照誕2009


人間それなりに生きていると、思いもかけない災難にあう事がある。
そして、思いもかけない事で救われる事もある。


魅上照は気真面目な男である。気真面目どころかはっきり言って固い、固すぎる。
まるでハンで押したような生活が好きである。
清廉潔白、理路整然と言う言葉が好きだし、その実践もまた大好きである。
若い頃は(と言ってもほんの数年前の事だ)それを他人にも求めた。
この理念は正しいのだから実践は人として当然の事だと信じていたからだ。
しかし、自分以外でそれを実践できる人間はごく僅か、むしろ皆無に近いと気付いてからは、
他人にそれを求める事を止めた。期待する事自体無意味だと知った。
それほど世の中は堕落した人間が多いのだと理解した。
人間として正しい道を歩んでいる者は地味で地道に生きているものなのだと、そう悟った。
悟ってからはあれほど軋轢の多かった人間関係がスムーズに行くようになった。
期待する事を止めれば堕落した人間の行動に口出しする必要がなくなる。
口出ししなければ向こうで勝手に「魅上が丸くなった」と勘違いしてくれた。
それ以降、友人達の間で魅上照は真面目で堅物だが有能で、
人当たりの良い男と認識されるようになった。
それは念願の検事となってからも変わらず、コツコツ仕事をこなし、
時には鋭い才能を見せつける事で着実に周囲の信頼を勝ち取り、
多少妬みやっかみ(そんな思いを抱く人間を彼は認めない)を買いつつも、
トントン拍子で出世していった。
人として守って当然の法律さえ守れない犯罪者など、
一人残らずこの私が裁いてくれる!
その思いだけを胸に、彼女いない歴26年驀進中、猫まっしぐら!
そんな彼の心の拠り所は‥‥‥‥
そう、云わずと知れた「キラ」である。

 

 

さて、そんな魅上照は毎日真面目に己の仕事をこなしていた。
京都地検の検事として愚かな犯罪者達に情け容赦なく裁きを下していた。
裁きとは言っても日本の法律に則った、彼としては甚だ不本意な裁きでしかないが。
彼は仕事がら犯罪者の再犯率が決して低くない事をよく知っている。
どんなに犯罪者を刑務所に送っても彼らはたった数年で釈放され再び犯罪を犯す。
その事実が彼の思想を更に過激にした。
日本の更生カリキュラムは甘い。
やはり「キラ」でなければ真に犯罪をなくすことは出来ない、と。
彼の中で犯罪者とは堕落した人間でありこれ以上生きる価値のない人間に成り果てた。
そんな彼が、キラを神とまで崇めるのは当然のことだった。
魅上照は典型的なキラ狂信者だった。
そんな彼が「さくらTV」のキラフリーク番組「キラ王国」のファンだと言うのは秘密である。
より多くの犯罪者を裁くためには今の地位を失う訳にはいかない。
むしろどんどん出世しなければならない。
そのためには本音を偽る様で嫌だが、上司にキラ信者だと知られるのは聊か拙かった。
だから彼は上手に中立の立場を取り続けた。
キラ様の思想を肯定も否定もしないと同時に現法律の欠点を指摘する事で、
犯罪を許さない検事の姿勢を強調したのだ。
だから職場の人間達は彼が熱狂的なキラ信者だとは思いもしなかった。
そんな慎重な魅上照であったが、彼はある時一念発起した。
そう、「キラ王国」の観覧希望の申し込みに応募したのだ。
下手をすればカメラに顔が映ってしまう。
それを同僚や上司に見られてしまうかもしれない。
そのリスクがあったとしても、
彼は自分と同じようにキラ様に賛同する者達と接触したいと思った。
何より!「キラ王国」はキラ様公認番組なのだ。
キラ様は数多あるキラ賛同番組の中でここにだけメッセージを送っている。
時には討論参加者や観覧者達の質問に答える事もある。
もしかしたら自分の姿もキラ様の目に留まり、
そして自分の質問にキラ様から返事が来るかもしれない!
そう思ったら居ても立ってもいられなくてネット応募していた。
ついでにアンケートにも大真面目に答えた。
そして、何度目かの申し込みでついに彼は当選した!
マンションの集合ポストに当選葉書が届いていると知った時は思わず大声を上げてしまった。
加えて、両手で葉書を押し頂き両膝ついて天の神様、いやいやキラ様に感謝の祈りを捧げた。
たまたま来合わせた下の階の親子に怯えられてしまったが、そんな事は些細な事でしかない。
次の日、彼は初めての有給休暇願いを上司に提出していた。
神に会いに行く!
それは今までの人生(はっきり言って中学高校の修学旅行は最低だった)で、
最高の!旅行となった。
なるはずだった―――


