは科学とかには全く興味ないって話だった。趣味はベースボール?そうなると、今は入院中のワイミーさん?」
内心Lはギョッとした。
何故この食べちゃいたいくらい可愛らしい子供は我が家の家族構成を知っているのか。しかも、各々の大まかな特性まで。
「あぁ、そうですよね。きっとワイミーさんですよね。多趣味の人だってメロが言ってたし。発明家だったんですよね?だったら科学にも興味ありますよね。個人で百葉箱作るくらいしちゃいますよね」
「‥‥私が作ったとは思わないのですか?」
ね?ね?と、可愛らしく聞いておきながら、その声にはありありと肯定の色が見て取れた。そうに決まっている、いやいや、それしか有りえない。そう断言している。
事実はその通りなのだが‥‥‥
それでも、何だか面白くなくてLはムスリと問い質していた。
だって、それではまるっきりワイミー一人ポイント高ではないか!あの天然ジジィが!!あぁ、いけない。今はただの病人だった‥‥‥
そうして返って来たのは、更に事実を鋭く突く言葉の数々だった。
「え?だって、あり得ないでしょ。メロが言ってましたよ。Lは博識で何でも知ってるし頭もいいけど、キングオブ物ぐさだって。ニアの上行ってるって。自分で検証しないで他人に検証させて、結果だけちゃっかり利用する要領の良い大人だって。そんな貴方が大工仕事なんてする筈ないじゃないですか。そうでしょう?」
百葉箱に絡まった蔦を指で引っ張り格子の間から真っ暗な中を覗き込んでいた子供は、平然とそんな事を言うと、改めてLの驚きで更にまん丸になった目がやたらと目立つ自他ともに認めるポーカーフェイスに、そのカラメル色した瞳をヒタリと向けたのだった。
「‥‥私の名前‥‥」
「メロに聞きました。メロとニアの叔父さんですよね?L‥‥エルさん」
「メロに?」
「メロから聞いてません?僕、隣のギブソン家にホームステイしてるんです。先週から」
「‥‥ホームステイ‥‥」
「○○市と僕が住んでる日本の△△市は姉妹都市なんです。それで、その交流行事の一環として、12歳から14歳までの中学生を対象とした交換ホームステイを行ってるんです。夏休みに△△市から○○市に、冬休みはその逆で」
「い、何時から‥‥」
「もう3年前からです。それで、今年はこの町と僕の町が選ばれて、僕はここに来たって訳です。ギブソン家の三男のケリーと僕は同学年。メロは一つ下。メロにはケリー同様仲良くさせて貰ってます。良い子ですよね、メロって。明るくって元気で」
初耳だった。
いや、姉妹都市の話は知っていたし、交流行事を時々やっているのも知っていた。勿論ホームステイの話も。△△市は日本でも北の方にあり雪が降るという事から、雪とは全く無縁の○○市の子供達に雪を堪能させるため、○○市からは冬に子供達を送り出しているという事も。
知ってはいた。
知ってはいたが、それが今この時真っ最中で、自分が住んでいるこの田舎町が今年は選ばれて、しかも自分の家の隣のギブソン家がホストに名乗りを上げていただなんて!全くちっとも!!指の先程も知らなかった!!!
あの子沢山で年中『倹約倹約!』口煩いギブソンの奥さんが、ボランティアでホストをやるだなんて!そんな事、器用に思いつくかぁっ!!
「あぁ、一応僕の食費等については○○市から助成金が出てます」
Lの考える事などお見通しだとばかりにサラリと疑問の一端に応えてくれた子供は、やっぱり可愛らしい顔をしている。顔だけ、かもしれないが‥‥‥
「そう言う訳でワイミー家の事情は少し知ってます。メロが面白可笑しく話してくれましたから」
面白おかしくとは何だ!?いったい何と紹介したんだ?メロは!!
