※これは「デスノート」とアクションRPGゲーム「デビルサマナー葛葉ライドウ対○○」のコラボです。
コラボという事で話の進み具合、人物設定等、少々原作とは異なる点があります。
コラボですが主体はデスノート、ライドウ側はオリキャラ扱いでお読みください。
1
男は追われていた。
獣にか、強盗にか。それは判らないけれど、何かが追いかけて来る。
『遊ぼ、遊ぼ、何して遊ぼ』
「た、助けてくれ‥‥っ!」
助けを求め、人のいる方へと逃げたはずなのに、走れども走れども誰にも会わない。
それどころか辺りはどんどん暗くなっていく。
おかしい、おかしい、そんなはずはない!この先には駅があったはずだ。
駅前には賑やかなショッピングストリートが伸びていて、人がたくさんいるはずだ。
それにこんなに暗いのはどうしてだ?日が沈むまで未だ時間はあったはずだ!
何故誰もいない?何故こんなに暗い?何故何故何故!
『遊ぼ、遊ぼ、何して遊ぼ‥‥ねぇ、オジサン?』
「!」
直ぐ耳元で声がした。首筋に息遣いまで感じた。身も凍らせるような冷たい息を。
『ねぇ‥‥死んで‥‥くれる?』
「ヒィィィィ‥‥‥ッ!」
次の瞬間、男の周囲を風が舞い、男の意識はブツリと切れた。
ドサリと何かが倒れる音がして、乾いたアスファルトにジワジワ生暖かい液体が広がり出す。
「キャーーーーーーッ!!」
絹を引き裂く女の悲鳴が男の耳に届いた時、男は既に死出の旅路に向かう寸前だった。
「‥‥‥‥」
集まって来る野次馬。あれほど求めていた喧騒が漸く男を取り囲む。
しかし、全てが遅かった。
「切り裂きジャック、ですか?」
その日、竜崎ことLは余りに馴染み過ぎた犯罪者の代名詞に、今さら何を?というようにうっそりと顔を上げた。
「そうなんですよ!現代版切り裂きジャック!
1ヶ月ほど前から騒がれ出して、今やキラと話題を二分する勢いの‥‥」
「それは知っています。犯罪者を裁くキラとは正反対の存在、無差別殺人鬼。
ブッチャーとも呼ばれてますね。
その手口は残酷にして無情。まるで悪魔の仕業としか思えないほどだとか」
Lがその話に乗るや松田桃太が身を乗り出してくる。
「そう、ブッチャー!虐殺者!!猟奇殺人鬼!!
何でも被害者の遺体はミキサーで砕いたか爆弾で吹っ飛ばしたみたいにグシャグシャだそうですよ。
そのくせあまり血は飛び散ってないとか。キラの心臓麻痺も不思議ですけど、こっちも不思議ですよね?
いったいどんな殺害方法なのか気になりませんか?」
「やめないか、松田。不謹慎だぞ」
「す、すみません‥‥」
東京都内の某高級ホテルの一室に集まった数人の男達。
彼らは巷で救世主キラと呼ばれる――― 犯罪者ばかり殺しているので――― 殺人鬼の捜査で集まった刑事達だった。
その刑事達の中心にいるのがL。世界の切り札と称される正体不明の探偵である。
キラによって殺された犯罪者の数が判っているだけでも100人を超えた時点で、ICPOがキラ捜査をLに依頼した。
しかし、その後紆余曲折して、世界中の司法はキラ捜査から手を引いた。当然ICPOも。
自分の邪魔をする者は司法関係者でも容赦しない、という意思をキラが行動でもって示したからだ。
キラの殺人の手口は判っていない。何処に居てもどんなに守られていてもキラはいとも簡単に殺してみせる。
そうして実際、キラ捜査で動いていたFBI捜査官が何人も殺された。
依頼主を失ったLは、それでもキラ捜査を続けた。
正義のためかプライドのためかは判らないが、そんな彼に付いて行くと決めたのが、
今彼と同じホテルの一室にいる日本の刑事達だ。
何故日本かと言えば、キラは日本にいるとLが目星を付けたからだ。
だが、Lと刑事達の捜査は暗礁に乗り上げていた。何人か疑わしい人物は上がって来ているが決定打がない。
そうしてズルズル日ばかりが経ち、キラとは別の犯罪者が世を騒がせるようになった。
それが現代版切り裂きジャック、またの名を、ブッチャー。
心臓麻痺で犯罪者を殺すキラとは違い、この殺人鬼の殺害方法は残酷だ。
松田と呼ばれた若い刑事が言ったように、被害者の体はどんな方法を使ったのか粉々に粉砕されている。
しかも、粉々にした後で死体を遺棄したのではなく、その場で殺したとしか思えないのだ。
「ブッチャーが殺した被害者の数はまだ10人に満たないのでしたね」
「!竜崎。殺人は数じゃない」
「失礼、夜神さん。私はただ、ブッチャーが出現してからまだ2ヶ月だ、と言いたかっただけです。
ブッチャーの犯行スピードは1週間に1人。キラより遥かに少ない」
「だから、数の問題では‥‥!」
「えぇ、そうですね。キラが救世主と呼ばれるのに対してブッチャーは悪魔と呼ばれている。
社会への影響はいったいどちらの方が大きいのでしょう」
「‥‥‥」
ブッチャーの第1の犠牲者はホームレスの男だった。よく行くレストランの裏口で死体となって発見された。
第2の犠牲者は生まれたばかりの赤ん坊。家のベビーベッドの中でグチャグチャになって死んでいた。
第3の犠牲者は看護師。病院のリネン室で白いシーツの山を真っ赤に染めて死んでいた。
だいたい1週間に1人の割合でその犯行はなされ、3人目の被害者が出た時点で同一犯による連続殺人だと断定された。
「1人目はNY、2人目はデトロイト、3人目はシカゴ。4人目はカンザスシティ、5人目はデンバー。
6人目はソルトレークで7人目はサクラメント。
そして8人目はサンフランシスコから関空へ向かう飛行機の化粧室の中‥‥」
「竜崎‥‥何が言いたい」
「別に。ただ、9人目の被害者が出るとしたら大阪かもしれませんね」
「‥‥‥」
竜崎の言葉にむっつりと押し黙ったのは、日本の刑事達のボスに当たる夜神総一郎だ。
刑事局長という立場にありながらキラ捜査のために本来の職務を離れLと行動を共にしている。
「知っていますか?ブッチャーはキラに会うために移動している、という世間の噂」
「‥‥竜崎‥‥」
「私は案外真実かもしれないと思っています。事実、ブッチャーは北米大陸を東から西へ移動し、
さらに海を越えて日本へとやって来た」
「まだ、そうと決まった訳では‥‥」
「それも今日明日の内にはっきりすると思いますよ。ブッチャーの殺しの間隔からすると次の犯行は‥‥」
「竜崎!」
飛行機の中での殺人は正に世間の度肝を抜いた。
それはある意味密室殺人であったからだ。
しかも、犯人と被害者が同じ密室にいてそこから1歩も出ていないという異常な状況下の。
にもかかわらず犯人は見つかっていない。
化粧室という狭い空間を真っ赤に染めたことから犯人は返り血を浴びているはずなのだ。
しかし、乗客の中にそんな人間は誰一人としていない。
たとえ化粧室の中で着替えたのだとしてもその犯行時間はあまりにも短かった。
ドン、という大きな音がしたと言う。ドアの隙間から光が漏れたと言う。
たまたま近くにいて不審に思ったキャピンアテンダントが様子を見に行きドアを開けた。そう、鍵は掛かっていなかったのだ。
そして、事件発覚。被害者がトイレに立ってから僅か5分後の事だった。
「一番興味深いのは、数人の人間が聞いたと言う幼い少女の笑い声です」
衆人観衆の中で行われた犯行、何らかの目撃者がいても不思議ではない。
「ただ判らないのが、その笑い声を聞いた人間のシート番号がまちまちだと言う事でしょうか。
犯行のあった化粧室はエコノミークラスの最後尾の化粧室でした。
普通なら化粧室に近い人間が犯人の声を聞いているはずです。いえ、その少女が犯人ならですが。
しかし、声を聞いたと言う人間はエコノミークラスからは程遠いファーストクラスの人間と、
エグゼクテイブクラスにいたCAと副操縦士です。
何故たった3人なのか。そして何故こんなにも離れているのか」
「何だか妙ですよね。まるで狐につままれてるような‥‥」
刑事達の中で一番若い松田が恐々と言葉を綴る。そう、まるで幽霊の話でもするみたいに。
「ブッチャーか‥‥キラ以上に不気味な犯人だな。
犯行現場は人通りのない場所だったり、家の中だったり、公共施設だったり。
犯行時間もまちまちなら襲う相手にも何の共通点もない。
ただ、その殺害方法だけが人間離れしていて‥‥」
そう言って唸り声を上げたのは相沢という刑事だ。彼もキラ捜査の傍らブッチャー事件を気にしていたのだろう。
「やっぱり、サクラメントで目撃された黒マントの男が犯人でしょうか‥‥」
もう一人、模木という名の寡黙な刑事も話に参加して来る。どうやら誰もがキラ事件よりこちらの方が気になるようだ。
「逃げる後ろ姿が目撃された、と言うアレですか?」
宇生と言う小柄な刑事も眉を顰め話に入って来る。
「1度きりでは容疑者とは言えないのでは?」
「やだなぁ、模木さん、宇生さん。
今どき黒マント姿の犯人なんていませんよ。オペラ座の怪人じゃあるまいし」
「松田。不謹慎だと言っただろ」
ただ、夜神総一郎だけが渋い表情をしている。彼はブッチャーよりキラの方を気にしていた。
それにはある大きな理由がある。
「いずれにしろ、今の私達には関係のない話です」
「え~、でも、気になってはいるんですよね?竜崎も」
「松田さん」
「だって、竜崎もさっき言ったじゃないですか。ブッチャーはキラに会いたがってるって」
「ただの世間の噂です」
「キラだって最初は世間の噂でしたよ。ネットの」
「松田!」
上司の声に若い松田が首を竦ませる。
「そんな話より仕事をしろ。私達が今やらなければならないのは、一日も早くキラを捕まえる事だ」
「そうだぞ、松田。キラの裁きは一日も休まず続いてるんだからな」
上司と相沢に言われ、松田は手元の資料に視線を落とした。
それはキラによって殺された犯罪者の経歴と犯罪記録だった。
だが、正直その資料からキラに繋がる手掛かりは何一つ発見できていない。
ブッチャー事件同様、キラの被害者にも共通点は何一つないのだ。
有るとしたら、被害者の全員が犯罪者だと言う事だけ。
「だって‥‥もしかしたらキラが、ブッチャーを殺してくれるかもしれないじゃないですか‥‥」
それとも、ブッチャーの方でキラに殺されようとしているのか。
はたまた、ブッチャーがキラを殺そうとしているのか。
若い松田にとって、現在世間の噂を二分している殺人鬼の両方とも、気になって仕方がない存在だった。
その次の日、Lの予想は当たった。
「奈良で被害者が出たそうです」
それはブッチャーの9人目の被害者だった。
「被害者はごく普通の会社員。仕事が終わり最寄の駅へ向かう途中襲われたようです」
「目撃者は?」
「はっきりとした目撃証言はありません。
ただ、サクラメントの時同様、黒マントの人間が走り去るのを見たと言う人間が複数いたそうです」
「それと一緒に黒猫も目撃されたとか」
黒猫なんて不気味ですよねぇ、と茶化したように言う松田だが目ばかりは流石に笑っていない。
ブッチャーの殺害方法はそれほどオカルトめいていたからだ。
勿論、キラの殺害方法も似たようなものである。
「竜崎の言う通りになりましたね」
振り返れば、ソファに両足を上げて座ったLが何時ものようにお菓子を食べている。
「やっぱり噂通り、ブッチャーはキラに会おうとしてるんでしょうか」
「だとしたら何のためだ?」
「そんな事、知りませんよぉ」
刑事達は探るような視線を変人と呼ばれる部類に入る名探偵に向けた。
「さて。ブッチャーの次の殺人現場は何処になるのでしょう」
「リュ、竜崎‥‥」
「もしそれがここ、東京なら、私の最初の推理通りキラは関東に、この東京にいるという事になりますね。
面白い、実に面白い」
全く表情を変えずして唸るような笑い声を微かに上げた探偵に皆の視線が集まる。
そんな確認方法があるか!と、彼らは皆一様に思っていた。
2
それまでただ単に犯罪者を殺していただけだったキラは、Lの挑発以来様々なメッセージを発するようになった。
それによりLはキラのプロファイリングが可能となり、また、キラの殺人能力に関していくつかの推理をたてる事が出来た。曰く、
『キラの殺人には対象者の顔と名前が必要である』
『キラは対象者の死の直前の行動を操る事が出来る』
『キラは幼稚で負けず嫌い』
概ねそのようなものである。
幼稚で負けず嫌い、というのは囮のリンド・L・テイラーを直ぐさま殺した点を重視した結果だ。
あれは浅はかな行為であり、ネットで救世主などと騒がれイイ気になっている点が幼稚だと、Lは侮蔑気味に判断した。
だが、そんな幼稚で負けず嫌いな人間が殺人鬼というのは最悪なパターンと言ってよかった。
どんなに牽制しようとキラが殺人を止める事はないだろう。キラが何処の誰か判らない限りそれを止める術はない。
しかも、殺人の手口が全くの未知の方法とあっては警戒する事も出来ない。
裁き――― といわれるだけあってキラの手口はとても人間業とは思えないものだ。
それに加えて本当に死の直前の行動を操る事が出来るのだとしたら、それはもう神憑り的でさえある。
ネット上では、キラは救世主どころか死神や天使だ、などと言い出す者まで現れている。
そんな考えが冗談半分でも巷に広まるのは余り良い事とは言えない。
「キラの最終目的が気になりますね‥‥」
いったいキラとはどのような人物なのか、果たして人間なのか。
「もしも本当に神か悪魔の類だったら、笑い話にもなりません」
せいぜいで超能力者か何かだろう――― Lがそんな推理小説の掟破り的犯人像に苦笑していた矢先、
日本に派遣されていたFBI捜査官12人全員がキラに殺された。
彼らはLの指示で日本のキラ捜査本部の関係者を洗っていた。
これでますます日本警察の情報がキラに流れている疑いが濃くなったが、
注目すべきは、互いの事を知らないはずのFBI捜査官達が全員のプロフィールファイルを所持していた事である。
おそらくはキラの指示だろうとLは考えた。
捜査官の一人に接触したキラがその行動を操り全捜査官のファイルを手に入れた。
そして、誰に接触したか誤魔化すために全員にファイルを持たせた。そんな所だろうと。
ならば重要なのは捜査官の死の順番ではなくファイルを手にした順番である。
Lは殺されたFBI捜査官達全員の行動を洗った。
そして運のいい事に1人の捜査官の死の瞬間の映像を入手する事が出来た。
レイ・ペンバー。
彼は地下鉄の駅構内で心臓麻痺により死亡した。それがホームの監視カメラに映像として残っていた。
レイ・ペンバーの死の直前の行動に不審を覚えたLは、
彼の捜査対象者の中にキラの関係者がいるのではないかと考えた。
しかも、彼の婚約者が謎の失踪を遂げたという報告も入り、Lはその推理にますます確信を持った。
だが、ペンパーの捜査対象者は10人にも及んでいた。
日本警察が百人態勢でキラ事件に臨んでいたせいである。家族を入れれば3倍近い人数になる。
それ以降、Lの元に集まった刑事達はその対象者達の再捜査に追われることとなった。
「竜崎‥‥!」
寝る間もない捜査が続く中、アメリカ大陸を東から西へ横断した猟奇殺人鬼ブッチャーがいよいよ日本に上陸した。
関空から入国したと思われるブッチャーは奈良で9人目の被害者を出し、その4日後、
「川崎で‥‥ブッチャーの仕業と思われる殺人事件が‥‥」
相沢が新たな情報を警察庁から仕入れて来た。
「川崎とはまた、かなり近くに来たものですね」
「竜崎‥‥」
「詳しい状況は判りますか?」
「家で留守番をしていた8歳の男の子が襲われたそうだ。
家には鍵が掛かっていて、何処からも侵入した形跡がないとか。ただ‥‥」
「ただ?」
「れ、例の黒マントの男が現れて、一緒にいた6歳の妹を助けている」
「ほう‥‥それは‥‥貴重な生き証人ですね」
「幼すぎてその証言の信憑性は低いがな」
「子供の証言が低く見られるのは判断能力の低さのせいではなく、表現力の乏しさのせいです。
あまり侮るものではありません」
「そ、そうだな。報告書は近日中に入手できると思う」
「お待ちしてます」
振り返れば他の刑事達が少々蒼褪めた顔で二人の話を聞いていた。
「本当にブッチャーは東京を目指してるんでしょうか‥‥」
「普通に考えればそうでしょうね」
宇生の言葉にLが何でもない事のように答える。
「逆に言えば、キラは東京在住だとする竜崎の推理が、ますます確実になったって事ですね」
模木と松田が頷きあい、相沢と上司の顔色を窺う。
「今更でしょう?それよりも重要なのは、ブッチャーの殺人の間隔が次第に短くなってきている事です」
「え?」
「まさか‥‥?」
「そんな事が‥‥」
そんな刑事達の顔色がLのその一言でますます悪くなる。
「竜崎、それはいったい‥‥」
「やはりそうなのか?」
「えぇ。どうやら夜神さんは気付いていらっしゃったようですね」
4人の刑事達が上司である夜神刑事局長を振り返る。
「ブッチャーの殺人の間隔は7日~9日。
平均1週間とアメリカ警察は発表しましたが、正確には5人目までは8日間です。
それが、5人目から8人目までの間隔は7日、
次の8人目と9人目は6日。そして、今回の10人目はいきなり4日。
ここへ来て、何故急に殺人の間隔が短くなったのか。
まるで何か焦っているような感じがして、私は非常に気になるのですよ」
「そ、そんな‥‥」
一番若い松田がオロオロと仲間である日本の刑事達を見回し、それから改めてLに視線を戻した。
「か、川崎の事件で、警察庁は合同捜査本部を立ち上げた。
警察庁でも、ブッチャーは東京を、キラを目指していると、そう考えている者が多い。
敵対するためなのか、それとも共闘するためなのか、意見が分かれるところだが‥‥」
「警察側としては敵対してくれる方を望んでいるのでしょう。
ブッチャーの手口は残酷極まりない上に見境がない。下手をして周囲に被害が及んでも困る。
その点キラの殺害対象は犯罪者に限られている。まぁ、邪魔をする者にも容赦ないようですが?
それでも、変質者のブッチャーよりはまし、先にブッチャーを捕まえてしまえ、
そんな所ですかね?」
「‥‥‥‥‥」
相沢が本庁で聞いて来た警察上層部の苦悩をLはものの見事に言い当てた。
もし、Lの推理通りブッチャーの殺人間隔が短くなって来ているのなら大問題である。
「それで‥‥出来ればLにブッチャーの捜査も手伝って欲しいと‥‥」
「ほう?日本警察は図々しくもそんな事を言ってきましたか」
「竜崎‥‥」
「私の事は信用できない、と言っていたのは何処の誰だったでしょうねぇ」
「!ぼ、僕達は信用してますからっ‥‥!!」
松田の上擦った声に軽く肩を竦め、Lは目の前のテーブルに置かれたショートケーキの皿に手を伸ばした。
「焦る事はありません。ブッチャーは直ぐに次の事件を起こします。
そうなれば奴の居場所を特定、ないしは絞ることも可能でしょう」
「そ、それでは徒に被害者が増えるばかりだ‥‥!」
「残念ながら、ブッチャーもキラ同様全く正体が判っていません。
我々に出来る事は情報収集しかないのですよ。そして、情報は事件からしか得る事が出来ない」
「くっ‥‥!」
悔しそうに表情を歪め固く拳を握り締めた刑事局長にLはチラリと視線をくれた。
刑事局長、夜神総一郎。
組織の上層部に属しているにしては実直で正義感の強い男である。
彼を信用の出来る人物とするLの判断は意外に早かった。同時に自分とは性が合わないと感じたのも早かったが。
彼自身に問題はない。だが、その周囲までそうだとは限らない。
彼の警察官としての地位はとても高く、それに伴い入手できる情報量も多いのだ。
もし彼の関係者にキラがいたらこちらの情報が筒抜けであってもおかしくないだろう。
その疑惑を補強するかのように、レイ・ペンバーの調査対象者の中に夜神総一郎の名前はあった。
逐一送られていた『夜神家に関する報告書』によれば何ら不審な点は見受けられないとあったが、
レイ・ペンバーが死んだ今となっては甚だ信憑性に欠けた。
それに、キラのプロファイリングに関してLはここ最近大幅な修正を行っていた。
『キラは幼稚で負けず嫌いの知能犯』
テイラーを殺してからのキラはやたらと挑発的である。
ただ犯罪者を殺していた時とは違う手応えを其処に感じる。
当初Lはキラの殺害方法にばかり興味が行っていた。
救世主と騒がれイイ気になって犯罪者殺しを続けるキラを内心バカにしていた。
青臭い正義だと、世の中を、人間の本性を知らない世間知らずだと。
だが、今は違う。青臭かろうが世間知らずだろうが構わない。問題はその頭脳だ。
キラの頭脳に、キラとの知能合戦に興味がある。
Lを煽り、警察組織を煽り、謎の名探偵と呼ばれるLの正体をキラが暴こうとしている節があるからだ。
これはもはやLとキラ、どちらが先にお互いの正体に行き着くか、互いの全能力を賭けた戦いなのだ。
その思いはFBI捜査官全員の死によりますます深まった。
キラは自分と互角の頭脳を有する――― その可能性がLを密かに興奮させた。
その結果、そう思わせるキラ自身にも俄然興味が湧き、
是が非でもキラの正体を暴き自分の手で捕まえたいとさえ思うようになったLである。
それはキラ事件解決という単なる謎解きの域を超えたLの個人的衝動と言えた。
そして、これは今の所誰にも言っていないが、Lには一人気になる容疑者がいた。
夜神月――― レイ・ペンバーの捜査対象者、夜神総一郎の長男である。
公の経歴とペンバーの身辺調査結果だけを見れば怪しい点は何一つない。だが、それは他の人間も同じである。
では、何がLの気を引いたかと言えば、云わずもがな、その知能の高さである。
夜神月は捜査対象者の中で群を抜いて知能が高いのだ。
勿論、学校の成績だけでその人間の全知能を測れるものではない。
学校の成績は悪くとも頭の回転が速い人間はいくらでもいる。それを隠している人間、自分で気付いていない人間もだ。
しかし、それに加えて夜神月にはキラになっても不思議ではないある条件があった。
「夜神総一郎の息子‥‥」
実直で誠実、職務に忠実な正義漢。まるで警察官の見本のような夜神総一郎。
職場でもご近所でも、夜神総一郎の評判は良い。そして、長男である月の評判は父親に輪を掛けて更に良い。
父親が大人の見本なら、その息子は子供の見本と言って構わないだろう。まさに理想の子供だ。
もし、その品行方正優等生ぶりがフェイクでなかったとしたら?
日頃の言動から鑑みて、総一郎が自分の子供達に己の信念を躾として教え説いていたとしても不思議ではない。
人間の裏側を十二分に知っているLには到底信じられない話だが、
もし夜神月が父の教えを信じて守っているとしたら?犯罪を憎んでいるとしたら?
キラが巷で『救世主』などと騒がれる事もあながち間違いではないのかもしれない。
「全く、厄介な生き物を育ててくれたものですねぇ、刑事局長殿は」
しかし、今の世の中は複雑すぎてたった一人の救世主だけでどうにかなるものではない。
また、権力者という者はそう言った存在を疎むものなのだ。昔も今も。
そして、権力者が動けば、救世主がどう思おうと被害は出る。
「イデオロギーだけに留めておけば良かったのですよ、キラは。
下手に動くからこうして叩かれるのです」
民主主義は言わば数の暴力。
綺麗事で被害を有耶無耶にし、目晦ましで大衆を騙し、金と暴力を使い分けて権力を手にした者が勝つ仕組み。
救世主が意味を持てたのは二千年も昔の話なのである。
それさえも今では意味を失った。
Lはショートケーキに細い銀のフォークを突き刺し、
さて、何時最有力容疑者の存在を切り出すべきかと、楽しく思い悩んだ。
もし、夜神月がキラでなくてもLには一向に構わなかった。
それならそれで本物のキラを炙り出すための囮に使えばいい――― そう思っていた。
ミイラ取りがミイラになるなど、この時点でのLには考えもつかなかったのである。
川崎事件の詳しい報告書は次の日に早くもLの元に届いた。
風邪をひいて寝ていた6歳の妹を8歳の兄に任せ、母親が買い物に出ていた僅か20分ほどの間にそれは起こった。
犯人は何の形跡も残さず3階のアパートに侵入し、居間でテレビを見ていた兄を惨殺した。
第一発見者は真下の住人――― 被害者家族と知り合いだった――― と管理人だ。
何か物が倒れる音を耳にした住人は、続いて聞こえて来た子供の泣き声に何が起きたのかと慌てて上の部屋へと駆けつけた。
だが、玄関には鍵が掛かっていたため管理人を呼んだ。
戻って来てどんなにドアを叩いても呼びかけても何の応答もないため、管理人が意を決してドアを開けると、
煌々と明かりのついた部屋の奥にひっくり返った椅子と床を染める赤い染みが見えた。
漂ってくる何とも生臭い臭いに恐ろしくなった階下の住人と管理人は中へ入らず警察を呼んだ。
警察が駆けつけるまでの約15分間、彼らは騒ぎを聞き付けて集まって来た他の住人と一緒に部屋の前に立っていた。
当然ながら誰もその部屋から逃げ出した者はいなかった。
漸く到着した警察官が念のため銃を構えて部屋に入ってみると、果たしてそこは血の海だった。
そして、込み上げる吐き気を必死に堪えた警察官が見たものは、その血の海に散乱する無数の肉片だった。
背後で湧きあがる悲鳴と混乱が警察官を逆に冷静にしたのかもしれない。
彼はともすれば震えそうな体を叱咤し署へと連絡した。
それに遅れること数分、買い物から帰って来た母親は無残な死体となり果てた息子の姿に悲鳴を上げる間もなく気を失った。
隣の四畳半の和室には妹が寝ていた。妹は無傷だった。
「襖は開いていたのですね?」
「あぁ、母親も出かける時開けて行ったと証言している」
「にも拘らず、飛び散った血は妹の寝ていた布団には掛かっていなかったと」
「これが現場写真だ」
Lは相沢が持って来た写真の束を受け取り、誰も寝ていない子供用寝具をじっくりと検分した。
「畳に、警察官の足跡が付いてしまっているが、鑑識の結果それ以外の足跡は和室では発見されていない」
この凄惨な現場を見て警官は直ぐにブッチャー事件を思い浮かべたらしい。
現場保存に注意し、妹を救いだす時も自分の足跡はなるべく残さないよう極力心掛けたようだ。
なかなか冷静な警察官である。
「布団にも血が掛かってませんね。頭の方と足元以外には」
「あぁ」
「しかも畳にもほとんど血が飛んでいない。おかしいですねぇ」
「あぁ‥‥」
どういう事かと松田が周囲を見回せば、夜神が溜息と共に説明してくれた。
「リビングの床と壁、天井、開け放してあった襖には結構な量の飛沫痕がある。
つまり広範囲に渡って被害者の血が飛び散ったと言う証拠だ。
だったら、開け放してあった和室の畳と布団にも同じように飛沫痕があっていいはずなのだ。
しかし、それがないと言う事は、被害者と寝ていた妹の間に襖以外の障害物があったと言う事になる」
「それって‥‥」
「この、和室とリビングの境目を見てください」
「L、それは敷居というんだ」
「では、そのシキイ付近ですが、真ん中と左右3カ所に幅20センチ程飛沫痕があるでしょ?