2日間の有休を取るため必死に仕事を片付けた魅上照は、
休みの第1日目、大いなる希望を胸に抱き意気揚々と京都駅から新幹線に乗った。
そして、昼前には東京駅に着き、
仕事で何度か利用した事のあるホテルにチェックインするなり、
キラと関わりの深いヨツバビル(今は所有者が違う)を見学に行き、
ついでに「太陽TV」も覗いて東京の有名繁華街をぶらついた。
そこを行き交う人々の他人への無関心ぶりや公共道徳のなさを嘆きつつ、
一旦ホテルに戻って一っ風呂浴び、新品の濃紺のスーツに着替えた。
もちろん下着も靴下も靴も新品だ。
直接キラ様に会える訳ではないけれどキラ様の目に留まるかもしれないと思うと、
それぐらいするのは当然!と信じて疑わない、魅上照は立派なキラ信者だ。
そして、再び大いなる希望を胸に抱き意気揚々とホテルを出た彼は一路「さくらTV」を目指した。
「キラ王国」は夜の10時から始まる生番組だ。
従って観覧者は9時までにスタジオにお入りください。と届いた葉書には書かれていた。
しかし、魅上照は興奮で気が急いていた。一時間でも一分でも早く神に会いたかった。
いやいや、直接会える訳では当然ないのだが、気持ちはそうだったのだ。
だから、彼はとても早くにホテルを出てしまった。
急いで予約した行きつけのホテルが「さくらTV」から遠かったせいもある。
昼も食べずに歩き回っていたのでそれなりに腹が減り、
何処かで夕食を摂ってからTV局入りするのも悪くない、と思ったせいもある。
駅の構内でついつい匂いにつられ蕎麦屋に飛びこみそうになり、
あっ!東京の汁は濃くて飲めたたもんじゃなかった!と思い直し隣の丼屋に変える。
そこで親子丼を掻き込み駅のホームへと走った。
電車を1本見送って次の電車に乗り込めば、恐怖の帰宅ラッシュ電車だった。


電車に乗った時はまだ多少余裕があったと思う。
しかし、次の駅でいきなりその余裕はなくなった。満員120%状態だ。
しまったぁ~!タクシーにすれば良かった~!と思った時は既に遅かった。
仕方なく目的の駅までそのまま行くことにした。
そんな決断を下した彼を誰が非難出来ようか。
彼は母子家庭ながら中の中な生活を送り、
普通に庶民派でタクシーは高い、と言う意識を持っていたのだ。
加えて、精神的にはかなり潔癖症であったが、幸いな事に肉体的にはそれ程でもなかった。
むしろ汚れものにも平気で触れる図太い神経を持っていた。
それもそうだろう。
そうでなければゴミ拾いのボランティアも老人ホームの慰問も出来ないからだ。
自慢じゃないが、弁護士資格だけでなくヘルパー二級の免許だって持っている。
それでなくても毎週アスレチックジムに通っているのだ。
そこで誰が使ったか判らない他人の汗の付いた器具に寝そべっている訳だから、
魅上照が良くある肉体的潔癖症である訳がなかった。
従って人いきれや他人との密着も平気だった。
しかし、今回はそれが裏目に出た。


ギュウギュウ詰めの電車の中、彼は酷い混雑に耐えた。
右も左も前も後ろも、360度人、人、人。
1mmとて隙間のない空間で彼は何駅かを耐え抜いた。
そして目的の駅に着き、他の客と芋の子洗いのように電車を降りたのだった。
ホームに降りるや直ぐ近くのKIOSK脇でスーツの皺を伸ばす。
几帳面な魅上らしい。
しかし、その数秒が魅上照の命取りだった。