ポーカーフェイスの下で青くなったり赤くなったりしているLを他所に、日本からの交換留学生だという子供は――― 子供の話によれば中学生で、メロより一つ上の14歳と言う事か――― 百葉箱の傍を離れ、Lの最初の目的である実がたわわに実った無花果の樹の方へと歩き去ってしまった。
「美味しそうですね」
「‥‥‥‥」
Lの脳は未だ回転していない。
「これ、取りに来たんでしょ?お腹が減って」
「!」
百葉箱から影が届かないほど離れた場所に上手く植えられた無花果の樹。植えたのは誰だったか‥‥
「ワイミーさんが物ぐさなLの為に植えたって聞きましたけど。先見の明がありましたね。皮剥くの面倒なんでしょ?」
「よ、余計なお世話です!」
「はい」
「!」
気が付くと、目の前に美味しそうな無花果の実があった。子供の、どう見ても苦労知らずの細くて滑らかな指にやんわりと包まれて、不器用なLでも簡単に食す事の出来るツブツブ甘くて美味し無花果が!
これが柘榴だったらエロ一直線!?
「柘榴は手で剥けないから好みじゃないんでしょ?」
またしても考えている事を云い当てられLは再びギョッとなった。勿論、顔には出ていない。
いないが、目の前の子供には全てを見透かされているような気がして仕方がない。そんな焦りからか、Lは思わず知らず裸足の両足を芝生の上でスリスリ擦り合わせていた。
何時もはお気に入りのアンティークの椅子の上で両の膝を両手で抱え足の親指同士を擦り合わせるのだが、今は甲を踏んだり踏み損なってガクリとバランスを崩したり実に滑稽な事この上ない。そんな奇行に気付いていない本人が一番滑稽だったりするのは世間一般常識だろう。
「食べないんですか?」
「た、食べます!」
あぁ、どうして『NO』と言えなかったのか。
そりゃぁ男なら誰だってそうだろう。こんな可愛い子から食べ物を貰ったら、それに毒が入っていると判っていても食べてしまうだろう。
あれ?‥‥女の子、ですよね?
そこで初めてLはシゲシゲとその子供の全身を眺めたのだった。顔だけではなく全身を。決していやらしい意味ではなく。取り敢えず自己弁護。
内心何かに引っ掛かりながらも手にした無花果を不器用に割って――― 右と左均等に割れず、右に大きく偏ってしまった――― 目だけは子供の上に留めながら爛れた肉色した無花果の果肉に齧りつく。
子供はメロより背が低い。ついでに細い。ついでのついででメロより幼く見える。下手をすればニアより。東洋人が西洋人より若く見えるというのは常識だが、それが十代前半でも当てはまるとは知らなかった。
子供はマリンブルーのランニングにシアン色のパーカーを羽織り――― その背には『THE ANGEL’S TEMPTATION』とある――― 裾の広がった白の短パンからカモシカのような足をスラリと覗かせ、ピンクに小花模様のスニーカーを素足で履いている。瞳同様カラメル色した頭の上にチョコンと乗っているピンクのハートのサングラスは子供の趣味ではなく、おそらくギブソン家の長女の趣味だろう。彼女の部屋はピンクとハートで埋まっているという話を聞いた事がある。同じ部屋にいる次女が何時も文句を言っていると、メロが何時だったか言っていた。
それから子供は――― 人形のように綺麗で可愛らしい顔をしている。個々のパーツ一つ一つが実に完璧だ。そして子供らしい柔和な輪郭の中に完璧に配置されている。後三年もすれば男が放っておかないだろう。色彩が多少日本人ぽくなくいのも、語学が堪能なのもプラスになりこそすれマイナスになる事はない。
胸は‥‥胸はない。残念ながら。だが、14歳ならまだまだこれからだ。期待は多いに出来る。
いや、しかし、もし男の子だったら?