逆に言えば間の2ヶ所だけ血飛沫痕がない。これがどういう意味か判りますか?」
世界の切り札に問いかけられ刑事達は暫し言い淀んだ。
「‥‥そこに、誰かが仁王立ちで立っていた」
「正解です、夜神さん」
流石に刑事局長だけあって父親も優秀である。
「2ヶ所だけ飛沫痕がないのはそこに誰かの足があったからです。
そして、その人物は血が飛ばないようにマントを広げていた」
「あ‥‥っ」
「妹の証言とも一致している。ただ、妹は黒いテルテル坊主と言ったらしいがな」
「テルテル坊主?」
「雨が上がるようにって、お呪いで作る人形の事です。マントを着てるように見えなくもないです」
「その後直ぐ妹の方は意識を失ったらしく、
警官が駆け付けた時は布団の上で倒れるようにして寝ていたそうだ。
幸か不幸か、兄の死体は見ていないらしい‥‥」
それが助けに入った黒マントの人物の配慮なのかどうか誰にも判らない。
「それと、ベランダに事件後駆け付けた人間以外の足跡が発見されている」
「犯人の物ですか?」
「それはまだ判っていない」
「でしょうね。むしろ、その黒マントの人物の物だと考える方が妥当でしょう」
判ってて聞いたLに相沢はしかめっ面をし、それから幾つかの血糊の足跡写真を指示した。
「革靴だそうだ。サイズは26cm。身長は175前後だろうって話だ。
今、靴底の模様からメーカーを特定しようとしているが、特注品らしくまだ判っていない」
「特注品?」
意外な話にLが目を丸くする。普通常習犯ならそんな足が着く物を身に付けて犯罪は犯さないからだ。
「では、黒マントの男は正義の味方ですか?それにしては、犯人同様侵入経路がはっきりしませんね」
「出て行った先は判っている。ベランダだ。足跡が外へ向かってるからな」
「ベランダの手摺にも靴跡?飛び降り自殺でもしましたか」
勿論そんな訳はない。
そのくせ、今の所アパートの敷地に靴跡も血痕の類も何一つ発見されていない。
まるで空を飛んで消えたかのように。
「あと、同じ手摺に猫の足跡も残っていた」
「黒猫を連れた黒マントの人物‥‥ますますもって猟奇臭くなってきましたね」
だが、そう言ったLの頭の中の半分以上は夜神月の事で占められていた。
3
その日の夜、ニュースは何処も川崎のブッチャー事件一色だった。
殺害方法の残酷さ、証拠を残さない犯人の狡猾さ、
そして、巷に流れる『ブッチャーはキラに会いたがっている』という何の信憑性もない噂話。
それは朝になっても変わらず、学校でもそこかしこで生徒達が話題にしていた。
救世主と猟奇殺人鬼。ともに殺人を犯していながらこんなにも扱いが違う。
いや、危機感のない者にはどちらも興味本位の存在でしかない。
裁きを受けなければならないような重い犯罪を犯した者でない限りキラを恐れる必要はない。
猟奇殺人など自分には関係ないと勘違いしているただの小市民。
そんな級友達を横目で見やりながら夜神月はゆっくりと帰り支度をしていた。
都内有数の進学校だが、それなりに部活動も盛んである。内申書の点数を上げるためにもそれは有効な手段だからだ。
だが、生憎月は何処の部にもサークルにも参加していない。生徒会の副会長でそれなりに忙しいからである。
生徒会活動も内申書稼ぎにはうってつけだ。
よって、1年生の秋に誘われて以来、月はずっと生徒会の役員をしている。
誰もなりたがらないせいもあって、立候補すれば確実に月は票を取った。
そして、3年生になった今もそれは続いている。
「お~い、月ォ。まだかぁ?」
教室の扉を開け入って来たのは、隣のクラスの友人だった。
生徒会で遅くなった自分に一緒に帰ろうと、つい先ほど声を掛けて来たのだ。
友人は野球部に所属している。ちょうど練習が終わり顧問に連絡して来たところらしい。
「もうちょっと‥‥なんだよ、山元。早かったな、着替えるの。
またユニフォーム、クシャクシャに突っ込んだんじゃないか?小母さんに怒られるぞ」
「だったら月が洗濯してくれよ。中学の時みたいに」
「バ~カ。俺はお前の嫁さんじゃないっての。洗濯機ぐらい自分で回せ」
「回せても干せないし」
「皺を伸ばして干せばいいだけだろ」
「アイロン‥‥」
「僕はもうテニスやってないからね。僕のと一緒に山元のユニフォームまで洗ってやる云われはないよ」
「月のケチ~~~」
夜神月――― この高校で彼を知らない者はいない。
成績優秀スポーツ万能、おまけに品行方正で文句の付けようがない優等生。当然ながら教師の覚えも目出度い。
だが、それだけだったら同学年の間で噂になるくらいだっただろう。
では何故、大げさに言って全校生徒が彼を知っているかと言えば、
天は二物を与えずどころか三物も彼に与えていたからである。
要するに、夜神月は幸か不幸か見た目も抜群に良かったのだ。
どんなに進学校だろうと、恋愛に興味のない女子高生はそうそういない。
下手をすれば白馬の王子様とまで言われるくらい整った顔をした月に、そんな女子高生が群がらない筈がなかった。
そして、当の月は古風にもフェミニストだった。と言うか、誰にでも当たりが柔らかだった。
当然女子生徒の受けは良くなる。半分がた見た目に騙されているとも言う。
そうして入学早々その目立つ容姿から1年女子の間で噂になった月は、瞬く間に2年3年の女子生徒にも知られるようになった。
加えて1年男子の間でも有名であった。何せ入試でトップの成績を収めているのだから。
進学校なら成績優秀な生徒が気にならない男子生徒はいないだろう。
やっかみや牽制もあってどんな奴かと月に近付いた男子は、だが、直ぐに彼に陥落した。
彼らもまた月の見た目にコロリと騙されたのである。
入学当初の月はチビだった。2月生まれという事もあり少々成長が遅れていたのだ。
そのうち父親のように大きくなるんだ!と言うのがそんな月の口癖で、
それを、ま白い頬を仄かにピンクに染めて、サクランボ色した艶々な唇を小生意気に尖らせて言うものだから、
彼のコンプレックスを刺激してやっつけようとしていた同学年の男子達はすっかり月に気を許してしまった。
どんなに頭が良いと言っても所詮は16~17のガキ。自分がちょっとでも有利だと思えば直ぐさま勝った気になる。
ムキになって反論する月を前にして、笑いながら『夜神って可愛いのな』なんて言ったガキどもは、
結局月の背が伸びてもその第一印象を変える事はなかった。月が変えさせなかったせいもある。
それが、夜神月のいつもの手だった。
昨今のいじめはとにかく陰湿だ。いくら父親が警察官でも学校にまで目が行き届く訳ではない。
自分の身は自分で守らなくてはならない。月は随分と早くからそれを悟り理解していた。
だからと言って周りを気にしてテストで手を抜くとか駆けっこで本気を出さないとか、そんな卑屈な発想は月にはなかった。
月は月のやりたいようにやった。それをして人は月を優等生だと言ったが、月には普通の事でしかなかった。
優等生である事を悪く言う方がおかしいのだとさえ思った。
けれど、それに対して言い返すつもりはない。言った所でますます相手の敵愾心を煽るだけだと知っていたからだ。
父親の言うような相互理解は人が人である限り難しい事なのだと、月は10歳になるかならないかで気付いていた。
月は父親を尊敬している。大好きである。だから、父親の教えを守りたいと思っている。
だから、友達は大事だとか命は大事だとか人には優しくするべきだとか、月自身本気でそう思っている。
けれど、そう思いそれを実行する人間は非常に少ない。勿論皆無でもない。
小さな善意が大きな善意に繋がらないのが今の世の中の悪いところだ、と月は思う。
それを悲しい事だと思っても自分には関係のない事だと思わないのが月だった。
人は一人では生きていけないし、自分はそんな社会に生まれて来た一人なのだと月は知っていた。
子供の自分が知っているのに知らない大人が多すぎる。それが嫌だな、と思った。
きっと父親の時代は今より幾分平和だったのだろう。自分の世代でこの生き方を通すのはかなり苦しい。
何らかの方法で優等生と言われる月を害し自分の方が上だと思いたがっている連中に月は何時も疲れを覚えた。
けれど、黙っていたら潰されるだけである。だったら、やられる前にやってしまうのが吉だ。
その手段に月は決して暴力を使わなかった。
誰だって痛い思いをするのは嫌だし、それでは根本的解決にはならないから。
だから月は一人でも多く友達を増やす道を選んだ。
味方を増やし敵を孤立させる。それと同時に敵の籠絡を図る。
それは、何でも直ぐに出来てしまう月にとってとてつもなく面白い作業だった。
嫌悪を向けて来る相手には誠意をもって接する。その裏で策を弄する事を忘れない。
言葉巧みに相手の気勢を削ぎ、いい気持ちにさせると同時に自然な形で反省を促す。
簡単ではなかったからこそ逆に月は頑張った。小学生ながらに心理学の本まで読んで策を練った。
もちろん努力と忍耐を惜しむ月ではない。父親の教えに挫折という文字はなかったので。
そうやって月は優等生と称されるまま大きくなった。
今では自分をやっかんでいたはずの級友も良い友達である。
いがみ合うよりは笑い合える仲の方が良い。
向こうが歩み寄りの努力をしないからこちらからしたまで。
月にとってはそう言う事だった。
きっかけは自分が作った。けれど選んだのは向こうだ。
誰かに何か言われれば、堂々とそう言うつもりの月だった。
「どう思う?ブッチャー。やっぱ、キラに会いに日本まで来たと思うか?」
教科書を詰め込んだ鞄を抱え、月は隣の席で待っていた友人を振り返った。
「キラに会ってどうするんだ?キラは犯罪者を殺してるんだぞ。だったらキラはブッチャーを殺すだろ。
ブッチャーは自殺しに来るのか?」
「そう言ってる連中もいるよな?
ブッチャーは罪を犯し続ける自分をキラに止めて貰いたがってるんだって」
「都合の良い妄想だな」
「理想主義のリアリストに言われると、何かガックリ来るな」
「誰が理想主義だって?」
「月が」
「リアリストなのは認めるけど」
「いや、お前、結構そうだから。見た目も中身も服着て歩いてる理想?」
「それ聞き飽きた」
「大いなる矛盾の塊だもんな、月は」
「そう言う山元は隠れ熱血?」
月の鞄を奪い廊下へと歩き出した友人は中学からの友人である。
小学6年の終わりに月の家の近所に引っ越して来た彼、山元は、
軽い性格とは裏腹に成績が良く、一人抜きん出ていた月にもしっかり付いて来られるほど頭が良かった。
時折発揮される月の突拍子もない発想や、延々続けられる演説や説教に耐えられるのは彼だけだった。
そして、月の結構策略家な性格に薄々気付いている一人でもあった。
他にも長年の付き合いから感覚的に月の油断ならない性格に気付いている者もいたが、
彼らは一様に『月は根はお人好しだから』と断じ、それをからかう事はあっても悪く言うことはなかった。
月を怒らせない限りそれが悪意に変わる事はないと、長年の経験で知っていたからである。
「ブッチャーって、どうやって殺してんだろうな。キラも判んないけどさぁ」
「山元。またその話か?これから夕飯を食べる身としては遠慮したいんだけど」
高校に入学してからも野球部に入部した山元は、部活動を止めてしまった月より筋肉がある。
その太い手で月の背中をバンバン叩き、駅まで走るぞ!と笑った。
そして、駅に付いてからもここ最近話題の殺人鬼の話題を月に持ちかけた。
それは電車を降り、すっかり暗くなってしまった街中を歩いている時も続いた。
「だってさぁ、気にならないか?どんどん近付いて来てるんだぜ。ここに、この東京に。
それって、キラが東京にいるって言う証拠だろ?」
「Lもその可能性があるって、言ったらしいな」
「Lね、L‥‥世界の切り札?むしろジョーカー?うわぁ、ぶっさいくそ~う」
比較的賑やかだった駅前商店街を過ぎ住宅街へ入った二人は、
携帯で今が8時5分である事を確認すると少し歩く速度を速めた。
口では何だかんだ言っても心の奥底では怖がっているのである。無差別殺人の変質者を。
「俺的には、やっぱジャックは月だと思うな」
「は?」
「うん、ジャック。イケメンだろ?」
「意味が判らないぞ、山元」
「だからぁ、月がキラだと言われても納得できるって言ってんだよ、俺は」
「いや、ますます意味が判らないし」
「だって、カッコいいじゃん。頭良くって顔の良い救世主様って。キリストじゃぁ、貧相過ぎて」
「清貧が受けるんだろ?女子供には」
「それは大昔の話。今はイケメンの時代だって」
カラカラと笑う友人の街灯で仄暗く照らされた横顔をちらりと眺めやり、月は心中密かに溜息を吐いた。
『月がキラだと言われても驚かない』
山元がそう言いだしたのは何時だっただろう。
おそらくブッチャー事件が騒がれ出し、ブッチャーがアメリカ大陸を東から西へ移動していると判った時からだろう。
あの頃から、山元はブッチャーがキラに会いに来る、という妄想を抱いているらしい。
そして、こんな笑い話のような要領を得ない話でお茶を濁しながら、月を心配そうな目で見るようになった。
山元の中で月がキラである事は決定事項であり、ブッチャーがキラを殺しに来るのもまた同じなのだろう。
勘の良い友人だと月は思ったが、決して口にはしなかった。
そう、山元の言う通り、月がキラである。
山元がそれを見抜いたのは偶然でも推察でもないだろう。おそらくは願望だ。
き真面目な性格を隠さない月と違い、山元はお調子者を気取る事が多い。
だが、彼は意外に熱血漢で曲った事が嫌いである。
戦争だとか麻薬だとか飢餓だとか、世界中で虐げられている子供達の映像などを見ると、思わずグスリと鼻を啜ってしまう奴である。
山元も結構なお人好しだ、と月は思う。
自分も多分お人好しの部類に入るのだろうが、自分は山元と違ってそれだけで終わらない人間だとも思っている。
実際キラになって犯罪者を見せしめのように大勢殺しているのだから、既にお人好しからは逸脱しているだろう。
では、山元と自分では何処が違うのか。
それは、山元は自分の身の丈で満足しているが、自分はそうではない所だろうか。
つまり、自分は欲張りなのだと、月は自嘲している。
「イケメンのキラ、いいじゃんよぉ」
「そうか?」
「そうだって。まぁ、人殺しは人殺しなんだけどな」
「そうだな」
山元は人を殺すキラを許せないが、キラの殺人を裁きと言ってしまう人々の考えも否定出来ずにいるのだ。
「‥‥‥」
沈黙に籠められた山元の心境。
それを思うと月は聊か居た堪れない気持ちになった。だがもう引き返す事は出来ない。
「Lに見つかったら死刑か?」
「取り敢えず国際裁判?死刑は免れても終身刑だろうな。
案外、正体がばれた時点でLがキラを射殺するかも」
「何だよ、それぇ!それじゃぁ探偵じゃぁないって!!」
「死刑囚を囮にしてる時点でもう探偵の領分を逸脱してると思うけど?」
「だよな!有り得ないよな!」
「でも。それがLなんだろ?裏でうごめく巨大権力って奴だ」
「そんなの正義の探偵じゃないって!」
どうやら熱血漢の山元にはキラの行動もLの行動も許せないらしい。
「あぁ、その前に、山元の言う通りブッチャーに殺される可能性もあるか」
「それはダメだ!」
急に立ち止まり左腕を掴んで来た友人に月はほんの少し目を見開いた。
「Lに捕まるのは仕方ない。でも、ブッチャーはダメだ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
月が笑うと、山元は掴んでいた腕を放し『なんだよぉ』と呟いて俯いた。
「僕はキラじゃないよ」
「‥‥月は‥‥必要がない限り、嘘吐かないって事ぐらい知ってる」
「僕がキラだったらいいのか?」
「そ、そんな訳じゃない‥‥ただ‥‥」
顔を上げた山元の声は表情共に実に情けないものだった。
「お前だったら、キラを救世主のままにして、色んな事やり遂げそうだから‥‥」
「キラは救世主なのか?」
「判んねぇよ。けど、そう思ってる、そう信じてる連中がいる事も確かだ‥‥」
「人殺しは悪い事だと思うけど?」
「月だってそう思ってるだろ?」
「あぁ」
「でも、キラ、やっちゃたんだろ?」
「キラじゃないって言ってるのに」
また笑ってやると、山元は子供のように鼻を啜った。
「お前、情け容赦ないから‥‥平気で嘘吐くし騙すし‥‥」
「酷い言われようだな」
「でも、それで本当に酷い目に合った奴、いないし‥‥」
「僕は、痛いのは嫌いだ。悲しいのも、怒ってばかりいるのもね。
人が人を嫌ったり憎んだり罵ったりする姿は‥‥見ててあまり気持ちいいもんじゃない、そう思う」
「キラだって嫌われてるじゃないか。きっと憎んでる奴もいるぞ?」
「そうだな‥‥」
「そんなの、俺、ヤダし‥‥」
山元はまた項垂れ鼻を啜った。
「俺、やなんだよ。月が誰かに嫌われるの。
でもお前、困ったぐらい頑固だし、俺が手を貸さなくても全然平気だし、
その気になったら、何考えてるか絶対人に悟らせないし‥‥
お前の考えてる事、時々ぶっ飛び過ぎてて、俺、付いて行けなくなるんだよ」
「じゃぁ、付いて来るな」
「そんな酷い事、言うなよぉ‥‥」
俺、泣いちまうだろ――― そう言って何度も鼻を啜る親友に、月はただ困ったように微笑むしか術がなかった。
その時だった。
「?」
「何だ?」
不意に誰かの笑い声がしたのは。
4
「何だ?どうしたんだ?月」
「しっ‥‥少し黙って‥‥」
不意に笑みを消し、警戒するかのように辺りを見回しだした親友に山元は何事かと眉を顰めた。
まだ少し落ちそうな鼻を啜って自分も親友に倣いキョロキョロ周囲を窺う。
けれど、日が暮れて暗いと言うだけでいつも通りの見慣れた街並しかそこにはなかった。
特に変わった所もなければ怪しい人影も見当たらない。
「!走れ、山元!!」
「は?」
だが、親友はいきなり山元の左手を鷲掴み駆け出した。
強引に引っ張られる山元の両肩で学生鞄とスポーツバッグがゴソゴソ音をたてる。
「早くっ!!」
「ま、待てよ、月っ!いったい何が‥‥!」
「いいから早く‥‥!
駅から家までの通い慣れた道。
駅前の商店街を抜け、未だ未だ喧騒の残る住宅街に入り、浅い川に沿って二人は歩いていた。
次の橋を渡って住み慣れた町内に入れば我が家は直ぐそこだ。急ぐ必要は何処にもなかった。
ましてや危険な目に合う事など有ろう筈もなかった。
だが、その道を今、二人は全速力で駆けている。
そして、まるで境界線とも言うべき橋を渡ろうとした時、
「うわっ‥‥!?」
いきなり突風が吹きつけ、二人の体はあっと言う間に浮き上がり橋の向こう側まで飛ばされていた。
「いてててっ‥‥な、何だよ、今の?」
肩から離れたスポーツバッグが川に落ちた音を聞いた気がする。眼鏡も飛ばされ何処へ行ったか判らない。
幸い尻から地面に落ちたお陰か山元の受けた衝撃はちょっとハードなスライディング程度で済んだ。
2~3メートル滑ったせいで制服の背面はかなりボロボロだが、怪我そのものは大した事ないようだ。
「!ラ、月!?」
そんな自分の状況を素早く確認した彼は腰を浮かし、一緒に吹き飛ばされたはずの親友を探した。
「や‥‥と?」
「月ッ‥‥!」
探し求める声を耳にしたとたん、左手首がヒリリと痛んだ。
咄嗟に抑えると凍みるような痛みに血が出ていると知る。おそらく吹き飛ばされ時に月の爪が掠ったのだろう。
山元は全身打ち身と言う緊張した痛みに歯を食いしばりながら民家の塀まで吹き飛ばされた月に駆け寄った。
少し右足首が痛い気もするが構ってはいられない。
「月、月!大丈夫か!?」
脳震盪を起した時の事を考え下手に揺する様な事はせず、山元はそっと月の手を取り脈を確認しつつ声をかけた。
その声に数度瞬きを繰り返した月がゆっくりと笑みを返す。どうやら意識ははっきりしているようだ。
「大丈夫か?どこか痛いとこあるか?頭とか背中とか」
「い、いや‥‥大丈夫‥‥それより、山元の方こそ‥‥」
「俺なら平気だ!伊達に野球部で鍛えてねぇっての!」
「‥‥メガネ‥‥」
「メガネ?あぁ、どっか行っちまったな。いいさ、メガネなんか。また買えばいいんだから。
それより、立てるか?月」
吹き飛ばされ塀にぶつかったが、背中に回ったカバンが多少はショックを和らげてくれたのだろう。
起き上がる時背中の痛みに微かに呻き声をあげたものの、山元に肩を借りて立ち上がる元気が月には未だあった。
「はぁ‥‥それにしても、さっきの風は何だったんだ?ビル風?突風?まさか、鎌居達なんてことは‥‥」
「山元‥‥」
「ん?」
月が一人で立てるのを確認した山元は橋のたもとに落ちている自分の学生鞄を取りに戻ろうとした。
そんな山元を月の手が止める。
肩に掛けられたその手は心なしか震えていて、らしくない親友の様子に心配するなと彼は笑い返そうとした。
「‥‥え?」
その時、山元の耳に微かな笑い声が届いた。
グイと引き寄せられ、密着した親友の心臓が早鐘のように鳴り響いているのを肌で感じる。
『ウフ‥‥フフ‥‥』
幼い少女の笑い声に山元の心臓はひっくり返った。思わず知らす親友の体を抱き返す。
縋り合うように立ち尽くす彼らに橋の向こうから再び風が吹きつけた。
『‥‥フフ‥‥ウフフ‥‥けた、やっと見つけた‥‥‥』
「な、何だ?誰か、いるのか‥‥?」
風に紛れて幼い少女の声がする。慌てて周囲を見回すがそれらしき人影は見当たらない。
『フフ、フフ‥‥嬉しいなぁ‥‥フフッ』
「な、何だよ‥‥この、声‥‥」
訝しく思っていると、今度は信じられないほど近くから声が聞こえた。
まるで頭の中で囁いているような、腹の中で嗤っているような。それくらい近くからだ。
「!!」
おかしい、これは異常だ。
そう思った瞬間、山元の視界に輪を掛けて異常な光景が飛び込んで来た。
「マ‥‥マジ、かよ‥‥」
ギギギ、ギギ‥‥‥‥ギシシ‥‥‥ギッ‥‥
「う‥‥ぁ‥‥」
街灯にぼんやり浮きあがった橋から歪な音が聞こえて来る。
それと共に錆びの浮いた鉄製の欄干が、まるで何かに食い千切られるかのように捩れ捻じれ、
太いネジを跳ね飛ばしながら折れ曲がって行く。
『‥‥そぼ、あそ‥‥私と、遊ぼ‥‥』
「!」
何かが山元の腹を撫でていた。
『お日様が沈んでも、お月さまが沈んでも、ずっとずっと私と遊ぼ‥‥』
いや、そうではない。何かが腹の中で蠢いている。
「うぐ‥‥っ」
「山元?」
『お腹を割いてあげようか‥‥それとも頭を割ってあげようか‥‥』
「ゲボッ‥‥」
「山元!?」
せり上がって来る何かに喉が詰まった。思わず腹を、喉を押さえ前のめりに傾いだ山元の体を、月が慌てて抱きとめる。
喉を突き上げて、それは山元の中からセリ出て来た。
『アハハ、アハハ、アハハハハハ‥‥!』
だが、山元自身の目にはボタボタと垂れ落ちた自分の涎しか見えなかった。
「山元‥‥っ!」
次の瞬間、月が彼を押し倒した。どっと横倒しに倒れた彼の体の上に月までが倒れ込み、
そして、何処かで何かが壊れる音がした。
『あ~ぁ、何にもない。空っぽ‥‥こっちには何にもなかったよ』
腹から喉に掛けて何時までも残る違和感に涙目になりながら、山元は頬を打つ礫に眉をしかめ、
伸しかかる親友の重みを腕に抱き直し音のした方にチラリと視線をやった。
「嘘‥‥だろ?」
視界の端に何か黒い物が見える。
点々と、ブロック塀に下手な落書きのように見える黒いそれ。
遠い街灯の明かりに朧げながらに浮かんで見えるそれは間違いなく穴だ。
まるで巨大なドリルで穿ったか太い杭を打たれたかに見えるそれは、二人が立っていた場所に平然と真黒な口を開けている。
もしも月が押し倒してくれなかったら、その穴はブロック塀にではなく自分の体に空いていたかもしれない。
そうと理解したとたん、山元の全身からどっと汗が吹き出た。
「逃げるぞ、山元!」
一瞬のパニックを破る声が耳を打つ。
「月‥‥っ?」
何が起こったのか未だ理解出来ぬまま、山元はその声に反応した。
二人同時に飛び起き、夜の道を走る。月は重い鞄をとうに捨てていた。
見慣れた町。見慣れた景色。
家にさえ辿り着けばこの異常な状況から抜け出せる。
そんな帰省本能にも似た無意識に駆られ二人は走った。
山元にも判った。親友が『逃げるぞ』と言ったその理由が。
何かが追いかけて来るのだ。
『駆けっこ?駆けっこするの?』
無邪気な笑い声。そして、渦巻く風の音。
恐怖しか呼び覚まさない異常な気配が、必死になって逃げる二人を追いかけて来る。
「月っ!」
ガクンと、目に見えてスピードの落ちた親友に山元はとっさに手を伸ばした。
「もう少しだ!走れ、月っ!!」
暗闇でもはっきりと判る苦しそうなその顔にスッと頭が冴える。恐怖の中にも冷静さが戻って来る。
前方に見えて来た小さな児童公園を右に曲れば二人の家は目と鼻の先だ。
だが、このまま家に逃げ込んでいいのか?家に逃げ込めさえすれば安全なのか?