ホッと一息ついて、さぁ、改札口に向かおうとした矢先、

「ちょっと!待ちなさいよ!」

いきなり甲高い声に呼び止められた。
呼び止められただけでなく物理的にも進行を妨げられてしまった。

「突然何なんだ?君達は」

それは3人の女子高生だった。
黒髪にノーメイク、真面目に学生鞄を持っている所を見る限り進学校の生徒のようだ。

「何?あんた、とぼける気!?」

それでも口調は今時の女子高生である。

「やだっ!やっぱりそうなの!?こいつ、痴漢!?」
「そうよ!」
「ち、痴漢っ!?」
「駅員さ~ん!痴漢で~す!痴漢がいます~~~!」
「お、おいっ!?」

そして、呼び止められた理由を聞こうとした矢先、
女子高生の口からとんでもない単語が飛び出した。
人でごった返す駅のホーム。
痴漢だ痴漢だと騒ぐ女子高生と、私は何もしていないと反論する背広姿の若い男。
他人事とばかりに無遠慮な視線を送るだけで、
何もしようとしない通りすがりの通勤者、野次馬。
良くある風景ではあったが、ある意味嘆かわしい現代風景でもある。
そうこうする内この騒音の中騒ぎを聞きつけた駅員が駆けつけ、

「私は痴漢なんかしていない!」

と抵抗する魅上を事務室へと連れて行った。
連れて行かれながら漸くこの状況に対する正しい判断がつき始めた魅上照。
そう、彼は今、痴漢の濡れ衣を着せられようとしているのだった。

 

 

痴漢――― それは恥ずべき行為である。
男としても人間としてもやってはいけない行為であり、厳重処分は当然である。
魅上も検事として何件か痴漢事件を担当した事がある。
そのいずれも己れの為した犯罪行為を否定する犯人ばかりだった。
どうしてこんな事で自分が裁かれなければならないのか、事件にする事自体間違っている!
そう思っている事がありありと判る顔付だった。
しょせん男に女の気持ちは判らないのである。
当然ながら正義の人である魅上は痴漢行為を軽蔑していた。
そんな卑劣極まりない犯罪を犯す人間を屑呼ばわりしていた。心の内で。
しかし、まさか今自分が、その屑である痴漢に間違われようとは!
こ、これが巷で噂に聞く「濡れ衣」と言うやつなのか!?
駅の事務室に連行された彼は、
微妙にいつもの冷静さを欠いた精神でそんな事を考えながら、
ただただ泣きじゃくる被害者とそんな友人を慰める女子高生二人の、
獣を見るような視線と罵詈雑言、
事務室に居合わせた職員達の白い視線に耐え続けた。

「誤解だ。私は痴漢などしていない!」
「しらばっくれないでよ!あたし見たんだから!
 あんたのその髪、小泉もどき!それにスーツ!!」
「も、もどき?‥‥!た、たまたま同じ髪型の人間がいただけだろ!」
「スーツに長髪なんてのが、そうそういるわけないじゃん!」

痴漢は被害者の背後に立っていたらしい。
友人の一人は被害者の直ぐ前にいたが、
生憎被害者と同じ方を向いていたので犯人を見ていない。
もう一人の友人は間に三人の母子連れを挟み、友人二人の方を向いていた。
そして彼女は比較的背が高かった。その友人が言うのである。
犯人は俯いていたので顔までは見えなかったが、
確かに長髪で濃紺地に銀の細いストライプの入ったスーツを着ていたと。
小柄な友人より頭半分は高そうだったから、
身長は170~180、175前後ではないかと思う。
最初は気付かなかった。
そのうち、男の前髪が妙に友人の頭に掛かっていて何だか嫌な感じを覚えた。
普通いくら混んでいても見ず知らずの人間に顔を近づける人間はいない。
ある特定の輩を除いては。
そこでハッと気付き友人の様子を伺えばその友人もずっと俯いたままだった。
その様子がまるで何かに耐えているかのようで、それで確信したのだと言う。
後ろの男は「痴漢」に違いない、と。彼女は実に冷静にそう説明した。
「痴漢」なら絶対捕まえなくては!!そう思った矢先電車は駅に着いた。
彼女は逃がしてなるものか!と、必死に目でその長髪スーツ男を追った。
残念ながら顔は見えなかった。
そして、電車を降りる所も確実に視認できなかった。
だが、男は降りようとする客の流れに沿って隣の自動ドアの方へ向かった。
それは確かだ。
中央付近にいて乗り越すつもりならそんな事をする必要はない。
つまり男もこの駅で降りるつもりなのだ。
降りて直ぐに友人を見れば彼女は目に涙を溜めていた。思った通り「痴漢」だ。
そう確信するや周囲を見渡した直後に発見したのが魅上だった訳である。
その間、2分と経っていなかった。
魅上が女子高生に声を掛けられた直後に電車が発車したのだから間違いない。
もう一人の友人も涙目の友人と急に走り出した友人の様子に何事が起きたのか察し、
被害に会った友人を庇いながら駆け付け駅員を呼んだ。
そうして駅員によって事務室へと連行された魅上は、
甲高い声で怒鳴る女子高生達から一方的に断罪される事となったのだった。