ふと視線を下に、子供の臍辺りまで下ろした所で、子供がクルリと横を向いた。
「あの風見鶏、『ニルスの不思議な旅』ですよね」
「はい?」
そんなLのちょっとスケベが入った行動など気にした風もなく、むしろ、そんなLの小心男のささやかな夢を蹴飛ばす勢いで、子供は屋根の天辺に取り付けられた風見鶏を指さしてくれた。
「ハァ、そうですね」
「あれもワイミーさんの趣味ですか?」
「そうなりますね。この家は元々ワイミーの物ですから」
「普通は鶏ですよね?」
「魔除けという意味でならそうですが、他の形がない訳ではありません」
「でも、アヒルだけならまだしもニルスまで乗っかってるなんて‥‥ワイミーさんって、可愛い?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
暫しLは意識を失った。いやいや、思考がクルクル空回りした。
あの、あのジジィが可愛い?年の功でLをも上回る嫌味なジジィが『カワイイ』!!
Oh!JAPANEAS!!KAWAII!!!
「流石にワイルドグース家の風見鶏もニルス付きアヒルにしちゃったら即ばれちゃうか」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はいぃ?」
「かといって在り来たりの鶏にしたんじゃ面白くないからガンにした。そうなんでしょ?人気ミステリー作家、Mr.WILDGOOSEさん?」
空回りしていた思考がその瞬間ピキンと凍りついた。
「ワイルドグース家の庭にはクモの巣だらけの百葉箱がある。彼が子供の頃父親が作ってくれた物だ。それを使って観察日記をつけたのはもはや遠い思い出である‥‥‥貴方も観察日記つけました?つけてませんよね?好奇心の塊のような人だって話だから、一度ぐらいは中を開けて見たでしょうけど、観察日記まではつけてませんよね。そんな根気のいる事、出来ませんよね」
やはり肯定系なのは何故だろう。
「その百葉箱から少し離れた場所には柘榴の樹が植わっている。これは最初の子供である彼が生まれた記念に母が植えた物だ。子供が沢山欲しくて植えたらしい。だが、柘榴は実が生るまで十年はかかる。そのせいか母は次の子を宿す事無くこの世を去ってしまった‥‥‥柘榴も無花果も子宝に恵まれる果実ですよね。それ読んだ時、柘榴は日本じゃ馴染みがないから珍しかったな」
そうですか‥‥柘榴は日本では珍しいのですか。
「食用だとね。観賞用ではあるらしいです」
あぁっ!また思考を読まれてしまいました!!
「屋根の上の風見鳥も父が取り付けた。知り合いの鍛冶屋に頼んで特注で作って貰った物だ。家名にちなんで鶏ではなくガンを模った父自慢の一品である‥‥‥自分のペンネームと同じ名前の人物を作中に登場させるのって、どんな気分ですか?ワイルドグースさん」
ってか、暗記してるのか!?