この、得体の知れない恐怖を家にまで連れて行っていいのか?
動物の生存本能と防衛本能、そして人間の理性が苦しい息の下で鬩ぎ合う。それでも今は逃げるしかない。
山元は親友の手を放すまいと指に力を入れた。
「!?」
その瞬間、全身の毛が一斉に逆立った。
毛穴という毛穴が全て開き、全感覚がその気配を捉え声にならない悲鳴をあげた。
とっさに振り返った山元の目に、有り得ないものが映り込む。
「な‥‥何だ、あれは‥‥‥」
家と家に挟まれた狭い道いっぱいに、漏れ届く家々の明かりを受けてそれはぼんやりと姿を現した。
地上の生き物というよりは海に棲む生き物のような、黒く丸い体に無数の触手を生やした禍々しき存在。
「‥‥ひっ‥‥‥!」
ギョロリと、いきなりそれは目を開いた。夜の闇に浮かぶ月の如く。
黒い体いっぱいの一つ目を、赤い血の色をした目を爛々と輝かせ、はっきりと山元と月の二人を捉えた。
それは獲物を狩る凶獣の目に他ならない。
食われる!
そう思った瞬間、二人の体はあの突風にあっさり吹き飛ばされていた。
飛ばされながら山元は確かに見た。
禍々しい目がニタリと笑ったのを。うち振るわれる触手がこの風を起している様を。
「‥‥っつ!」
あれの仕業だったのか!――― そう思った時には、山元の体は公園内にまで飛ばされ柔らかい地面の上をゴロゴロと転がっていた。
「あ、く‥‥っ!‥‥月‥‥?」
ほぼ水平に飛ばされたお陰で今度も致命傷を負うまでに至らなかったが、流石に無傷とはいかなかったようだ。
手を付き起き上がろうとして、右肩に走った激痛に脱臼した事を知る。
「月、月‥‥っ!」
そして、2メートルほど離れた場所に蹲る月に気付き山元は目尻がジワリと熱くなるのを感じた。
「無事か?月‥‥」
「‥‥山元‥‥」
返って来た声は思った以上にしっかりとしていた。
その事に涙がこみ上げそうになるのを我慢しながら山元は周囲に視線を走らせた。
自分達をこんな目に合わせた、出来そこないのウニのような化け物の姿は幸いにも何処にも見当たらなかった。
「今の内だ、月。早く家に‥‥」
「来るな!」
痛む肩を庇いつつ立ち上がった山元に厳しい声がかかる。
「月?」
そして山元は気付いた。月の視線が左斜め上空に固定されたまま動かない事に。
「‥‥月?」
「お前はそこを動くな、山元‥‥」
「な、何‥‥言ってんだよ‥‥」
蹲っていた月が視線を固定したままそっと立ち上がり、じりじりと移動し始める。
「ま、まさか‥‥いるのか?あの、目ん玉の、化け物‥‥」
あの時一瞬見えた有り得ざる存在。まさに化け物としか呼べない不可解な代物。
ザワリと、公園の樹木の葉が揺れる。風が再び巻き起ろうとしている。
見えないけれど未だにあれはいるのだ。
激しい恐怖が山元を襲う。それでも、一人で逃げる事だけは出来なかった。
「月‥‥今、そっちに行くから‥‥」
「来るなっ!」
「月っ!!」
山元が一歩踏み出したとたん走り出した月が、一瞬だけこちらを振り返る。
暗闇で見えるはずのない親友の『逃げろ!』と必死に懇願する形相が山元には確かに見えた。
「行くな、月!」
それが囮になるための逃走だと判らない山元ではない。
だが、山元には犠牲になろうとする親友を追いかけるだけの力は残っていなかった。
2~3歩走っただけで衝撃が脱臼した肩に響き、耐え切れずに転倒してしまったのだ。
「あぁぁぁ‥‥っ!」
「!月ォォッ!!」
耳をつんざく悲鳴に慌てて顔を上げれば、何かが親友の体を捉え高々と持ち上げる様が目に映った。
あの化け物だ!――― そう思った直後、
「伏せろっ!」
力強い声が夜気をつんざいた。
駆け抜ける人影。頬を掠る風。暗闇にヒラリと瞬いた光は何だったのか。
「滅魔!!」
ヒギィィィィィィィィィィィィ‥‥‥‥‥‥‥ィッッッ!!!!
その光が夜の帳を背景に一閃し、目に見えぬ、しかし間違いなく存在する恐怖と絶望を切り裂く。
「!月‥‥っ!!」
空中高くでグラリと傾いだ親友の体が人形のように落ちて来る。
思わず知らず魂ぎる悲鳴が山元の喉から迸った。
5
川崎の惨殺事件――― それはつい昨日の出来事だった。
奈良の事件から川崎の事件が起きるまで、その間隔は僅か4日。
このままの間隔が維持されるのか、それともLの予想通りもっと狭まって行くのか誰にも判らない。
出来る事なら事件など起きてくれるな、と思うのだが、それは無理な話だと総一郎も理解していた。
Lに率いられたキラ捜査本部。正しくは『元・凶悪犯連続殺人特別捜査本部』。
それは今、Lと、たった5人の刑事達で成り立っている。
ここへ来るまでは紆余曲折があった。
当初100人体制で始まった捜査本部は設立1ヶ月ほどで半分に減り、更に次の1ヶ月で3分の1にまで減った。
それからも一人二人と櫛の歯が抜けるように減り、2月の終わりには僅か10人程の小規模本部になっていた。
補充を入れても直ぐに止めさせてくれと言いだすので人員が保てないのだ。
キラ相手では命の保証はない。
故に、警察上層部も抜けて行く刑事達を強く引き留める事はしなかった。
万が一捜査本部の刑事達の中からキラの犠牲者が出たら、警察がマスコミから叩かれるのは必至だったからだ。
そして、3月初めにFBI捜査官達がキラに殺された。邪魔者として裁かれた。
それは多大なるショックを辛うじて残っていた刑事達に与えた。
FBIは日本でのキラ捜査を打ち切った。それに従い、日本警察も捜査本部を解散した。
だが、総一郎は諦めなかった。
彼はLのエージェントである『ワタリ』を通じてLと直接会う約束を交わした。それに4人の刑事達が付いて来ると言った。
ダメだと言っても一向に引かない部下に最後は総一郎も折れ、彼らをLとの邂逅に連れて行った。
そうして、決して人前に姿を見せないと言われた謎の探偵Lと出会い共に捜査する事となった彼らは、
Lの卓越した頭脳とその推理に感服し、
『正義は必ず勝つ』
と言うLの言葉に感動を覚えた。
Lとならきっとキラを捕まえる事が出来る。
総一郎を初めとする5人の刑事達はそう思った。そう信じた。
その後、総一郎は警察上層部と掛け合い5人がLの元で捜査を続ける許可をもぎ取った。
それによって自分達が死ぬ事になっても警察を訴えるような事はしない、
という誓約書にサインさせられたが、改めて5人は後悔しないと誓い合いLの元に留まった。
それは総一郎に更なる負担を与えた。
だが、ここまで来て4人に引き下がれとは言えなかった。
4人に何かあれば自分が責任をとろう。ただ、そう密かに誓った。
それから暫くしてブッチャー事件が始まった。
キラ事件以上に、常軌を逸した連続猟奇殺人事件。
その余りに残酷な手口に世間は『犯人はきっとキラに裁かれるに違いない』と噂した。
それが何時の頃からか、
『ブッチャーはキラに会いたがっている』
『ブッチャーはキラに殺されたがっている』
という噂に変化した。
ブッチャーがアメリカ大陸を東から西へ移動している事は小学生にでも判る事だ。
それに、Lによって齎された『キラは日本にいる』という情報が合わさって、そんな噂になったのだろう。
その噂が真実であるかのようにブッチャーは太平洋を飛び越え日本へと上陸し、
それはキラ事件以上の騒ぎを日本全土に巻き起こした。
悪魔の如き残酷な殺人鬼ブッチャーと違い、キラは救世主とまで言われるだけあって善悪両方の意味で注目されている。
キラを悪と決め付け糾弾する者もいれば必要悪だとする者もいる。時代が生み出した闇のヒーローだと芝居がかって言う者も。
何れにしろ平々凡々な日常を送る者達は、キラを救世主と呼ぶ事に大して抵抗はなく、
殺人は悪い事だと判っていながらも、自分には関係ない事だからと、キラの殺人を裁きと称する事に違和感を覚えなかった。
キラに殺されるような罪を犯した方が悪いのだと、世間は概ねそう思っているのだ。
キラの存在を絶対認められないのは世間一般ではなく、現行の支配者組織なのである。
その支配者組織の一角を担う警察の、それも刑事局長という肩書を持つ夜神総一郎は、
己の正義とも相まってキラ逮捕に真剣だった。
罪を犯しておきながら卑怯な手段で法から逃れた犯罪者を許せない、とするキラの主張は判る。
だからと言ってその反社会的行為に、人としてあるまじき行為に、殺人でもって報復する事もまた許されるべきではないのだ。
だから総一郎は、キラを生きて逮捕する事にこだわっている。
キラ自身も己が犯した罪を振り返るべきだと、彼は本気で思っている。
だが、そんな総一郎の思いとは裏腹に、キラ捜査の要であるLにはキラの主張などどうでも良い事のようだった。
Lの今までの強引な捜査方法や日頃の言動から、キラの生死にすら関心がないらしいとも気づいた。
Lが感じたように総一郎もまた、自分とLは相性が悪いと感じていたのだった。
実の所、それ以前から総一郎の中には本当にLに付いて行って良いのか、という疑問があった。
リンド・L・テイラー――― 全てはかの死刑囚の死が原因である。
あれは果たして正義と言えるのか。
たとえ本人が命の保証はないと判っていて司法取引に応じたのだとしても、あれはテイラーにだけ余りに分の悪い賭けだった。
片や、取引を持ちかけたL自身は全く危険に晒される事なくキラの炙り出しに成功している。
他人を犠牲にして利を得たL。
捜査に必要な事だったのだと、思えば思うほど権力の不条理に後悔と怒りを覚える。
あの時Lの手腕に感心してしまった自分が情けなくなってくる。
それらの事が、Lと共に捜査を始めてからジワジワと総一郎を追い詰めるのだった。
それから、FBI捜査官達の死。
日本の捜査本部に残っていた刑事達の中で、そのニュースに戦慄しなかった者はいない。
彼らを送り込んだのがLであり、その目的が自分達の身辺調査だと知り、怒りを覚えなかった者もいない。
日本警察はLに信用されていない。ならば、こちらもLを信用する云われはない。
ICPOでの会議以来Lの指示に従い――― 捜査本部にはLの代理人『ワタリ』が出入りしていた――― 捜査を続けていた刑事達。
彼らも刑事である前に一人の人間だ。
ワタリが持参したPCから聞こえる明らかにヴォイスチェンジャーで変えられた声。
その推理は理路整然としていた。それは刑事達に頼もしさを与えると同時に不安感をも募らせた。
指示の多くが事後説明だったからである。
それでは刑事達とLの間に一体感は生まれない。
刑事達はどうしても顎でこき使われているというイメージを捨てる事が出来なかった。
スーパースターと言う存在に、日本人はアメリカ人ほど夢を抱いてはいなかった。
しかも、刑事達がLの指示を拒否すれば、Lは平坦な声で数度説得した後簡単に引き下がった。
協力者は日本以外にもいる、日本警察との関係はこれっきり。
そんなニュアンスを平坦な声、丁寧な言葉遣いであっさり口にした。
その都度、刑事局長であり捜査本部の長だった総一郎が部下を宥めLに詫びを入れた。
それを面白く思わない刑事がいるだろうか。
日本の刑事達にとって正体不明の世界の切り札より、自分達の上司の方が数倍尊敬出来たし信頼できたのだ。
信用は互いに抱いてこそ信頼となる。
結局姿を現さないLの存在が死の恐怖に拍車をかけ、捜査本部は縮小の一途を辿ったと言えた。
今、5人と一人の捜査本部は表面上はともかく、水面下では危うい関係にある。
若い松田と宇生はLの頭脳とその強烈な個性に夢中だ。アイドルに熱狂する若者に近い状態だろう。
それが何時か暴走するのではないかと総一郎は密かに心配している。
秘めた闘志を持つ寡黙な模木は、キラ捜査を続行出来るのなら場所を選ばない。
だが、総一郎がここを出て行くと言えば彼に付いて来るだろう。
どんなにLが優秀でも、茂木の尊敬はあくまで総一郎の上にあるからだ。
そして相沢は、実のところ一番Lとそりが合わないようだ。
エリートにしては行動派の彼は、Lのように自分は安全圏にいて指図するだけの人間が嫌いだった。
その点、部下思いで有言実行型の総一郎は頼もしい上司と言えた。
その上司を差し置いて、奇行が目立ち丁寧な言葉の裏で人を駒扱いするLに従うのが面白いはずがない。
それに、妻子持ちの彼は表にこそ出さないが内心キラの脅威に怯えている。
Lの捜査が彼の常識を外れそうになったら、彼は今までの不満をぶちまけLと袂を分かつだろう。
まとまりがある様なない様な、微妙な捜査本部。
結局、牽引力がLの人格ではなくLの推理力にある事が問題なのだ。
そうと薄々気付いていても総一郎にはどうする事も出来なかった。
キラ捜査にはLの力が必要不可欠だからだ。
そして、今の総一郎にはチームワークへの不安よりもっと重大な心配事があった。
いや、それもまた、キラ捜査に深く関わる心配事と言えよう。
何故なら、総一郎達とはどこか噛み合わないLの正義感、Lの隠された性質が暗い未来を暗示しているからだ。
レイ・ペンパー。
キラに殺されたFBI捜査官。死の映像が残っていた唯一の捜査官。
今捜査本部の5人はLの推理に従って、彼が調べていた警察関係者を洗い直している。
Lの推理に誰も文句を付ける事が出来なかった。だが、誰もが躊躇いを感じていた。特に総一郎は。
何故なら、その関係者の中に総一郎自身の名前もあったからだ。
それでも彼らは捜査を開始した。総一郎自身も捜査を行った。
自分も家族も疚しい所は何一つない。そんな自信と信念が総一郎にはあった。
だが、世の中とは無情なもの。ある時総一郎は気付いた。
Lがあろうことか自分の息子に興味を持っている事に。
最初は休憩時の何気ない会話だった。
松田と宇生の恋愛話から始まって相沢の家族の話に移り、それから総一郎の家族の話になった。
取り立ててLが何かを言った訳ではない。
だが、子供達の事をやたらしつこく聞いて来る松田に総一郎は裏で糸を引く存在を感じた。
単純な松田を言葉巧みに誘導し、総一郎の家族に興味を持たせる事などLには簡単だろう。
松田の関心は娘の粧裕のようだったが、粧裕の事だけ聞くのはヤバイと思った松田は当然ながら月の事も聞いて来た。
拒否するのも不自然だったので他愛ない事だけ答えていた総一郎は、関心のない振りをして全身で聞き耳立てているLにサッと血の気が引いた。
それは電撃的直感だった。
『Lはお前の息子をキラだと疑っている』
総一郎も刑事の端くれ、いわゆる『刑事の勘』というやつをちゃんと持っている。
その勘が突然総一郎に囁いたのだ。
そんなバカな!と総一郎は思った。
いったい何故?私の息子の何処にキラだと疑わせる要素がある!?
内心大いに激怒しながら何とか理性でその場を凌いだ総一郎は、何故Lがそのような疑いを持つに至ったかを必死に考えた。
そして皮肉にも、自慢の息子の出来が良すぎたせいだ、という結論に達した。
確かに、息子の月は勉強ができる。全国模試で何度も1位を取っている。
小さい頃から本を読むのが好きで、あの年にしては知識量の多い方だと思う。パソコンにも詳しいようだ。
だが、それだけだ。後は穏やかで気真面目な優等生というだけである。
確かに、2度ほど月のヒントで解決できた刑事事件があった。だが、Lが解決した事件に比べれば子供のお遊びレベルだ。質が違う。
あの程度の事件で月をキラだと疑われたのでは、父親としては堪ったものではない。
そう、悶々と捜査の傍ら一人悩んでいた総一郎にとって、ブッチャーの存在は新たな苦痛の種となった。
キラとブッチャー。
悪を裁く闇の救世主と、悪魔の如き殺人鬼。
両者が出会った時、何が起こるのか。
悪の限りをつくし、救世主をも殺そうとする犯罪者。それとも悪を持って悪を裁く天の御使いに赦しを求める殉教者。
何れにしろ、世間は今、キラとLの対決よりキラとブッチャーの対決に興味をひかれている。
そんな中、夜神総一郎だけは、一人、息子の身を心配していた。
突然、聞き慣れた携帯の着信音が鳴り、総一郎は疲れた顔をハッと上げ音がした方を振り返った。
Lと行動を共にしている刑事達はホテルにいる間は携帯電話をLに預けていた。
何時何処から誰が連絡して来ても全員に判るようにしてあるのだ。
「夜神さん‥‥」
「月‥‥息子からだ‥‥」
その着メロは娘の粧裕が選んだものだった。そして、月の携帯の番号に割り振られていた。
「出てください、夜神さん」
家族には捜査本部は解散したものの、数人でキラ捜査を続けている、と告げてある。
当分家には帰れないだろうとも。もちろん、Lの事は言っていない。
だから、電話が掛かって来るとしたら余程の事が起きた時でしか有り得ない。
総一郎は眉間に深い皺を刻みながら様々な電子機器が並ぶテーブルの上から自分の携帯を取り上げた。
接続されたスピーカーで通話内容は部屋にいる者に筒抜けとなっている。
「もしもし?月か?どうしたんだ、こんな時間に‥‥」
総一郎はチラリと時計を見やり、時計の針が9時半を過ぎている事を確かめた。
普通ならとっくに家に着き夕飯も終わっている時間である。
「月?」
『‥‥小父さん?』
「?」
それは息子の、月の声ではなかった。
何処かで聞いた事のある、まだ若い十代の少年の声。仕事関係で聞いた声ではない。
そうなると聞いたのは私生活で、という事になる。
『月の‥‥小父さん?』
「あ、あぁ、もしかして君は‥‥月の友達の、山元君か?」
2度目の呼び掛けで近所に住む月の友人の顔と名前を思い出した総一郎は、
息子の友人が息子の携帯で自分に連絡を取って来た不自然さに、理性より先に体が反応するのを感じた。
サーッと血の気が引いて行く。心なしか息が苦しい。
「ど、どうしたんだ?こ、この番号は、月の携帯のはずだが‥‥」
『小父さん!月が、月が‥‥!!』
冷静なつもりでもやはり心の何処かで不安に思っていたのだろう。
突然悲鳴に近い声で月の名前を叫び出した少年に、総一郎は居ても立ってもいられずLを振り返っていた。
「竜崎‥‥!」
「息子さんに何かあったようですね。詳しく事情を聴いてください」
「あ、あぁ‥‥」
いつも通りのポーカーフェイスに見返され、ハッと我に返って携帯を耳に当て直す。すると、
『もしもし、夜神さんですか?』
「あ、はい」
『私、山元医院の山元です。家の方にお電話しましたら、今は泊りがけの仕事に出ていらっしゃるとか。
お忙しいとは思いましたが、どうしてもお伝えしたい事がありまして‥‥』
それは間違いなく近所に住む月の友人の父親だった。総一郎とも当然知り合いで、親子共々良い付き合いをさせてもらっている。
『実は、息子さんが怪我をされて‥‥』
「え?」
『いえ、怪我そのものは大したことないのです。ただ、なかなか意識が戻らなくてですね‥‥』
「そんな‥‥!」
『それと、一緒にいたうちの息子も怪我をしたのですが‥‥
あぁ、いえ、うちの息子の怪我はお宅の月君のせいではありません。
それだけは、うちの息子もはっきりと否定しています。むしろ、月君のお陰で助かったと‥‥
だったら、どうして怪我をしたんだ?と聞いても、そのぉ‥‥』
『小父さん!直ぐ帰って来て!月が‥‥月が死んじまう!化け物に殺されちまう‥‥!!
警察で月を守らないと‥‥!あれがまた‥‥猫が、女の子が‥‥!』
『あぁ、すみません。とにかく、ずっとこんな調子で‥‥薬でこれでも落ち着いたんですが。
とにかく興奮していて話を聞いても要領を得ないのです。
それで、お忙しいとは思いますが、こちらに来ていただけませんか?
そうでなければ警察官か刑事さんを回してもらえないでしょうか?