「ち、違う!私は痴漢行為などしていない!それは私ではない別の男だ!!」

彼女の証言は流石進学校の生徒らしく筋道が通っていた。
しかも、顔は見ていないが、と前置きしたのが返って信憑性を増した。
やって来た鉄道警察の婦警もその場に居合わせた職員も、
彼女が嘘を付いているとは思えなかった。
また、嘘を吐く必要も感じられなかった。
被害にあった女子高生は事務室に着いた途端気が緩んだのか立っていられなくなり、
すすめられた椅子に坐るやワッと泣き出した。
この場にいる者全員の白い目が魅上一人に集中する。

「では聞きますが、貴方が降りた車両は何号車でしたか?」
「そんなの覚えてる訳ないだろっ!」
「ホームに降りた場所に何か目印になるような物はありませんでしたか?」
「キ、KIOSKだ!KIOSKがあった!
 その角でちょっと休んでたら彼女達が‥‥!」
「あたし達が降りた車両もKIOSKの前だった!ほら、同じ車両じゃない!」
「くっ‥‥」

女子高生の証言は検事の魅上照としても十分納得のできる証言である。
だが、一人の男、濡れ衣を着せられた人間としては絶対認められない証言だった。

「違う!私は何もしていない!濡れ衣だ!!」

だから当然魅上は否定した。
しかし、否定すれば否定するだけ逆に周囲の彼への疑惑は確信へと変わって行った。

「認められない気持ちは判りますが‥‥
 若いのに高そうなスーツ着てるし、それなりにいい会社に勤めてるんでしょ?
 痴漢したのがばれたら社会的信用も仕事も全部パァですね」

自業自得です。
鉄道警察の婦警にそうまで言われ、魅上は目の前が真っ暗になった。
濡れ衣だ!冤罪だ!!そうどんなに叫んでもそれを立証する術がない。
痴漢は被害者からの訴えが一番の証拠だ。時には嘘の訴えをする者もいる。
何度も被害者から状況を聞いているうちにその証言の曖昧さから嘘だと判る場合もあるが、
今のこの状況、証言からは曖昧さは欠片も感じられない。
何故なら、証言しているのは被害者本人ではなく、
その現場を目撃していた第3者だからである。

「き、君は!私の手が彼女の体に触れたのを見たと言うのか!?」
「見てないわよ!見えるわけないじゃない!あれだけ混雑してたんだから!
 でも、お尻を触られてナニを擦りつけられたんだから、
 後ろにいた人間が犯人に決まってるじゃない!
 後ろにいたのは肩までかかる跳ねっ毛の長髪に、
 濃紺地にストライプの入ったスーツの男だった!
 ほら、まんま!あんたじゃないの!!」

少し興奮気味に証言した女子高生がそう言うと、
泣きながら今にも消え入りそうな声で、
被害状況を語ってくれた小柄な女子高生が再び泣きだした。

「いい加減罪を認めなさいよ!」
「お巡りさん!早くこの男捕まえて!痴漢なんか女の敵なんだから!!」

全てが圧倒的に魅上に対して不利だった。
調書を取りますからと婦警に言われ、
ますますこの地獄から抜け出せなくなった事実を突き付けられる。
おそらく冤罪を晴らす事は出来ないだろう。検事である魅上にはそれが良く判った。
判ったとしても納得は出来ない。出来ないがどうにもならない。
いったいどうすればいいのかとパニック寸前の魅上照。