「‥‥どうして、それを‥‥」
漸く声が出た時、食べ残した無花果の皮はLの足元に落ちていた。
「メロが言ってました。叔父のLは引き籠りだって。頭が良すぎて自分以外の人間が全部バカに見えて付き合ってられない。だから家に引き籠ってしまった。ご近所には十ヶ国語話せるから翻訳の仕事をしてるって言ってあるけど、本当は作家なんだって」
「メロ‥‥帰って来たらお仕置きです」
「それはダメ」
「何故です?私にチクッたのが自分だとばれるからですか?」
「違う違う。だって、この庭見たらファンならピンときちゃうもん。貴方の自業自得。メロに落ち度はありません」
「‥‥‥‥‥はい?」
「だからね、僕、貴方のファンなんです、ワイルドグースさん」
花が開くようにニッコリ笑った子供はLが今まで見て来たどんな子供よりも可愛らしかった。
「貴方‥‥」
「ワイルドグースさんの本は全部読みました。日本で発行されてない本は取り寄せました。公式ファンサイトに寄稿された短編も読みました。学生時代に書いたって言う同人誌もオークションに出てたので落札しました。確か目玉は某女性作家のエッセイでしたけど、僕には貴方の短編の方が重要でした」
「あれは‥‥ペンネームが違う筈ですが‥‥」
「作品傾向と文体に共通点があったのできっとそうだろうと思って」
「サンプルはたった1ページでしょ?それだけで判ったと?」
「決め手は主人公の彼女の名前です。貴方の処女作の第一被害者と同じ名前でした」
「それだけで‥‥」
「エメラルダ・モレノをエスメラルダ・モレノに直したのは完璧を求めてですか?」
その通りだ。
スパニッシュ系でモレノ、緑の目が印象的なゴージャス美人だったので名前は『Emeralda』にした。だが、学生時代はうっかり英語表記にしてしまい、プロとしてデヴューする時それが頭の片隅に引っ掛かっていたのか、スペイン語の『Esmeralda』に直し第一被害者の名とした。
「貴方、正真正銘、私のファンですね?」
「だからそう言ってるじゃありませんか」
子供はまた笑った。今度はキラキラ光を弾いて。
「私がプロになったのは5年前です。その頃貴方は‥‥」
「8歳です」
「8歳?9歳では?」
「未だ誕生日が来てません」
「そんな頃から私の本を‥‥」
「ミステリーファンなんです。スタートは当然ながらホームズシリーズでした」
王道である。ひねくれ者で変人を自負するLも実はその口なのは秘密だ。
「だから、ちょっとファンなら直ぐに判っちゃう事だから、メロはちっとも悪くないんです。お仕置きしちゃダメですよ」
いやいやいや、ファンだからと言って誰もが判る訳ではないはずだ。きっと、たぶん‥‥‥
「プロフィールを一切公開してない人気作家で売ってますけど、ちょっと危ないかもしれませんね」
だって、僕が気付いちゃいましたから。きっと他の人も気付きますよ。この町に貴方のファンはいないんですか?
いやいやいやいや、ご近所さんはLを作家だと知らないのだから大丈夫だ!きっと、たぶん、おそらく‥‥‥
「い、田舎町なので殺伐として物騒なミステリー小説は受けが悪いのですよ」
「貴方の作品の幾つかには猟奇殺人犯が出てきますもんね」
「それはインパクトを重視したからで、私の本領は‥‥」
「謎解きでしょ?」
「‥‥判っていればいいんです」
ちょっぴり嬉しい。内心小躍り。
「インパクト重視は本を売るためですか?」
「食いぶちが多いですからね」
ちょっと溜息。内心ニヒルに溜息。
「え?でも、メロとニアのご両親はそこそこ財産を残したって聞いてますけど」
「そ、そこまでメロは‥‥あれは信託です。二人が18になるまでビタ一文受け取れません」
「ロジャーさんだって警察署長としてバリバリ働いてるって‥‥」
カラメル色の瞳が探るように、もしくは見透かすようにLを見つめる。
ちょっとドッキリ。内心ドキドキ。
「‥‥私が贅沢したいだけです!悪かったですね」
「貴方の人気シリーズ『謎の名探偵M』も贅沢三昧してますもんね。食べる物から着る物まで。住んでるのは高級ホテルだし」
LをMに替えただけって、芸がないですね―――
そう言われ、ニッコリ微笑まれ、何故だかショックで目の前が暗くなり思わず前によろめいたLは、落とした無花果の皮をお約束のように踏んでしまい、ズルリと滑って顔から芝生に倒れこんでしまった。
「あ‥‥‥」
上から降って来たのは子供の、初めての驚きの声。
「平面カエル‥‥」
それからポツリと呟かれた謎の言葉、ヘイメンガエル。
それはいったい何ぞや????
「ウ、プ‥‥」
い、いかん!これはもしや‥‥!
子供に笑われてなるものか!そんなの男の股間‥‥いやいや、沽券に関わる!!