どうやら誰かに襲われたのは確かなようなので‥‥』
父親の困ったような、何処か恐れるような声の向こうから、力のない少年の支離滅裂な言葉の羅列が聞こえて来る。
おそらく鎮静剤が効いて来ているのだろう。その状態でもこれなのだから、薬を打つ前はもっと酷かったに違いない。
「判りました。私が直接そちらに窺います」
『それは良かった。では、私のクリニックの方へいらしてください。
あぁ、それと、奥さんには未だ知らせていません。月君は今晩うちに泊まるとだけお伝えしました。
事が事なので、取り敢えず先に夜神さんに‥‥』
「ご配慮、ありがとうございます。この事は私の口から直接家内に伝えます」
夫がキラ事件に携わっていると言うだけでも妻を心配させているのだ。
これ以上心配事が増えるのは、総一郎としても本意ではなかった。
「竜崎‥‥!」
電話を切るなり振り返れば、どういう訳かあのものぐさなLが立ち上がっていた。
「行くのでしょう?」
「あ、あぁ」
「車の手配は済ませました。それと、私も行きますから」
「え?」
それは決して総一郎を安心させる発言ではなかった。
行くなら僕も!と声を張り上げる松田に留守番を命じるLは本当にいつも通りのLだが、
ここ最近余計な不安に一人ピリピリしていた総一郎は、そこに隠されたLの本音が本能的に読めていた。
Lは息子に会いたがっている。
その目で直に息子を見ようと、いや、観察しようとしている。
それは刑事の勘だったのか、親としての直感だったのか。
だが、総一郎にはLの動向を断る理由がなかった。
理由がないと思ってしまった彼は、悲しいかな、やはり刑事だった。
総一郎とLが駅前の山元クリニックに到着した時、時間は既に11時近かった。
「息子は?息子の様子はどうなんですか?」
「落ち付いてください、夜神さん。電話でお話した通り怪我は大したことありません」
「しかし、意識が戻らないと‥‥!」
「えぇ、それだけがちょっと心配で大きな病院へ移そうと思ったのですが、
うちの息子と一緒に月君を連れて来た子が、移動中に襲われたら被害が出ると言って‥‥」
「襲われる!?被害‥‥!?」
夜間出入り口で待っていてくれた院長の山元の案内で病室へ向かった総一郎は、歩きながらの説明に卒倒しそうになった。
「襲われたって、誰に!うちの息子がどうしてっ!?」
「正確には、うちの息子と二人で襲われて、もう一人の子が犯人を追い払ったようです」
「もう一人の子?その子も友人ですか?」
「それが‥‥私の知らない子で‥‥夜神さんならご存知なんじゃないかと‥‥」
「で、では、その子なら詳しい説明が‥‥」
「ところが、二人を連れて来た後、この病院から絶対出るなと言って、いなくなってしまったんですよ」
「何ですって!?じゃぁ、犯人と共犯という可能性も‥‥」
「それは、うちの息子が違うと言ってました。彼に助けられたんだと。
それにどうしてか、うちの息子もここから動きたくないと言い張りまして‥‥
動いたら危険だ、殺される、と‥‥それは酷く興奮して‥‥」
尋常ではない話だった。
「とにかく息子に会わせてください」
「えぇ、こちらです」
そうして案内された病室のベッドには息子の月が寝かされていた。
「あぁ、すみません。息子がどうしてもここにいると言ってきかなくて」
その隣の付き添い用の簡易ベッドには右肩に包帯を巻いた山元医院の長男が眠っていた。月の友人である。
「怪我の具合は‥‥」
「全身打ち身と左側頭部にコブ。それから露出していた部分に擦過傷が幾つか。あとは、そのぉ‥‥」
「何か?」
「打ち身とは別に‥‥太いロープのようなもので全身を締め付けられたような跡が‥‥」
「!」
思ってもいなかった言葉に総一郎は絶句するしかなかった。
「おや?」
その時、無言で後ろに付いて来ていたLが何とも場にそぐわない間延びした声を発した。
「猫、ですか?」
「え?」
総一郎と院長が振り返ると、何時の間にか1匹の猫が病室の中にいた。
「いったい何処から‥‥」
「あぁ、その猫は‥‥」
それは全身真っ黒な短毛種の猫だった。
「助けてくれた、という子が連れていた猫です」
黒猫は不吉な言い伝えなど気にしたふうもなく、その碧色の宝石のような目で3人を睨め上げると、
優雅な動作で一飛び上がり、ベッドで眠る月の足元に軽く着地してみせた。
「黒猫、ですか」
「竜崎‥‥」
嫌な予感が総一郎を襲った。
「これで、その助けてくれた子が黒マントを着ていたらドンピシャですね」
「竜崎!」
何を言い出すのかと、怒鳴りつけてやりたかった。
だが、そんな総一郎の思いを打ち破るかのように、院長が決定的な一言を発した。
「おや、やはり夜神さんはご存知だったんですね、あの少年の事」
恐る恐る院長を振り返った総一郎の後ろでLがニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「今時古風な黒マントを着た少年でね。あれはいったい何処の制服なんだろう」
夜は未だ未だこれからだった。
6
持ちこんだ椅子に腰を下ろし、何をするでもなくベッドに眠る息子の顔を見つめていた総一郎は、
静かに空いたドアの音に弱々しく首を巡らせ、何の断りもなく病室に入って来た男にそっと眉を顰めた。
「今、相沢さんから報告がありました」
「‥‥何の?」
「駅から夜神さんのお宅までの道に犯人の痕跡がないか調べるよう連絡しました」
「それは‥‥」
「明るくなる前に痕跡が消えたり消されたりしては元もこも有りませんので」
「そ、それで?」
足音も密やかに猫背の背中を揺らしながら病室の中央に立った男は、被害者の二人をじっくりと見比べ、
それから窓辺へと近付きカーテンの隙間から外を眺めやった。
「襲撃の跡は確かにありました」
「!」
「駅前の商店街から一本外れた川沿いの道、そこが息子さんの普段の通学路、で合ってますね?」
「あ、あぁ‥‥そのはずだ。それが最短だから‥‥」
「そこの橋の欄干が壊されていたそうです。まるで自動車の衝突事故現場のようだったと」
「車に追突されたのか?」
「そうではないでしょう。塗料の付着など、自動車事故を示す証拠は見つからなかったそうですから。
それに、橋に面したブロック塀に子供の頭ほどの大きさの穴が8か所開いていたそうです」
「な、何だ?それは‥‥」
「かなりの力とスピードで打ち抜いたようですね。綺麗にくり抜かれていたそうですから。
しかし、そんな事が可能な大型機械の痕跡もやはりなかったそうです。
それと、直ぐ近くの公園にも襲撃の痕跡がありました。
公園までの短い距離に二人の荷物も転がっていたそうです」
「公園‥‥」
それが家とは目と鼻の先の児童公園だと気付いた総一郎は何とも言えない後悔に見舞われた。
息子は帰宅途中何者かに襲われ家へ逃げ込もうとした。
それはつまり家族に、父親の自分に助けを求めたという事だ。
不意に沸き起こった家長としての責任、父親としての愛情に、彼は今まで自分は何をしていたのかと思った。
自分の家族を、子供も守れないで何が正義かと。
「どうやら犯人はここで息子さんを捕まえたようですね。しかし、噂の黒マントに邪魔をされた」
件の黒マントの学生とやらは何処へ行ったのか判らない。ここへ再び戻って来るのか、それとも犯人を追って行ったままなのか。
「公園の木が何本かお宅とは反対方向に薙ぎ倒されていました。あと、ブランコも半壊していました」
それを聞いて、犯人は本当に人間かと総一郎はふと思った。
「虎かライオンか、それとも像か、という大きさみたいですよ、犯人は」
「そんな、バカな‥‥」
「もっとバカな話をするなら、今言ったように破壊の痕跡はありましたが、
犯人の足跡は何処にもなかったそうです」
「え?」
「ですから、タイヤ痕も靴跡も。とにかく、地面には怪しい痕跡は何もなかったようなのです。
明るくなってから再度検証させますが、おそらく何も見つからないでしょう」
「何故‥‥」
「橋やブランコを壊すにはそれ相応のパワーが必要です。そして、パワーはある程度重さに比例します。
そして、その手の物はたいてい大きな音を立てます。にもかかわらず近隣の住民は全く騒いでいない。
子どもが二人襲われたという事実にも誰も気づいていないのです。
それだけ犯人は静かだった。まさにサイレントキラーのようにね」
「‥‥‥‥‥」
「地面に痕跡がないとは‥‥犯人は宙に浮いてでもいたのでしょうか?」
「そんな、バカな話が‥‥」
「だからバカな話だと言いました」
猫背の男、探偵Lの話を聞いて総一郎は息子の友人が漏らした『化け物』という言葉を思い出していた。
化け物、悪魔、切り裂きジャック、ブッチャー、キラ‥‥‥‥
どんどん嫌な連想ばかりが頭の中を巡り、胸の辺りが苦しくなる。
「いずれにしろ、息子さんとお友達が意識を取り戻さない限り詳しい事は判りません。
院長の話では明日の‥‥あぁ、もう今日ですね。
今日の昼前には目が覚めるだろうとの事です。お友達の方が。
その時詳しい話を聞く事にして、夜神さんは休んでください」
「いや、このまま起きているつもりだ」
「また犯人が襲って来るかもしれないと?
もしそうだとして、それは貴方の息子さんを狙っての事でしょうか。それともお友達?」
「竜崎‥‥!」
「お静かに」
総一郎はハッとベッドの方を振り返り、蒼褪めた息子の顔に視線を注いだ。目覚める気配は微塵もない。
「とにかく、今は休んでください。夜神さん」
そう一言言い残してLは病室を出て行った。
その姿が消えてくれたお陰で全身からフッと力が抜けた事に総一郎は忌々しさを覚えた。まるで監視されている気分だった。
恐らくそうなのだろう。
黒猫と黒マント。そのキーワードでLは息子の月がブッチャーに襲われたと考えている。
そして、襲われたからには月がキラであると。
「‥‥そんなはずが、ない‥‥」
両膝の上で握り締めた拳がギリギリ音を立てているようだった。噛みしめた唇の痛みも感じない。
今はただ、息子の意識が無事戻る事だけを総一郎は願った。
「‥‥‥‥あれ?」
目を覚ますと、何だか何処かで見た事のある模様が見えた。
あぁ‥‥これは、うちの病院の病室の天井板の模様だ。
そう思ったとたん、山元はバネ仕掛けの人形のように上体を起こし忙しなく辺りを見回した。
「!‥‥月!!」
そして、隣のベッドの白いシーツの間に親友の小さな頭を見つけ嬉しい悲鳴をあげた。
右肩の怪我などものともせず毛布を跳ね上げ隣のベッドに飛びつき、
見慣れた友人の絆創膏だらけの顔をもの凄く近い距離から穴が開くほど見つめて、行きなりズズズッと鼻を啜った。
「月ォ~ッ‥‥」
自分と親友の身に起きた不可思議な出来事が頭の中を走馬灯のように駆け巡る。
恐怖と混乱でパニックになりそうな自分を必死に抑え、山元は昏々と眠る友人の呼気を確かめた。
それから毛布の下の手を探し出し脈も確認する。
それぐらいの冷静さは彼も持ち合わせていた。伊達に全国屈指の進学校に通っている訳ではない。
「良かった、月‥‥生きてるよ‥‥」
そうしてやっと親友の無事を納得した山元はヘナヘナとベッド脇の床に尻を付いたのだった。
「目が覚めたのかね?」
「!‥‥小父さん?」
ドアの開く音と共に聞こえて来た声に振り返れば、山元もよく知る月の父親がそこにいた。
「怪我は?大丈夫か?肩を脱臼したと聞いたが‥‥」
「お、俺は大丈夫です。それより月が‥‥」
「あぁ、月も大丈夫だ。青痣と擦り傷だらけだが、大きな怪我はない」
「でもっ!月の奴、落っこちたんです!木よりも高いとこから真っ逆さまに‥‥!」
大きな体で鼻を啜り涙目になりながら息子の事を心配してくれる友人の姿に総一郎は何処かホッと安堵しながら、
包帯も痛々しい少年を支え起こし簡易ベッドに座らせた。
「夕べはありがとう。君が月を助けてくれたんだね?」
「俺は‥‥!俺は電話しただけです‥‥」
「君の連絡のお陰で私は直ぐに駆け付ける事が出来た、ありがとう」
「い、いえ‥‥」
責められた方がましだと言わんばかりに背中を丸め、頭を垂れ、鼻を啜る少年は小さな子供のようだ。
もっとも、総一郎にしてみれば17~18歳は未だ未だ子供である。
「ところで‥‥夕べいったい何があったのか、聞いてもいいだろうか。
もちろん、体が辛いようならもっと後でも‥‥」
「いえ!大丈夫です。それに、また来るかもしれないから‥‥」
「また?」
その気になる言葉を訝しく思った総一郎は、彼の面に浮かんだ恐怖の色に思わず唇を噛みしめていた。
よほど恐ろしい目に会ったのだろう。そして、息子の月も‥‥‥
「それは聞き捨てならない台詞ですね。襲撃犯がまた襲ってくるとは」
「竜崎‥‥!」
何時の間に入って来たのだろう。
しっかり閉じられたドアの前に相変わらず猫背な探偵がジーンズのポケットに両手を突っ込んだ格好で立っていた。
「怪我は?本当に大丈夫ですか?大丈夫なら話を聞かせて貰いましょうか。
その話次第では君達を保護しないといけませんので」
「‥‥小父さん‥‥」
「あ、あぁ‥‥彼は、その‥‥私の部下で‥‥」
「竜崎、といいます」
まるで自分の方が上司だと言わんばかりのふてぶてしさで竜崎と名乗った男が月の眠るベッドに近付いて行くのを、
山元は酷くピリピリした感覚で眺めやっていた。
「あの‥‥」
「大丈夫。彼の事情聴取は彼の意識が戻ってから別に行います。
今は先に貴方のお話を‥‥」
それが何故か漸く判ったのは、男の視線が決して月から離れないと気付いた時だった。
そう、男は病室に入って来た時から、月に視線を固定したまま一度も外していないのだ。
その余りに不躾で不信極まりない態度に、初対面でありながら敵意を感じている自分に山元は気づいたのだった。
「それで?いったい何があったのですか?」
結局山元の事情聴取はそのまま病室で行われた。
五月蠅くして月が起きたらどうするんだ!と思わないでもなかったが、
月の父である総一郎は何処か納得のいかない顔をしながらもそれを止めようとはしなかった。
それだけで、友人の父親と男の力関係が判る様な気がした。
男が刑事だと言うのは嘘だ。山元はそう思った。
仮に刑事だったとしても、部下というのは絶対嘘だと。
公安――― という単語を脳裏に浮かべながら、山元はやっとこちらを見た男の顔をジロジロと観察した。
それに男は何一つ文句を言わなかった。神経が図太いのか慣れているのか。それとも山元の事を相手にしていないのか。
おそらく後者だろう。
山元は男の手に握られた小型NP3レコーダーにチラリと視線をやり、それかわざとらしく視線を外した。
「襲われたのは昨夜の‥‥」
「8時過ぎ。10分か15分頃?7時55分に着く電車で来たから」
「襲われたのは?」
「川沿いの道に出て直ぐ、かな。月が気配に気付いて、二人で走って逃げたけど橋の上で襲われた」
「気付いたのはお友達の方が先ですか?」
「あぁ。月、結構神経質なとこあるから」
「神経質‥‥」
「あいつモテルからさ。視線とかよく集めるんだ。知ってる奴の視線も、知らない奴の視線も」
「イケメン、ですからね。お友達。もしかして、ストーカーなんかもいましたか?」
「ス‥‥!」
「あぁ、いたな」
ストーカーと聞き、そして息子の友人の証言に、父親である総一郎は唖然呆然とした表情を無自覚に晒した。
「小父さん、聞いてなかった?」
「き、聞いとらん‥‥!そんな、ストーカーなど‥‥」
「でも、小さい頃、何度か狙われたって聞きましたよ?」
「それは変質者に‥‥!い、いや、全部未遂で終わっとる!そ、それに、大きくなってからは‥‥」
「月ぐらい顔が良くて性格良かったら、ストーカーの一人や二人いても不思議じゃないと思いますけど」
「一人や‥‥二人‥‥!」
「あ、ごめん。月、小父さんに心配させたくなくて話してなかったみたい‥‥ですね?
安心してください。性質の悪いのは俺と同士でボコボコにしときましたから。
害のなさそうな奴は月が懐柔しました。
女の子達はファンクラブ作ってキャアキャア言って満足してるようです」
「ボコボコ‥‥懐柔‥‥ファンクラブ‥‥‥‥‥」
「イケメンって、流行ってるんですよ」
思いもかけなかった息子の青春事情に、仕事一筋だった総一郎は卒倒寸前である。
「同士とは?
「俺と、近所の幼馴染?それと、高校の運動部の連中。みんな月の友達」
「そうですか」
「そう。月、友達多いんだ」
それには男は何も言わなかった。
こいつ、絶対友達いない――― 山元はそう直感した。
「しかし、昨夜の犯人はストーカーではない。そうですね」
竜崎と名乗った男は話を元に戻すためか、顔色一つ変えずそう言い切った。
「あぁ、あれはストーカーの仕業じゃない」
「では、誰の仕業でしょう」
「誰でもない」
「?」
その竜崎が猫背の背中もそのままに視線だけを上げ山元を捉える。
昼近い明るさの中でありながら虹彩までも黒々とした男の目は、物でも見るような目で山元を観察している。
友達にはなれそうにない男だと思った。月とは正反対の人間だと。
「化け物、と。携帯で連絡していらっしゃった時、化け物、と口走っていらっしゃいましたね」
「覚えてないけど、言ったかもな」
「では、改めて伺いますが。貴方達を襲ったのは人間ではなく、化け物、なのですか?」
「‥‥竜崎‥‥」
そんなバカな、と言外に総一郎が非難する。だが、次の瞬間、
「あぁ、そうだ。俺達を襲ったのは人間じゃない。見たこともない化け物だった」
山元の真剣そのものの口調で語られた告白に、ただただ絶句するしかなかった。
それから語られた山元の証言は想像を超えたものだった。
宙に浮かぶ触手の化け物?一つ目で風を起し二人を吹き飛ばした?
「宙に浮いていた、と言うのであれば、何処にも犯人の足跡がなかった理由がつきます。
それに、道幅一杯の大きさともなれば鉄製の欄干を捻じ切るくらいの力があってもおかしくない」
「見えたのは一瞬だ。たぶん、本能のなせる技だろうな。
命の危険に晒されて、俺の野性の勘が目覚めたのかもしれない」
「面白い解釈ですが、そうではないと言い切れないのがこの世のミステリーです。
私自身に限って言えば縁もゆかりも有りませんが、超常現象を全否定する気は有りません」
「竜崎‥‥」
「息子さんは霊感の強い方ですか?」
「そ、そんな話は聞いた覚えはない‥‥」
「お友達である貴方のご意見は?」
「全然ない、って訳じゃないみたい、かな?神経質だって言ったろ?
ゾクゾクするとかは、あるみたいだった」
「だそうですよ、夜神さん」
「‥‥‥‥‥」
信じられない話に言葉もない総一郎。
「感じるから大騒ぎするとか、月に限ってないから。何があっても平気な顔して回避行動に出る奴だし」
「幽霊に襲われたら説教して成仏させるタイプですか?」
「チャンスがあったら試してみたい、って笑いながら言ってたな」
「それはまた、頼もしいお友達ですね」
総一郎は本気で倒れそうだった。
「絵を描いてもらえますか?その化け物の」
「あぁ」
男は背中からカルテの束と筆記用具――― 何処から持って来たんだ――― を取り出すと、それを山元の手に押し付けた。
絵に自信はなかったが、幸いにも昨夜山元が見た化け物は彼の画力でも十分表現できる形状をしていた。山元はカルテの裏にスラスラと化け物の絵を描いた。
「黒くて丸くて一つ目で、翼の代わりに触手を生やした浮遊生物‥‥」
「化け物だろ?」
「化け物ですね」
「妖怪?」
山元の描いた犯人像をじっと覗き込みながら、竜崎と総一郎は暫し想像を巡らした。
「この触手が風を起こし、貴方達二人を2度も吹き飛ばしたのですね?」
「あぁ。それと、公園で月を宙吊りにしたのもこの触手だと思う」
「月君の制服には、何か太いロープで締め上げられたような皺が無数にありました。
肌にしっかり痣が付いていましたし。彼の話を疑う材料は少ないですね」
「し、しかし‥‥」
「そのロープも巨大アナゴンダ並みの太さで、下手をすれば肋骨に罅が入っていたかもしれません」
「!‥‥月‥‥」
「見えたのは一瞬?」
「あぁ。それ以外はずっと見えなかった。でも、月はずっと見えてたみたいだ」
「ほぉ‥‥?」
「俺がキョロキョロしてる時、あいつは一カ所をジッと見てた」
「では、見えていたと思って間違いないでしょうね。
それで?貴方達を助けたというもう一人は?」
「あいつは‥‥」
7
「黒マントの少年、だそうですね‥‥」
「あぁ。そんな格好だった」
「お知り合いですか?貴方達と同年代だと聞きましたが」
「いや、知らない奴だった」
「では、通りすがりの赤の他人?」
「あぁ」
「それはまた、奇特な方ですね。命の危険も顧みず、見ず知らずの他人を化け物から救うだなんて」
「世の中、そう捨てたもんじゃないって事だろ」
「かもしれませんね」
本気で聞く気があるのかと、疑いたくなるくらい竜崎と名乗った男の声には真剣見がない。
視線も定まらず床の辺りをウロウロと彷徨い、時々右手の親指を子供のように銜えたりしている。
それでも質問は、尋問は淡々と続けられた。
「制服を着ていたそうですが、何処の制服か判りますか?」
「いや。詰襟は判りにくくて‥‥水兵か海兵みたいな帽子に校章らしき物が付いてたけど‥‥」
「その時の様子を聞かせてもらえますか?」
「月が‥‥たぶん化け物に捕まって宙に釣り上げられた時、そいつが駆け付けてくれた。
それで‥‥どうやったのか判らないが、月が自由になって、落ちて来て、それで‥‥」
「それで?」
そこまで言ってから山元は口を噤んだ。
その後の事をどう説明すれば良いか判らなかったのだ。
混乱していてよく覚えていないせいもあるが、それは本当に常識を逸した出来事だったから。
「‥‥それで、でも、月は無事で‥‥助けてくれた奴が‥‥怪我をしているから病院へって、
だからうちの病院へ‥‥月、凄く青い顔してて、体も氷みたいに冷たくて‥‥」
その時の事を思い出し、山元はとっさに左手で口元を覆った。不快感と恐怖で吐き気がする。
「車で運んだのですか?お父さんの話では貴方が家に電話したそうですね。病院前で落ち合ったとか」
「車じゃない‥‥」
「では歩いて?」
「あ、あぁ‥‥歩けない距離じゃなかったから‥‥」
「しかし、貴方は右肩を脱臼していたのでしょう?そんな怪我を負っていては彼を運ぶことは不可能です。
黒マントの少年が運んでくれたのですか?そこまで親切な通りすがりの学生だったのですか?」
「‥‥‥‥‥」
黙り込んでしまった山元に総一郎と竜崎の視線が注がれる。
「‥‥判らない‥‥」
「何ですって?」
「判らない、よく、覚えてないんだ‥‥」
「それはどういう意味ですか?」
「俺は‥‥半ばパニックに陥ってて、とにかく月の事が心配で心配で‥‥
月はあいつが運んでくれた。俺は、案内しただけで何も‥‥」
「それで、その時の事は詳しく覚えていない、そう言う事ですか」
「あ、あぁ‥‥」
それを竜崎が信じたかどうかは判らない。
何れにしろ、昨夜の事が未だ整理しきれていない山元には、感情のまま話をする事が躊躇われた。
特に、あの時聞こえて来た幼い処女の笑い声は、化け物以上に理解出来ない現象だったから。
「それで?病院に着いてからはどうしましたか?
救出者は、貴方達にこの病院から出るなと言ったそうですが、それはどうしてですか?」
「判ら、ない‥‥ただ、奴は諦めてないから、ここから出るなって‥‥
ここが一番安全なように取り計らう、って‥‥」
その言葉に思わず息を呑んだ総一郎の顔は真っ青である。
「諦めてない‥‥取り計らう‥‥」
それは、救助者が犯人を知っていると言う事に他ならなのでは?