「あの‥‥」

その時、彼の目の前に天使が舞い降りた。

 

 

鉄道職員に案内されてやって来たのは一人の学生だった。
年の頃は二十歳を過ぎたばかりだろうか。
清潔感漂う礼儀正しい言葉使いもしっかりした、
そして、チラリと顔を上げた被害者の女子高生が思わず目を見張るほどのイケメンである。
他の女性職員やもう一人の女子高生も、
状況が状況でなければ黄色い声を上げていたかもしれない。
それほど人目を引く美形である。
ついでに言うなら魅上もちょっと見惚れてしまうくらいの。

「実はこの学生さんが、その男性は犯人じゃないかもしれない、と言って来て‥‥」
「何よそれっ!あたしが嘘吐いてるっての!?あんた、そいつの仲間!?」

その説明に俄然憤慨する女子高生を婦警がまぁまぁと宥め、
現れた学生に詳しい説明を求めた。
学生はまず初めに学生証を提示し、自分はその男性とは面識がないと断りを入れた。
学生証が某有名大学のものだと知り、また、学生の礼儀正しさに、
これは信用できそうだと婦警も職員も自然と思ってしまう。
それで半分がたペースは学生のものとなった。
それはある意味卑怯なやり方ではあったが、使えるステータスは使って損はないというもの。
そんな彼が言うには、
自分もどうやら彼女達や犯人扱いされている彼と同じ車両に乗っていたようだ。
自分は車両の端にいたので中央にいた彼女達の事は直接見ていない。
けれど、同じドアから一緒に降りた乗客の中にその男の人がいたのを確かに見たと。

「その人真っ直ぐ階段に向かわずKIOSUの傍に行ったんです。
 電車に酔ったのかと思って声をかけようとしたら‥‥」

直ぐ彼女達がやって来て彼を痴漢だと騒ぎ出し駅員も駆けつけて来た。
アレヨアレヨと言う間に彼は連れて行かれ、
どうしようかと迷ったが間違いだったら大変だと思いこうして来た。
学生はそう言った。

「僕はあの混雑する車両の中でその人の顔を直接には見ていません。
 ですから、その人が彼女達の傍にいなかったとは証言できません。
 ですが、僕の近くにいた人だとは証言できるかもしれません」
「何よ、それどう意味よ!」
「長髪かどうかは判りませんが、実は僕の後ろにいた人も、
 濃紺地に銀の細いストライプが入ったスーツを着ていたんです」

少し首を動かした時に肘のあたりが見えた――― 学生はまずそう言った。

「同じスーツの男がいたのかもしれないじゃない!
 帰宅ラッシュだったし、サラリーマンも多かったし!」
「確かにそうなんだけど‥‥」

それから学生は何故か魅上の方を見て少し困ったような顔をした。

「実は、僕の後ろにいた人にはその他にも特徴があって‥‥」
「それは何!?」

女子高生と婦警に促された学生は、
長い睫毛に縁取られた少し色素の薄いアーモンド形の綺麗な眼を、
心持ち恥かしそうに伏せて「息を嗅がせてください」と言った。

「は?」

驚いたのは周囲だけではない。もちろん魅上も驚いた。

「その‥‥僕がどうしてその人の事を気にしたかと言うと‥‥
 電車に酔っただけでなく本当に酔っぱらってるのかと思ったからで‥‥
 実は、僕の後ろにいた人‥‥息が臭かったんです」