すわ一大事!とばかりに立ち上がろうとしたLだったが、長年の癖で凝り固まってしまった猫背がその衝撃に耐えられなかったようだ。次の瞬間、信じられないほど大きな音がLの腰回りを中心に発生した。
「○◆×▼△●∀※○≠!!!!!」
発生すると同じに、かの恐ろしき妖女ゴーゴンに睨まれた男のように、カチンコチンに固まってしまったLの腰。声も出ない痛さに見舞われ一瞬Lの意識がブラックアウトする。
それはいわゆる、ぎっくり腰と言うもの‥‥‥L、20代前半にして情けなくも「ぎっくり腰」となる。ある意味「引き籠りの優雅で自堕落な生活」の立派な代償である。
代償のおまけは子供の爆笑。
天に代わって言っておこう、子供に罪はない。
絶対罪はない。
全てはLの自業自得である。
その後の事はLにとっては思い出したくもない出来事の連続だった。
子供の笑い声に隣のギブソン家から飛び出して来た長男と長女が二人を発見し、四つん這いの恰好で固まってしまったLを見るや、彼らもまた遠慮なく笑い転げた。
その騒ぎが騒ぎを呼び、反対の隣家からも子供が出て来るわ、向かいの犬が吠えだすは、自転車で通りかかった子供がわざわざ自転車を引っ張って見に来るわ‥‥‥カラメル色の一番可愛いその子供(痛みに意識が朦朧としつつも、そんな品定めをしていたバカなL)が呼んでくれた救急車で病院へ運ばれるまで、Lはずっとご近所の子供達のいい笑いものだった。
担架に乗せられ運ばれる間、周囲を取り巻き笑いさざめくガキどもへの怒りを何時ものポーカーフェイスに隠しLは耐えた。ひたすら耐えるしかなかった。Lに出来た事は、こんな騒動になったにもかかわらず、窓から覗きもしなければ家から出ても来ないニアへの『お仕置き』を考える事だけだった。
それを人は『八つ当たり』と呼ぶのだが、ある意味恥を知らないLには正当な復讐だった。
しかし、運ばれた先でもLは『羞恥プレイ』に耐えねばならなかった。
『あれがワイミー家の引き籠り叔父さんか』
『ゾンビみたいな顔してるって話だったけど、結構まともね』
『あれ、吸血鬼じゃなかったのか?』
『甘い物の食べ過ぎで一人で歩けないし、部屋のドアも通れないって聞いたわよ、私』
医者や看護婦のみならず、居合わせた町の住民達の、ちっとも声を潜めてない噂話がLに追い打ちを掛けたのだ。
図らずも自分が御近所に何と思われているか知ってしまったL。
だからと言って、長年の習性、生活習慣が治るものでもない。それは本人も良く判っていたし、直す気もなかった。きっと同居人達も判っているだろう。
それからあの子供も。
きっと、たぶん、おそらく‥‥‥絶対。
その夜、仕事の終わったロジャーに迎えに来て貰い家に帰ったLは、自分の部屋から見えるのがギブソン家ではなく、反対側の隣家だと知って何故かガックリ気落ちしてしまった。
そして、ギブソン家と隣り合ったキッチンに何時までも居座ろうとしてメロとニアに胡散臭がられ、動けない体でキッチンの窓に張り付こうとする奇行っぷりから、現在ワイミー家の家長であるロジャー――― この町の警察署長にして45歳独身、男やもめ――― にドン引きされた。
恥の上塗りである。だが、幸いにも本人、全く気にしていない。ただ、気付いてないだけとも言うが。
そして、その夜Lは夢を見た。
またもやお約束通りあの子供の夢。
子供はディズニーアニメのアリスの恰好をしていた。とても似合っていて心が癒された。しかし、何故か子供は、Lの今まで出した本で作られた玉座にチョコンと座っていた。そしてLはと言えば、魔法使いのワイミーによってカエルにされ子供の前に額づいていた。
『インパクトがなくっちゃ』
子供はそう言って更にニッコリと笑った。
『次の小説、僕を主人公にしなよ』
カエルのLは一も二もなく頷きゲコゲコ喉を鳴らした。
『ただし、僕の役は人類史上類を見ない大量殺人鬼だよ』
子供の声は実に無邪気で、微笑みは身震いするほど妖艶だった。
『それが出来たら、魔法を解いてあげる』
魔法を解く方法は、Lが子供の足にキスする事だった。
目を覚ました瞬間は、何が起きたのか判らなかった。
痛む腰を庇って横になって寝ていたLは、まだ夜が明けていない事に気付いて明かりを点けようとしたが叶わず、仕方なくもう一度寝ようと目を閉じた。
そして気付いた。
「う、そ‥‥‥‥‥‥」
それはすっかり忘れていた感触だった。
股間が何やらおかしい。
一瞬『おねしょ』かと思ったが、そんな感じではない。
「‥‥‥まさ、か‥‥‥‥‥?」
あぁ、これは十年一昔に何度か味わった愚劣極まりない自然現象。男なら当然のとある過程。
しかし、しかしである!