竜崎も山元もそれに気づいたが敢えて言葉にする事はなかった。
「奴はまた来る‥‥でも、時間稼ぎが出来れば、難を逃れる事も可能だ‥‥そう言っていた」
「時間稼ぎ、ですか。すると、救助者が姿を消したのは、その時間稼ぎのためでしょうか?」
山元は自分には判らないと力なく首を横に振り、未だ意識の戻らない親友に視線を向けた。
昨夜の紙のように白かった頬にはほんのりと血の気が戻り、弱々しく今にも途切れそうだった呼気は安らかなものに変わっている。
それが嬉しくて山元は小さく鼻を啜った。それを冷めた目で眺めやる竜崎。
「何やら、曰くありげな救助者ですね。黒マントといい、黒猫といい‥‥」
「黒猫?‥‥あぁ、そういえば、黒猫が一緒に居たっけ‥‥」
「昨夜はここにいたのに‥‥何時の間にいなくなったんだ?」
寝ずの番をしていた総一郎は言われて初めて猫の存在を思い出したらしく、あわてて病室内を見回し難しい顔をしている。
「猫に番をさせて、いったい何処へ行ったのやら。
また襲って来ると言うのなら、ここに居て自分が番をしていた方が良いと思うのですが」
助けておいて無責任ですね――― そんな他人事みたいな竜崎の言葉に山元も総一郎も眉を顰めたが、
当の竜崎は何処吹く風、と言ったふうに気にもしていない。
「そういえば‥‥変なお呪いを‥‥」
「お呪い?」
そんな竜崎に反発した訳ではないが、ふと思い出した事を口にしてしまった山元はバツが悪そうに頬を掻いた。
「いや、お呪いっていうか、何て言うか‥‥」
「何か気になる事があったのですか?」
「別に大したことじゃ‥‥」
「何があったんだ?」
総一郎の真剣そのものの顔に押され、山元はそれを口にした。
「彼が、そのぉ‥‥お呪いらしきものを月に囁いてったんだ‥‥
こう、指を変なふうに曲げて‥‥早九字?何かそんな感じで‥‥」
「ハヤクジ?」
「忍者とかがよくやる呪文みたいなやつ」
忍者、と言う単語に何やら納得した竜崎はさも面白くなさそうに付き出した唇に指を宛がった。
どうやらこの男は、思考は柔軟だが根っからのリアリストらしい、と山元は気付いた。
「その後の事は知らない。俺が親父の治療を受けてる間にいなくなった‥‥」
「そうですか」
「その後で、月の携帯で連絡した‥‥」
「そ、そうか‥‥」
何もかもが終わった後で自分は知らされたのだと改めて知り、総一郎は再び後悔にくれた。
「ところでもう一つ」
「え?」
もう話は終わったとばかりにホッと息を吐き出した山元に、だが、竜崎は遠慮しなかった。
「女の子、とは何です?」
「!」
山元の顔色が明らかに変わった。それを竜崎も総一郎も見逃さなかった。
「昨夜、連絡してきた時、貴方が言っていたのです。
化け物に殺される、猫が、女の子が、と」
そして、山元の顔にありありと浮かんだ恐怖を。
「そんな事、俺‥‥言った?」
「えぇ、言いました。にもかかわらず、貴方はその説明を何もしてくださらない。
それはどうしてでしょう‥‥」
「‥‥‥‥‥」
じっと押し黙ったまま答えようとしない山元の様子に焦れた総一郎が口を開く前に竜崎がそれを制する。
「どうやら、貴方がより恐怖を感じたのは、襲って来た化け物ではなく、その女の子の方のようですね」
ヒクリと喉を震わせ膝の上で痛むはずの右手を握りしめる山元の様子に、それが正解なのだと竜崎は判断した。
肯定の言葉すら紡げないほど、その存在に恐怖しているのだと。
「判りました。その事に関しては救助者と言う少年の方に聞いた方が確実なようです」
そうと判断すれば竜崎の行動は早い。彼はレコーダーのスイッチを切ると先程のスケッチを総一郎に渡した。
「疲れましたか?」
「‥‥い、いや」
追及されなかった事で何とか平常心を取り戻した山元はそれだけ言って全身の力を抜いた。
「安心してください。私は貴方の精神状態を疑ってはいません」
そんな山元には目もくれず月の方に体ごと向きを変える竜崎。
「完全に信用した訳でもありませんが、幾つかの証拠は貴方の証言と辻褄が合います」
「辻褄‥‥か」
「今はまだそう言う段階です。何せ、貴方達以外は犯人を目撃していないのですから。
ただ、今回の襲撃者が人間離れしている事だけは確かなようです」
「その言い方で、正しいと思うよ」
「貴方が頭の良い冷静な子供で助かります」
嫌そうに眉を顰め山元は自分に興味を失った男の背中と眠り続ける親友を交互に見比べた。
「最後にもう一つ」
あぁ、やはり――― そんな思いが山元の胸に浮かび上がる。
「犯人の狙いは貴方とお友達と、いったいどちらだったのでしょう。
貴方はどちらが狙われたと思いますか?」
「竜崎‥‥!」
総一郎の焦りも露わな声を耳にしながら、意味のない質問だと山元は思った。
何故なら、この男は既に答えを出しているのだから。
「そんなの、判るはずないだろ‥‥俺はあの化け物じゃないんだから」
「そうですね」
そう言って肩を竦めてみせる男を山元は好きになれないと思った。
結局、夕方近くになっても月は意識を取り戻さなかった。
院長の話では怪我そのものは大した事ないと言う。かなり強い力で全身を締め付けられたが、骨や内臓に異常はない。
何かあるとすれば脳だが、それは専門病院に行かなければ判らないと。
そこで、竜崎の提案により月をもっと設備の整った病院へ移す事になった。
山元は反対したが、その理由は実に曖昧で根拠のないものであり、
月の症状が心配だからと父親である総一郎に言われれば引かざるを得なかった。
「心配いりません。病院には警官を配置するよう手配しました」
「警官なんかで月を守れるもんか」
「いざとなれば発砲許可も出します」
半信半疑で総一郎を見やれば、彼も胡乱な眼で竜崎を見ている。
やはり、力関係は刑事局長の総一郎より、竜崎という名の男の方が上のようである。
だが、どんなに不審な相手でも、今は月の体の方が心配だった。
「俺も行く」
「いえ、貴方は残ってください」
「どうして!?」
「護衛対象は少ない方が守り易いからです」
「分散する事になるぞ」
「数を増やせば問題有りません」
本当か?と言うように竜崎を睨め付け、もう一度総一郎を見る。
「竜崎の言う通りだ。ここは我慢して欲しい」
それから1時間後5人の刑事と警官がやって来て山元家の警護に付いた。
病院を休んだ父親と専業主婦の母親は不安そうにしていたが、息子が変質者に襲われたと聞いてそれを受け入れた。
「あの刑事達には何と説明を?」
「殺してやる、と脅迫されたと言ってあります」
「化け物の話は‥‥」
「するはずないでしょ」
「‥‥!」
全ての手筈が整った後、総一郎の問いに返された答えは予想通りのものだった。
「もし、本当に化け物の仕業だとしたら‥‥」
「彼らは大丈夫です」
Lのポーカーフェイスがいつも以上に憎らしい。
「竜崎‥‥貴方は本気で、私の息子がキラだと思っているのか‥‥」
漸くその疑問を口にすると、一人残された月を見下ろしていたLが振り返りもせず『今更なんですか』と答えた。
「レイ・ペンバーの事が判った時点で、キラ容疑者は彼が調査していた者の中にいると、
そう、私は言ったはずですが?」
「キラの内通者じゃなかったのか!?」
「キラは単独犯。これが私の推理です。それもお話したと思います」
「だからと言って何故、月が‥‥!」
「貴方の息子さんだからですよ」
「私の?」
「キラの青臭い正義は、世間を知らない子供の正義です」
「‥‥竜崎‥‥!」
「貴方の自慢の息子さんは、さぞや良いお子さんなんでしょうね」
「‥‥‥‥」
「それこそ、子供の見本。理想の子供そのもののように」
唐突にスーツのポケットに入れて置いた携帯がブルブルと震える。
「夜神さん」
促され出てみると、それは迎えに来た松田からの連絡だった。
探偵Lがベッドで眠る夜神月を抱き上げ階下へと降りて行く。それを総一郎が慌てて追いかける。
理想的な子供の何処がいけない!?そう心の中で憤りながら。
「竜崎、局長‥‥」
病院前には松田の運転する車がエンジンを掛けたまま待っていた。
後部シートに乗り込もうとしたLから息子を奪い返し、そこには総一郎が乗る。
「お好きなように」
それには文句を言わず、Lは素直に助手席に乗り込みシートベルトを締めた。
「しっかり抱いていてくださいね」
毛布にくるまれた月はそれでも目を覚まさない。
「どうやら薬のせいだけではないようですね」
土と埃で汚れ擦り切れた制服はとっくに着替えている。おそらく親友である山元のパジャマだろう。
肩を脱臼した山元と違い包帯こそないけれど、顔と言わず手と言わず月はあちこち絆創膏だらけだ。
そんな息子の上半身を自らの膝の上に乗せ、総一郎は窓の外を見やった。
何の変哲もない、何時も通りの町並みがそこにはある。
一日の仕事が終わり家路を急ぐ人々や、酒を飲んで憂さを晴らそうとする人々でごった返す駅前。
そこをあっさり通り抜け、4人を乗せた車は都心へと向かった。
「竜崎、いったい何処へ?」
「いい加減ホテルを渡り歩くのも飽きましたので、アジトを構える事にしました」
「アジト?」
「倒産寸前の会社のビルを買い取りまして、色々私好みに改築させました。
造りは古いですが、セキュリティには自信があります」
「何時の間に‥‥」
「日本に来た時からです。何となく、長引きそうな気がしたものですから‥‥」
未だキラを捕まえられない名探偵。FBIの助けも日本警察の助けもほとんど受けられなくなってしまったL。
性格には多々問題有りだが、謎解き、犯人探しにかける意気込みは本物である。
「とにかく、月君はそのビルに来てもらいます。
あぁ、その前に大学病院に寄って脳に異常がないか見て貰わないといけませんが」
「と、当然だ‥‥!」
まさか忘れていたのか?フツフツと湧き上がる怒りを総一郎は必死に抑えつけた。
信頼されているのだと思っていた。
こうして自分達の前に姿を現してくれたと言う事は、寝食共にして捜査していると言う事は、
同じ目的のために動いていると言うだけでなく、互いに信頼しているからだと思っていた。
だが、それはこちらの勘違いだったらしい。
Lは未だ秘密に包まれ、幾つもの手を隠し持っている。
正義だ何だと綺麗事で誤魔化して、死刑囚を囮にしたように、目的を達成するためならどんな手段も厭わない。
もしかしたらポーカーフェイスは仮面ではないのかもしれない。
Lの人間性を疑いたくないのに疑ってしまう自分に、総一郎はただ黙ることしかできなかった。
「‥‥あれ、は‥‥」
「?」
都心に入りどれくらい走っただろう。
そろそろ日が落ちようかと言う空はそぞろに灯り出した街灯やネオンのせいで妙な明るさを残している。
それでも、人の姿は薄暗く沈み顔の作りまでは良く判らない。
そんな黄昏時の不確かな視界の中、助手席に沈み込むように座り前方を見ていたLは、その異様なシルエットに逸早く気付いた。
「え?え?何ですか?竜崎」
いきなり身を乗り出しフロントガラスに顔を押し付けるようにして外を見やるLに、運転手の松田が慌てふためく。
「まさか‥‥」
「どうした?竜崎‥‥」
後部シートの総一郎はもちろんのこと、松田も気づいていないそれはグングン近付いて来る歩道橋の上にいる。
歩道橋の、しかも欄干の上に、色褪せた夕焼けと宵闇を背にして。
「黒マント‥‥!」
化け物とはほど遠い二本足の人間の姿でスックと立っている。
「松田っ!ブレーキ!!」
「えぇぇっ!?無理ですよぉ‥‥!!」
「いいから、ブレーキッ!!」
「だから、無理‥‥!」
次の瞬間、黒いシルエットが不意に消えた。そして、
「!!」
「何だ!?」
ガシンッ‥‥!!
直後、4人を乗せた車が縁石に乗り上げたかのように大きくバウンドした。
「上かっ!?」
ダッシュボードを開けハンドガンを手にするL。だが、窓を開け外を牽制する暇はなかった。
「な‥‥!?」
耳に痛い金属音、ガリガリとアスファルトを削る音。悲鳴とタイヤの軋み音。
総一郎とLの目の前で、それは白刃の輝きを閃かせる。
「うわぁぁぁっ!!」
車のど真ん中を上から下へ、真一文字に貫く日本刀。
それは間違いなく非日常が日常に割り込んで来た瞬間だった。
8
「うわわわっ、わわっ!?」
突然の衝撃にハンドルを取られた松田が急ブレーキを踏んだせいで車は更に大きく跳ね上がり、
まるで巨人に掬い上げられた亀のように軽々と尻を持ち上げ宙を舞った。
シートベルトの圧迫に呻き声を上げる男達の視界がグルリ一転し、ガードレールを飛び越えた車が歩道上で何度もバウンドして停まる。
一人シートベルトをしていなかったLが天井に頭をぶつけながら、
それでも車体を貫く日本刀を器用に避け、車が停まると同時に後部シートの二人を振り返る。
「夜神さん!」
その目に映ったのは、今にも心停止寸前の鬼気迫る形相をした総一郎が愛する息子を必死に抱きかかえている姿だった。
「な、な‥‥何が、いったい‥‥」
「ひぇぇぇ~~~‥‥っ!」
涎まみれの汚い顔で同じように後ろを振り返った松田が、眼前の日本刀に気づいてハンドルにしがみ付くや情けない悲鳴を上げる。
「松田!五月蠅いっ」
ビィィィッ‥‥!と響き渡るクラクションに、流石のLもポーカーフェイスを崩し松田を怒鳴った。
「何をしている!」
その時、いきなり後部ドアが開いた。総一郎が座った側と反対側のドアが。
「あそこから出るなと言ったはずだろ!」
ロックを掛けていたはずなのに!と思いながら衝撃で外れたのかと考え直し、
いきなり顔を覗かせた黒い衣装の人物――― おそらく10代後半、帽子のせいで顔は良く見えない――― に視線をやる。
「だ、誰だ!貴様っ‥‥!」
「!」
とっさに狙いを付けようとしたハンドガンにバサリと覆いかぶさった黒い布はマントだろうか。
「やめろっ!月に触るな‥‥っ!」
「クッ‥‥!」
「あわわわわ‥‥」
払い除けた時にはLの手にハンドガンはなかった。
「待ちなさい!!」
「月‥‥っ!!」
黒に視界を覆われたのはほんの一瞬。だが、その一瞬で侵入者は総一郎の腕から夜神月を攫っていた。
「何て奴だ‥‥!」
「月!月を返せっ!!」
「局長‥‥っ!」
あちこち痛む体を叱咤し車外へ飛び出したLの頭上を黒い影が飛ぶ。
タン!と、軽い着地音を蹴り足に、風の如く消え去ろうとするその影。
暮れなずむ夕暮れの街中でも、それが黒いマントを翻した人間だと言う事がLには良く判った。
その両手に抱かれている毛布の塊は間違いなく夜神月だ。
街路樹の花壇を飛び越え、器用に人垣を避け、あろうことか世界の切り札とまで呼ばれる探偵Lの前で堂々と犯罪を犯す誘拐犯。
「止まれ!止まらないと撃つぞ!!」
後を追って走るLの遥か後ろから総一郎の狂ったような叫び声が聞こえた。
「松田!夜神さんを‥‥!!」
「は、はいぃぃっ!!」
このままでは街中で発砲しかねない被害者の親を松田に任せ、とにかくLは走った。
ジーンズのベルトに手をやり、そこに装着してきたジャンプ警棒型スタンガンと催涙スプレーを確認する。
それを見た総一郎が嫌な顔をした代物だが、持って来て正解だった。
出来れば防刃グローブも欲しいところだが贅沢は言ってられない。
念のために、と着て来たいつもよりかなり厚めのシャツ――― ケプラー繊維で裏打ちした――― が頼みの綱だ。
「クッ‥‥!なんてタフな奴だ‥‥」
かれこれ5分ほど走っただろうか。Lは大通りから商店街を抜け今は寂れた街中を走っている。
人一人抱いて走っていると言うのに誘拐犯のスピードは全く落ちそうにない。
インドア派の振りをして運動には自信のあるLも流石に息が切れてきた。
街行く人々はTVの撮影か何かと勘違いしているのか、取り立てて騒ぎだす様子がない。
騒がれて警察を呼ばれるのも困るが、応援が欲しいとも思う。
目に見えて誘拐犯との距離が開いたと思った時、前方に赤い奇妙な物体が見えて来た。
「‥‥鳥居?」
それが日本古来の神を崇める建物の門だと気付いたLは、その下を潜り抜けようとする黒シルエットを確認した。
「あそこへ逃げ込むつもりか?」
古い町中の小さな神社。そんな所へ逃げ込んでどうしようと言うのか。
「ハァ‥‥ハァ‥‥」
つんのめるようにして境内へと辿り着き短い石畳の道の向こうを見やれば、古ぼけた社の前に佇む黒い人影がじっとこちらを見ていた。
「私を‥‥待っていた、と言う事ですか?」
「‥‥‥‥」
山元少年の言う通り、黒いマントに黒い学帽。山元病院から姿を消した救助者に間違いない。
だが今は誘拐犯だ。
痩身長躯を黒一色に包み、水兵帽に似た学帽で顔を半分隠し。
膝丈ほどのマントの下から日本刀の鞘を覗かせたその姿は実に浮世離れしている。
「いくら浮世離れしていても、犯罪者は犯罪者。犯罪を犯したら捕まえなくてはいけません」
社の軒下に佇んだまま動かない誘拐犯の真後ろには毛布の塊が見える。
「夜神月を‥‥どうするつもりですか」
社の階段に寝かされたその塊もまた、ピクリとも動かない。
「彼が‥‥キラだと知って、こんな事をしたのですか」
答えはなかった。
「昨夜彼を襲ったのはブッチャーですか?」
だが、ブッチャーと言う名に誘拐犯はゆっくりと動き出した。
僅かに上体を傾げたその格好は刀の柄に手を掛けてでもいるのだろうか。
「ブッチャーは‥‥キラを、どうしたいのですか?」
「‥‥‥‥は‥‥」
「?」
背後で何か音がした。
ヒュンと、聞こえたのは唸り音か風の音か。
「月は‥‥」
「ツキ?」
そして、石畳の両端の摩耗した石灯篭が2基ともガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「ハハハ‥‥これがもしかすると、超常現象、と言うやつですか?」
ザワザワと揺れる梢の音。沈みきった陽と、頼りない街灯と。
それにもかかわらず長く伸びる影は右に左に不安定にユラユラ揺れている。
「月は未だ満ちていない。ならば、勝機はある」
「何ですって?」
「死にたくなければ彼を守れ」
「!ちょっと‥‥!」
いきなり背後から突き飛ばされ、Lは無様に石畳の上を転がった。
その彼目掛け走って来る黒マントの誘拐犯。翻ったマントの下から見えたのは詰襟の学生服と日本刀だ。
何が!?と思う間もなく、ほんの数歩で間合いを詰めた少年が――― チラリと見えた顔はとても若い――― 再び宙を飛ぶ。
ギイイィィヤァァァァ‥‥‥‥‥ッッッッッッツ!!!!
それは何とも凄まじい音だった。
悲鳴とも咆哮とも、そして物が壊れる音ともつかぬ酷い雑音。
振り仰いだ頭上で視界いっぱいに広がった闇より暗い闇を少年の日本刀が切り裂いた瞬間、
その雑音が境内いっぱいに響き渡り、そして周囲の木がバキバキと倒壊した。
切り裂かれた何かが四散し、周囲の木を押し倒したのだとLはとっさに理解した。
「これが‥‥二人を襲った、化け物‥‥」
それは目に見えない存在。
人間ではない、まさに化け物としか言えない何か。
その存在を納得できないまでも認めるしかないLは、本能的恐怖で震える四肢を動かし少しでも乱闘の渦から遠ざかろう足掻いた。
キィィィン!キィィィィィ‥‥ン!!と響くのは、少年の振るう日本刀が何かとぶつかり合う音だ。
その音が響くたび火花が飛び散り、Lの全身に寒気が走る。
この恐怖にはテロリストも殺人鬼も敵わないだろう。
何故なら、獣の中で一番弱い人間の唯一の武器である知恵が全く通用しない相手だから。
「こ、こんな所で死ぬわけには‥‥」
少年が何かを叫んでいる。いや、叫んでいる訳ではない。
叫んでいる訳ではないが、この怖気が走る空気の中にあって少年の声はあくまで涼やかで朗々と響き渡るのだ。
まるで悪魔を追い払う天使の歌声のように。
そして、その声が響き日本刀が閃光を放つたび、夜に紛れた化け物の欠片が零れ落ちる。
石畳をひっくり返し、土を抉り、社の屋根を破壊し。化け物がのた打ち回っているのがはっきりと判る。
「キラを‥‥キラを捕まえるまでは‥‥死ねないっ!」
漸く辿り着いた社の階段。そこに寝かされた毛布の塊に縋りつきLはガバリと身を起した。
「キラ‥‥夜神月‥‥!」
震える手で毛布を剥げば、そこから現れたのは未だ眠り続ける夜神月だった。
その青白い顔をまじまじと見つめ、そこで初めて周囲の異常な明るさに気付く。
振り返れば、直系1メートルもありそうな鬼火が境内を飛び回り日本刀を振るう少年の視界を明るく照らしていた。
「‥‥!?」
鬼火に照らされた少年の影が境内に華麗に舞い躍る。そして、その影に絡みつく無数の触手。
不可視の存在を示唆するその幻影に、これは自分の手に負えない事件だとLは心の底から認めた。
「逃がさん!!」
鋭い怒気がLの耳を打つ。
地面に降り立った少年がマントを跳ね上げ天を突かんとばかりに高々と日本刀を掲げた時、
朱い鳥居が鬼火の光を受けて金色に輝き出した。
眩しさに思わず顔を反らしたLの耳に化け物の断末魔の悲鳴が届く。
「封印!!」
サッと視線を戻せば、朱い鳥居に貼られた光の蜘蛛の巣が何か黒い物体を捉えているのが見えた。
その物体に向かって両手を付き出した少年の体が綺麗な碧色に輝き始める。
少年もまた、Lの理解を超えた存在だと知らしめる輝きが。
「‥‥っつ!」
そうして、尋常でない力の奔流が少年の身の内に治まった時、辺りは何事もなかったかのように静まり返っていた。
「あそこから出るなと言ったのに‥‥人の忠告を聞かないからこんな事になるのだ」
日本刀を鞘に納めゆっくりと振り返った少年の足元にはいつの間にか黒猫が纏わり付いていた。
「‥‥その理由に‥‥何の根拠も、有りませんでしたので‥‥」
ニャァと、黒い猫が一声鳴く。
まるでその声に答えるかのように少年が猫を見下ろし、学生服の胸に白く輝く奇妙なガンホルスターに手を当てる。
その手は闇の中にあっても白く、少年の学帽の下から覗く頬もまた百合のように白かった。
「あの建物には結界を張っておいた。力を失いつつある一目連には破れない代物だ。
だがそれも、自ら外に出てしまえば意味はない」
「私はいらない事をした、のでしょうか?」
「そうなるな」
抑揚のない少年の声はまだ若い。
跳ね除けられたマントの下から現れたその肢体も健やかに伸びている。
だが、醸し出す雰囲気は老人のそれより落ち着いていた。それどころか生きた気配すら感じさせない静かさだ。
頬の白さと形の良い唇の無表情さがそれに拍車を掛けている。
自分以上に感情が抑制されているとLは直感した。
「悪い事を‥‥しました」
「構わん。何も知らない人間なら、当然の行動だった」
そして、世界の切り札とまで言われた自分を歯牙にも掛けないその態度に次元の違いを感じた。
この少年と自分は違う世界に生きている。違う理念で生きている。
そう感じずにはいられなかった。
「一つ、聞いてもよろしいですか?」
未だ何か気になる事があるのだろうか。
ゆっくりと周囲に視線を巡らせる少年を観察しながら、Lはこの騒ぎにも一向に目を覚まさない夜神月の体を手繰り寄せた。
軽く抱きしめた体は冷えた夜気にもかかわらず仄暖かい。
「彼を助けたのは、何故ですか?」
猫がまた鳴いた。
「彼が、化け物に‥‥」
「一目連」
それが化け物の名前なのだろうか。
「その、イチモクレン‥‥とか言う化け物に襲われると、予め知っていた、のですか?」
ニャァニャァと猫が煩い。
「知っていた訳ではない」
「しかし‥‥」
「助けることが出来たのは偶然だ。今回は何とか間に合った」
それはつまり、今までの被害者も助けたかったが間に合わなかったという事か。
「私がいるからには、もう、あれらの好きにはさせん」
あれら、と言う表現が非常に気になる。
「彼は‥‥何故、狙われたのですか?理由が、あるのですか?」
腕の中の存在をチラリと見降ろし、フラフラ飛び回る鬼火の光に仄映える白皙の横顔がとても綺麗だなどと場違いに思う。
「彼は‥‥とても稀な存在だ」
「稀?」
「ブッチャー」
その名にLの喉が無意識にヒクリと動く。
「お前達がブッチャーと呼ぶ存在に殺された被害者達も、彼と同じだった」
「あの化け物が‥‥ブッチャー‥‥」
ゆっくりと頷きながら胸の白いホルスターを白い指で撫で続ける少年。
「‥‥被害者には‥‥何か、共通点が‥‥あったのですか?」
目深に被った帽子で隠された視線はいったい何を探しているのか。
Lは忍び寄る恐怖に我知らず腕の中の存在を抱く手に力を込めていた。
「だから‥‥彼らは、この世界において‥‥とても稀な、存在だったのだ‥‥」
その見えない視線がヒタリとLに合わされる。Lは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「キラとは、関係ない‥‥のですか?」
「キラ?キラとは、この世界で、救世主と呼ばれている裁き手の事か?」
「そう、です」
白い手が徐に下ろされ刀の柄にサラリとかかる。
「キラが、憎いか‥‥」
そうはっきりと言われてLは多少戸惑った。
「憎い訳ではないが、捕まえたいと‥‥?」
「えぇ、まぁ」
「捕まえてどうする」
「どうもしません」
音もなく左手の指が鐔を押す。スラリと覗いた白刃の美しい刃文が幻想的な鬼火に照り映えLの目を眩ませる。
「人の世は無常。ならば、己に正直に生きた方が身のためだ」
「‥‥‥」
「一期一会にすら恵まれぬ者に比べ、お前は運が良かったと知れ」
「私は‥‥」
『やっと会えたのに‥‥!』
「な‥‥っ!?」
『やっと会えた、やっと見つけた‥‥っ!』
鳩尾を深く抉る鈍痛にLは耐え切れず呻き声を上げた。
『寂しくて、怖くて‥‥痛くて、悲しくて‥‥笑いたいくらい寂しくて‥‥!』
「アリス‥‥」
それは誰の名前なのか。
パチリと微かに音が鳴った。それは少年が刀を納めた音だった。
『ここは何処?ここは知らない‥‥ここは怖い!』
「アリス‥‥迎えに来た」
『ここは寒い、ここは暗い、ここは苦しい‥‥怖いっ!!』
そして、その音よりも遥かに切なくか細く響き渡る声は間違いなく幼い少女のもの。
「ここに居てはいけない、アリス。ここは‥‥お前達にとっては苦しいだけの世界だ」
「グッ、グクゥッ‥‥!」
胃を押し破るような圧迫感に、Lは息すら出来ず腕の中の少年に縋りついた。
何かがいる。何かが自分の中にいる。恐ろしい程の冷たさを有した不快極まりない何かが。
『いやいやいやっ!独りはいやっ!!寂しいのはいや!冷たいのはいや!苦しいのもいやっ!!』
「この世界にお前達の入り込む隙間はない」
『消えちゃう、消えちゃう、消えちゃう‥‥!アリスが消えちゃう!!』
「だからその前に、私と帰ろう」
ザリリと音を立て少年が一歩にじり寄る。その黒光りする黒の革靴の爪先が、奇妙にはっきりとLの目に映った。
『いやいやいやっ!いやっ‥‥!!消えるのはいやっ!!』
「アリス!」
喉をせり上がる嘔吐感。
『お月様が‥‥お月様が見えないのっ‥‥!消えるのはいやぁぁぁ‥‥っ!!』
「アリス!やめろ!!」
甲高い少女の悲鳴が自分自身の喉から迸るのを聞きながら、抱きしめていた少年の首に両手を伸ばす自分に愕然とした。
『だから、だから‥‥死んで!お兄ちゃん‥‥っ!!』
その瞬間、夜神月の目がパチリと開いた。
「!?」
乱舞する鬼火の煌めきを受け、宝石のように瞬く済んだ瞳。
その瞳に小さな女の子の顔が映り込んでいるのを、Lは確かに見た。
「ガ、ハッ‥‥!」
『キャァァァァァァァ‥‥‥ァァァァッ‥‥‥!!』
衝撃に仰け反った体が強い力で背後に引っ張られる。
引っ張られながら、それが自分の胸から突き出た人の腕のせいだと、Lは知った。
その腕の握りしめられた拳の先に少女のか細い首が見えたと思ったのは気のせいだろうか。
「う‥‥くっ!」
固い石畳にもんどりうって倒れたLは、自分でも驚嘆に値する冷静さで跳ね起き、あたふたと己の胸を叩いた。
「な、ない‥‥何処にもない‥‥確かに胸を、貫かれたのに‥‥」
だが、認識したはずの傷は何処にもなかった。血の跡どころか穴すら開いていない。
では、あれは幻だったのか。
そんなはずはないと、混乱するLの視界に黒と白の影がよぎる。
ハッと顔を上げて見たものは、物静かに、生きているのかと疑いそうになるくらい静かに対峙する2人の少年だった。
黒と白の、どちらも幻のように美しい生き人形。
「夜神‥‥月‥‥‥」
その白い人形が目覚めを待ち望んでいた自分のキラだと知って、得も言われぬ感動に打ち震えるL。
だが―――
「NO‥‥‥!!」
黒の少年が黒のマントを翻し白銀の銃口をキラへと向けるのを、Lは止める事が出来なかった。
夜空に木霊する無情な銃声。
崩折れた体に駆け寄り掻き抱き、キラと叫ぶ。
「貴様‥‥!」
「逃したか‥‥」
「何?」
何もない空に目を向ける黒の少年に、俄かに冷静さを取り戻しLは唇を噛みしめた。
「安心しろ、死んではいない。怪我もしていない」
「当てて‥‥ないのか?」
「私が撃ったのは別の存在だ」
信じられずとも信じなければ何も解決できない。
そうと割り切って素早く夜神月の息を確認したLは徐に物騒極まりない少年を振り返った。
「お前は、誰だ‥‥」
果たして、求めるものは返って来た。
「ライドウ‥‥」
シルバーに輝く銃を腰の白いホルスターに納めた少年が、跳ね除けていた黒いマントを下ろしLを見据える。
いや、夜神月を。キラを。
「十四代目、葛葉ライドウ」
東京の夜空に月は見えなかった。
9
大都会の真ん中。
月も星も見えない狭い夜空に見降ろされた神社と言う非日常的空間。
黒と白の少年と、薄汚れた鼠のような男が1人。
ユラユラ飛び交う鬼火に照らされ奇妙な緊張感を生み出している。
Lは目の前の黒尽くめの少年から目を離す事が出来なかった。
腕にしたキラも気になるけれど、そのキラと何か曰くありげな少年の方が今は気になって仕方がない。
連続猟奇殺人鬼ブッチャー――― そのブッチャーが目に見えない、いわゆるモンスターだと少年は言いきった。
事実、Lの周囲にはその目に見えない存在による破壊の跡が残っている。
L自身も信じられないような体験をした。俗に言うオカルト体験だ。
キラ事件もオカルトじみてはいるが、未だ未だ知性で解決できそうな範疇に入る。
だが、これは違う。
これは人間のエゴと欲望が生み出した犯罪ではない。その犯罪を追う探偵が取り扱う分野ではない。
それでも黒尽くめの少年が、Lがやっと手に入れたキラを見ている限りは、関係ないと捨ておく訳にはいかなかった。
「クズノハ‥‥ライドウ?」
返って来た一つの名前。
日本人の名だと思うがその響きに余り馴染みはない。現代風ではなく古風な名なのだろうか。
「十四代目?」
少年は黒マントに全てを隠し――― しかし、その人間離れした雰囲気は隠しようもなく――― 軽く頷いてみせた。
「何の、十四代目マスターなのですか?」
マスターと付け足したのは、彼が何らかの技能の持ち主ではないかと推察しての事だ。
すると、少年はあっさりと答えをくれた。
「デビルサマナー‥‥と言っても、この世界では馴染みはあるまい」
「?‥‥devil summoner‥‥‥悪魔召喚師‥‥?」
「やっている事はエクソシストに近いか?」
「エクソシスト‥‥」
胡散臭い――― それが第一印象。だが、たった今目撃した少年の戦闘能力は侮れない。
「それは‥‥」
「前もって言っておくが私はクリスチャンではない。バチカンとは無関係だ」
口にしようと思った事柄を先読みされLは我知らず眉間に皺を寄せた。
「それに、そもそもこの世界に私の知る悪魔は存在しない。いるのは仮定の存在だけだ」
『この世界』という言い方が気になった。
声しか聞こえない、おそらくは少女の姿をしたモンスターにも確かそう呼びかけていた。
「この世界の悪意ある実体なき存在は、大概が死者の残留思念だ。
そして、人間が言うところの悪魔とは神の敵であり、人間を堕落させる教義上の存在。
つまりは人間の想像力より生み出された仮定の存在ということだ。実存ではない。
何らかの人間以上の意思は存在するが、その実存をこの世界の人間は証明出来ないだろう」
「それは‥‥哲学的意見ですか?それとも神秘学?」
「ただの事実だ」
見た目以上に饒舌な少年の口調からその感情を推し量る事は出来なかった。
心理学に精通し幾人もの嘘を暴いて来たLであっても看破するのは難しそうだ。
Lはライドウと名乗った少年から視線を外し腕の中のキラを見やった。
「!?」
そして、そのキラの白いパジャマの胸の辺りに、碧色した子供の手形が二つ付いているのに気付きギョッとなった。
「‥‥これは、まさか‥‥さっきの‥‥」
一瞬見開かれたキラの瞳。そこに映り込んでいた一人の少女。
「アリスの手形だ」
「アリス?」
与えられた答えにLは再度、黒の少年、ライドウを振り返った。
「一目連を操っていた少女の名だ」
「‥‥モンスターではなく、少女が主犯、でしたか」
俄かには信じられないが、今夜の出来事そのものがLの常識を逸しているのだ。
主犯が少女でもちっともおかしくないだろう。
「では、彼を襲った、貴方が退けたモンスターと少女の正体は?当然、人間ではありませんよね?