恥ずかしそうに気の毒そうにそう言ったイケメン学生の言葉に、
魅上は激しいショックを受けた。

「く、臭い?この私が‥‥?」

周囲の非難がましい視線に何やら痛ましい者を見るような色合いが含まれだす。

「何?この痴漢、口臭も犯罪者なのっ!!」
「‥‥!!」

そして、女子高生の言いざまに今度は目の前が真っ白になる。

「いえ、そうじゃなくて‥‥」
「あぁ、酒臭かったのね」

婦警のその一言で、宵も更けないうちから一杯ひっかけていただらしないサラリーマン、
と言う魅上照にしたら憤死もののレッテルが貼られてしまった。

「ち、違う!私は酒なんか‥‥!」
「あぁ、やっぱりこの臭いです」

その時何の予告もなく魅上の直ぐ目の前に移動して来た学生が、
目を瞑ってクンと鼻を鳴らした。
思わず黄色い悲鳴が小さく上がったようだったが、誰の耳にも全く入っていなかった。
目と鼻の先でそう言って目を開いた学生は、
肌理の細かい傷一つ黒子一つない肌をほんの少し紅色に染め、
形も血色も良い唇に薄く笑みをはいて魅上照をジッと見つめた。
正直言って魅上照も決してブ男ではない。
どちらかと言えば、いや、はっきり言ってイケメンである。
ただ、堅苦しい口調と自分にも他人にも厳しい言動が眼付きを多少悪くしているせいで、
女性にもてるようで余りもてない勿体ない男だった。
せっかくの外見をどぶに捨てている罰あたりとも言う。
だが、そのお陰で男の同僚からは結構評判が良かったりする。
女に興味のない魅上(正義の実践に恋愛は不要!が彼の信念だ)は、
コンパで女の子を呼ぶのに最高の出汁だからだ。
だって、ちょっと話したら魅上が詰まらない男だと言うのが直ぐ判ってしまうので、
コンパに彼目当てでやって来た女の子達はガッカリして他の男を物色しだすのだ。
中には意地でも魅上にくっ付いている子もいるが、
帰る頃には魅上への文句でいっぱいだったりする。
そんな実は哀れな恋愛音痴男魅上照。
その魅上照とタメを張る、いやいや、彼なんか足元にも及ばないイケメンが、
面と向かって立ち並ぶ様子にこの場に居合わせた女性陣が何かを感じない筈がないのである。
駅の事務室の空気が一気にピンク色に染まった。

「失礼ですが‥‥電車に乗る前に食べ物家に立ち寄ったりしませんでしたか?」
「は?え?あ、えぇ、まぁ。駅の定食屋で親子丼を‥‥」
「やっぱりご飯ものですか。じゃぁ、それと漬物も一緒に食べませんでしたか?」

直ぐ目の前で男のくせに余り男臭さを感じさせない美人に優しく微笑まれて、
もう何が何やら判らない。
判らないながらも律義に質問に答えている自分が魅上は不思議だった。

「漬物‥‥そう言えば食べたな‥‥」」
「それ、沢庵でしたか?」
「沢庵?いや、奈良漬けだった。
 店主が京都土産で貰ったから今日は特別だ、とか言ってたような‥‥」

奈良漬け、と聞いて婦警が微妙に引き攣った笑いを浮かべた。

「僕の後ろにいた人の口臭、少しアルコール臭かったんです。
 でも、アルコールにしてはちょっと変わった匂いだったなぁと不思議に思ってて。
 今臭いを嗅いでその謎が解けました。
 僕が嗅いだのは奈良漬けの匂いだったんですね」

美人にニッコリ微笑まれてそう断言され、
魅上は肯定も否定も出来ず同じく引き攣った笑いを浮かべた、

「そう言う訳で、君が長髪とスーツを決め手にこの人を痴漢だと言うのなら、
 僕は口臭とスーツを決め手に彼は僕の後ろにいた人だと証言するよ」
「な、何よっ!?それっ!!」
「君はどう?犯人から何か臭いがした?」
「わ、私‥‥」

椅子に座ったままイケメン学生をボ~ッと見つめていた被害者の女子高生に、
当のイケメン大学生は、
怖かっただろ?厭な事を思い出させてごめんね。
と謝りながら、その辺りの事を優しく尋ねた。
その行動に魅上が痴漢だと証言した勝気な女子高生は肩を怒らせたが、
イケメン大学生の柔らかい物腰に、
自分が大声を上げる方が友人のために良くないとグッと堪えた。

「わ、私‥‥怖くて‥‥い、息が、首の所に掛かって来て‥‥こ、怖くて怖くて」
「うん、それは怖いよね」
「臭いなんて、私‥‥気付く余裕もなくて‥‥で、でも‥‥お酒の臭いは‥‥しなかった気が‥‥」