これは知性を誇りとし、肉欲を侮蔑しているLには恥以外の何ものでもない!
WET DREAM――― 夢精。
「ハッ!‥‥い、いけません。朝までに着替えないと‥‥」
やけに粘り気のある股間の感触。気持が悪い事この上ないが、気付けば体には何とも言えない心地良さが残っている。だが、その余韻に浸っている暇はない。朝になればメロが起こしに来るのだ。しかも、Lの着替えを手伝う予定になっている。ジーンズを脱ぎ、シャツ一枚パンツ一丁の今のLの恰好では、この醜態は隠しようがない。
あの子生意気で悪戯好きなメロの事だ、この事はニアにもロジャーにも言うに決まっている。ロジャーはまだしも小憎たらしいニアに知られたら、向こう一カ月はこれで嫌味を言われ続けるだろう。そんな事、我慢できる筈がない!
「うほっ!?」
しかし、ぎっくり腰のLに着替えなど無理な話だった。起き上がろうとして出来ず、更に腰を痛めLは白目を剥いてベッドに寝転んだ。そのまま再び夢の住人となる。
夢の続きはやっぱりあの子供だった。
今度はトランプの女王の恰好をしていた。
『さぁ、私の足をお舐め!』
そう言われてもLは動けず、意気地無しが!と高らかに笑われながら、カエルと化した眉間をハイヒールでグリグリされた。
日が昇り、Lの醜態を知ったメロが大笑いしながら部屋から駈け出して行くのを、案の定Lは止める事ができなかった。
メロやニアの悪口をブツブツ呟きながら、結局は着替えなしの恰好で、ベッドにひっくり返って『お仕置き』という名の復讐を考える。
けれど、思考はそこへ向かう事はなかった。
Lの思考は、何故かあの子供に向かっていた。
可愛い顔、可愛い声、可愛い手足、そして、Lを喜ばせるためにあるかのような可愛くてクルクルと良く回る脳味噌。
何故か脳味噌。きっと自分と同じプリン色の脳味噌をしているに違いない。
灰色の脳味噌はもう卒業です!
そんな結論に達した瞬間、Lは気付いた。
「私‥‥あの子供の名前を聞いてませんっ!」
何と言う失態!
それはたった今Lを襲った醜態以上にLをドツボに落ち込ませる失態だった。
後日、Lはメロにあの子供を紹介してくれるよう頼む事になるのだが、その時、人の悪い笑顔を浮かべるだろうメロを説き伏せられるかどうかはLの根性次第だろう。
Lがお隣に問い合わせられないのは、お約束。
Lの夏の恋は、海よりも高く山よりも高いプライドにピシリと罅が入った瞬間に始まった。
※「Ficusー無花果」の発音が「ファイカス」か「フィクス」か判らなかったので
取り敢えず「フィカス」にしました
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