先程の貴方は悪魔という言葉を口にした。という事は、ブッチャーの正体は悪魔なのですか?
しかし、同じ口で貴方は『悪魔は実存しない』とも言う。
いったいどちらが真実なのでしょう」
「どちらもだ」
「理解しかねますね」
一応、その答えの拠り所らしきものは想像出来た。想像できたが、信憑性は非常に薄い。
「見当は付いているだろうに」
またしても思う所を言い当てられ、Lはますます眉間の皺を深くさせた。
「貴方はまさか‥‥」
「カボチャのお化け」
「え?」
Lの追求を遮るように聞こえて来た声は、何とものんびりしたものだった。
「カボチャのお化けが浮いてる‥‥ハロウィーンはまだずっと先だと思ってたのに‥‥」
「夜神‥‥月。気が付いたのですか?」
「今年はカボチャケーキを作りたいと粧裕が‥‥ん?」
腕の中でもぞりと動いた重みが、その苦労知らずの指を上げて夜空の一画を指し示している。
「‥‥カエル?」
「は?カエル?」
おまけに、そのパチリとした瞳に映るオレンジの光は確かにカボチャの形をしていた。
それをはっきりと確認したLは、まただと思った。
どうやらLには見えない存在が夜神月には見えているらしい。
「あれ?カエルじゃない?」
「‥‥もしかして、カエル、というのは私の事ですか?」
「うん、そう。あ~‥‥僕を抱いてるカエル。雄カエル?そんな趣味、僕、ないんだけど」
「私だってありません‥‥というか、そもそも私はカエルではありません」
「じゃぁ、何?」
「何ではなく誰!です」
「うん。誰?」
ちょっと頭が痛くなって来た。
「あぁ‥‥君は‥‥」
しかし、当の夜神月は心なしか唇の端が引き攣りそうなLを無視して、
男にしては長い睫毛に縁取られたアーモンド形の目をパチパチ瞬かせると、何の未練もなさ気にスイと視線を外してしまった。
「公園で僕を助けてくれた‥‥」
不意に夜神月の瞳に映り込んだオレンジの光が消えた。
それが二人の上に被さった人影のせいだと気付いたLは、全く気配を感じさせなかった急接近に薄ら寒い感覚を覚えた。
思わず腰のスタンガンに手を伸ばすが、何故かそこには何もなく、Lは無表情なまま身を強張らせた。
「あの時はありがとう。命拾いした」
「思ったより早かったな‥‥もう一日二日は意識のないままだと思っていたが‥‥」
「え?そう?もしかして僕、何日も気を失ってた?あれ?そう言えばこれ、誰のパジャマ?」
その間に進められる会話の何とのんびりした事か。
「もしかして‥‥山元のかな?」
「‥‥あぁ、そうか。アリスに奪われたマグネタイトをまた取り返したのだな。
この世界の人間は何とも器用な事をする」
「ところで、今は夜みたいだけど、夜になっても帽子を被ってるなんて‥‥ちゃんと見えるの?」
「拡散性が見られないのはそのせいか?」
噛み合っているのか噛み合っていないのか、Lの目の前で飄々と会話を交わした二人の少年は、
暫し無言で見つめ合いそれから互いに手を伸ばし合った。
「‥‥うん。やっぱり冷たい。そんな気はした」
「体温も戻ったな。もう心配はあるまい」
ほんの一瞬指先を触れ合わせただけで、やはり互いに言いたい事だけ言って二人ともあっさり手を戻してしまう。
「ところで、カエル君。手を放してもらえないかな。
ぼく、何時までもこんな固い所に寝転んでいたくないんだけど」
「!カエルではありません」
「だから、誰?って、聞いたのに。答えてくれなかったのはカエル君だろ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
え~っと――― 確かキラとはもっと劇的な『ご対面』を予定していたはずなのですが‥‥‥
『チェックメイトです、キラ』みたいな?
いえ、今もそれなりにドラマチックな状況だとは思いますよ。
正体不明の賊、この場合は悪魔ですか?それに襲われた容疑者をこうして腕に抱いているのですから。
いえいえ、上半身だけですよ。残念ながら全身ではありません。
だから尻が固くて嫌だって?甘えてますねぇ。ちょっと可愛いではありませんか‥‥‥
いえいえいえ、私、抱くならやはり女の方が良いです。マシュマロみたいに柔らかいですから。
まぁ、キラは顔だけは!女並みに綺麗ですが‥‥‥
いえいえいえいえ、そんな、タイプだなんて‥‥‥‥‥!
私の好みは知的美人‥‥‥‥‥‥‥‥おや?もしかしてドンピシャ、ストライクゾーン?
いえいえいえいえいえいえいえいえ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「あ、あの時の黒ネコちゃん」
「は?」
気が付けば、Lの肩の上に黒猫が一匹乗っていた。
「はぁ?」
その猫がフシュル~と、何処か不穏な唸り声を上げ、Lの顔面に一発猫パンチをかます。
「な、な、な‥‥!?」
いったい何が起こったのか理解出来ないまま、軽い衝撃にバランスを崩したLの腕の中からLのキラがあっさり奪われてしまう。
何しやがんだこん畜生!的ノリ――― 猫だから――― で立ち上がれば、
少し離れた場所に黒と白の少年が一対の置物のように並び立ちLを見ていた。
黒とは勿論、葛葉ライドウと名乗った少年で、もう一人の白は夜神月、Lのキラだ。
「‥‥‥‥‥‥」
先程からずっと境内をユラユラ飛び交っている鬼火のせいでそれなりに確保された視界に映るその姿は、
まさに絵に描いたような光景と言えよう。
キラはもとより、葛葉ライドウの方も鍔の下から覗く顔半分を見る限りその容貌はかなり整っている。
人間の外見の美醜に興味はないが、男である限りLにもそれなりに好みはある。
その好みから言って、目の前の光景は十分及第点だ。
出来れば両方女だったら言う事なし!
いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ‥‥‥‥‥この際、男でも良いか?
見た目良し!ミステリー度良し!!もしかしなくても謎解きには最高の条件ではないか!!!
「男は皆狼だから気を付けろ、と、ゴウトが言っている」
「え?カエルなのに狼?」
「そのようだ」
「ふ~ん。黒猫ちゃん、鼻が利くんだね」
「そう言う問題ですか!?っていうか、私、カエルではありませんからっ!!」
「だから、誰だって何度も聞いてるのに」
「名前も名乗らず善人ぶろうとは、何とふてぶてしい探偵か。と、ゴウトが言っている」
「ほら、黒猫ちゃんだって名乗れって‥‥え?探偵?」
ギクリ‥‥!黒尽くめの少年に見事言い当てられ、Lは夜神月の好奇心と不信感に満ちた視線にむりやり自分の視線を合わせた。
「カエルのくせに探偵だなんて‥‥」
「カエルではありませんっ!!」
「狼らしい」
「狼でもありませんっ!!!」
「え?それって、そっち系の人って事?」
「ソッチケイ、とは?」
「ゲイでもありませんから―――っ!!!!」
「ゲイ、とは‥‥」
延々続きそうなノホホン無駄会話にさしものLもクラリと眩暈を起しそうになる。
何だこれは?何だこれは?何だこれは?何だこれは?
何だこれは―――――――――‥‥‥っ!?
夢にまで見たキラとの初ランデブーがどうしてっ‥‥‥!!!!!
黒猫が、今度は間延びした低い鳴き声を上げた。
上げついでにLの脛に再び猫パンチをくらわしてくれた。
「初夏とはいえ夜は冷え込む。早く何処かに身を隠せ、と、ゴウトが言っている」
「あぁ、そう言えばちょっと寒いかも」
「ならば病院に戻って‥‥」
「ちょっと待ってください!病院は危険です。既にブッチャーに知られている可能性があります。
他の避難場所を私が用意しましたからそこへ‥‥と言うか、ゴウトって誰ですか?
ここには私と貴方達二人の三人しかいませんが」
裸足だから足が冷たいと子供のように――― 17歳はLから見ればまだまだ子供だ――― 文句を言う少年に頭痛を覚えながら、
Lはキラの、夜神月の手を引いて去ろうとする少年を止めた。
「え?でも、名前も名乗らない胡散臭い探偵より、同年代っぽい命の恩人の方が信用できるんですけど」
「そう彼も言っているが?」
「あ、僕は夜神月、君は?」
「葛葉ライドウだ」
「へぇ、狐さんなんだ。猫と一緒の狐さん?なかなか新鮮な組み合わせだね」
またまた猫が鳴く。
「ほぉ、葛葉と聞いて直ぐに狐を連想するとは、なかなか学があるな、と、ゴウトが言っている」
「黒猫ちゃんはライドウ君の先達?」
「判るか?」
「何となく」
猫が‥‥‥‥‥
「スト――ップ!」
「何だ?」
「何?カエル探偵さん」
だから足が冷たいんだって言ってるのに、と詰るように困ったように笑うキラにLの頭痛が増す。
男のくせに小悪魔っぽく見えるのはどうしてでしょう‥‥‥何て事をうっかり思いながら、
Lは気を取り直して一つ咳払いをしてみた。
「まさか、とは思いますが、貴方達が先程から言っている『ゴウト』と言うのは、
私の顔と足をど突いてくれた、この黒猫の事でしょうか?」
「そうだ」
「そうだよ」
「‥‥‥‥‥‥」
いともあっさり返ってきた答えに頭痛に加えて眩暈も感じる。
「そうなると、先ほどからニャァニャァ五月蠅かった猫の鳴き声を、
もしかしてもしかしなくとも、そこの胡散臭い黒尽くめの少年が、
わざわざ人間の言語に翻訳してくれていた、と解釈して良いのでしょうか?」
「お前のためにした事だ」
「胡散臭いだなんて酷い。カエル探偵さんにだけは言われたくないね」
「ですからっ!私はカエルではありませんっ!!」
「だったら誰?」
「!私は‥‥」
二人の背後でユラユラ揺れる鬼火が正体不明で通っていたLの姿を明るく照らし出す。
その反面、二人の少年は黒いシルエットと化している。
だが、Lには見えた。
夜神月の、キラの何ものも見逃すまいと凝らされた鋭い眼差しが。
「私は‥‥」
ギシリと、足元で古めかしい木の階段が鳴る。
シルエットの中に浮かぶ蠱惑的で挑戦的な微笑み。
眼差しと共にそれは、長年たいして心乱される事のなかったLの胸に、言いようのない興奮を沸かせるのだった。
「私は、Lです」
どうして此処で名乗らずにいられよう。
キラは自分のものだ――― そう新たに宣言し、Lは一歩、二人へと近付いた。
10
「ふぅ~ん‥‥今話題の探偵Lが、カエルねぇ‥‥」
名乗った後の第一声がこれとは―――!
軽く頭を殴られたようなショックを受け、Lは自分が如何にキラとの出会いに夢見ていたかを再度自覚した。
それと同時にこんな事ぐらいで動揺している自分に驚くと共に焦りも感じていた。
心なしか心臓の鼓動が速い。ここ数年、こんなにドキドキした覚えはない。
リンド・L・テイラーが死んだ時は確かに一瞬心拍数が跳ね上がった。だが、直ぐに平静を取り戻しこんな風に長引く事はなかった。
こんな、頭の中がグルグル渦を巻き、収集が付かなくなって厭味の一つも思いつかないなんて事は、
決して決して、なかったのだ。
他の事件の捜査中にも何度かドキドキした事はあった。
それは時間との戦いという緊迫した捜査状況からの緊張だったり、難敵を追い詰めた時の軽い興奮だったり。
いずれも常にLの理性で抑える事の出来るしろものだった。
良い意味での『手に汗握る』ドキドキ感、楽しめるスリルだったのだ。
それがどうだ。
「胡散臭そう‥‥」
相手の言葉一つにこんなにもショックを受けている。
顔には出ていないという自信はあるが、だからと言って、反論の言葉まで何一つ出て来ないとは。
有り得ない‥‥有り得ない‥‥有り得ないっ!
「L、と言うのは決して人前に姿を現さない正体不明の探偵と聞いた。
街中をかなりの距離走ったが、大丈夫なのか?
巷の噂では敵が星の数ほどいて命の危険があるから正体を隠している、との事だったが」
「え?そんな事したの?このカエル」
「私が君をここまで運ぶのを、ご苦労にも追い掛けて来た」
「そうなんだ」
「君を病院から連れ出さなければこんな事にはならなかったのだがな」
「もしかして、余計な御世話って奴?」
「そう言う事だ」
「そうなんだって、カエル探偵さん」
「‥‥カエルでは‥‥!」
「うん、判ってるよ。Lなんだろ?」
「!‥‥っ」
揺らめく鬼火の光を受けてニコリと微笑む白い少年。
「取り敢えず、お礼を言いますね、Mr.L。ありがとうございました。
どうやら僕の事で天下の名探偵さんにご足労掛けたみたいで、すみません。
当然僕の事はご存知なんですよね?でも一応名乗っておきます。
初めまして、夜神月です。
貴方が本当にLなら僕の尊敬する人の一人です。お会いできて嬉しいです」
ペコリと良い子のお辞儀をされて、Lは『はぁ‥‥』とだけ答えた。
夜神月の滑らかな口調に、今話題の世界の切り札とまで称される謎の名探偵Lと出会って緊張しているという感じは見受けられず、
一瞬Lは、自分は本当にLだろうかと疑いたくなってしまった。
猫が人間で言うなら溜息交じりに一声鳴く。
「感謝しているのか迷惑しているのかよく判らん挨拶だな、とゴウトが言っている」
「え?だって、これが普通じゃない?
自分こそは、正体不明で通ってる探偵だって言われても、確認のしようがないんだから。
いくら平和ボケした日本人でも一応警戒しとかないと。でも、最後の言葉は本当だよ?」
だから何故!そこで疑問形なんだっ!
可愛らしく小首を傾げてこっちを見るな!私の合意を得ようとするなっ!!
内心ドキドキしながら頭の中でそんな愚痴をこぼす天下の名探偵L。
「あぁっと、この周りの状況って‥‥もしかして、あの目玉の化け物にまた襲われたのかな?」
だが、そんなLなどお構いなしに二人の未成年者――― おそらく二人は同年代――― は話を進めて行く。
そんな感じはちっともしなかったが、異様な状況で目を覚ました夜神月はそれなりに動揺していたらしい。
一通り挨拶を終えて余裕が出たのか、鬼火の明かりを頼りに周囲に視線を走らせた彼は、
「これって、僕の方で弁償しないといけないのかなぁ」
目にした惨状に心底困ったと言う様子で肩を落とした。
「そこの探偵が余計な事をしなければこんな事にはならなかった。
損害賠償はそこの探偵にさせるのが良いだろう」
「あぁ、さっきもそう言ってたよね。ふ~ん、そうなんだ。
と、言う事で、請求書来たら廻しちゃっていいですか?Mr.L」
「リュ、竜崎、と‥‥呼んでください」
「え?」
何を言ってるんだ私ぃぃぃ‥‥‥‥‥っ!!!!
とっさにそう言ってしまった自分に内心パニックに陥るL。
見た目はほとんど変わらないが――― と、自分では思っている――― Lはムンクの某名画並みに絶叫したい気分だった。
「えぇっと‥‥それって、偽名ですよね?」
「!‥‥そ、そうです」
どう辻褄を合せようか一瞬迷っている間に向こうの方から辻褄を合せてくれた。
「やっぱり街中でMr.Lって言っちゃうのは拙いですもんね」
「そ、そう言う事です」
「たぶん、捜査ごとに偽名も変えてらっしゃると思うんですけど、
『竜崎』は今回限りですか?それとも対日本用?」
日本に来て暫くしてから目にした、某TV番組出演中の某タレントの名前からの連想だとは、
何だか恥ずかしくて言えない。
「どっちでもいいか‥‥判りました。貴方の事はこれから『竜崎さん』と呼ばせて頂きます。Mr.L」
「お、お願いします」
ニッコリと微笑まれ、思わずそう挨拶してしまうL。
猫の声が何だか五月蠅い。
「ほぉ、この狼はやはりこちらの美童が好みか、とゴウトが言っている」
「お前は好みではないようだが、くれぐれも衆道の輩には気を付けろよ、ライドウ、とも言ってるよ」
「は?シュウ‥‥何ですって?」
「ゴウニャン、美童だとか衆道だとか、随分古い日本語知ってるね?やっぱり昔の人?」
「そうか、やはり判るか」
「うんうん。だんだん判って来た」
「私は判りません!ってか、
まさか貴方までこの猫の鳴き声を翻訳できるとか云わないでしょうね!?夜神月!!」
自分を無視して続けられる若者の会話にLはむりやり横槍を入れた。
数度瞬きを繰り返し、示し合わせたかのように目を見かわす二人は恐ろしく対照的に小首を傾げ合う。
周囲の異常な状況と相まって、現実味に欠ける光景だと、自称リアリストのLは思った。
「やっぱりゴウニャンの猫語が人語に聞こえるのは僕だけ?」
「そのようだな。だからアリスに目を付けられたのだ」
「あの子、アリスちゃんって言うの?」
「そうだ。それと、ゴウトの事を黒ネコちゃんとかゴウニャンとは呼ぶな。ゴウトの機嫌が悪くなる」
「フゥ~ン。可愛い愛称なのにな。じゃぁ、大目玉の空飛ぶイソギンチャクは?」
「一目連だ」
「あぁ、それ、名前だけは知ってる。確か日本の妖怪にそんな名前のがいた気がする」
「ふむ。私の世界とこちらの世界は、何かと重なる点が多いようだ」
フラフラ頼りない鬼火の明かりでも、1メートルと離れていないLには二人の顔がよく見える。
父親の夜神総一郎とはお世辞にも似ているとは言えない、男にしては柔らかな線の夜神月。睫毛が長い。
真面目な性格は父親譲りらしいが、若干疑いが出て来た。
片や、鍔の影で更に妖しさを増した、夜神月以上に人形めいて見える葛葉ライドウ。こちらも睫毛が長い。
未だ正体は判らないが、ヒシヒシと嫌な予感はしている。
いずれも、男でさえなかったら十二分に両手に花の二人だ。
松田辺りなら男だったとしても平気でそう言うだろう。私は言わないが‥‥‥
ハッ!いけない!!つい、目の保養をしてしまったっ!!!
「人語!?猫語に人語!?何ですか、それはっ!!」
「え?これがいわゆる超常現象じゃないの?見て聞いて判らなかった?竜崎さん」
「オカルトに興味はありません!」
「でも、今度の事は科学では証明しにくいと思うけど」
「原因と結果がはっきりしていれば、私はオカルトでもかまいませんっ!」
「自分、カエルだし?」
「だから違うと言ってます!!貴方、耳は付いてないんですか!?夜神月!!」
「付いてるよ、勿論。竜崎さんにはこの形の良い耳が見えない?
街で、ピアスのモデルになってくれって言われた耳だよ。見える?見える?」
うわぁぁぁっ!寄るな、迫るな、近づくなッ!!
左手で葛葉ライドウの肩に掴り、Lに向かって夜神月がグイと身を乗り出す。
思いがけない行動にLは無表情のまま大いに焦った。
「あ、そんな事より、僕の事、フルネームで呼ぶの止めてくださいね、竜崎さん。
学校の先生みたいで嫌だから」
「貴方、優等生なんでしょう!?」
「友達先生ご近所の皆様方から、ついでに家族からもそう言われてますね。
でも、今日会ったばかりの探偵さんには言われたくないです。フルネームで呼ばれるのもイ、ヤ」
「嫌って‥‥」
「ところで月。そろそろ移動しないか?流石に結界を張るのが辛くなってきた」
「あ、ごめんごめん。もう帰ろっか、ライドウ君」
何時の間に溜め口!?
Lは誰が見てもギョロ目と称するだろう両目を更に見開き、目の前の二人の少年をマジマジと見やった。
何時の間にそんなに仲良く?行きずりの間柄でしょ?今時の若者は皆こんなに馴れ馴れしいのですか!?
私には『イ、ヤ』と言ったくせに!嫌、と!!
いやいやいやいやいやいやいやいや――――― !!!!