膝を折り視線を合わせつつも決して体に触れる事なく、
友人の証言を根気強く待つ大学生の姿に、
彼は信用できるかもしれないと思い直し険しい表情をほんの少し緩める。
電車での事といい、なかなか冷静な女の子である。

「要するに、どっちも顔は見てないって事ね。
 それじゃぁ、有罪とも無罪とも決め難い‥‥」
「そうなるな」
「という事は、疑わしきは罰せず、でよろしいですか?係長」
「女子高生達には悪いが、そうなるな」

婦警とその上司の会話に少々口を尖らせる正義感溢れる女子高生。

「痴漢を捕まえたくない訳じゃないんだ
 でも、無実かもしれない人を放っておくことも出来ないよ」


大学生にそう言われ勝気な女子高生はジロリと魅上を睨んだ。

「犯人の決め手は気ざったらしいストライプスーツ。
 でもって無実の決め手は口臭?」

ハッ!なっさけな~い!!
そう言って笑った彼女はもう一人の友人と一緒に被害に会った友人の手を取った。

「ごめんね。直ぐに気付けなくて。しかも、犯人取り逃がしちゃって」
「私なんて一緒にいたのに何にも出来なかった‥‥ごめんねぇ」

グスグスと涙ぐみながら友情を確かめ合う3人の女子高生に事務室の空気がグッと和らぐ。

「確かに奈良漬けの臭いがするわね。
 そう何人も同じスーツを着た長髪サラリーマンがいるとは思えないけど、
 かといって貴方が犯人だと決めつける訳にもいかないわね」

残念だけど無罪放免です。
そう婦警に言われ、魅上は一瞬呆然となった。
痴漢呼ばわりされたことへの怒りも、無罪だと言われたことへの安堵も、

「良かったですね」

と微笑んでいる大学生の見返り美人姿に押し流されてしまった気がする―――

 

 

「彼にお礼言っときなさいよ」

仕事があるからと事務室を出て行く婦警に促されハッとなって周囲を見渡せば、
既に女子高生達と無実を証言してくれた大学生の姿はなかった。
あの4人なら一緒に出て行ったよ、と職員に聞かされ魅上はあわてて事務室を飛び出した。
キョロキョロ見回してやっと見つけたのは女子高生達だけ。
声を掛けるのは憚れたが声を掛けなければ彼の行方を知る事は出来ない。

「あのカッコいい人、うちの高校の先輩だったの!」

そう瞳をキラキラさせて答えてくれたのは被害にあった女子高生ともう一人の友人。

「カッコいいし優しいし、ホントに素敵‥‥」
「王子さまみたい‥‥」

ボ~ッとなっている二人を余所にもう一人の魅上を痴漢呼ばわりした女子高生は、
きちんと頭を下げ勘違いを謝罪してくれたが、その視線は未だに彼を疑うものだった。
しかも、

「あんたなんかにあの人の事を教える気ないから」

と言って、友人二人を引っ張り駅の雑踏に消えてしまった。

「今回は運が良かっただけよ!次は現行犯逮捕してやるんだから!!」

鼻息荒い捨て台詞はまさに正義感あふれるもの。
もしかしたら彼女の夢は刑事か検事かもしれない。
何時もの魅上なら拍手して賛同する場面だが、痴漢呼ばわりされたのは自分な上に、
命の恩人(魅上にとっては決して大げさではない)に、
お礼を言うどころか名前さえ聞きそびれてしまった。
その事実に再び唖然呆然として固まってしまう魅上照。
人でごった返す駅の片隅、
ぼんやり立ち止まったまま動こうとしない魅上を気にする者はいない。
そうして無情に時間は過ぎ去り、
魅上は今回の目的である「キラ王国」観覧に間に合わなかったのである。
それは6月7日、魅上照にとって天使に出会った最高の日であり、
最低最悪の誕生日だった。

 

 

それから1年と少し、

「いい眼を貰った」

魅上照は「キラ王国」観覧以上の幸福に酔いしれていた。
それは敬愛する神、キラ様から名指しで与えられた使命。
キラ様に代わって裁きを行う権利!
そして、世界を正すという崇高なる義務!!
デスノートと死神の目を手に入れた魅上は、まさに水を得た魚の如く裁きに熱中した。
そして、死神を通じて何度も神からのお誉めの言葉を頂いた。
それは魅上照が生きてきた中で最高のエクスタシーだった。