「ど、何処へ行くつもりですか!それに、結界?シールド?目に見えないシールド!?」
「ほら、案内して、竜崎さん」
「え?は?」
「安全な避難場所に連れてってくれるんでしょ?」
「そ、そうでし‥‥」
「クシュッ」
その時、月が小さくクシャミをした。
「やばい。本格的に寒くなって来た」
そう言って両手で我が身を摩る月に、やはり無表情に慌てるL。
「これを着ていろ」
あたふたした――― 心の中で――― 後で、自分が今着ているシャツを脱ごうと裾に手を掛けたLは、
自分が一歩出遅れた事に気づき心の中で歯軋りした。
黒いマントが翻り、それがフワリと月の体に覆いかぶさる。
ライドウが己のしていた黒マントをパジャマ姿の月にかけてやったのだ。
臍まで出して間に合わなかったLは無表情の中に情けなさを隠しシャツの裾を元に戻した。
「それ、何処の制服?」
「弓月の君高等師範学校だ。余り真面目に通えていないが」
「やっぱり古風な名前」
ありがとう、と礼を言って、何故かフフフと笑った夜神月にLは微かに眉を寄せた。
それから改めて葛葉ライドウを見やる。
黒いマントの下から現れたのは、日本刀や拳銃を豪快に振るっていたとはとても思えない細身の体だった。
身に纏う黒の学生服は詰襟と言うらしい。海兵隊辺りの礼服のように喉元が苦しそうだが、彼にはとても良く似合っている。
だが、胸と腰の白いホルスターはいただけない。非常にバランスを欠く代物だ。
そんな事をLが思っている間にライドウは黒いマントを羽織った月を抱き寄せると、
何やらブツブツ呟き、その直後に開いた方の手をサッと一振りした。
「何だ?」
何やら空気が変わったような気がする。
「あぁ‥‥騒音が」
そうして、それが『音の復活』と言う奇妙な現象によるものだと知ったLは、
そこで初めて、先程まで周囲の騒音が全く聞こえていなかった事に気づいた。
逆に言えば、こちらの騒音は境内の外に漏れていなかったという事だ。
「結界を張らねば流石に人が来る。
悪魔の姿はこの世界の人間にはほとんど見えないが、悪魔が起こした現象は容易く認識できる」
ライドウの言葉に月は『凄いねぇ』と感心し、Lはただ親指の爪をガシガシと噛んだ。
「病院にも同じように結界を張ったのだが‥‥」
「悪かったですね」
「そう思うのなら、早く案内してください、竜崎さん」
寒いんです、と騒ぐ夜神月に頭痛を覚えながら、Lはジーンズのポケットを探った。
だが、スタンガン同様、そこに携帯はなかった。
「これか?」
それを見てライドウが差しだして来たのは、何時の間にかLのポケットからなくなった携帯電話だった。ついでにスタンガンと催涙スプレーも返される。
「あの状況では壊れていただろう。だから私が預かっていた」
どうやって!?とは、何だか怖くて聞きだせない。
Lはそれらを受け取ると、今でも自分達を探しているだろう総一郎に連絡を取った。
それから30分ほどして宇生の運転する車がやって来た。
「月ォ!」
「父さん!」
鳥居の前に停まるなり車から飛び出して来た総一郎の姿に月が嬉しそうに手を振る。
「月、月、月ッ!」
「父さん‥‥!」
日頃の『出来る上司』は何処へやら、今にも泣きそうな情けない顔で息子を掻き抱いた総一郎は、
暫くの間何処にでもいる父親の一人となって息子の無事を喜んだ。
どこか痛い所はないか?怪我はないか?吐き気は?頭痛は?
何だこの変な服は!裸足!?靴はどうしたっ!あぁ、髪がこんなに乱れてっ‥‥!
父さんに月の顔を良く見せてくれっ!うおぉぉっ、月ォ!私の月ォ‥‥‥良かった良かったぁ‥‥‥!
父さん大丈夫だから、葛葉君と竜崎さんが大事になる前に助けてくれたから‥‥‥
ちょっと痛いよ、父さん。そんなに強く抱きしめないで。ほら、みんな見てるし‥‥
すみません。父さん、ちょっと興奮してて。直ぐ、何時もの父さんに戻りますから。
局長~~~~っ!良かったですねぇぇぇっ!!お、俺、感動ですぅぅぅ~~~~~~‥‥!
などなど。
それは非常にアットホームな親子の再会シーンであった。
「葛葉、ライドウ君、でしたか?」
「あぁ。何だ、カエル探偵」
「‥‥‥貴方にまで、カエルと呼ばれたくありません」
「そうか」
ちょっと手の付けようがない親子の抱擁シーンと、それに貰い泣きしている宇生を横目に、
Lは静かに周囲を警戒しているライドウに声をかけた。
「貴方も一緒に来てくれますか?」
「無論だ。私にはまだやらねばならぬ事がある。それまでは彼の傍を離れる訳にはいかない」
「取り逃したアリスとやらを捕まえるのですか?」
「そうだ」
「では、車にどうぞ」
そう言うや否や、黒猫が彼の肩に飛び乗った。ニャ~ンと間延びした鳴き声は何処か高飛車な感じがする。
「あぁ、その猫ももちろん御一緒に」
詳しい話は新しいアジトで聞けば良い――― そう自分に言い聞かせ、Lは適当な所で親子を引き離した。
広い後部シートの真ん中に月が。その左隣に総一郎。開いた右隣に座ろうとしたLは、しかし、
目の前に突き出された日本刀に阻まれ助手席に移らざるを得なかった。
「アリス相手にお前では無理だ」
言い返せるだけの材料がなく、渋々夜神月の、キラの隣を譲ったL。
カーナビゲーションに行き先をインプットし、宇生に車を出すよう指示する。
5人を乗せた車はそうして不可思議な事件の発生現場から逃げ出した。
後でワタリに言って現場を確保しなければ――― そんな事をつらつら考えていると、
「父さん、彼は僕を助けてくれた葛葉ライドウ君。
ライドウ君、こっちが僕の父さん。夜神総一郎。警察官なんだ」
「く、葛葉君?君がうちの月を‥‥
き、君のお陰で月は無事だった。ありがとう‥‥本当にありがとう」
「いえ。たまたま通りかかっただけです」
何処かぎこちない挨拶が後部シートから聞こえて来た。
息子の恩人と聞いて本当なら心の底からお礼を言いたいことだろう。
しかし、ライドウが肩口に立てかけた日本刀を目にして流石の総一郎も躊躇ってしまったと見える。
しかも彼は銃まで携帯しているのだ。意識しない訳がない。
どう見ても未成年で、でも恩人で。自分は一人の父親ではあるが刑事な訳で‥‥‥
立派な銃刀法違反の少年に総一郎の笑みは心なしか引き攣っていた。
結局、この場での追求を総一郎は諦めたようだ。
余りにライドウ本人が堂々としていたのと、月もLも何も言わなかったからだ。
新しい捜査本部に着けば説明があるだろうと、むりやり自分を納得させたようである。
「ところで父さん」
「ん?何だ、月」
「竜崎さんがLって本当?」
その総一郎の笑みが更に引き攣る。
「ラ、月‥‥それを何処で‥‥」
「え?竜崎さん本人から聞いたんだけど」
いけなかった?と小首を傾げた月は、助手席のLを見やり、それから総一郎に視線を戻した。
「本当か?竜崎‥‥」
「本当です」
何と軽はずみな事を!と総一郎の目が非難がましくLを見つめる。
「月君とはこれから当分一緒にいるのです。
皆さんと同じように偽名で呼んでもらった方が、混乱しないでしょう?」
「そ、それはそうだが‥‥」
「大丈夫だよ、父さん。あのLに会ったって言いふらしたりしないから」
「いや、月は良いんだ。お前がそんな口の軽い子だとは思っていない。ただ‥‥」
混乱しているのは総一郎の方だろう。
彼は息子の肩を強く抱き寄せると、さらにLに対する視線を険しくした。
「それより父さん。その、一緒にって、話なんだけど‥‥
それって僕の意思の確認はないの?」
「ラ、月?」
「山元医院じゃ安心できないから竜崎さんが僕を保護する、みたいな口ぶりだけど。
それは本当に僕を心配しての事なのかなぁ。
父さんの同僚として?正義の探偵の義務として?それともLとして?」
シートベルトが腹に食い込む感触を感じながら首だけ巡らせ後部シートの3人を観察していたLは、
月の言葉に無表情なまま驚いていた。
「父さんと竜崎さんは今何をやっているの?」
「‥‥月?」
「何の捜査をしているの?」
「‥‥‥‥‥‥」
「僕と山元を公園で襲った犯人は残念ながらキラじゃない」
ライドウの膝の上で丸くなって眠っていた猫がこっそりと薄目を開ける。
「ライドウ君が言うには、犯人は今話題のブッチャーらしい。
まさか世間の噂を真に受けて、ブッチャーがキラに関心があるみたいだから、
ブッチャーに襲われた僕がキラ?有り得ないよね。
2度ある事は3度ある?キラである僕は囮?だから、キラじゃないってば。
でも、いくら名探偵Lでも、あのブッチャーを捕まえる事は出来ないと思いますけど?」
それはやはり。世界の切り札とまで称されるLを前にした、一介の高校生とはとても思えない落ち着いた発言だった。
「僕を何処へ連れて行くつもりかは知りませんが、多分、何処を選んでも無駄でしょう。
あのブッチャーに物理的セキュリティは効きません。
それはもう判ってるはずですよね?竜崎さん?」
最後の呼びかけはまるで恋人に囁くように甘く、それを耳にし、微笑みを目にしたLは驚きと共に感動と興奮をも感じ始めていた。
これは夜神月の言葉ではない。キラの言葉だ‥‥!
それが証拠に、今自分に向けられている微笑みは春のような暖かさを放ちながら芯は凍り付いている。
Lは覚悟を決めニヤリと笑い返した。
「もちろん、貴方をキラ容疑者として確保するためです。
私は我儘で欲深い人間なんです。貴方をブッチャーになどくれてやる気は更々ありません。
貴方は私の獲物です、夜神月」
キキッ!と、小さく急ブレーキの音が響く。
Lの突然の宣言に驚いた宇生がハンドル操作を誤ったのだ。
「す、すみません‥‥!」
背後の上司を気に掛ける事も隣のLを窺う事も出来ず、宇生は冷や汗を垂らしながら只管前方に視線を注ぐ事で耳を閉ざそうとした。
だが残念ながら、固く強張った全身が『興味津津』だと物語っている。
「リュ、竜崎‥‥急に何を‥‥‥」
「ふ~ん、そうなんだ」
「ライ‥‥ト?」
密かに抱いていた疑念をいともあっさり確定されて――― しかも息子本人を前にして――― 蒼白となる総一郎。
だが、そんな総一郎を更に驚かせたのは、左手を自分の肩に、右手をゴロゴロ唸る猫の背中に置いて余裕で笑っている息子だった。
「やっぱり面白い人なんだね、竜崎さんって」
面白い?面白いって何だ、月!あのLに疑われているのはお前なんだぞ!!
そう言って息子を抱きしめたいのに総一郎は言葉を発する事も動く事も出来なかった。
「いいよ、一緒にいてあげる。でも、僕はキラじゃないから。
だから竜崎さんの欲望?それは諦めてね」
クスクスとさも可笑しそうに楽しそうに笑う息子が別人のようだ。いや、遊び盛りの頃にこんな顔をする息子をよく見かけたかもしれない。
何れにしろ、今の状況には似つかわしくない態度には違いない。
「諦める?まさか。私の辞書に『諦める』なんて言葉はありませんよ、夜神月。いいえ、キラ」
一方、未成年者に向かって容疑者発言をかましたLは思わぬ反撃に戸惑いすら見せず、ふてぶてしくそう切り返した。
だが、月も負けてはいない。
「さっきも言ったけど、竜崎さんにフルネームで呼ばれるのはイ~ヤ!」
「ラ、月‥‥?」
その余りに軽い言い草に一挙に緊張感が抜ける総一郎。
「僕は竜崎さんの希望通りに呼んでるんだから、竜崎さんも僕の希望を聞くのが筋じゃないですか?」
「では、何と呼ばれるのが良いですか?夜神君ですか?」
「え~?何かもっとヤダ~。それって父さんを呼ぶのと同じなんじゃないの?
天下のLのくせに芸がなさすぎ!却下します」
「‥‥‥‥月‥‥」
「では‥‥月君、で宜しいですか?」
「ヒネリが足りない。でも、竜崎さんに芸心なんて期待出来そうにないからそれで手を打ってあげる。
感謝するように」
「‥‥それは、ありがとうございます」
ここで流石のLもちょっと言葉に詰まったようだ。
「早くも尻に敷かれたか、とゴウトが言っている」
ボソリと呟かれたライドウの言葉に、車内は一瞬で沈黙に支配された。
11
Lが夜神月、キラを確保した場所は都内の某オフィスビルだった。
リンド・L・テイラーがキラによって殺されて直ぐLがワタリに言って買い取らせた物件だ。
見かけは築15年程の中古ビルだが、中身は改築により最新セキュリティで守られた堅固な要塞と化している。
電子関係はもちろん、物理的な侵入もなかなかに難しい。
葛葉ライドウがアリスと呼んだ悪魔に再度襲われる事なく無事そこへ辿り着いた一行は、
裏口からそのまま地下駐車場に入り――― 勿論、車からは識別シグナルが出ている――― フロントで他のメンバーが到着するのを待った。
程なくしてホテルを引き払った相沢、模木がやって来た。更に20分ほど遅れて松田が。
車に一人残された彼は事故の処理に追われていたらしい。その事故も明日になれば揉み消されている事だろう。
そうして集まった男達は幾つかのセキュリティをクリアして7階のメインフロアへと向かった。
ホテルに持ち込まれていた物とは比べ物にならない電子設備の数々に驚く刑事達を余所に、二人の少年は何処か他人事のように呑気だ。
寝る所はあるの?キッチンは?食料の備蓄は?僕、お風呂に入りたいなぁ‥‥‥等々。
とても化け物に襲われたいたいけな少年とは思えぬ台詞を連発している。
もう一人の黒尽くめの猫を抱いた少年は、
ゴウトの爪を研ぐ場所がない。仕方ないからこの長椅子に犠牲になって貰おう‥‥等々、こちらは不穏な台詞を呟いている。
そんな少年達をLはメインルームの片隅の――― 近代的な部屋に不釣り合いなアンティーク家具だ――― 休憩用ソファに座らせた。
自身も向かいの一人用ソファに座りいつも通り両膝を抱え込み背中を丸める。
そのだらしない格好に大人達はだいぶ慣れたとはいえ良い顔をしなかったが、少年達の方は気にする所か見向きもしなかった。
ライドウの膝で丸くなった猫を二人して撫でてLなど全く無視の構えだ。
良く状況を呑みこめていない刑事達はそんな二人に戸惑い、父親の総一郎はハラハラし。
松田辺りは無責任にも『僕も猫に触りたいなぁ』などと思っていた。
そしてLはと言えば、やはり夜神月がキラなのだと、一人確信するに至っていた。
自分をLだと知ってなお揺るがない視線は17歳の一般家庭で育ったごく平凡な高校生のものでは決してない。
恐らく探りを入れてもノラリクラリと交わされ、逆にこちらが仕掛けられるかもしれない。
ならば、今は観察に徹するのが吉だろう。
何と言っても今はキラ逮捕より先に片付けなければならない事がある。
連続猟奇殺人犯――― ブッチャーの逮捕だ。
果たして逮捕が可能かどうかは判らないが、少なくとも事件を解決しなければ被害者は増える一方だ。
そうならないためにも、夜神月、キラと、デビルサマナーと称する少年、葛葉ライドウの協力が不可欠である。
しかし――― この二人はLにとって最悪の組み合わせかもしれなかった。
権力社会でくたびれた大人相手なら幾らでも手玉に取る自信がある。
だが、どうやら10代の無軌道さを前面に押し立てシラを切るつもりらしいキラと、
自分以上に感情抑制に長けているらしいデビルサマナーとやらが相手では流石のLもやりにくい。
L的に言えば、籠絡率30%減である。
ブッチャーに関する限り、情報のほとんどを握っているのは葛葉ライドウだ。
彼はブッチャーの正体を知り、尚且つそれを退ける術を持っている。
そのブッチャー――― その正体はアリスと言う名の少女悪魔――― は11番目の獲物として夜神月を選んだ。
ライドウによればそれには理由があるらしい。おまけに彼の口振りではブッチャーは未だ夜神月を諦めていないとか。
だからライドウは夜神月の傍を離れようとしない。月の方もそんな彼の行動を受け入れている。
Lもそれを承知で彼の同行を頼んだ。だが、ここまで物理的に接近して良いとは言っていない。
夜神月はキラ容疑者なのだ。できれば手錠でも掛けて監禁したいくらいだ。
その容疑者に敵か味方かも判らぬ者を近付けさせるのはLの本意ではなかった。
だから軽く引き離そうとしたのだが、そんなLに当の月は『横暴カエル』と言って食って掛かった。
食って掛かったと言うか、からかった。
『見えない敵をどうやって逮捕する気なんだ?見えないのにどうやって僕を守るって?
ブッチャー相手じゃカエル探偵さんはお呼びじゃないよ。そこんとこ判ってる?』
今にも卒倒しそうな総一郎を尻目に、これ見よがしにライドウに抱きついた月は笑っていた。
Lを肴に面白がっているのがありありと判る態度だった。
こめかみ辺りが痛かった。今にも血管が切れそうだった。だが、月の言っている事は真実だった。
黒猫がさもバカにしたように一声鳴いて、Lは月の好きにさせた。
そして今に至るのだが、この判断をLは早くも後悔し始めていた。
夜神月と葛葉ライドウ。キラとデビルサマナー。
二人を取り巻く空気がLの知る何ものとも違っているからだ。
ただでさえキラは普通の犯罪者の域を超えていると言うのに、そこにLの領域ではないデビルサマナーが加わったことで、
一言で言うなら『浮世離れした二人』と化してしまった。
見た目も雰囲気も、リアルでありながら手の届かない夢幻のようにLを拒んでいる。
それを面白くないと感じる自分をLは自覚した。
勘が囁く。
この二人に付いて行けなければ永遠にキラを失うと‥‥‥‥
「何て事だ‥‥」
思わず知らずLの口からユルユルと溜息が吐き出された。
そんならしくないLにギョッとなる刑事達。
合流してからもメインルームに入ってからも、二人の少年から目を離さないLに戸惑うだけの彼らは、
何か知っているだろう宇生から事の次第を聞きたかったが、そんな雰囲気ですらないと流石に肌で感じ取っていた。
だから仕方なく中央の会議用テーブルの固い椅子に腰を下ろし、借りて来た猫よろしく事の次第を見守る事にした。
唯一総一郎だけが親心を発揮し、素早く息子である月の隣に居場所を確保している。
ライドウのマントもとっくに返し、自分の背広を息子の背に掛け、
Lが理不尽な尋問――― 既に尋問との覚悟はある――― をするなら自分が身を呈して息子を庇う気満々の構えだ。
そんな空間に、Lの溜息は思いのほか大きく響いた。
室内は空調が行き届いており室温も丁度いい。彼らが到着する前に誰かがセットしておいたのだろうか。
だが、場の雰囲気は最悪だ。少しの沈黙がとても痛い。
「月君。昨晩は大変でしたね」
出だしには最適な言葉。
「そうだね。いきなりでビックリしたよ」
ニコリと、微笑み付きで返された言葉に気負いはない。
竜崎をLと知った時の敬語は何時の間にか鳴りを潜め、心なしか好奇心に満ちた目が楽しそうにLを見ている。
松田辺りなら勘違いしそうな、キラキラとした実に魅惑的な瞳だ。
目力とはよく言ったものだ、とLは内心感心した。
その一方で、ライドウと二人で醸し出す異質な雰囲気をあっさり捨て、こちらに意識を向けた月にホッとしたりもする。
逆に言えば、それだけ葛葉ライドウが人間離れしたオーラを発していると言う事だ。
早くブッチャーだとか悪魔だとか、そんな現実離れした事件とは手を切りたい――― Lは心底そう思った。
ブッチャーを逮捕(?)しても葛葉ライドウが自分とキラとの間に立ちはだかりそうな、そんな厭な予感はあるけれど。
「犯人に心当たりは?」
「まさかぁ」
キラと目する相手に敬語を使われるのも気分が悪いので、Lは月の変化を特に指摘する事なく話を続けた。
「お友達は、犯人は人間ではない、と仰っていましたが、貴方の目から見て犯人は‥‥」
「うん。人間じゃなかったね」
その言葉に総一郎や刑事達が息を飲む。
「では、葛葉君の言う通り悪魔の仕業だと思いますか?」
「僕の目にはどっちかって言うとモンスターに見えたけど?でなかったら妖怪かシュマゴラス?
ほら、悪魔ってどうしてもキリスト教のイメージが強いから」
「お友達に似顔絵?を描いてもらったのですが‥‥」
Lが視線を向けたのは中央の会議用テーブル。
気を利かした模木がそこに置かれていた資料の一つを手に取りLに渡す。
「こんな奴でしたか?」
Lが手にしたカルテの裏に描かれた犯人像は、黒い球体に何本もの触手が生えた一つ目の、まさにモンスターだ。
「うん、それそれ。一目連?」
月が右隣に座るライドウに意見を求めれば、室内でも学帽を被ったままの少年はコクリと頷いてみせた。
ライドウの腰を飾っていた日本刀は今は彼の右脇に立て掛けられ、
件のマントは丁寧に畳まれてライドウの膝の上、黒猫の座布団と化している。
その座布団に猫がニギニギ爪を立て月の微笑みを誘い、逆にLの不機嫌を生む。
それをライドウが帽子の下から見ているのを名探偵は気付いていた。
「神社で襲って来たのもこれですね?」
「そうだよ」
「私には影しか見えませんでした」
「山元も見えなかった。幽霊と同じで見える人と見えない人がいるってことかな?面白いね」
「私は面白くありません。とにかく、貴方には見えるのですね?それと、葛葉君にも」
当然とばかりに再び頷く今は寡黙な少年。
「それは霊能力に関係しているのですか?」
「それもあるが‥‥」
だが、次の質問に少年は言葉を濁した。
「霊能力意外にどんな条件をクリアすれば、貴方の言うところの悪魔が見えるようになるのですか?」
「それは‥‥」
黒猫が小さな声で鳴いた。
「?」
葛葉ライドウが顔を上げ左隣の月を見る。それにつられて月も視線を動かし、二人は並んで座った状態で顔を見合わせた。
「うわぁ、何だか眼福な光景ですねぇ。
月君も葛葉君も絵に描いたような美人で、男の子にしておくのが勿体ないですぅ」
「黙れ、松田」
「うるさい、松田」
そんなバカな発言を背中で聞き流し、Lは続きを促した。
「マグネタイトの有無に左右される」
「‥‥マグネタイト?」
それは知らない言葉だった。
「それはいったい何ですか?」
「魂と肉の器が一つになった時に生じる霊的力の一つだ」
「霊能力とは違うのですか?」
「それは魂だけの力であってマグネタイトとは違う」
また猫が鳴く。
「論より証拠」
「え?」
不意にライドウが月の手を取った。
「私に同調しろ」
その行動に驚きこそすれ戸惑いはしなかった月が小さく頷く。
不思議な詠唱が始まった。
それはほとんど聞き取れない呟きであり、微かな虫の音のようであり、また風のそよぐ音のようでもあった。
「あ‥‥!」
暫くすると、それは起こった。
先ずはライドウの体から碧色に淡く輝く陽炎が立ち上り始めたのだ。そして、間を置かずして月の体からも。
緩やかに穏やかに波を打つそれを、綺麗だ、と誰もが素直に思った。
だが―――
「!」
「ひっ‥‥!」
「何だ!?」
一人詠唱を続けていたライドウが胸の奇妙な白いホルスターから1本の銀色の管を引き抜いた時、それは恐怖へと変わった。
二人の周囲で揺れていた陽炎が高く掲げられた管に纏わりついたかと思った瞬間、
信じられない存在が刑事達の視界に飛び込んで来たのだ。
「バ、化け物‥‥っ!」
ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、または床に転げ落ちる刑事達。その顔は恐怖に引き攣り目は混乱で血走っている。
恐怖は複数の骸骨が溶け合うように合体した姿をしていた。
それは真黒な眼窩で彼らを見下ろし恨めしげな呻き声を上げガチガチと歯を鳴らす。
陽炎に投射された影絵と言いきれたならどんなに良かっただろう。
だが、吐き出される息は氷のように冷たく死体の腐敗臭に満ち、呻き声も歯軋りもしっかりと耳に届く。
それは幻ではなく間違いなく実体のある化け物、悪魔だ。
「戻れ、レギオン」
骨の尾を何本も振るい、その一本が床にへたり込んだ松田に襲いかかろうとした時、ライドウの一言で恐怖は消えた。
まさに煙のように、幻のように消えた。
「今のがマグネタイトだ。そのマグネタイトの力で具現化したのが私の悪魔。
本来力のない者にはどちらも見えないのだが、彼の視界をお前達の視界に強制的に割り込ませた。
一瞬だが見えたはずだ。どうだ?」
恐怖に固まった刑事達など眼中に入れず、ただ一人Lに向かってそう言い放ったライドウは、
管をホルスターに戻すと心なしかぐったりした月の体をソファの背に凭れさせた。
「月!月!?しっかりしろ、月!」
その様子に我に返った総一郎が真っ青な顔をして息子の名を呼ぶ。
「暫し待て」
「な、何を!お前が月を‥‥!」
「急激なマグネタイトの発散に眩暈を起しただけだ。補充すれば直ぐに元気になる」
「ほ、本当か‥‥!?」
息子に何をしたのかと詰め寄る総一郎を押しのけ、ライドウは月の胸に手を当てると再び何らかの詠唱を唱えた。
暫くして何事もなかったかのように目を覚ます月。だが、今回はあの緑色の陽炎は視認できなかった。
「月!良かった、月‥‥!」
年甲斐もなく息子を抱きしめて泣く父親を息子が慰める構図は本来なら微笑ましいものなのだが、
如何せんたった今刑事達が目撃した光景のほうがショッキング過ぎた。
男達はただ茫然と、黒尽くめの『葛葉ライドウ』と名乗った正体不明の少年を、恐怖に満ちた目で見ることしかできなかった。
「今の‥‥碧色の‥‥エクトプラズム?」
「マグネタイトはエクトプラズムではない」
「では、キルリアン現象?」
「それともまた違う」
「ふむ‥‥」
目にした物は現実だ。だが、理性は付いて行けない。
Lですらそうなのだから凡人である他の刑事達は尚更だ。
「もともとこの世界にマグネタイトはほとんど存在しない。
霊能力の余剰効果的なものでしかないようだ。あってもなくても構わない力。
それがこの世界におけるマグネタイトだ。
だが、私の属する世界では世界の在り様に大いに関わる力の一つだ」
「そのマグネタイトが僕の中にある?」
だが、父に片手を取られたまま話に加わった月は彼らほど驚いてはいなかった。
「そうだ。それもかなりの濃度で」
「何にも感じないけど?」
「修業を積めば感じられるだろう」
「ふ~ん‥‥東洋の『氣』に感じが似てるかな?」
自分自身の事でありながら、マグネタイトにもデビルサマナーにも興味がないというように、ライドウと胸の白いホルスターを見比べている。
「アリスも一目連も、そして今のレギオンも、悪魔は皆実体を持たない。
マグネタイトを得て初めて現実界に実体を持つことが出来る」
「つまり、貴方の言う悪魔自身はマグネタイトを生産できない、と言う事ですか?」
だからLが問うた。
「そうだ。マグネタイトを生み出せるのは命ある実存のみ。
存在はあっても命を持たない悪魔は肉を持たずマグネタイトを生み出せない」
「貴方の言う悪魔は、何ともややこしい存在のようですね。
命も肉も持たない存在をどうやって捕まえ殺すのですか?」
「それこそ霊能力で」
「エクソシスト?」
「デビルサマナーだ。
現実界に降りた悪魔はただの影。影なら消そうと思えば消せる。
消せないのは異界の実存だ」
また判らない言葉が出て来たとLは思った。
「いずれにしろ、ブッチャーはマグネタイトが欲しくて殺人を繰り返していた、と考えていいのですね?
マグネタイトが切れると自分も消えてしまうから、マグネタイトを持つ人間ばかり狙って殺人を犯した。
10人の犠牲者の共通点がマグネタイトとは、普通には思い付きっこありませんね」
「そ、それはどういう意味だ?」
震える声に言葉を遮られ、Lは小さく溜息を漏らしてから背後の刑事達を振り返った。
「おや、今の話、聞いていらっしゃらなかったのですか?
ブッチャーの正体は悪魔で、殺人の動機はマグネタイトだった。そう言う事です」
「そ、そんな‥‥」
「ブッチャーが、悪魔‥‥?」
「まさか‥‥」
「嘘でしょ?」
「たった今その目で見たのでは?悪魔は実在するらしいですよ。少なくとも、今は」
Lの落ち着き払った言葉に顔を引きつらせ押し黙る刑事達。
残酷すぎる殺害方法故に『悪魔の如き殺人犯』と恐れられるブッチャーは本当に悪魔だった!
そんな話、信じられないし信じたくもないが、Lが言うのなら信じない訳にはいかない。
実際悪魔の姿を見てしまったし‥‥‥
黙り込んでしまった刑事達にLは更に小さな溜息を漏らし二人へと視線を戻した。
「殺人の間隔が次第に短くなったのは、
それだけマグネタイトのストックがなくなったと見ていいのでしょうか?」
ライドウが当然のように頷く。
「マグネタイトがほとんど存在しないこの世界で稀にマグネタイトを生み出す存在がある。
霊長類、人間がそれだ。
一人一人が有するマグネタイトの量はごく微量だし、人数も少ないが、
砂漠でダイヤモンドを探すよりは楽に見つけられるだろう。
異界に逃げ込めない悪魔は必然的にマグネタイトを消費し続け、常に補給を迫られる。
アリス達がこちらの世界に落ちて既に2ヶ月が経った。
もはやその場しのぎの補給ではもたなくなって来ているはずだ‥‥」
「それで月君がまた狙われると?」
「彼の有するマグネタイトの量はこの世界では例外的に多い。
美味しい獲物の居場所が判っているのに他の不味い獲物を探すバカが何処にいる?」
「つまり、彼さえ食ってしまえば‥‥」
「その先当分マグネタイトの切れる心配はないだろう。
消える心配がなければ自分の世界に帰る方法を探す余裕も出て来る」
Lとライドウの言葉に本人よりも父親である総一郎の方が青い顔をしている。
「ほ、本当に月が狙われて‥‥」
「だから病院から出るな、と言ったのだ。それを‥‥」
また蒸し返されては堪らないと内心しかめっ面を作ったLを助けてくれたのは月だった。
「いいよ。別にここでも。っていうか、こっちの方が良い」
「しかし‥‥」
「山元をこれ以上巻き込むのは嫌だからさ」
そう言って笑った月は父親を困ったように見つめ、それからLに視線を止めた。
「ブッチャーに関してはライドウの言う事を聞いてね、竜崎さん」
「判ってます」
その目が笑っていると、Lは思った。
12
「では、ここで一つ、最も根本的な質問をして良ろしいでしょうか?」
何だかこれだけで疲れた、と思いながらLはその言葉を口にした。
「こ、根本的な質問とはいったい‥‥」
それに反応したのは総一郎であり刑事達だった。
ライドウも月も予想済みだというように眉一つ動かさず、相変わらず黒猫を撫でながらLを見ている。
「‥‥気付きませんでしたか?皆さんは」
そう言っても刑事達はピンと来ないようだ。
「葛葉君が何度も口にしていたでしょう?『この世界』と。ついでに『私が属する世界』だとか」
「そ、そういえば‥‥」
だからと言ってヒントを与えても気付きもしない。
「と言う事で改めて葛葉君。貴方はもしかすると、この世界の人間ではないのでは?
俗に言う並行世界、パラレルワールドから来た異世界人。違いますか?」
バカな!と誰かが叫んだ。悪魔に続いて異世界人?いったい何の話をしてるんだ?
半ばパニックに陥った刑事達を余所にLは話を続けた。
「貴方はブッチャーの正体は悪魔だと仰った。
この世界の悪魔は人間の想像の産物だと私に言い切ったにもかかわらず、です。
そして、先ほど私達が見た悪魔を『私の悪魔』と呼び、
この世界のマグネタイトは、だとか、アリスはこの世界に落ちただとか、他にも色々‥‥
それらの言葉全て、貴方がこの世界の人間ではなく別の世界の人間であると考えれば納得がいきます。
で?実際の所どうなのですか?貴方は本当に異世界の人間なのですか?」
「何だかカエルが変な事言ってる」
「何を今更、とゴウトも言っているな」
ヒクリとLの顳顬が引き攣る。
「私は当然そのつもりで話をしてきた。そちらもそれを踏まえて聞いていると思っていたのだが。
私の勘違いだったのか?」
「‥‥いえ、勘違いではありません。私もその可能性は考えていました。
しかし、一応貴方に確認を、と思いまして‥‥」
「勘に頼ってるくせに理屈大好き人間?」
「かなりの変人だ、とゴウトが‥‥」
「猫はこの際放っておいてください!」
思わず言い返してから『しまったぁ』と思った。
刑事達がますます困惑し、尚且つ胡散臭げにLとライドウを見比べているのが判る。背中にヒシヒシと感じる。
そして、夜神月に、キラに面白がられているのが。
「あ、あのぉ‥‥パラレルワールドと言うのは、いったい‥‥」
そんな居た堪れない空気を勇気を持って破ったのは松田だった。
彼もまた次々と起こった常識では考えられない出来事の数々に当初は先輩達同様混乱していたのだが、
そこは未だ20代の若者、これは通常の殺人事件ではなくオカルト事件なんだと、
良く言えば柔軟な、悪く言えば軽い頭であっさり切り変える事に成功していた。
そんな彼にしてみれば、子供の頃愛読していた漫画やアニメを思い出させるSF用語は非常に気にかかる事柄だった。
「言葉の通りです。えぇと、松田さん?」
「え?ぼ、僕の名前、知ってるの?」
そして、恐怖を押し退けてちょっぴりウキウキしだした心に、さらに美味しい餌を与えたのが、
松田曰く『眼福な美人』の片割れ、夜神月に名前を呼ばれた事だった。
「はい。確か一度家にいらっしゃいましたよね?僕の事、覚えていらっしゃいませんか?」
「お、お、覚えてます!覚えてます!!そ、その節はお世話になりましたっ‥‥!」
「いえ、こちらこそ」
その瞬間、あぁ‥‥資料で知ってるはずだからって自己紹介を省くんじゃなかった‥‥‥と、Lは心の中で苦笑いを零した。
それはキラ捜査から松田桃太が脱落した瞬間だった。
「それでですね、松田さん。ライドウは正真正銘、別の世界から来た人間なんです。
しかもブッチャーを、あ、ブッチャーの正体はアリスちゃんって言う可愛い少女の悪魔なんですけど、
そのアリスちゃんを追い掛けてやって来たデビルサマナー、悪魔召喚師なんです。
こちらの世界で言うエクソシスト?オカルト事件ならお任せの敏腕探偵なんですよ」
「探偵助手だ。表向きは」
Lに対するのとは明らかに違う優等生な態度で月が松田に笑い掛ければ、うっかり頬を紅潮させた松田をライドウが無表情に観察する。
その光景に先輩刑事達は頭を抱え、総一郎は渋面を作り、Lは松田のケツを蹴り飛ばしたいと思った。
「ほ、本当なのか?竜崎。本当に彼は‥‥」
「証明は出来ません。おそらく彼自身もそうでしょう。
しかし、異世界から着た悪魔を前提とすれば、色々説明がつきます。今後の事も話が進めやすい。
私は一刻も早くこの事件を解決したいのですよ、相沢さん」
「‥‥‥」
ブッチャー事件を解決するためと言われ、相沢は無理やりLの言葉を受け入れる事にした。
葛葉ライドウと名乗った少年が本当に異世界から来た少年なのかはどうでも良い。
彼が悪魔と呼ぶ化け物を、ブッチャーを、捕まえるか殺すか出来ればそれで良い。
彼も他の刑事達もそう思う事にした。そう思わなければおかしくなりそうだった。
「それで?いったいどういう経緯でこちらの世界へ?」
刑事達の葛藤を無視してLが話を続ける。
「アリスを追って来た」
「それはもう聞きました」
相変わらず無表情なライドウはごく自然な動きで膝の猫を見やると改めてLの質問に答えた。
「彼女は淋しさから大勢の少女達を殺し、その魂を何処かへ隠した。
私は帝都守護者として、その魂を解放するためにアリスを追っていた。
そして『アカラナ回廊』に迷い込んだ彼女を追いかけこの世界へと来た」
「アカラナ、カイロウ?」
「様々な世界、様々な時代を繋ぐ夢幻空間の事だ」
「そのアカラナ回廊とやらへ出入りするのは簡単なのですか?」
「いいや。それ相当の霊能力とマグネタイトが必要だ。回廊の扉を開ける神具と術式もな。
それは人間も悪魔も同じだ。道具を必要としない分悪魔の方が有利ではあるが‥‥」
「その全ての条件を貴方は満たしていると?」
「そうだ。そうでなければ十四代目葛葉ライドウの名は継げぬ」
「大した自信ですね」
「自信がなければ帝都守護の命を受け賜りはせぬ」
堅い言葉。しかし、声そのものは何の気負いも感情も見受けられない声だった。
月とはまた違った意味で、そこにLの知る10代の若者の浮ついた精神を見出す事は出来ない。
その硬質な視線はLの無遠慮で探るような――― 真実探っている――― 視線を受けてもびくともしない。
しかも見返す瞳に何の色も浮かべない分、月以上にその心中を推し量るのは難しい。
あぁ、やはり遣り辛い‥‥‥Lは何度目かの溜息を心の中だけで漏らした。
そして、もう一人のLを悩ませる少年はと言えば、Lの思いなぞ知らぬとばかりに猫を撫でながらライドウの横顔を見ていた。
「Lみたいだね。同じ探偵だし」
それどころかLとライドウの会話にさり気なく加わりニッコリと笑いさえした。
「探偵は私ではない。私はただの助手だ」
「でも、実質働いてるのはライドウなんじゃないの?」
「それはそうだが‥‥」
猫が鳴いてそれを肯定した。そう、刑事達は感じた。
「ほら、ゴウトもそう言ってる」
そうして、月の次の言葉に頬を引き攣らせる。
ゴウト?ゴウトって何だ?え?猫か?黒ネコの事なのか?魔法使いの助手は猫!?
「確かに‥‥ちょっと軍部で揉まれたぐらいで悪魔相手に戦えるはずもない‥‥」
「ライドウなら出来るんだ」
「そうなるよう修業を積んだ」
「凄いね」
「そんな事はない。上には上がいるし、私如きの力ではどうにもならぬ悪魔はたくさんいる」
刑事達は自分達を無視して話を進めて行く二人の少年をただ見つめているしかなかった。
この状況を唯一止められるはずのLもまた、二人の話に聞耳を立てるばかりで動こうともしない。
ただ一人、呑気な松田だけが「やっぱり絵になるなぁ」と、だらしなく鼻の下を伸ばすのみ。
「帝都って今言ったけど。もしかしてライドウがいた世界はここと時間が違う?」
「あぁ。私がいたのは大正二十年の世界だ」
「こっちは、大正は十五年で終わってる。こちらと君の世界は似てるようで似てない?」
「一番異なるのはマグネタイトの有無だろう」
「悪魔もいないしね」
「こちらの世界にいるのは死者の霊ぐらいだ。それに実に単純な世界でもある」
「単純って?」
二人だけで話をする少年達に大人達はただぼんやりと見入った。
「私が属する世界は、一定の摂理に基づく現実界と無秩序な異界の二重世界で構成されている」
「異界?」
それは先程もライドウが口にした言葉だった。
「それを可能にしているのがマグネタイトだ」
「ふ~ん‥‥」
「魂は肉の器に入る事で命を得、物質世界の摂理を体現する。
魂が生きる目的は涅槃に至る事だが、
多くの魂はその境地に達する事が出来ないまま、生で始まり死で終わる時間を繰り返す。
何度も何度も‥‥」
「輪廻転生?」
ライドウが頷けば帽子の陰が深くなり、その真珠のように白い肌が憂いを帯びる。
桜色した薄い唇は固い意志を示すかのように引き締まり、ただ言葉を紡ぐ時だけ微かに動く。
頬笑みとは無縁の、しかし、それが当然と思える空気を彼は常に纏っている。
「魂は輪廻転生を繰り返しカルマを重ねる。
その重さに耐えられず、魂は知らず知らずの内に生きる苦しみを吐き出す。
それが負のマグネタイト、陰の想念、愚かで悲しい生き物の欲望だ。
現実世界で叶えられなかった欲望は凄まじい執念、怨念となって世界の裏側に貼りつく。
未練のままに世界を模し、実現できなかった欲望を叶えようと足掻く。
そうして生まれた亜空間が異界であり、そこで生まれた魂を持たぬ存在が悪魔だ」
「悪魔は生きとし生けるものの欲望が生み出した存在?」
頷く瞳を直視する事は出来ない。それは常に帽子の鍔に隠されている。
だが、それは必要な事なのだと、この場に居合わせた男達は何となく感じていた。
「悪魔は彷徨う。何が欲しいのか己でも判らぬまま、その存在の根本である想念が欲するままに。
命あるものを恨み、妬み、そして時には命あるものの欲望を叶え。
決して満たされる事のない渇望を満たそうと永遠に彷徨う」
「悪魔は人に取り憑く?」
「同じ欲望に魅かれて‥‥己が望んだと勘違いして‥‥」
「望んでいるのは人間なのに?」
仄かに碧色に輝く光彩。全てを映す瞳。
帽子の下に隠された欲望を暴く眼差しを男達は本能的に畏怖する。いや、人間ならば誰でも。Lでさえも。
「マグネタイトって、生き汚さの表れ?」
ただ一人、月だけがその瞳を恐れていなかった。
猫が鳴く。
「‥‥ゴウトは優しいね」
まるで聖母のように微笑む少年に男達はホッと息を吐き出した。
何故二人が二人である時異質なるものを感じるのか、この時漸くLは理解した。
それは二人が対照的な存在だからだ。
「今ゴウトは、何と言ったのですか?」
夜神月から感じるのは体温。葛葉ライドウから感じるのはそれ以外。
夜神月は現実であり、葛葉ライドウは虚。
月の微笑みに温もりを感じるように、ライドウの視線に己の内の嘘を感じる。
そんな対照的な存在でありながら、いや、それ故に二人は合わせ鏡のような存在なのだ。
二人に同時に見つめられるという事は、自分と言う存在が合わせ鏡の中心に立たされるという事。
ライドウに心の内を見透かされる以上にそれは恐ろしい。
けれど、それが同時に存在する奇跡を、幸運を、手放せないのもまた、人間の愚かさ。
まさに生き汚さの表れ―――
「ゴウトはね、竜崎さん」
向かい合う視線を外し月がLに笑い掛ける。
「マグネタイトとは生まれ死んで行く命の、世界への関わりの深さの表れだ、と言ったんだ」
「‥‥それは‥‥」
「だからって、僕がキラだとか云わないでよ。
ライドウも言ったろ?この世界のマグネタイトは余剰能力だって。
ほら、僕、ちょっとは感じる人だし?
もしかしたら占い師にでもなれば成功するのかもしれないな」
キラキラと輝く瞳は明るい光の下で見ると尚更輝いて見える。
ライドウの暗く妖しい輝きとは余りに違い過ぎる。
「貴方なら、顔だけで人気占い師になれます。Lであるこの私が保障します」
「うふふふふ、そう言う冗談はとっくに聞き飽きてるんだ、僕」
どちらに見つめられても虜になりそうで、Lは早々に言葉で逃れる事にした。
「貴方、性格悪いですね、夜神月君?」
「竜崎さんほどでもないよ。ねじくれ度では負けてるし、変人度に至っては足元にも及ばない」
だが、予想通り月はあっさり嫌味で返してくれた。
「あ~‥‥と、だいぶ話が逸れてしまいましたね。えぇと、それで?
貴方は悪魔に監禁された魂を救うためにアリスを追ってこの世界を来たのでしたね?」
「アリスを連れ帰るためだ。少女達の魂の監禁場所はアリスしか知らない」
「イチモクレンとか言う悪魔の時のように捕獲するのが目的ですか」
「そうだ。この‥‥封魔管に閉じ込め私の世界に連れて帰る。
アリスは力の強い悪魔だが、生まれたてに近い。彼女はアカラナ回廊を渡る術を知らなかった」
「行きはよいよい帰りは怖い?」
「‥‥落ちた世界が悪すぎた。マグネタイトも異界も存在しないとは‥‥」
月の言葉にライドウが首を垂れ、右手で胸の白いホルスターに触れる。
そこには銃ではなく弾薬ベルトのように8本の管が差し込まれ、その1本には先程の悪魔が封じられているのだろう。一目連も。
「少女は‥‥消える事を恐れていました。月君の捕食に失敗したら、彼女は消えてしまうのですか?」
「この世界に異界は存在しない。それはつまり安全な逃げ場所がないという事だ。
新たにマグネタイトを持つ人間を襲わない限り、次の満月の頃にはアリスは消滅してしまうだろう」
「だったら‥‥!」
宇生が良い事を思いついたというように上擦った声を上げた。
「だったら?月君を連れて満月が過ぎるまで逃げ回れとでも?
大きな獲物を喰えなくなった犯人が小さな獲物を摘み食いしないとも限らないのですよ。
ここにいて待ち伏せする方が理に適っています」
「ラ、月を‥‥囮にすると?」
そして、今度は総一郎が皺枯れた声を上げる番だった。彼は半ば腰を浮かしかけ、よろけるように腰を落とした。
「夜神さん。今更何ですか。この私がタダで息子さんを保護したとでも思っていたのですか」
「え?容疑者確保のためなんじゃなかったの?」
「一石二鳥と言うのですよ、月君」
「図々しいカエルは嫌いじゃないよ、僕」
「私は小生意気な子供は嫌いです」
「ダメだなぁ、子供を懐柔する事も出来なくて名探偵を名乗るだなんて。明智小五郎を見習わなくちゃ」
「おや、私はてっきり月君は怪人二十面相派かと思ってました」
「四十面相の方が好きかな?」
「ハハハ‥‥」
「ふふふ‥‥」
男達が口出しする暇はなかった。口出しするどころか思考も付いて行けなかった。
黒猫が呆れたように鳴かなければ、そのまま延々厭味の応酬が続いていたかもしれない。
「お前達は似た者同士だと、ゴウトが言っている」
ライドウの声に感情はなかった。だが、Lも月も呆れられていると察した。
「やだなぁ、ゴウニャンったら、僕の何処がカエルに似てるって?
うふふふふ、可愛くて不吉なポーの黒猫だからって容赦しないよ、僕」
「葛葉君。私はオカルトは専門外なので黒猫が不吉だとは思いませんが、
私には理解不能な猫語で茶々を入れられるのは非常に不愉快です」
丸くなっていた猫が立ち上がり尻尾をピンと立て背伸びした。そのままライドウの膝から降りるとソファの下に潜り姿を消す。
ガリガリと聞こえて来た音はどうやら椅子の足で爪を研いでいる音らしい。
「竜崎さんもゴウトみたいに時々は背伸びした方がいいんじゃない?」
「ブッチャー事件が解決したら考えてみます」
「楽しみにしておくよ、竜崎さん」
ニッコリと笑った月の顔を、Lはそれこそ穴が開くほど見つめ返した。
結局、夜も遅いからと事情聴取はそこで終わり、刑事達は6階の個室へ、Lは9階へ引っ込んだ。
月は心配で仕方がない父親とライドウの3人で6階の一番大きな部屋に案内された。
ライドウは構わないと言ったが急遽簡易ベッドが持ち込まれ、それは猫のゴウトの寝床となった。
「大丈夫だよ、父さん。もう何度も言ったでしょ?ライドウはデビルサマナーで悪魔退治が専門なんだ。
彼がいればどんな悪魔が来たって平気だよ」
「しかし、月‥‥本当に悪魔なんて‥‥」
元はオフィスの1室だったのを、色々家具を持ち込みユニットバスも設え快適な寝室にしたのだろう。
ドアも頑丈な物に取り換えられパスワードを入力しなければ出入りできないようになっている。
総一郎は気付いていないが、月は部屋の各所に監視カメラが設置されている事に気付いていた。
「父さんも見たでしょ?レギオン?僕は他にも見たよ。山元もね」
「アリス、とか言う少女の悪魔か?」
「そう。金髪の、青いワンピースを着た10歳くらいの子だった。それから、一目連?」
「公園で襲われた‥‥」
「神社でもね。今はライドウの封魔管の中にいる。アリスもね、そうなるんだ。ライドウがそうする」
「‥‥彼は今‥‥」
「山元の病院の時のように、このビルに色々結界を張ってる」
「振りだけ、かも‥‥」
「大丈夫だってば。ライドウは敵じゃない。それに、竜崎さんがちゃんと監視してる」
「監視?」
「ここは竜崎さんのビルだよ。探偵Lのビル。そこらじゅうにカメラとマイクが隠してある。
今頃竜崎さんは上の部屋でライドウが何をやってるか見てるはずだ。
竜崎さんが何も言わないのなら、それはOKって事だよ、父さん」
たった一日で十は老け込んだだろう父をベッドの一つに座らせ、月はその背をゆっくりと摩った。
「私には‥‥まだ信じられんのだ‥‥そんな、悪魔だなんて‥‥」
「判るよ、父さん」
「それも、異世界から来た悪魔?それを追い掛けて来たデ、デビ‥‥」
「デビルサマナー」
「そんな‥‥訳の分らん‥‥キラだけでも大変なのに、ブッチャーが‥‥悪魔が‥‥」
「父さん‥‥」
「さっきの化け物も、何かトリックを使って見せたのかも‥‥」
「僕のマグネタイトも?」
「あれは‥‥」
「体から、何かが抜けて行くのが判ったよ。一目連やアリスに襲われた時もそうだった。
まるで吸血鬼?ううん、吸精気にでも吸われたみたいに。
とにかくね、父さん。悪魔も異世界も信じなくていいから、今はアリスを捕まえる事だけ考えようよ」
「ブッチャー‥‥をか?」
「そう、ブッチャー」
「月‥‥」
弱々しい動きで自分を抱きしめる父親に月は逆らわなかった。
背に羽織った背広が皺になるのも構わず『月、月、許してくれ‥‥』と、何度も呟く父親を自分も抱きしめる。
「信じてよ、父さん。僕を、ライドウを‥‥」
「月‥‥」
「ライドウはブッチャーを捕まえてくれる、ブッチャーが捕まればもう犠牲者は出ない」
「‥‥月、私は‥‥」
「信じて、父さん。僕はキラじゃない」
「!‥‥月‥‥」
それこそが父の心配している事だと、月には判っていた。
そして、今この映像をLが見ている事も―――
「月が満つるまで後5日‥‥」
纏わり付く電子の目を掻い潜りビルの屋上に立つのは、一振りの日本刀と拳銃を黒マントの下に隠した少年。
その胸には更に悪魔を封印した銀色の管が隠されている。
「‥‥この世界でマグネタイトを得るには、夜神月を‥‥彼を狙うのが一番‥‥」
その足元には複雑な封印の術式が描かれ、彼の動きに合わせ仄かに碧色の光を発している。
術式を描いたのはここだけではない。誰もがビックリする場所にまで描いた。
その全てをLは把握しきれていない。教えるつもりもない。その気になれば少年にはLを出し抜く事など簡単なのだ。
自分の邪魔をするというのなら、夜神月を攫ってしまえばいいのだから。
アリスを、ブッチャーを誘き寄せたいのは彼ではなくLである。
「今は、アリスの封印が先‥‥それ以上は‥‥」
少年の切れ長で鋭い目が仄かに碧色を帯びる。それは人を戦かせる妖しさに満ち、暗闇さえも見通すように力強く輝く。
「裁きの手を持つ救世主‥‥」
振り仰いだ先に月は見えない。だが、そこには確かに月がある。世界を見下ろす大いなる目も。
「キラ‥‥関わり合いたくはないな、今は‥‥」
この世界に悪魔はいない。だが、救世主はいる。
その意味を少年は、葛葉ライドウは朧げながらに知っていた。