「ところで、神はいったいどうやって私の事をお知りになったんだ?」

そんな魅上はある日死神に聞いてみた。

『キラは頭が良いからな。いろんな情報網を持ってるんだ。
 照の事もずっと前から「志を同じくする者」として認識?してたってよ』

それを聞かれてギョロ目の死神は、一瞬間を置いてからスラスラと答えてくれた。

「志を同じくする者‥‥」

その間が何を意味するのか考える余裕もなく、
神からのお言葉にただただボ~~~ッとなる魅上。
心なしかその頬は赤く眼付もかな~り怪しい。ついでに股間の辺りも‥‥‥

『こいつ、キモッ!』

そんな姿にギョロ目の死神リュークから1歩も2歩も引かれてしまうが、
全くもって気付いていない幸せな魅上照。

「よし!これからもキラ様にもっともっと褒めて頂けるよう頑張るぞ~~~!!
 裁いて裁いて裁きまくってやる~~~~っ!!!」

高らかにそう宣言し、マンションの床に跪きノートを押し頂く姿はやっぱりキモイ。

『やっぱホントの事言ったら拙いよな‥‥』

キモイけど、暫くは魅上から離れる事の出来ない死神は、
当座のおやつだと言って持たされた、
ボストンバッグ一杯の高級林檎の山に顔を突っ込んだ。

『口が裂けても言えないよな、月が照を選んだ理由』

ってか、俺はもう口が裂けてるけど。
キシシと笑って林檎に齧りつき、
ノートに名前を書きなぐっている魅上の背中を振り返る。
死神リュークの脳裏には、ここへ来る前の、
キラ様こと夜神月との会話が思い出されていた。

 

 

「あ、この男‥‥」
『どうした?月』

珍しく戸惑ったような月の声にウサギさん林檎の皿から顔を上げると、
第四のキラ候補を選別していた月が一枚の書類をジッと見つめていた。

『何々?なんかあるのか?この男‥‥ミカミ、テル?』
「そうか‥‥魅上照、って言う名前だったのか、あの時の奈良漬け男」
『ナラヅケ?』
「ほら、覚えてないか?電車で痴漢に間違われた男」
『あぁ‥‥何かそんなのあったかも』

月から話を聞き、そう言えばそんな事があったなぁ、と思いだすリューク。
そんなリュークを余所に月はクスクスと笑いだした。
どうやら余り冗談とかが好きではない月の「ツボ」に入ってしまったらしい。
キラとしては高笑いが大得意な月だが、
普通にしてる分には結構おしとやかな笑い方をする。
海砂の方がよっぽど大口開けて笑うし全身でおかしさを表現する。
どっちもリュークは好きだが、
やっぱりキラの高笑いが最高だな、とか思っていたりする。
それ以来、魅上照の事は二人の間では、
「奈良漬け」のコードネームで呼ばれる事となった。

「奈良漬けはどうしてる?リューク」
『奈良漬け、神神って五月蠅くてさぁ』

とかとか。
傍で聞いている海砂にも誰にも、
チンプンカンプンな会話をリュークは密かに楽しみにしているのであった。

 

 

『ホントッ!口が裂けても言えないぜ、こんな事』

ニア達が追いかけているXキラの正体が、
電車男ならぬ「奈良漬け男」だなんて!
京都に生まれたことを後悔するがいい!!
キラの真似をしてこっそり高笑いしてみるリュークにこの際罪はないだろう。

(リューク、奈良漬けは奈良の名産だから――― 月、笑顔で訂正)

魅上照、27歳。彼女いない歴27年、未だ童貞。
敬愛する神から「奈良漬け」呼ばわりされている事を知らない幸せな男である。

 

 

 

※シリアスの皮を被ったお笑いです(^O^)だって、拍手お礼文ですものっ!
 魅上は痴漢騒ぎがあってからキラ信者である事を余り隠さなくなります。
 自分が被害者になったのでますますキラに盲信、黙っていられなくなったんです(^O^)

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